姑なんてだいきらい -2ページ目

お弁当

結婚して19年。毎日、かかさずやっていることといえばお弁当作り。今は子ども3人、夫、私の5つのお弁当を毎朝作っている。自分で言うのもなんだけど、随分と手際よく、彩りもよく、おいしそうなお弁当をつくることができるようになった。子どもたちは、私の作るお弁当が大好きで、休みの日でも作っておいてほしいというくらいだった。


でも、結婚した当初、たった1つのお弁当でも、明日のお弁当のおかずは何を入れたらいいかと、前の夜から悩んだ。そして、朝からてんぷらを揚げたりした。日によっては、夜中の3時4時ぐらいから、おきだして作ったりした。どうして、夜中の3時4時か・・それは、一度、寝てしまうと起きられないことがあるからだった。


結婚してすぐ生まれた長男はよく昼夜が逆転した。夜中に泣かせると、義母が「どうしたの。どうしたの。」とあがってくる。


私はわけのわかれへん理由を探さなければならない。そして、義母は義母の結論をださなければ納得できない。泣いてる理由なんてもしかしたら赤ちゃんにもわかれへんのかもしれへんのに、大人には理由が必要やった。


そんな神経衰弱な夜をすごした次の朝、私は起きようと思ってもどうしても起きることができない日があった。


新婚の夫はそんな朝、「お弁当はもういいから。何か買っていくから」そういってくれた。

私はそれに甘えて、もう少し眠る。


やがて、下でばたばたと台所でなる音に目が覚める。私は下へ降りていってみると、義母が台所にたっている。この時間でまだ寝巻きの自分に引け目を感じながら、


「今日はお弁当はいいそうです」


そういうと、義母は黙ったまま、次々といろんなおかずを作る。そして、それをならべた大きなお皿を私のほうに突き出して


「つめるぐらい、つめられるやろ」


そういうのだった。


まだ21歳の私は、どきどきしながら、それを黙ってつめた。そして、まだ寝ている夫に、お義母さんがつくってくれたと告げると、「ああ、ありがとう」と義母に主人は言った。

私はそれに腹を立てるどころか、朝のお弁当を寝坊してつくれへんなんて、なんのためにもらった嫁やら・・という義母の声が聞こえてくるようで、一人になったとき気弱く泣いた。

葬式

主人から見れはおじいちゃん。義父から見れば父親。私が結婚したその年の冬になくなった。当時私は妊娠8ヶ月だった。


田舎の葬式はほんまにえらいこっちゃ!や。


手伝いと称して2日間、仕事も家も放って出なくてはならない。そのとき、隣組長でもあたってようものなら、一切合財の責任を負う。人の手配、食材の手配、祭壇の手配、食事の用意、お香典の管理・・。


それだけに当事者はそうした人々にたくさんの気を使う。そして、その呪縛のせいでたくさんの人々の葬式のときは同じ事をすることを無言に強制される。


さっきもゆーたけど妊娠8ヶ月やった。


隣組の人から泊りがけでやってくる親戚一堂の布団から食事まで、神経をすり減らした。

そんな中、義母が私に言った。


「あしたのお通夜とお葬式。Rちゃんは長男の家やから着物をきてもらおうかの。私は体が弱いさけ」


普通にしててもしんどいのに、着物・・。それでまだ、悲しかったのは、主人が「ああ、それがええな」といったこと。お義母さんのことが優先かいな・・。あんたが、長男の嫁やんか。


とは、よういわんかった。


唯一、私の身になってくれたのは主人の弟さんで、「A子(弟さんのお嫁さん)が着物きるから、Rちゃんはもうええで。たいへんやで」


普通考えたらわかりそうなことやのに、たった一人の人しかそういってくれなかった。それに腹が立って、私は意地でも着物を着とおした。


おなかが大きいから、着崩れてくる、体重も重くて正座がつらい、しめつけて苦しくて気分も悪いし、食欲もなくなる。四苦八苦しながら、意地をとおしたせいで、私はそのあと切迫早産で入院した。


ほんまにさみしかった。

布オシメ 紙オシメ

「母親としての愛情がたらんのんとちがうか」義母はそういった。



母親になる前の理想はいろいろあった。母乳で育てたい。布オシメで育てたい。こんなベッドを買いたい。穏やかにそだてたい。音楽を毎日、かけよう。添い寝はするまい。ベビーベッドで休ませよう・・・などなど。


新米私の不安定を感じたのだろうか・・長男は夜によく泣いた。寝ずにずっとおきていた。


お乳は切れる。オシメの洗濯で手があれる。ベッドにおいたら泣くので、常に抱きっぱなし。音楽やテレビをみているよゆうなんてない。理想なんか、すぐにどこかへすっとんでしまった。


私はたまりかねて夜だけ紙オシメをつかった。時期があったのか、紙オシメがよかったのかはわからないけど、夜、続けて寝てくれるようになった。


そして、冒頭の義母の言葉だった。


紙オシメを自分の子どもにつかうなどと信じられないというのだ。でも、知らん顔をして、使い続けていると、義母は毎朝、夜に変えたか変えなかったかを、確認するようになった。朝、5時過ぎに部屋にやってきて、「おお、かわいそうに、かわいそうに」といって、布オシメに交換するようになった。


最後には大喧嘩になった。


だって、この子は私の子どもや。母親は私や。お義母さんの意識は昔のまんま。昔の常識を私に押し付けようとする。


それを夫に言うと、夫はあきれた顔でいった。「よう、そんなしょーむない、どうでもええことで、けんかやってられるわ。俺なんか・・・」うんざりされた。



仕事での問題はどれほど重要なことかは私には、わかれへん。

しょうむないことというのなら、そのしょうむないことをとやかく言われる私のことを、思ってくれる気持ちはないのか・・と悲しかった。



義母は二言目には長男のことを思って、私のことを思っていってあげてるという。夫は、本気で怒ってくれる人がいることをありがたいと思えという。

誰もわかってくれることはないと思ったとき、もう、あかん・・・私は出て行こうと思った。

そして、やっと主人は本気になって、私と話し合ってくれたのだったけれど、それは、私に我慢を強いるものだった。



「人間、あかんとおもたところで、それはもう終わってしまう。でも、あかんとおもえへんかったら、どこまでも物事は変化していくし、進歩もするし、変わるもんや」


「ここは謝っとこう。こっちから折れるんや。紙オシメなんかどうでもええことやないか。いったん、すまんかったっていうというて、そこからのスタートやと思え」


「年のいったもんは頭が硬いから、なかなか考えをかえられへん。俺も会社では、頭の固い年配の人には、まずはこっちが折れるんや。でも、自分自身の中で、絶対、俺の思い通りにしてやると思って折れてるんや。」


夫が憎いわけではない。せっかくこの人を愛して結婚して子どもまでもうけたんやから、もう一回、がんばってみようと思った。


「お義母さん、すみませんでした。明日から、布オシメでやってみます」


わかったつもりやったけど、そういったときは、くやしくて涙が出た。



今、思えば、私はあほやった。どうして夫はどうでもええことなら、義母に我慢しろっていってくれへんかったのかと腹立たしくなる。夫は、産後で精神状態も不安定な妻に対して、どうしてもっと妻の側にたってくれることができなかったのかと思う。


母親としての愛情が足らん?・?よう、そんな失礼なこと言えたもんやっておもう。


結果として3人の年子を布オシメで育てたけれども、別にとれるのが早かったわけでもないし、すこぶる賢く育ったわけでもない。

女どおし

子どもがいよいよ大きくなったとき、義母が難しい病気で倒れて、あちらの病院、こちらの病院、食べ物はこれしか食べられへん、おちゃわんはこれじゃないと重い、お風呂は一番でないとはいれない、ちょっと手を引いて、ちょっと枕に水を入れて・・・。杖をついて人前にでたら笑われる。誰かが、うちの家をあざ笑っている・・と、義母が言い始めたとき・・もちろん、それは病気のせいやねんけど・・・

私はとても一生懸命、娘にしてもらおうとおもってやってきたのに、義母に対してあまり愛情のない自分に気がついたのでした。愛情がないどろころか憎しみさえ感じている自分・・。

残念やと思う。同じ女同士で、同じ結婚の苦労をしてきた本当なら一番分かり合える相手のはずやのに・・。

そして、やっと子どもの手が離れたと思ったら、今からの十年はこの女性の世話をして、私の残りの人生が終わっていくのだろうか・・・。と思ったとたん、愕然としました。

そう思うと、もう、生きていてもあまり楽しいこともないし、期待することもないし、終わったようなもんやなぁ・・って、思えてなりませんでした。でも、それは絶望とか失望というよりは、あきらめという気持ちのつもりでした。でもそれでも、別にいいか・・って思っていた。



だけど、無理をしていたんやね・・私はどんどん生きていくのが苦しくなった。

いまだに昔の嫁のように自分を無にして家にささげる生き方をしている人が、この田舎にはある。それはそれで、それに疑問をもたなければ幸せなんやろうか。それとも不幸なんやろうか。

義母の鎧

実家の母はわたしが長男を産んだその1月だけ、毎週、子供の顔を見に来た。夜、とまって時々、抱いてくれた。孫の顔をみたいのもあっただろうし、わがままな長女のわたしが他人の家で、ご飯や掃除をしながら、子供を生んで初めての育児をしていることを案じてのことだとおもう。


義母は一寸足りも座ることなく、驚くようなごちそうを朝から晩まで用意して、持ちきれないお土産もよういしてくれた。母にはお皿の一枚も触らせない。「どうぞ、座ってて、ごゆっくりしてて」 これって、すばらしいお義母さんなのだろう。「お母さんが来て下さってうれしいわ」


そして、実家の母が帰ると、義母はつぶやく。


「男の子やのに、あんな頬擦りなんかして、くせになったら、どうするんやろ」 と真剣に、心配する。義母は立派な男、立派な長男を育てるという使命があるのだ。


母が、ここを訪れたのは、そのときの数回。その後、19年、母がこの家を訪れることがなかった。



「どこにいてたらええのか、わかれへん」と、母はいう。「あなたは、大変やって思う」その後、しょっちゅうくちにするようになった。


義母の鎧は、親切とおもてなしとあなたのためというもの。わたしは自己犠牲を払っているのよという盾。


義母はわたしの母からのものに限らず、誰かに贈り物をもらえば、手放しに喜ぶ。そして、知識豊富に褒め称える。感謝する。


そうして、その人が帰ったら、それをずーっとほうったらかしにしてある。


母がもってきたお菓子や、品物や、贈り物や・・・ぽつんと、何日も放ってあるのをみて、若いわたしはどうしていいかわかれへんかった。あんなに喜んで、ほめて、感謝したのに、封もあけないで放ってあるその裏腹は、ほんまに、信じがたかった。

花のように鳥のように

こうなったのは私のせいだけじゃない・・っておもっている。


私はいま、義母と口もきけないくらい嫌悪感を自分が感じていることを結構、苦にしている。義母は私が出勤する30分くらい前から、縁側に座ってまっている。それは、「いってらっしゃい」と言うため。そして、「いってきます」といわせるため。


帰ってきたら、「おかえり」をいうために、這ってでも、出てきて私に「ただいま」と言わせます。這って出てくる布ずれの音、または、家の中でつく4つ足の杖のごとごという音は、ほんまに恐ろしい。


義母はどんなときも常に光に向かって歩む人なのだ。いい人と呼ばれる人々の中の一人なのだ。義母の座右の銘は「念ずれば花開く」

でも、私には念ざるることは、呪われているようにしか感じない。


食事の時は、「ごちそう、よばれよか」といって話しかけてくる。別にそんなごちそうなんか作ってない。結婚したばかりの時みたいに、「今日はおとうちゃんのお酒のあてになるようなもんがない」「そう、りょうちゃんの実家がそうやったんやったら、うちも明日から変えたらええわ」そうやって、毒づけばいいのにって思う。


食卓に着いた義母に、私は仕方なく「どうぞ」という。


「行ってきます」をいうたびに、「ただいま」をいうたびに、私はここの家の人間じゃない・・家と結婚したんじゃない・・ここは私の家じゃない・・ここに帰ってたんじゃない・・・って心の中で言葉が湧いては消える。


19年前、まだまだへその緒がつながったままだった主人とまだまだ、どの愛よりも母の愛が偉大だと信じている姑と優等生でなんでも頑張ればなんとかなると思っていた私の19年の暮らしは、本当に破壊的な19年やった。娘が学業から横道にそれたり、息子が、まだ迷いの最中にあったり、私たち夫婦がぎくしゃくしたりしていたとしても、そとからみれば完璧に見えた過去の19年よりは、今の方が、ずっと、それぞれに自由に自分の頭で考えて、ちゃんと生活している気がする。


私がでていくのなら、主人はついてくると言う。


すばらしい結婚って、いったいどんな結婚のことをいうんやろう・・。


先日、ムラビィンスキーの評伝を読みました。4度、結婚しては、別れている。


小鳥のように花のように・・小鳥も花も、明日のことを心配しない。


うちのセキセイインコがたまごをあたためています。誰にもおしえられないのに、大切に抱いて、オスは必至で、メスのためにえさをはこびます。手乗りなので、そとへだしてやるんやけど、その時は狂ったようにえさをあさり、肉でも野菜でもお菓子でも食べようとする。ふだんは、巣の中にいて、外で物音がすると、あわてて巣から頭をだす。そして、威嚇したりします。朝の早い時間だけ、メスは外の出てきて、自分の口でえさを食べます。


本能なんや・・って思う。小鳥たちはしあわせそうです。結婚という言葉をもたないけど、小鳥たちの結婚はたしかにすばらしい。


着物

kimono


そろそろ毛糸のセーターはけーへんやろ。(着ない)

せやけど、まだまだ、残ってます・・・お洗濯。

一度にするとしんどいので、毎日、2枚ずつ洗うんですが、ちょっとやそったじゃおわれへん。クリーニングに出してしまう余裕は無し・・。

で、今日は気分を変えて、着物の虫干しです。

着物も、もう17年も着てません。


その昔、姑に知り合いに京都で帯をつくっている作家がおられた。その作家さんが義母にプレゼントした大切な帯を、これはもう派手やから持ってたらええわ・・とくれたのでした。

ところが、

実家の母が結婚式に出るとき、借りたいと言ったので、私は貸してあげるつもりにしていたら、

義母!

「あれ、やっぱり、かえしてもらおうかのぅ」

せこいねん。

そうやって、くれたり取り上げられたりしたもの

家の権利書、本、着物、帯、ふとん、


また、くれようとしたときがあったので、「どうぞ、それは着付けの免許をもっている真理子さん(主人の弟嫁)に差し上げてください。私なんて、着物なんか持ってても、自分で着られませんから」


以来、私は着物を見たらむかつくようになりました。



でも、実家の母が一生懸命そろえてくれた着物なので、春と秋、痛めないように手入れだけはしています。写真の着物は私が中学生の時に着ていたもの。

病院巡り

眼科は○総合病院の☆先生。胃腸科は○労災病院、歯医者はXスーパーの○医院、脳外科は△駅前の△脳神経外科・・・と、全部、違う。

「せろちゃん、来週、○医院の歯医者、つれってもらおうかのう」

またや・・とうんざりする。私が専業主婦で始まったのがあかんかったのかもしれへん。母の突然の申し出を具合が悪いという言葉1つで、断れずにずっと来たから。

でも、今、私は仕事を持っている。

「お義母さん、私、仕事が休みやったら行くけど、休みと違うかったら、タクシーで行ってもらえます?」

義母は機嫌を損ねた。

今まで、自分の予定は万事繰り合わせて、病院はつき合ってた。それが、自分のできる時は、できる限りのことをしてあげようと思ってた。それは、ただの徒労やったのか。

「すまんなぁ」

って、義母がいつもいうあの言葉は、うわべだけの言葉やったのか。


これから結婚する人へ

kabocha


結婚が決まったとき、義父母は別居を考えてくれていた。

なのに、夫は、両親を二人っきりにするのがさみしそうに思ったのだろうと思う。

 

「一緒に、暮らしてもらえへんやろうか・・・」


さすが、私の選んだ人は心がやさしい。思いやりがある。
そう思った。
今までの男は、親なんか嫌いでうっとおしい奴がおおかった。

ちっちゃな頃から悪ガキで~♪ という歌が昔あったけど、

私は、ちっちゃなころから優等生やった。小学校4年生から、中学校卒業するまで

学級委員やった。人に喜んでもらいたい習性がでてしまった。

ましてや、愛した人には一番良いところをみせたかった。

 

(わたしなら、できるんじゃないか。頑張って、できないことはないんじゃないか)

 

あほやった。

 

頑張ってもでけへんことがある。頑張るから、でけへんこともある。

 

 

そら、自分の人生1つしか生きてへんから、偉そうなことはいわれへん。

だから、どうでもええ人には、ふーん・・って聞き流す。

でも、私の大事な人には、「同居は絶対、やめとき」と

たった1この人生をかけて、言う。

 

一緒に住んでたら、夫は、息子をなかなか脱皮でけへん。

一緒に住んでたら、妻はたった一人の異分子や。

妻一人の常識は非常識、家族みんなでやってる非常識は、ここでは常識や。

 

別にだんなの親を否定しろっていうんとちゃう。

 

別々に住んでても助け合うことはいくらでもできる。

むしろ、別々に住んでるから、独立した個人と個人として、お互い助け合える。

 

一緒に住んでて、依存しあいの助け合いのおんぶにだっこは、助け合いとちゃう

お仕えする生き方

75歳の義母は、1人娘で大切に育てられたが、終戦とともに父は戦死、母は病死、その後を親戚や祖父のもとでいきてきた。とても、純粋で、頭のよい人だ。息子(夫)は、母の思いをうけて、勉強にも真面目に励み、気持ちも優しく思いやりがある。母が一心な思いをかたむけて自分の子供を愛したことが、夫を見ているとよく分かる。
 義母はむつかしい昭和の時代を必死に生きてきた。ただ「生きる」だけが、とても難しい時代だったのだと思う。子どもの病気を考えても予防注射も今ほど整備されおらず、戦争の余波で食べるのにも困り、義父は一人一缶しか売ってもらえない粉ミルクを、一駅ずつ降りて買ったのだそうだ。家族を支えることが人生であり、家族は義母に癒されてきた。
 義母は、自分が信じた女の生き方と妻のあり方を、私にもちゃんと守って生きてほしいのだと思う。でも、私は心の中でつぶやく。お義母さん、時代は変わりました。昔のままの女の価値観は通用しなくなりつつありますと。
 わが家は7人家族だ。朝のお弁当から始まり、昼も大人が3人、夜は時間がバラバラになりつつある。食事は主婦にとって大仕事だ。
 結婚した当初、食卓についた夫が「皿」といった。夫の後ろには食器棚があり、「後ろからとって」と私がいったとたん、ガタン!と椅子を大きく引き、ガシャ!と音をたてて義母がお皿をとって息子に差し出した。その音がずっと心に残った。義母は疲れているだろう大切な息子を思う気持ちと、私への腹立ちを無言でぶつけたのだ。
 以来17年、私は食事の間じっと座っていたことがない。おかわり、お皿、お茶・・立つのはこの家では主婦の役割で、女の心配りなのだ。万事がそうだった。「おつかえする」これは義母にとってももっとも美しい言葉の1つで、私との間に横たわる隔たりだ。

選択肢はあったはず・・・

 私は真っ白な気持ちで結婚した。だから、しきたりといわれることも、家の方針と言われることも、一生懸命覚えてきた。だけど、結局、私は義母とは分かり合えなかった。お互いいろんな努力を重ねてきた。でも、けんかはしたくなかった。ちょっとした気持ちをごまかしあいながら生きてきた澱は、それぞれの心によどんでいる。
 同居するなら、私は義母を自分の母と同じくらい、そして、義母は嫁を自分の息子と同じくらい愛せるのでなければ、してはいけないことだったのかもしれない。息子への愛と、嫁への愛は大きく違い、私は家の奴隷として尽くしてきた生活のように感じている。
 義母は今、病気である。足も立たなければ、身の回りのことに手間取ることも多くなった。でも「福祉の世話なんかになったら、世間様に笑われて・・」と言う。じゃあ、お義母さん、どうするの?と私は思う。私にもっと犠牲になれと?
 腹が立つなら出て行けば・・と、自分に何度も問いかける。けれど、今更、足の立たない人間をおいて出て行けない。義母がしきたりや自分の考えをおしつけてきたからといっても、私は自分の意志でそれを拒否する選択肢だってあったはずだ。そこを気持ちをごまかして生きてきてしまった。挙句の果てに自分を見失い、家のために随分と犠牲になってきたと感じている。
 今、私は40歳。人の犠牲の上でないと老後を生きることが出来ない以上、女同士の不幸は連鎖し続ける。嫁姑が共生して生きていくためには、もっと高齢者や弱者をサポートする社会システムも、社会の目も変わる必要があるとおもう。でも、今を生きる私と姑には、それを待つ時間がない。
 義母は私は分かり合えないまま、生きていく。老後の生活や社会福祉に関しての私の選択肢は、お義母さんを傷つけるかもしれない。ごめんなさいとここの中だけど思っていよう。
 お義母さん、共存していくためには福祉の力も借りなくてはなりません。あなたの息子(夫)もあなたの夫(義父)も、あなたの思う男の仕事ではないことに関わっていただかなくてはなりません。私も一生懸命がんばります。あなたの息子を愛していますから。