あなたは他人
貧しいときも富めるときも・・そう誓い合って一緒になった夫婦だって、離婚を認められてるんだ。愛し合って別れることもあるだろうし、憎しみあってわかれることもあるだろうし、生まれ変わって一緒になろうという別れもあるだろうし、なかったことにしたい別れもあるだろうと思う。
そう、夫婦だって別れられるんだから、義母と離婚できないわけがない。
夫は、朝から晩までよく働く人だ。よく言えば働き者だけれど、悪く言えば、私の結婚生活に夫不在だ。おかげで、私はほぼ義母と結婚したような年月を送ってきた。私の結婚生活は義母と過ごした時間の方が多く、結婚とは妻とは嫁とは母とは・・とことごとく義母が采配をふるってきた。私の人生なのに・・だ。でも、私もそれを許してきた。ある一面では、義母のことを尊敬してきたし、いい人だと思っているし、信頼もしてるからだ。そして、私が若かったことも大きいだろうと思う。そう、自分でそれを受け入れてきた。
よくわからないことは、まずはそのとおりにやってみよう・・と、やってきたのだった。
でも、実家の母の介護に帰って、私がしんどいから今日は帰れないかもしれないと言った時、義母は、息子のなになにがあるから、明日はどんなようじがあるから、いろんな理由を並べた挙句、「帰らないって決めたらもう一度電話してちょうだい」と、命令口調で電話を一方的に切った。そのとき、心から嫌になった。
20年も尽くしてきて、こんな程度なのか・・と思った。
これは、義母のせいでもあるし、私のせいでもあるし、私と義母をつなぐ夫のせいでもある。でも、私ひとりのせいじゃない。もう、いいだろう・・やるだけのことはやった。
夫と夫の家族はワンセットでなければならないはずもない。夫が私をとってついてくるならいいし、義母をとるならそれでもいいとおもう。専業主婦でやってきたので、年金もなければ仕事もないし収入もないし住むところもない。それでも、もう、あの人と他人になりたい。
一緒にいると、早く死んでくれ・・ってそればかり、思ってしまいます。そんなことを心に浮かばせながら生きるなんて、もう、嫌。あの人の世話もしたくないし、死に目にも会いたくない。でも、あの人はいい人なのだから、憎しみたくもない。
結婚という制度から自由になって、のたれ死のうと思う。
義母の自己主張
義母は人の口を借りてものを言う人だ。
長男が小さかった頃、「おぉ~そうですか、たんた(お風呂)にはいりたんやなぁ。よしよし、わかったわかった」と抱いて、真昼間からお風呂に入れたり、「いんいん(うんうん)寒いんやなぁ。足、ちゅべたいちゅべたい(冷たい)」靴下を2重にも3重にも履かせたり、「おしめ、かえてほしいんか。よしよし」といって、暗に私を非難したり、「おなか ちゅいた(すいた)んやなぁ。今、おばあちゃんが、ミルク作ってあげるからねぇ~」といって、母乳で育てたいと頑張っている私から子どもをうばいとって、ミルクをどんどん飲ました。
何もものを言わない赤ちゃんが生まれたとたん、義母は私に対して非常に雄弁になった。
子どもたちが高校生になろうかという今でも、それは変らない。
先日、実家の母の具合が悪くて、私が帰った。夜も11時を過ぎて、それでも調子が悪いことや、私自身の疲れもあって、片道2時間かかる道のりを運転して帰るのが大変だろうと思われた。自宅に電話して義母が電話に出る。「お義母さん、今日は母の調子も悪くて、私もちょっと疲れもたまっているので、今晩は帰れないかもしれません・・」
私の言い方も弱かった。だけど、普通ならそこは察してくれてもいいのではないかと思われた。
でも、義母は明日は次男の家庭訪問がある、息子(夫)は出張もあるし、義父は老人会にいかなければならない、まあ、自分たちのことは、まあいいけど、帰ってくるほうがええのとちがうか・・という。
まただ。息子が、夫が、近所が、親戚が・・・何々だから、私がこうしなければならない。他人の都合や口を使って、義母は自分の考えを主張する。
普通の場合ではないのだ。だめなら家庭訪問の日にちを変えてもらえばいい。夫の出張など子どもじゃないんだから自分で用意して行けばいい。近所や地域の仕事など、できないときはお互い様ではないか・・。
近所や夫や子ども・・ではなくて、義母が帰ってこなければいけない、そう思っているのだ。「ご実家には ゆきおさん(私の弟)がいらっしゃるやないの。」義母はそういう。暗に、実家のことで、私がちょこちょこ出向くなというのだ。
義母は最後に「もし、帰ってこないって決めたら、もう一回電話頂戴」そういって、電話を切った。私は帰らないといってるのも同然なのに、義母はそこに念を押して帰って来いといっている。
2度目に電話したとき、夫がでた。夫も、僕はいいけど、明日家庭訪問が・・と同じことをいう。ああ、私の選んだ夫は、あいつにそだてられた息子なんだ。
それを聞いて、普段、私が一生懸命、家のことに尽くして、義母がいってくれる、ありがとう・・とかすまないね・・は口先だけなんだ。とそう思った。
私は親を捨てて結婚したわけじゃない。言えば、あなたたちが他人なのだ。親と縁を切ることは無いのだ。あなたたちと縁を切ることはいつだってできる。この家族、この一族みんなと離婚したい・・・。
なんのための記念日?
結婚して1年、とても苦労したのはお料理だった。なにせ、クッキーとスパゲティとカレーしか作ったことがなかった。でも、1年がんばったおかげで、自慢のお料理や彼の好きなメニューは覚えた。それを発表会みたいに全部作った。彼は飲まないけど私のためにワインなどを、奮発して、カードも書いた。ささやかなプレゼントも用意した。
1年 知らない土地で身内になったもと他人の中にたった一人で飛び込んで、自分なりに無我夢中でやってきた。最初の結婚記念日には長男も生まれていた。
帰ってきたら喜ぶだろうとおもって、わくわくしながらまった。
ところが、なかなか彼は帰ってこない。夕方には義父母に先に食べてもらって、私は食べずにまった。ラップをかけたお料理がお皿の上で冷たくなって、私もお腹が減るので、軽く少し食べる。そのうち、長男がぐずりだして、寝かしつける。また、戻って、テレビをみたり、ワインをちょっとあけてみたりしていると、落ち着かない私の気分を察するのか、長男が再々、ぐずる。そのたびに寝かしつける。
赤ちゃん、今晩はゆっくり寝てくれますように。
でも、そうこうしているうちに長男と一緒に眠ってしまったのだ。はっと、目を覚ましてみると午前0時を回っていた。長男はすやすや眠っていた。そして、部屋はシーンとしている。
また、気を取り直してお風呂に入っていると、まっていた彼の車の音が聞こえてきた。やっと帰ってきた。彼は食卓に来て、「お うまそうやな」その言葉を聴いたとき、私は、なぜだか、つまらなくなった。こんなことをしている自分が私らしくないような気がした。
すでに2時になろうとしていた。仕事で遅いときもある、でも、パチンコや麻雀のときもある。パチンコのときはだいたい11時、麻雀なら午前様。結婚したからって、あれもこれもやめてくれ・・とは一言も言ったことがなかった。
でも、結婚記念日ぐらいは、全てを断って早く帰ってくれてもいいんじゃないか・・と思ったけど口には出さなかった。出せなかったのかもしれない。「ごめんね・・」とは、彼は言わなかった。そして、私は非難することもできなかったし、声を出して泣くこともしなかった。むしろ、「ごくろうさま」と元気をとりつくろった。
だって、結婚記念日を忘れていたのなら悲しいし、知っていて遅いのならもっと寂しい。
なぜだか、結婚したら、大事なことは話し合えなくなった。恋人のころはあんなに簡単に言えた「ごめんね」は、結婚してからはお互い言えなくなっていた。
1年たってわかったことは、彼は結婚したことによって自分のライフスタイルを変えようとはしないということ。私は住む場所も付き合う人もかわれば、初めての出産もして、全てが変わった。でも、私自身、彼の生活が結婚したことによってつまらなくなったり、パチンコであろうと、麻雀であろうと、楽しみだったことを我慢しなければならなくなるのは残念だった。だけど、私は、テレビは見なくなったし、音楽を聴いてる余裕もなかったし、母乳で子育てをしていては、美容院へ行くのもむつかしかった。
そういう結婚記念日を5回ぐらいは繰り返しただろうか・・。5回たつと、子どもは3人に増え、幼稚園にもはいっていた。主婦としても忙しくなり、現実の生活におわれるようになる。そして、記念日なんてつまらないことのように思えてきた。
子どもがもっと大きくなり、主人も仕事への情熱も穏やかなものになった最近、彼は時々、結婚記念日に花を買ってきてくれるようになった。男は今頃少しずつ、変わりはじめるのだろうか・・。私は、「ありがとう」といって受け取る。そして、どうして、これを20代だったひたむきな私にたいして、してくれなかったのだろうと思う。
田舎ぐらし
働くようになって、自分に時間の余裕がなくなり、買い物はもっぱら通り道にある大型店で、一週間分まとめてすませるようになった。
でも今日は、年の瀬の久しぶりのお休みで、たまにはと、近所のお店やさんへと散歩しながら出かけた。すると、お店のおばさんは、私の顔をみるなり「お義母さんは、元気かえ」と、声をかけてきた。
「はい、まあ、まあです」と、苦笑いでかえす。
実は、まあまあでも、良くても、悪くても、私は別に、どうでもいい・・。あまり、何も感じていないのだ。それをさも、心配しているようにはいえない。
体の具合がわるかろうが、足が動きにくいだろうが、その日の気分が落ち込みがちだろうが、それで、大丈夫だろうか?とか何かをしてあげようとか、私が思わないのは、きっと、そう思えない私自身の不幸なのだ。これは、結構 苦しい。
私の顔を見れば、義母のことが口にのぼるご近所さん。義母が元気かどうかが、どうして私への挨拶なのだろうか。英語ならHow are you?のはずだ。
町をあるけば、いつもいつも同じ顔とであう。店には地元で商売をし続けて来たおばさんと、いつも買い物に来るおばさんが、あまり本当ではない話をながながとしゃべるつづけている。
田舎は周囲との密接な関係と、ながいながい因習がその未来を作っていく場所。それをクリアしていけなければ、生活をしていくことのできない場所。同じ顔をつきあわせて生活し続ける不運の中にある。よく、定年になったら田舎でのんびりと・・などというのは、田舎を知らない人がいう言葉だと思う。田舎には田舎の孤独がある。そして、私はすでにそこで生活する資格を失っているのだと思われる。
ただ、自分が悪いとはもう、思わなくなった。私が一方的にそうなっていったのではなくて、まちがいなく、ここへお嫁に来たときは、何かして喜ばれたい、役に立ちたいと、そして、この町の人間になりたいと、心からそう願っていたのだから。
お店のおばさんは、やっぱりその近所に住むおばさんといっしょに年末年始の掃除や料理のことで、話がつきない。話してるうちにやってしまえばいいのに、あれもある、これもある、あれはもうやめる、これはしなければならない・・と話し合っている。ぺらぺらしゃべっている。
そのおばさんたちに、今日の煮しめの話題のついでに、義母の体の加減をたずねられたり、義父がよく義母の世話をすることをほめられたり、私が働いていてたいへんだろうとねぎらわれたりする前に、さっさと必要なものの会計を済ませてもらって、返事もそこそこに愛想笑いでお茶を濁してお店をでてきた。
私がここにきて20年。あのおばちゃんたちの顔のしわも増えた。随分、年をとった。私が20代でここに嫁いできたとき、あの人たちは40代、ちょうど今の私ぐらいだったはずだ。でも、彼女たちはすっかり、おばあさんの顔をしている。どこの嫁がよくつくそうが、どこの家が立派だろうが、こうやって、人は年を取って、立派な人もそうじゃない人も、遅かれ早かれ死んでいく。私も行く道だ。
周りを山で囲まれているのにすぐ傍には海があっる小さな平野のオモチャみたいなこの町で、あっというまの一生を終えていく人々と同じように、やっぱり、私もここで死んでいくんやなぁと思う。そのおばさんたちの一生が自分の人生と重なり合って、ほんの少し悲しい年の瀬だ。
人生案内
ある日の人生案内
http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/kazoku/20051104sy11.htm
なんで、姑の立場にたたなあかんねん・・。
相手が聞く耳をもちづらいから、こちらが聞く耳をもってやれでは、果てしなく相手の立場にたっ
てやらなあかんということではないですか・・。
ネバーエンディングストーぉりぃ~♪
自分の信念がただしい?成功した?孫のためとおもう自負?わらわせんじゃないわ。成功したんや
ったら、もっと謙虚になれ!あれが失敗やった、こうしたらよかった・っておもってるから、ぐち
ゃぐちゃういうのに決まってる。
むかついてるのに、なんで、こっちから相談せなあかんねん。相談したら、ますます、なんだかん
だ強制されるやんか。
こちらのパートナーまで姑のこと「悪気があっていうわけではないのだから・・」っていう。悪気がある、ない
、で、許される年齢か??パートナーはめんどくさいだけ。かわいい爆弾なんか落ちてもへともおもわん。
子どものことはゆずったらあかん。聞く耳は持ってもいい。でも、最終決定は自分の思い通りにす
ることやって、おもう。
私は結婚して10年は姑の悪口はいいませんでした。自分のお母さんの悪口なんかきいたらつらい
やろう・・そうおもいましたよ。この大学教授のゆうようにやってきた人間です。で、それじゃ、周りは救われても、自分は救われへん・・・ということを痛いほど身にしみたもんです。
そんなもん、母親が救われへんのに、なんで、子どもが健やかに育つねんな。
母親は自分や!
この大学教授とよばれる人は、そんな苦労したことないんや。先生!とたてまつられてるひとに、
何がわかるねん。
人生の墓場?
この人と一生一緒に生きていこう。そう思って結婚した。
結婚前は休みのたびにデートしたし、あえない日は毎日電話した。1時間、2時間、4時間ぐらい話したこともあった。何をそんなにたくさん話すことがあったのか、今、振り返ってみても何も覚えていない。でも、そんなことしくても、これからはずっと一緒にいられるんだ・・と結婚できてうれしかった。
でも、やっぱり、この次にくる接続詞は’ところが’やん。
主人は中学校の教師。そして、バレーボール部の顧問。朝練のために7時前には、学校へ出勤し、夕方も18時ごろまで練習なのか、帰宅は20時より早かったためしがなかった。20時ならまだよくて、そこからマージャンしたりパチンコにいったり、時には飲んだり・・だろうか・・大方の場合22時は必ずすぎたし、午前様などというのもざらだった。
結婚したとたん、愛がなくなったのか・・と思った。
たまに早く帰っても、部活のキャプテンと電話を始めたら、1時間ぐらいはざらやった。なんや、こいつは誰とでも長電話なんか・・と中学生にまで嫉妬して情けなかった。
そして、土曜、日曜も毎週のごとく練習と試合とがあった。
妻じゃなくて、生徒ととして出会ったほうがよかった・・と何度も思った。
お盆に2~3日。お正月に2~3日。休む以外は常に学校に行っていた。後に生徒指導という職についたときは、真夜中でも親や警察から電話があり、やれ、子どもが家出しました、やれ、学校で誰かシンナーを吸っていると通報がありました、やれ、だれそれが万引きで検挙されました・・・。
そんなもん、時間外勤務や!家では親が捜せ!シンナーは警察官が行け!と、妻の私は吼えた。
教師には残業というシステムがない。朝早くから働こうが、午前様になろうが、真夜中に呼び出されようが・・それに報酬が支払われることは無い。給料にすでに組まれている・・というほどのお給料はいただいているとは到底思えない。自分の勤務しかこなさない先生も、どこまでも際限の無い教育という仕事にお付き合いする先生も、すべて年齢でお給料は決められる。今は、評価!なんてもんがあって、給料が上下するらしいが、それこそ、仕事そっちのけで昇進試験にうちこんだ校長、教頭に評価されるなんて、前より最悪や。いまでこそ公務員は、うらやまれることもあるが、当時、バブルもまっただなか・・私は、景気のいい話をする人々がうらやましかった。あんたら、あのときぼったくったんやから、今更、こっちに矛先むけんな!って思ってる。
話は大脱線してしもた。
そう、結婚したとたん、私はひとりぼっちになった・・。朝、お弁当をつくって送り出したら、真夜中まで会うことがなかったり、一日中、話もしなかったりした。そのくせ、姑は毎日、私を教育しようとしてうるさかった。主人は帰ってきて、お風呂にはいって、ご飯を食べて、セックスして、寝て起きたら朝、お弁当持って出勤していってしまう。
なんやねん。。セックスつきの女中か・・。
その後、子どもが次々と年子で3人生まれて、ほとほと、疲れ果てていった・・。離婚するにも経済力もなければ、子ども3人もかかえて、身動きがとられへんかった。結婚は人生の墓場って、こーゆーことなんやなぁ・・・ってあのころ、私はよく思った。
介護保険
私は夫の両親と同居している。実家の母は内縁の夫がいるものの、書面上は一人暮らしということになっている。
介護保険での不思議。
義母の病院の送り迎えの少し前は全部、私がやっていた。主人は仕事だしお義父さんは年だしと思い、当然だと思っていた。そして、義母の悪い場所別にかかりたいお医者さんが違うのに閉口しながらも、私は、今までの人生、努力で解決でけへんかったことは少ない!とがんばっていた。
そう、ほとんど私はちゃんとやっていた。
ただ、あるとき、義父が入院し、子どもが怪我、実家の母の検査と私自身が子どもの学校の役員があたったことで、どうしてもその月、義母の病院へいく日がとれなかったことがあった。
そのとき、私は社会福祉協議会でやっていた病院の送り迎えサービス、そして、介護保険でのヘルパーさんの病院へのつきそい、など、いろいろ問い合わせをしたのだった。
それも実家の母の病院の付き添いも私がいっているのだけれど、どうしてもこちらの家が優先になるので、私がいけないときがある。その時はヘルパーさんが、病院へ付き添ってくれるので、義母のヘルパーさん、もしくはその手のサービスを利用したいと思ったのだった。
ところが、義母の場合はそうしたサービスは受けられませんとの回答だった。
なぜか。
同居家族がいるから。
同居家族がある方は家族でなんとか、日をかえるなりしてやりくりしてください・・ということだった。
緊急性が高い人から優先という建前はわかる。でも、近所の人は棟を別に親夫婦と子夫婦がすんでいて裏表にいるけれど、その人たちには毎週、病院への送り迎えの車がやってきて、嫁である私の友達は姑の病院の送り迎えをしたことがない。私は世帯を一緒にするということだけで、「あなたがいきなさい」ということだ。いまでこそ、主人が行くようになったけれども当時は、私は頼る当てが無くて途方にくれたのを思い出す。
そして
「このばばあに、私は何年縛り付けられて、生きていかなあかんのやろう・・・そう、私がこの家をほうって出て行けば、役所が面倒見ますということなんや」
こんな家、出て行きたい・・と真剣に思いつめた。
あれもこれもいや
洗濯物がいや。
義母のよごしたパンツがいや。義母のパンツがわたしのたんすにまぎれこむのがいや。わたしの下着が義母が自分のものだと勘違いするのがいや。
おなじ湯船につかるのがいや。義母はからだが弱いからといっては、自分を特別扱いにする。お風呂は一番風呂。義母の垢がういた湯船につかる気がせーへん。
義母の匂いがきらい。
からだが弱いといって、クーラーをかけながら窓をあけるのが嫌い。冷えすぎたらあかんらしい。
毎日、食事の用意をわたしがするのに、自分がうどんを食べたかったら、うどん、テレビを見てからだったら、あとで。そんな義母は主婦をしてきたとはおもわれへん。
わたしは食事のとき、もう、声をかけるのをやめた。自分がおもうものを、おもう時間に勝手にたべたらいい。お茶は自分で入れたらいい。わたしは手があかんから・・・っていうんやったら、義母をかわいそうに思う人がお茶をいれたったらいい。
お盆
お盆の季節になるとうちは大変や。親戚がお参りにくる。だいたい、うちの親戚は夢にお父さんが会いに来た、蛇がでてきたといっては、くる。突然くる。お盆でなくてもくる。そして昼ごはんをたべて、せんど話をして帰っていく。私はそれにつきっきりになる。そして、お盆に関しては夢に見ーへんかっても、来る。
祖父母が生きているその昔は泊りがけで息子や孫もつれてやってきた。これは義母も私も女中と化す。
義母は義母で嫁としてのプライドがあるのだろう。
お墓のお花、仏壇のごちそう、お坊さんが来る日、その日のためのお布施。目の回るような忙しさ。
お寺からは回覧板が回ってくる。今年の初盆にあたる人の名前をかいて回してくる。そういうときしか回ってけーへんお寺の回覧板。そして、まるでチェーンメールのように、どこどこの家には自分の時にもらった、もらわない。ここはもらってないけど、世話になった、なってない。そうやって、お盆のお布施のお金を用意する。
人の死によって、経営がなりたってるお寺って、好きになられへん。
まるで大人のままごとのような日々が続く。二言目には「これはいずれ、あなたにやってもらわなあかんことやから」そう義母は言った。
日本って信仰の自由が認められてるんとちゃうんかい。
それでも私は19年間、一生懸命やったんや。祥月命日、つきはじめ、つき終わり、お墓参りも10本もの花をもって、お義父さんの家のお墓、お義母さんの家のお墓って、まわったもんや。せやのに、自分の父のお墓なんかいっこもいかれへんのや。自分の父のお墓にいかれへんことを、気にする人が一人もいてへんのはなさけないことやった。義母や義父はまだしも、夫までが、いつまでもぼんぼんの立場に甘んじて、そんな配慮もでけへんのは、最悪やった。
義母が嫌いやから、今の私は仏教も嫌いや。やたら、行事が多くて、お金ばっかりかかる。それにしてはこちらへ寄与してくれるもんなんかなんもない。
お盆....?なんやねん、それ。やりたいもんだけやったらええやんか。
無償の愛!
もう、なんの喧嘩やったのか、言い争いやったのかは忘れてしもた。確か、私が夜に洗濯するとかせーへんとかやったと思う。とにかく、義母との息子の取り合い。息子が泣いたら、義母が取り上げに来るから泣かせようまいとおもい、私は一晩中、お乳をふくませたり、抱いたりしていたことがあった。
それでも朝は定時に起きてお弁当をつくらなあかんかった。お弁当を作って送り出したら、夜泣き息子の就寝と一緒に、私もよく寝てしまった。
で、朝の仕事を減らしたくて夜にお洗濯をしたのだった。「そんなん、わざわざ、T夫が帰ってからすること、ないわして(無いじゃないの)」と義母。
最初は何を言われてるのか別れへんかった。義母は、私が夫にそれをわざとみせつけるために夜に洗濯をしているように感じたらしい。
そう。なんでも、悪いほうにとられるのが義理の関係や。
「そんな、見せるために洗濯なんかしているわけない」
というと
「私の目をみなさい!」義母。
負けてなるもんかとにらみ合ったあとに義母が言った言葉がこれや。
「Rちゃんがどれくらい T夫のことを愛して嫁いでくれたかはわかられへん。それでも、母親の愛情以上の愛情はあれへんのや。」
なんやねん、それ・・・。
これを読んだあなた。うちは違うわ・・と思たら大間違いです。義母という義母はみーんな嫁の愛より、母の愛のほうがすばらしいくて深いと思ってるはずです。口にするかせーへんかの違いだけです。