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 ブラジルへの取材旅行中に起こったことが記述されている。読書記録を残したいような内容がない。沢木さんの本にしては、「なんだかなぁ~」という感じである。2002年3月初版。

 

【イソドラ】
 地球上には、外部の世界との接触をほとんどせず、いわゆる「文明」と接触したことのない人々がまだたくさんいる。そうした人々はアマゾンとニューギニアに集中しているが、数の上ではアマゾンが圧倒的だと考えられている。ブラジルでは文明とまだ接触していないインディオを「イソドラ」と呼び、その数は千の単位とも、万の単位とも言われているが、正確なことはわかっていない。ただひとつ明らかなのは彼らが年々減りつづけているということだ。 (p.14)
 イソドラたちは、住処である熱帯雨林を伐採されたり、文明人との接触によって細菌感染して死滅させられたりで年々減少している。この話は学生時代にも雑誌記事で読んだ記憶があるから、もう何十年にも渡って語られ続けていることになる。アマゾン流域はあまりにも広大だからイソドラたちは、現在でも相当数いるはずである。

 

 

【三島由紀夫のハラキリ】
 ポスエロ氏が興味を示したのは三島由紀夫だった。ブラジルでは、第二次大戦直後の日系人による「勝ち組と負け組」の悲劇を描いたフェルナンド・モライスの『汚れた魂』が、息の長いベストセラーになっている。その「勝ち組」の話から、三島由紀夫へ話が移っていったのだ。ポスエロ氏は、三島由紀夫そのものというより、切腹という死に方に強い関心を示した。
「ハラキリと拳銃による自殺は違う。拳銃による自殺は逃亡だが、ハラキリは攻撃的な自殺だ。地位ある人がハラキリで責任を取るなら、それは拳銃による自殺とは比べ物にならないくらい深いものになる。ミシマのハラキリもそうだったのだろう」
 そのポスエロ氏の意見に対して、私はささやかな異議を唱えた。三島由紀夫の切腹に関しては、行為の責任と云うより、自分の美意識を優先された結果であるように思える。つまり、彼は彼の美を実現するために切腹したのだ。(p.58-59)
 日本人なら著者の説に同意するだろうし、外国人が切腹ではなくハラキリという表現で攻撃的自殺と解釈する傾向もよく分かる。日本人にとっては、切腹自体が静的な美学である。
   《参照》   日本文化講座⑧ 【 武士道 】
             【 武士 と 切腹 】

 ついでに、三島由紀夫のことを語っている美輪さんの著作をリンクしておこう。
   《参照》   『ぴんぽんぱんふたり話』 美輪明宏・瀬戸内寂聴 (集英社)
 三島由紀夫の名が出てきたので、ふと、『金閣寺』をじっくり読んでみたいと思ってしまった。学生時代以来、一度も再読していない。
   《参照》   『おおい雲』 石原慎太郎 (角川文庫)
             ◇三島由紀夫

 

 

【予兆】
 私はセスナ機のそばでポスエロ氏と立ち話をしている中年のパイロットが気になった。濃いサングラスを掛けたそのパイロットはかなり太っている。気になったのは太っていることではなく、全体から受ける印象だった。 ・・・(中略)・・・ 私にはなぜか信頼できないように感じられた。駐機場に来てから一度も飛行機に視線を向けない。彼には自分が操縦する飛行機に対する愛情が欠けているように思えたのだ。(p.128)
 この本を読みながら、タイトルの意味するところが本当の出来事だったとは思っていなかったのだけれど、「一度も飛行機に視線を向けない」という記述の部分を読んで、「本当に落ちるのだ」と十分想像できた。
 でもまあ、密林に落ちていたらこの本は書かれていなかっただろうけれど、農地にランディングするような墜落だったらしい。幸いにも全員打撲や裂傷程度で死者はなかった。

 

 

【シント・ムイト】
「ブラジルにはアイム・ソーリーに似た言葉でシント・ムイトというのがあります」
「シント・ムイトね」
「意味は、いっぱい考える、です」
「うんと考えることがすまないという意味になるのか。面白いね」
「ええ。日本人とはメンタリティーの異なるブラジル人の私でも、ポスエロさんからひとことシント・ムイトくらいは言ってもらえるかと思っていましたが、ありませんでしたね」 (p.196)
 訴訟になった場合の安全策として、外国人は「アイム・ソーリー」に類する言葉は決して言わないけれど、外国人も日本人の文化やメンタリティーを知っているわけなどない。

 

 

【いつ死が訪れても・・・】
 墜落事故そのものは私の人生観に何も影響を与えなかった。私は日頃から友人たちに、自分はこの人生を十分に楽しんだからいつ死が訪れても不満はない、と冗談交じりに言っていた。そう言いながら、自分でもそれは本当なのだろうかとかすかに疑う気持がなくもなかった。しかし、事故に直面して、どうやら私は掛け値なしにそう思っているらしいということがわかった。そして、その思いは事故に遭ったからといって変わることはなかった。(p.226)
 チャンちゃんも著者の気持ちと全く同じである。
 明日だって何時だって、死ねたら、「ラッキー」と言いながらアホ同盟軍のシケ桃にVサインを残してゆくだろう。