今わたしがフォーカスしている「恥」という感情①
先日とても恥ずかしいことがあって、とても辛い気持ちでいる。最近は怒りのワークと土下座ワークをしているのだけど、母に対する忘れていたというか覚えていなかった気持ちをおぼろげながらこんなのでは?と振り返ることが多い。そこで先日の出来事もあり、「恥ずかしい」ってすごく私にとって大きい気がした。まず母親に対して恥ずかしいと思っていた。ということは私も恥ずかしい存在。恥についてきちんと知らなければならない。近くの図書館に恥に関する本はなかったので、とりあえず恥(シェイム)という本を購入。それについて感じたことを書いていきたい。多くの生きづらさのもとになっているのは「恥」という感情。この感情が感じることが痛みとなっているので、隠されている。「おまえ、オレのことをバカにしているのか!」というのは、恥を怒りにすり替えた例であるとある。これはよく思う。「恥」の破壊力のところで子どもが楽しそうに踊っているときに、なんだそれみっともない、などと親が否定するようなことをシェイミングというのだが、こういうことは母親からしょっちゅう言われた(と思う)。できたー、見てみてって親に自慢するとき、無視、否定、迷惑そうな扱いをされると、私っていいよね!がしぼんでいくそうだ。うちの母親は、自分の子供ができる子になるのが怖かったんだよね。できる子は嫉妬されていじめられるから。土下座ワークで、できる子供でごめんなさいが出てきたときは自分でもびっくりした。で、そうだよね。と納得した。ずいぶん恥を植え付けられている。私が恥ずかしいと思うのは仕方ない。でもそもそも外から植え付けられたものだから、それははずすことができるということ。続きはまたあとで。