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 著者さんは、1931年生まれで、電子計算器の勃興期を担っていた方。プロフィールには、タイガー計算機やキヤノンやソニーといった企業で働いていたと書かれている。中盤にはソニーの井深さんの付き人として世界中を回っていた頃のことが書かれているけれど、それってタイトルにはほぼ関係ないことばかり。2012年2月初版。

 

【日本製ではなく日本人製】
 近年、中国の人たちは、家電製品をわざわざ日本に買いに来たり、自国内で日本ブランドの製品を買うにしても、中国で作られた物ではなく、日本で作られた物を選ぶそうです。それと同じような話が数十年前にもソニーであり、「中国やアメリカなどで作られた物ではなく、日本でつくられたテレビを買いたい」と言う外国人が多かったとのことでした。(p.7-8)
 日本のメーカーだから信頼するのではなく、日本人が作った物でないと信頼しない。
 マニュアルさえあれば、どこの国で作っても、デザイン・外装・操作方法からメンテナンスに至るまで、完全に同じものができるはずですが、そこには日本のノウハウが入っていないので、出来上がった物は決して同じではないということなのです。(p.8)
 日本のメーカーが作成したマニュアルなのに、どうしてノウハウがそこに入っていないのか?

 

 

【日本のノウハウが海外には伝わらない理由】
 このノウハウは微に入り細にわたっていて、口で言い伝えてもその言い回しに難しいことが多く、正確に伝えることは難しいので、ましてやマニュアルには書けないのです。
 しかし、それこそが、我々日本人が長い時間をかけて作り上げた、日本人のものづくりの“コツ”の真髄なのです。
 コツ、要領・・・何とも日本的な感覚と響きを感じる言葉であり、この言葉こそが“ものづくり日本”を本当に表していると言えるでしょう。・・・中略・・・。
 今、ものづくりの中心は日本から中国、インドネシア、タイ、ベトナム、さらにはインドやアフリカという、コストの安い国へと流れていっています。
 しかし、本当のノウハウは伝わらないのです。なぜなら、それは日本の丁稚奉公の真髄と精神が諸外国にはわからない、伝わらないからです。(p.6-7)
 著者と同じ世代のオジサンたちなら、これを読むだけで全てを諒解するのかもしれないけれど、著者さん以下の世代なら、日本人であっても「正直なところ、これじゃあ、ちょっと、よく・・分からない~~」と思う人が多いような気がする。
 ノウハウは、“丁稚奉公の真髄と精神”によって会得されるものの中にあるから、「“丁稚奉公の真髄と精神”がわからない諸外国では、マニュアルを与えたところで日本品質は再現できない」と言っているのだけれど、どうやら、“丁稚奉公の真髄と精神”とは、「文章化されたものなどなく、口伝すらなく、先人から教えられるものもなく、自分で感じて自分で掴み取る様式」のことを意味しているらしい。
 そうであるなら、確かに、先天的に職人気質など殆どない外国人が会得するのは難しいだろう。
 しかし、この著作の中には、職人気質という表現は一切ない。日本人気質と言い換えた方がいい。

 

 

【「人間は素晴らしいセンサー」】
 第一章はこのような見出しになっている。
 パナソニックの創業者、松下幸之助さんが、創業時代にマンガン電池の製造を始めたとき、月に一度は必ず工場のラインが動き出す前の朝6時頃、電池製造工場に寄って、材料のマンガンの破片を手に取って2,3度手の平の上で転がしてから角をかじり、「うん、これならいい」とか「今月のは、あまりよくないから気をつけて作りなさい」などと技術者に指示していたそうです。幸之助さんはこの頃からものづくりの土台をしっかりと知っていて、ご自分のセンサーとメモリーを十分に使っていたのです。ちなみに、マンガンは人間の身体のミネラルとして必要な要素だそうです。(p.17-18)
 ものづくり関係の著作では、音や匂いや触覚で機械の調子や製品の出来栄えを鋭敏に感知していた、という記述を読む事は少なくない。日本人技術者たちは、機械では感知できないものを感じ取れる人間の五感というセンサーを、非常に大切にしている。つまり、ここがマニュアルに表現できないノウハウであると。

 

 

【道を極める】
 道を極めるための修行の中で、技術はもちろん、精神的な部分のあり方までも、体のセンサーで感じ取り、それをノウハウとして脳の中にメモリーしていきます。免許皆伝とか、その道を極めたということは、マニュアルには書けないノウハウの塊であり、そうなるまでには訓練の蓄積と長い時間が必要なのです。
 訓練の仕方、奥義の極め方は、禅に通じるものがあり、日本人にしかわからない世界だったのですが、この頃はやっと世界の人々にも、それらを理解する人たちが出てきたように思います。(p.38-39)
 日本人は、茶道、華道、香道、柔道、剣道、合気道など、たいてい「~道」と表現して、無形の技を文字に立てずに伝承してきた文化があるから、ものづくりの分野でもごく当然の事として、無形のノウハウが文字にされることなく職人さんの世界で伝承されていた。
 この書き出しに先んじて、「侘び寂の世界」とか「幽玄の世界」という表現が出てくるのだけれど、道を極めることは、「繊細さの極み」を会得することと同じである。だからこそ人間が持つ素晴らしいセンサーが大切になってくる。しかし、この感覚の感度(繊細さの感受性)は、世界中の人間に共通ではない。やはり、日本人のような繊細さを感じ取ることのできる民族はそんなにないのである。
   《参照》   『伝統の逆襲』  奥山清行  祥伝社  《後編》

             【「ミリ」がわからず、「美味しい」がわからないアメリカ人】
 特に訓練を積んでいなくても、日本人なら、計測にかからないような材料の不良を感じ取ることができる。
   《参照》   『デンソー』 大河滋 (マネジメント社)

             【若い女子従業員が支える「技能のデンソー」】
 下記リンクに示されているように、中国人には日本人が芸術品などに感じる繊細さを感じ取ることができないのだけれど、
   《参照》   『「中国人」になった私』 松木トモ (PHP) 《後編》

             【大体同じ?!】
 その最終根拠は、同じ地球でも地域によって波動界(産土力)が違うからということになる。
   《参照》   『大創運』 深見東州 (たちばな出版) 《後編》

             【日本神霊界】

   《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《前編》

             【経度0度と経度135度の文明的特徴】

 日本語という繊細な言語は、日本という繊細な波動界(産土力)からこそ生じた言語なのであり、それによって日本人の繊細さ及び民族性、また工業製品の高品質性が生れている。
   《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <後編>

              ○○○ 世界で最も《 繊細 》な表現をもつ日本語 ○○○
              ○《繊細さ》それは日本語の中に生きている横の秘儀である○

 
 
【外国の生産状況】
 私はソウルから少し南下した水源にあった大きな工場の中のプリント基板製造ラインを見に行きました。
 規模だけは確かに大きいのですが、生産は問題だらけ。何がと言いますと。5,60人で構成しているプリント基板の製造ラインのところどころで基盤が流れなくなっていて、何人かの作業者の前に山のように積まれているのです。私はなぜラインの手直しをしないのかと疑問に思いました。・・・中略・・・。
 これと同じようなことは中国の深圳でも経験しましたし、基盤三万台の発注に対して半分が不良で返品されたこともありました。こんな状況は現在でも変わっていないのです。日本から世界の国々へ出てゆく企業は、このような問題を覚悟して行かねばなりません。(p.108-109)
 日本人なら特に指示などしなくても、自ずと全体が良くなるように協力し合うけれど、外国人は「自分は自分、人は人」なのである。全体最適な状況が普通にできない。
 QC(品質管理:クオリティー・コントロール)は、このような杜撰な作業状況を何とかしようとしてアメリカで始まった企業活動なのだけれど、この対策として作成されたマニュアル以上の成果は得られなかった。ところが、QCを日本企業が取り入れたら、非常に大きな成果が得られたのである。これも日本人と外国人の差である。
   《参照》   『クオリア立国論』 茂木健一郎  ウェッジ  《前編》

             【衆知を集めて独創性を生み出していく日本人】

   《参照》   『デンソー』 大河滋 (マネジメント社)

             【Total ではなく Together】

 日本人ならわざわざ管理したり教えたりしなくてもできる範囲が非常に広い。しかし、外国人は、管理され指示されたことだけをやるだけで、いわゆる「協調的な気働き」という部分が基本的にない。
 海外に進出した日本企業は、このような民族性の違いによって欠落する部分を穴埋めするノウハウもそれぞれに構築しなければならないのである。
(だから、比較文化を学ぼうとする学生は、海外進出している企業を取材したビジネス書を読めばいいのである。勿論、海外で働きたいとか住みたいと思っている人も読んでおけば役立つだろう)

 

 

【電卓の歴史】
 戦後10年は手動式計算機の時代でしたが、昭和38年、イギリスのベルパンチ・アンド・サムロック・コンプトメーター社が開発販売したアニタという電卓が、電子技術を使った電卓としては世界で初めての商品でした(これは真空管式のもの)。私は図らずもそのアニタを日本で初めて手にした者で、以後、その人生は電卓とともに歩むことになったのです。
 私がソニーで開発した最初の電卓はみかん箱ぐらいも大きさがあり、ディスクリートのトランジスタを5百個使っていたので「ICC500」と呼称され、価格も26万円でした。その後50年、今日ではポケットに入るまでに小さくなり、さらに腕時計や携帯電話にまで計算機能が組み込まれるに至り、価格も数百円ということで、ただただ驚くばかりです。(p.116-117)
 当初26万円だった電卓は、今や100円ショップで買える。
 また、電卓でトランジスタ500個のみかん箱サイズなら、今日誰でもが使っている平均的なパソコンを真空管で作ったら、ひと部屋ではおさまらず、ビル一棟くらいになってしまうだろう。
 ここに至るまでには、IC・LSIの開発設計者や多数の技術者の脳細胞が酷使されたことは言うに及ばないでしょう。また、電卓の使用目標をワンチップLSIとした結果、電卓はポケッタブルとなり、安くなり、世界市場へ売り出されましたが、儲けは本当になくなってしまいました。しかし、電卓の功績は素晴らしいものがあり、日本の半導体技術とともに、プログラム電卓からパソコンに至るまで発展し続けたのです。(p.117)
 四則計算だけしかできない電卓から、三角関数や対数が扱える電卓になり、さらに簡単なプログラミングができるプログラム電卓になり、それがパソコンへと発展していった。
 学生の頃は、エクセルのシートみたいなマス目が印刷された用紙に、プログラム電卓で算出した値を順次書き込んでいって構造計算をしたものだけれど、現在40代前半以下の理系の学生経験者は、そんな用紙やプログラム電卓なんて多分見た事すらないだろう。パソコンも一般市場に出た当初は、アルファベットと半角のカタカナしか使えず、外部記憶装置なんて音楽に使うカセット・テープだった。
 電卓の出現からほぼ50年、パソコンの出現からほぼ30年。凄い進化である。

   《参照》  『反骨のすすめ』  渡邊和也  マイクロマガジン社

   《参照》  『スーパーコンピュータ』  山田博  裳華書房

   《参照》  『テレビの消える日』 ジョージ・ギルダー  講談社

   《参照》  日本の半導体産業の技術力

   《参照》  テレビとコンピュータ

 

<了>