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 フルフォードさんと対談している適菜さんの本を読んだのはこれが初めて。ウィキペディアには1975年生まれ。山梨県出身の著作家、哲学者と書かれている。中沢新一さんからの影響を少しは受けているのだろう。2007年2月初版。

 

 

【ニーチェが語った「神は死んだ」の意味】
適菜 : ニーチェは「神は死んだ」と言いましたが、彼は単なる無神論者ではありません。ある価値基準が神の絶対性によって保証されることを否定したのです。かつて神が座っていた場所に、今では理性や近代的価値観がおかれている。そしてその価値観は、貧しい心魂=キリスト教から発生したものである。それに対してニーチェは「NO!」と言ったのです。(p.53)
 ニーチェの「神は死んだ」という見解は、神の権威の絶対化を否定したものであると、適菜さんは言っている。
 ニーチェの宣言にも関わらず、キリスト教文化圏には昔も今も神の権威によって自らの主張を絶対化しようとする人々がテンコモリいる。西欧史における数々の革命は、権威の絶対化を主張する者同士の争いであり、結果がどうであれ覇者を変えて権威の絶対化が継承されたにすぎない。
適菜 : 民族的な社会主義を説くヒトラーは、国際的な社会主義を説くマルクスを批判した訳ですが、結局はどっちもどっち、終末論を背景にしている両者は、ユダヤ・キリスト教の落とし子にすぎません。共産主義とナチズムは方法論こそ違うものの、どちらもキリスト教を背景に持つものです。ヴァチカンとナチスがマルクス主義を憎んだのは、まさに近親憎悪に他なりませんでした。
 マルクスは「宗教は民衆の阿片である」と言いましたが、私に言わせればマルクスは阿片を精製してヘロインをつくったわけです。(p.138)
 イデオロギーの時代が終わったとはいえ、今日においても、神の権威の名において民衆を支配しようとするエリート(「闇の権力」)が存在し、また民衆の心には「終末(最後の審判)」の思いが継承されている。それが問題なのである。

 

 

【キリスト教の正体】
ベン : 劣化したエリートと、それに抑えられている大衆の羊たち、ともにパンクしそうな時代です。
 キリスト教の正体は、隠れたエリートが大衆を羊にすること。これに尽きる。
 9・11のテロは、まずイスラム教徒を抑えてから、次はアジアを調教する目的を持って行われたものだった。全世界を自分たちの思うままにしようとする。(p.177)
 この記述の後に、民族別に効果の異なる生物兵器を使った人口削減計画のことが書かれているけれど、長くなるから以下のリンクで代用。
   《参照》   『聖書の暗号は知っていた』 伊達巌 (徳間書店) 《後編》
             【遺伝子兵器は開発済み】
             【「闇の支配者」たちが仕掛ける人口削減というビジネス】

 

 

【「合理性」と言う神】
適菜 : 私たちは1オクターブを12音階に区切る平均律に何の疑問の持たずに音楽を組み立てていますが、インド音楽には厳密にいえば音階はありません。俗に「インド音階」と呼ばれているものは、インドのラーガと呼ばれる複雑な音楽概念に対して、西欧人が「音階」という概念を当てはめて解釈したものにすぎません。だからインド音楽は西欧音楽とは似ても似つかない。
 こうした国で改めてニーチェを読むことで、「西欧近代とは何か?」という問題を非常に身近に感じるようになっていったわけです。(p.109)
 下記のリンクを辿って中沢新一さんの著作に行けば同じことが書かれている。
   《参照》   『笛吹きインドひとり旅』 うえの善巳 (中央アート出版)
             【ラーガ】
             【インド楽器の特性】

 

 

【イエスの弟子たち】
適菜 : ニーチェは『反キリスト者』において次の指摘を行います。
 イエスの弟子たちは、「報復」、「罰」、「審判」といったイエスの教えにそむく言葉を使い、ユダヤ教のメシア信仰をそこに合体させた。イエスの教えでは、「神の国」は現実の世界で実現されるものだったが、弟子たちの仕業で、「約束されるもの」や「終末にやってくるもの」にさせられてしまった。イエスの弟子たちは、ユダヤ教のパリサイ人を軽蔑していたにもかかわらず、まさにその特徴をイエスの中へ取り込んでしまった、と。(p.54)
 神の国は、ひとり一人の力によって現実界に実現させるべきものであっても、現実があまりに酷い状況になってくると、人々はどうしても死後の世界や終末への期待へと靡いてしまう。
 本来のメシアとは、再臨する神ではなく、地上に住む創造者としてのひとり一人のことである。
   《参照》   『ビジネスマンのための「聖書」入門』 白取春彦 (ディスカヴァー)
             【真正ユダヤ教徒の世界観】
適菜 : 最初に確認しておきたいのは、イエスの教えの中には「罪と罰」や「報い」といった考え方がないことです。神と人間との距離関係はすべて取り払われている。イエスにとって、「信仰によって受け取ることのできる幸福」とは、約束事ではなく、もっと現実的なものでした、それは「信仰」ではなく、行動する過程で決まるのです。(p.155)

 

 

【ジョン・レノンの「イマジン」に出てくるような世界観】
ベン : 3大宗教がもはや時代の要望にこたえられなくなっている。地球全体が新しい世界観を模索しています。各宗教の枠組みを超えて、それぞれのいいところをとったような融合的な思想をみんなで探している。ジョン・レノンの「イマジン」に出てくるような世界観です。(p.103)
   《参照》   『古神道入門』 吾郷清彦・松本道弘・深見東州 (たちばな出版) 《後編》
             【大本の真の目的】

 

 

【感性的宗教を封印したキリスト教】
ベン : キリスト教の教えでは、人間の能力を増大させるものを抑える傾向があります。極端な話と思われるかもしれませんが、麻薬を禁止しようとする動きもその1つです。ハッシッシもそうですが、麻薬は多くの宗教とかかわりがある。(p.111)
 今日では、麻薬禁止が産業ともかかわる法整備をともない、人類を末期的状況に追い込んでいる。
   《参照》   『神との対話 ②』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《後編》
             【大麻】
ベン : 例えば、古代インドの宗教でソーマというのがあった。インドの伝説では神々の飲み物とされている植物の液体です。儀式で使用される興奮剤で、キノコの一種だという説も出ていますが、その植物を神格化した神様も存在する。これがインドにおける宗教の原点です。(p.111)
 キリスト教・仏教が隆盛を極めた2000年期は、大局的に見れば、密教的な部分を排除して、顕教的な宗教に移行して行ったと言える。感性的・超感覚的なるものを封印しつつ、理性的なるものへと重心を移していったのである。
   《参照》   『宗教入門』 中沢新一 (マドラ出版)
             【ニーチェの「神は死んだ」】

 21世紀の地球は、キリスト教・仏教興隆による2000年期以前の、ドグマ化されていない感性的宗教様式が復活してゆくサイクルに入っている。
 このような意味合いもあって、フルフォードさんは、イスラムにおける密教的伝承であるスーフィーから数多く引用しているのだろう。

 

 

【イソップの寓話の深層】
ベン : イソップの原典はアラビア語である。日本語は、日本と言っても二本のことも表わせるし、「ひのもと」と読ませて日の昇る意味を持たせることができる。さらには「霊の元」も「ひのもと」と読むことが可能。こうして一つの言葉の深層に複合的な意味を持たせられる言語で、日本語に比肩できるのが、アラビア語である。たとえばアラビア語では「モグラ」と言ってもその文脈に応じて「永遠、楽園、思想、心、魂」の意味をあてることができる。このようにして、イソップの寓話の深層は、スーフィーであるという。(p.183)
 日本において、イスラムにおけるスフィーに対応するのは、やはり神道だろう。
 後期大乗仏教として発展した密教も日本文化に影響を与えたけれど、その源流はインドであり、空海によって日本に伝えられた密教は、神道をルーツとする修験道と習合している。そして神道は、古代キリスト教=ユダヤ教と縁が深いのである。
   《参照》   日本文化講座 ④ 【 日本と古代キリスト教の関係 】
 しかし、日本と言う土地が持つ産土力(最大融合極性を有する波動特性)によって、日本の神道はユニークなものとなっている。