《前編》 より

 

 

【 「霊主体従」という “マイ岩戸開き” 】
 14の数霊を持つ 「帰依(きえ)」 について書かれていること。
 これこそが “マイ岩戸開き” へ導く数霊力になるんですね。
 簡単にいうと、玉(たま)し霊(ひ)の思いに心が従うこと。
 “玉し霊” と “心” を同じに考えてはいけません。むしろ玉し霊の想いは心と反対方向を向いていることが多いんですね。
 たとえ心では哀しむような出来事であっても玉し霊は喜んでいる。なぜならその出来事によって成長するからです。玉し霊は成長を望みます。一方、心は楽できる方を選ぶ。なので “心” を “玉し霊” に帰依させる。そうしますと自然に行動が変わります。こういったことを専門的には「霊主体従」といいます。
 仏教では、仏法僧への三宝帰依などと言っているけれど、帰依の対象は、本来、自らの内にあって “神なるものの分け御魂(玉し霊)” のはずである。これが判っていたら御利益信仰などという隘路に入り込むはずなどないのである。
 と、これを書きながら、仏教教団、立正佼成会の開祖・庭野日敬先生の自伝のような本の中に、「若い頃、最も大変で最もお給料の少ない仕事(漬物屋さんだったかなぁ?)を選んだ」 と書かれていたのを思い出してしまった。コテコテ仏教の三宝帰依を立てながらも霊主体従を実践していた方だったのである。思うに、立正佼成会は最も神道的な要素を強く持つ仏教教団だったのかもしれない。
    《参照》   『神の仕組みから宇宙の仕組みへ』 佐田靖治 (光泉堂)
              【仕組みを成就する女の課題】

 

 

【 水から学べ 「自由自在」 】
 水にかかわる18の数霊の中に書かれていること。
 “自ら学べ 水から学べ” 
 なのです。では何を学ぶのかと言うと、水は器を選びません。どのようなかたちであろうとも、色・素材・柄など一切関係なく完璧に合わせます。自我がないからです。
 あれはイヤこれはダメと選り好みせず、ピタリと相手の中に収まります。
 もし人もそれができますと、それを 「自由自在」 と言います。
「自由自在」 とは相手を自在に操ることではありません。相手に合わせ自ら自在に変化できる力のことです。 (p.172)
 方円の器に従う水の特性を捉えて、「主体性がない」とか「意志がない」などと考えてしまうとしたら、徒に自我を主張したがる西欧的独善に感染しているのである。
 流転する世界の実相をわきまえずに、自らを常に低くする水の謙虚さに倣わない態度は、自然の法則に合っていないから永遠に自由自在になれない。“法則の必然を自覚した時の自由”、それが本旨だろう。
            【流動を生む高低差】

            【男女(陰陽)という性差に関する人間観】

 

 
<了>