もちろん、iPS細胞の山中伸弥さんも含めてそう思います。

あの軽薄すぎないウイットさは、インテリ「関西」人が目指すある意味に言う完成系だと思います。



私はあまり「関西」が好きではありませんでした。

「関西」を離れたことがあるので、余計にそう感じていたのかもしれません。


「関西」人は、モノの道理が動物的で打算に富んでおり、それと共に言葉の端々に出る曖昧さが、

戦後67年の日本人の特徴を、如実に表している最たるもののように感じるからです。


江戸時代以降日本の台所、商人の町として栄えた大阪を中心としたこの「関西」を、

武士の武人たる心を第一義的に考える小生は、つい最近まで嫌いであると声高に表現していました。



つい先日、知り合いがこう言いました。

「夕暮れに公園で時間を過ごしていると見ず知らずのご婦人に、

『虹が出ていますよ』

と声を掛けられた。そしてそれを見た自分は、ささやかな幸せのお裾分けを受けた」のだと。

それを聞いた小生も、そのご婦人からその知り合いを通じて、

ささやかな幸せのお裾分けを受けることができました。


このご婦人は、とかく何かを求めてこの知り合いに虹の存在を教えたわけではありません。

虹を見つけたことで、今の感動を誰かに伝えたいと感じたんだと思います。

そうすれば、この感動が2倍に倍加すると打算を踏んだわけでももちろんありません。

虹を見つけたことで、咄嗟に近くにいたこの知り合いに伝えたいと感じたんだと思います。



無縁社会と言われる我が国日本の現状ですが、

けっして無縁ではないと感じられる事象は、本当は我々の傍らにたくさん転がっているのかもしれません。

そのほんのささやかな一瞬のやり取りだけでも、人は一人ではなくなるのですから。



けっして「関西」に限った事象ではないんでしょうけれど、

「言葉」というコミュニケーションを大切にする「関西」人を、少しだけ好きになれた出来事だったんです。


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