年齢を感じることが多くなってきました。
まぁ、40才直前だし致し方無いのは公然の秘密です。


昨日の朝に最寄り駅から歩いて会社へ向かっていますと、
前の部署で同じだった30歳の同僚と合流し一緒に歩くことになります。


あまり広くないその通りを歩いていますと、
後ろからタクシーにクラクションを鳴らされました。


とかくむかつくような鳴らし方ではなかったのですが、
その30歳の同僚は文句を口に出して言っていました。
(タクの運ちゃんに聞こえてまうで~!)


また先週にはこんなこともありました。
会社のビルには5つのエレベーターがありますが、
それを待つ列は、とても行儀のいいものではありません。
すべてグループ企業なので、エレベーターに限った話ではありませんが、
とにもかくにも何もかもがナァナァなんです。


そんなエレベータをこれまた朝の出勤時に乗り込みますと、
あとから27歳の前の部署で同じだった同僚が乗り込んできます。
私の顔を見るなりしたり顔になって、行儀の悪さをエレベーターという密室内で毒づきます。
(周りに聞こえてるって!!)


朝早くの始業直前のそんな時間から、
やれタクシーや、やれ行儀の悪さや、
正直どうでもいい気持ちになってしまっていることに気づいた私は、
間違いなく年を重ね、昔のやんちゃさが消えてなくなっているなと実感したのでした…。

ペタしてね   読者登録してね   アメンバー募集中

本日は、成人の日です。
新たに成人となられた方々に、お祝いを申し上げます。


いつぞやまで(1999年まで)は、1月15日が成人の日でした。
私が迎えた今から十数年前の成人の日も1月15日でしたが、
当時大学1年生(一浪しているもので…)だった私は、
翌日から後期試験があったため、
また、地元から離れた場所に住んでいたため、
成人式なる大層な式典には出ず仕舞いになっています。


一生に一度しか訪れないのだから、無理してでも出席すればよかったなと思っています。


ちなみにこのときに受けた後期試験は散々で、
4年で128単位が卒業に必要なところ、
1年次に6単位しかとれず、
でも卒業時にはダブることなく、ちゃんと132単位とれていたのはいい思い出です。


この成人の年齢が、20歳と定義されたのは戦後のことです。
もともと成人年齢が低くマセていた我々日本人ではありましたが、
戦争に負け欧米列強に習った折衷案(当時の欧米では25歳前後)で今の定義にあいなりました。


私は、古くからある日本の伝統や価値観を重視します。
だからこそ思うことは、成人年齢の引き下げを主張したいと思っています。
今後、労働生産人口が急激に低下していきます。
それらに合わせて、国民の意識を変えるという意味合いも込めて、
成人の年齢引き下げは、戦後レジュームの脱却にも繋がり、
同時にわが国の自主独立を成し得られるいい機会になるのではないかと思っています。


韓国なる国の政治家が、
対北朝鮮向けの経済援助や韓国通貨ウォンに対する信用創造を、
日本が負担すべきことが当たり前と声高に主張しています。
それに対して日本国民は、お門違いの馬鹿馬鹿しさに閉口するわけですが、
我々日本人も安保条約を盾に、アメリカへ日本の防衛を当たり前のように声高に主張しています。
もちろん安保条約のような強力な物事の根拠の有無の違いはあれど、
行っている行動様式の共通項は、悲しいかな認めざるを得ません。


今般安部首相は、外交の手始めに東南アジアを選択いたしました。
もともとはアメリカでしたが、結果として東南アジアとなったことは、
後々のことを考えれば、至極当然に後世の歴史家に評価される結果となるでしょう。


中国や朝鮮のように、日本が大人になってもらっては困る国々の輩を、
中国や朝鮮が先天的に嫌いな東南アジア諸国の歴訪は、
日本がアジアにおいて、財布の中身以外でもイニシアチブを取れる絶好の牽制となります。


おこちゃまな国に棲む国民が、大人などに成り得る道理などはありません。
日本の日本国としての成人の日が、
ほんの少し近い未来に近づいてきているのかもしれないと感じています。

日本人が大人となって、日本国を大人にするのか、
日本国が大人となって、日本人を大人にするのか、
あなたならどちらを選びますか?
この選択を迫られる時期は、早々にやってくると思っているんです。


ペタしてね 読者登録してね アメンバー募集中

本日見ていた番組のCMでこんな事を言っていました。

「子供が魚を食べないのは、骨があるから。だから骨を無くして売っていく(以上意訳)」


その番組では、新たに自民党の政調会長となった何某(女性)と、総務会長となった何某(女性)が、

女性の社会参画を異口同音に喚き、古くからある女性の役割について否と説いていました。


当然のように存在していて当たり前の、骨がある魚さえも己の子供に食べさせられない母親が、

子育て自体がすでに、社会に大いに参画している自覚さえもてないこういった女性たちが、

これからも多く世に出て、「女性」がある種の特権でもあるかのように叫ばれている間は、

わが日本国の行き着く先はたかだか知れているのかもしれません。


骨があるから動物を食している感が増大し、絶好の「食育」に繋がるはずだと思うんですけどね。


骨抜きにされているのは、なにも魚ばかりではないなと、

明日からの一週間を思い、胃の辺りが締め付けられているんです・・・。


ペタしてね   読者登録してね   アメンバー募集中

選挙の争点は、政治家やマスコミが指し示すものではない。

投票を行う国民の一人一人が考え、投票し、結果として現れるものである。


党の乱立で行われる今般の選挙では、特にこの意識が重要になると思われる。


かくいう私めの投票行動上の根拠は、

憲法改正を行え得る党と、そこから立候補する立候補者に投ずるというものである。


私は、日本国民による、日本国民のための憲法作成を、

日本人自身で行うことに、否と唱える者の気持ちが到底理解できない。


吉田ドクトリン、戦後レジュームからの脱却を、

ニートや生活保護者に手厳しい日本人であるならば、到底理解できるはずだからだ。


私個人が持つ選挙の争点は、憲法改正にある。

しかしそれは他の者が持つそれとは異なったものであって当然良い。


個々人が持つ、それぞれの選挙の争点を基に、

何らかの投票行動を行うことこそが、日本の将来を指し示す指標となるからだ。


ペタしてね   読者登録してね   アメンバー募集中

衆議院が解散した。
12月に総選挙が行われるのは30年ぶりなんだとか。


それにしても解散宣言の仕方が良くなかった。

言葉を強め自民党安倍総裁に解散を宣言するあの姿は勇ましいが、
穿った見方をすれば「やけくそ解散」と評されても仕方がない野田首相の最後の勇姿だった。

この時期の解散が何を意味するのかは、国民の大多数が承知している。
第三局の台頭と組織固めが磐石に達する前の飛車角成を野田首相は打ったつもりでいる。
しかし大局はすでに桂馬と香車が成ることなく大手の二手前に左右から詰め寄っている。
小異を捨てた大同の団結は飛車角に頼ることなく、確実に王将を追い込んでいる。


民主党の過ちは、皮肉ながらこの小異の捨て方にあった。
小沢を引き入れ社民党や日本新党のような輩と結託したその時点で、

国民にはその後の答えが見えていた。
「政権交代」があの頃必要であったのは言わずもがなだが、

その工程を辿った後の空虚に達するその答えは見えていた。
「政治は数だ」と声高に表現し、

そう表現することがあたかも「政治のプロ」であると錯覚しているあの薄汚れた輩は、
今般の政局では完全に蚊帳の外におり、

こいつが未だに殺されていないことが私を驚きの極地へと導いていく。


今般も行われている小異を捨てた大同団結は、国民がとかく求めそれに政治家が応じた結果ではない。
であるからこそ、選挙における投票行動が大切になる。
「どの党に入れるべきか」と悩む前に、

己の選挙区から立候補する人物をフォーカスし投票行動することをお薦めする。
「二大政党政治」なるものは、日本国民にはまだ無理なのだ。
ここは選挙というものの原点に立ち返り、「人物評」に対する「選挙票」を投じる投票行動が懸命である。


私ごときの憶測では、今般が比例代表制・小選挙区制最後の選挙になると思われる。
この国民を馬鹿にした選挙制度は、

国民一人一人が持つ「政治への目」を醸成させる前に消えてなくなるだろう。
国民一人一人が持つ「政治への目」が今のままで良いわけがないことも、言わずもがなであるのだが・・・。


※日本国民=団塊世代以外の者

本日スーパーで夕食の買い出しをしていると、

4.5歳くらいの男の子がお母さんに機関車トーマスの絵柄が入ったお菓子をおねだりしています。

お母さんは、それに興味を示しながらも、

その機関車トーマスの絵柄が入ったお菓子の購入に乗り気ではありません。


4.5歳くらいの男の子は、

大きな声を上げるでもなく、「トーマス、トーマス」と言っています。

それに根負けしたお母さんは、

すこし苦笑いを浮かべて機関車トーマスの絵柄が入ったお菓子を買い物かごに入れました。


「ありがとう、トーマス、トーマス」


4.5歳くらいの男の子が発したその綺麗な言葉が、

しばらく私の脳裏を繰り返しグルグルとして、とても気持ちのいい時間を迎えることができたのでした。



ペタしてね   読者登録してね   アメンバー募集中


もちろん、iPS細胞の山中伸弥さんも含めてそう思います。

あの軽薄すぎないウイットさは、インテリ「関西」人が目指すある意味に言う完成系だと思います。



私はあまり「関西」が好きではありませんでした。

「関西」を離れたことがあるので、余計にそう感じていたのかもしれません。


「関西」人は、モノの道理が動物的で打算に富んでおり、それと共に言葉の端々に出る曖昧さが、

戦後67年の日本人の特徴を、如実に表している最たるもののように感じるからです。


江戸時代以降日本の台所、商人の町として栄えた大阪を中心としたこの「関西」を、

武士の武人たる心を第一義的に考える小生は、つい最近まで嫌いであると声高に表現していました。



つい先日、知り合いがこう言いました。

「夕暮れに公園で時間を過ごしていると見ず知らずのご婦人に、

『虹が出ていますよ』

と声を掛けられた。そしてそれを見た自分は、ささやかな幸せのお裾分けを受けた」のだと。

それを聞いた小生も、そのご婦人からその知り合いを通じて、

ささやかな幸せのお裾分けを受けることができました。


このご婦人は、とかく何かを求めてこの知り合いに虹の存在を教えたわけではありません。

虹を見つけたことで、今の感動を誰かに伝えたいと感じたんだと思います。

そうすれば、この感動が2倍に倍加すると打算を踏んだわけでももちろんありません。

虹を見つけたことで、咄嗟に近くにいたこの知り合いに伝えたいと感じたんだと思います。



無縁社会と言われる我が国日本の現状ですが、

けっして無縁ではないと感じられる事象は、本当は我々の傍らにたくさん転がっているのかもしれません。

そのほんのささやかな一瞬のやり取りだけでも、人は一人ではなくなるのですから。



けっして「関西」に限った事象ではないんでしょうけれど、

「言葉」というコミュニケーションを大切にする「関西」人を、少しだけ好きになれた出来事だったんです。


ペタしてね   読者登録してね   アメンバー募集中

本日駅のホームを歩いておりましたら、「Excuse me」と女性のお声が掛かります。


顔を向けるとアジア系の小さな息子さんとご主人もこちらを見ています。


「ペラペ~ラ、ペラペ~ラ、Kyoto、ペラペ~ラ?」


と、聞かれます。


「この電車は、京都駅に行きますか?」


と脳内変換し、持ち前の全力の英語力で、


「イエス」


と応えます。


ただただ「Kyoto」という言葉があっただけで、このような脳内変換をし、


もし仮に、


「この電車は、京都駅にはいきませんよね?」


という、念を押した質問だったらと思うと、


同じ車内に乗り込んだそのご家族を、その後直視できなくなってしまった事実は、


いまさら言うまでもないのかもしれません。


ペタしてね   読者登録してね

いつまで韓国や中国との「友人ごっこ」に国民は付き合わなければならないのか?



「日本」というスマートフォンがある。

この利用者からは長らく、コンテンツ不足によるクレームを受け続けていた。


スマートフォンの開発者はその打開に、「中国」および「韓国」というアプリの受け入れを決定する。


「中国」というアプリには、二種類ある。

それは、共産党の色濃いプログラムが入っているものと、

比較的それが薄められたプログラムが入っているものとである。


「韓国」というアプリには、一種類しか存在しない。

民主化を成功させたと自称するのであるから、

二つの政府もなければ、二つの外交も存在し得ないので、当然一種類しか存在しない。


アプリの取り込みは、その全体を受け入れるのであって、その中の物の取捨選択はできない。


「日本」というスマートフォンは、長らく「中国」および「韓国」というアプリを無造作にダウンロードしてきた。

そのツケは、いま「日本」というスマートフォンの不具合が実証し始めている。


先んじてダウンロードしていた「米国」という製品保証を担うはずであったアプリが、

「中国」および「韓国」というアプリを後からダウンロードしたが為にプログラムを改ざんされ、

「日本」というスマートフォンを守るどころか、その情報を「中国」および「韓国」というアプリに流し始めている。



1992年にバブルが弾けて以降の日本は、デフレからの脱却をチャンスは幾度かあれど成しえず、

日銀の金融政策を含めた政府の経済政策には特効薬を見い出せないまま、

「失われた10年」が「失われた20年」へとその悲観に暮れる日々が長期に渡る結果となった。


その間、ものづくりに長ける日本の工場は、人件費の安さだけに誘われ次々に中国へとその拠点を移し、

1993年には、今日の自虐史観を具現化した河野談話による韓国の主張を受け入れ、

クリントン大統領時代の米国民主党は、アジア外交の際に日本を無視して中国に歩み寄った。

それら愚行のツケが、2012年の今日に次々と表面に現れ始めている。


日本によるODAが功を奏したが故の経済的豊かさの更地が出来た中国マネーの受け入れと同時に、

反日運動が盛んな韓国への経済援助の増幅、

異常なまでの韓国コンテンツの受け入れが物語る今現在の極東の奇怪なパワーバランスは、

日本人が「アジア人」として戦ったあの戦争さえ全否定した過去を如実に物語った皮肉な結果である。


日本人が「アジア人」として戦った誇り高い過去よりも、

戦うことさえしなかった者どもの財布の中身や一方的な歴史観の押し売りを重視した皮肉な結果である。


日本人の財布の中身を、その過程がどうであれ結果的に豊かにすることのみが、

日本人を幸せにできる唯一無二の方法であると、浅はかな思いつきを実行した皮肉な結果である。



経済原理主義、

この思想のみが招いた結果が、今現在の極東の奇怪なパワーバランスである。

この点に否と答える者は、さっさと農地を耕すなり、

売掛金の回収方法を考えるなり、その身の丈にあった生活のみを送ることをお薦めする。


とにもかくにも、

「経済大国」なる称号を手にしたが故の結果が、この有様なのである。


行き着くところまで成長することができた日本というマーケットではあるが、

右肩上がりで天井知らずな成長などこの世界ではありえない。

しかし、90年代の政財界の者どもはそれを望んだ。

そして世紀を跨いでもそれを望むものがいる。


「経済大国」なる称号を手から離したくないとその一心のみの結果が、この有様なのである。


今現在の極東の奇怪なパワーバランスを、望むにしろ望まないにしろ招いて混乱至らしめている根源は、

我々日本人に、世代によりその濃淡はあれど、起因するところ大なのである。


度し難いとは思わないか?


その事実を度外視して、支那人がどうとか、朝鮮人がどうとか、

それらを表現していれば商売になる出自が不明な輩がこの日本国には存在する。


一番の敵は、我々日本人の中に寄生していることを決して忘れてはいけない。

この経済原理主義は、他の国から押し付けられて醸成したものではなく、

日本人が己で選び、己で呼び込んでしまった結果なのであることを。



「中国」というアプリが、今後どのような立ち位置になるのかはわからない。

転び方によっては、常に人気アプリランキングに顔を出し、名前も変わっているかもしれない。

「韓国」というアプリは、現在のような立ち位置では絶対になくなっているだろう。

現状でもどのようにも転びようもないこのアプリは、先天的にウィルスがプログラムされているからだ。


「米国」というアプリには、そろそろ利用期限が迫っているように思われる。

これを更新するも更新しないも、その選択肢は我々日本人が握っていなければならない。


アプリは、能動的にダウンロードするコンテンツである。

しかし、能動的にダウンロードできるのであれば、能動的にアンインストールもできるはずだ。


10年後、20年後の中心世代に、

今日の中心世代である我々が90年代の中心世代を糾弾しているような愚行を繰り返し味わわさないためにも、

これからの1~2年間は、今後の日本の道程を指し示す大切な踏ん張りどころとなる。


財布の中身ではなく、日本人の「生き方」を残す為の最後の機会が、いますぐそこにやってきている。


ペタしてね   読者登録してね   

いつまで韓国や中国との「友人ごっこ」に国民は付き合わなければならないのか?


極東で今現在繰り広げられている茶番を、様々な媒体を通じて知る事となる小生は、

つくづく先の第二次世界大戦から太平洋戦争を通じた日本人のアジア人としての戦いにおける、

痛恨の極みながら敗北を喫した過去の事実に、頭を深く垂れ落とさざるを得ない気持ちに苛まれる。


このキャスティングボートを、遠く欧州で、そしてこの極東においても握っていたのは米国である。

この米国が、戦後処理として、特に極東において責任を負うことは、あの時代にすでに義務となっていた。


しかし、あれから67年。

「ゆりかごから墓場まで」、本来の指す意味は違えど、その言葉の通り日本人の多くの人生が、

米国の責任と義務の被保護の中でのみの営みとなろうとし、

米国の責任と義務の被保護の中からのフィルターでしか、物事の観察、推測、実行ができなくなってしまい、

日本人の日本人としての不変の個性を取り崩していく同胞が、幾多と増殖した結果は痛恨の極みである。


今必要なのは、米国を介す必要のない、日本人が自ら創り出すアジア人としてのフィルターである。



アホはアホほど他人の土俵に上がりたがる。


先の尖閣上陸を強行した「自称日本人」どもの行ないは、

朝鮮人の李明博や、中国人の香港政治活動家と何ら変わらない愚行中の愚行である。


軍隊さえ持たず、専守防衛が合言葉の自衛隊や装備さえ覚束無い海上保安庁しか有さない我が国なのは、

彼の者たちでも承知であろうが、それにもかかわらずああいった暴挙を行なうことの行き着く先にあるものが、

米国の責任と義務の被保護の中からのフィルターでしか、物事の観察、推測、実行ができないことへの、

最たる証明するところである。



日本人が、特に愚かな団塊世代の諸君の多くが、今現在でさえ醜い声色を通じて発するものに、憲法9条の堅持なる米国の責任と義務の上でようやく成り立つお花畑の創造という妄想があるが、これは、自国を守る為に必要な軍事力を、他国へと結局のところ依存してしまう発想である。


朝鮮人が、特に愚かな韓国人の諸君の大多数が、今現在にその醜い風貌及び声色を通じて発するものに、崩壊寸前の経済力及び韓国通貨価値維持の為の日韓スワップ協定や、北朝鮮との交渉材料に日本からの経済援助を一方的に取り込むという蛮行等などその例には枚挙に暇がないが、

これもつまるところ、自国を守る為に必要な経済力を、他国へと結局のところ依存してしまう発想である。


日本人が、米国に押し付けている責任と義務と

韓国人が、歴史を偽り続けて出来上がった被害妄想の上で成り立っている我が日本国に押し付ける責任と義務が

何ら変わらない愚かな等式で否応なく結ばれてしまっているのだ。



他人の振り見て我が振り直せ、古今より叫び続けられる自身への戒めの言葉である。


領土問題というナショナリズムを奮い立たせる問題に直面した今、

朝鮮人が行なっている、そして中国人が行なっているあれらの行動様式を模倣してしまうくらいにまで、

我々日本人は、彼の者たちと近い存在へと成り下がってしまっている。


チャンネル桜のあの薄汚い自称日本人の行ないは、

自らの生命に危機が切迫した折、自らの足を自らで喰らうタコの行いと同じである。


アホはアホほど他人の土俵に上がりたがる。


いづれ訪れるであろうとは思っていたこの事象を、

これほどまでに早く目にし、そして殺意に似た感情を抱く日が来ようとは思いもよらなかった。


日本人は、いついかなる時も、毅然とした態度をもって、事に対処する民族でなければならない。

それができないのであれば、とっとと自らで死を選ぶか、この国からあらゆる方法を模索して消えてなくなればいい。


あの醜い自称日本人の行いは、完全なる利敵行為である。


あの醜い自称日本人の風貌が、

あの韓国大統領なるチンケな役職についている李明博や、

あの大阪西成に行けばいくらでも繁殖しているようなチンピラ風情の香港政治活動家達の風貌の醜さに、

負けず劣らずのソレをしていたのは、

国際社会に打って出る極東としての笑いのネタとして、後世に笑い続けられる事を切に願う。


朝鮮人がどうとか、支那人がどうとかネット上でほざいているこの自称日本人が、

この国で一番彼の国の者らと似通っている事を自らで証明したのが、今般の尖閣上陸である。


くどいようだが、アホはアホほど他人の土俵へ上がりたがるんだ。


ペタしてね   読者登録してね   アメンバー募集中