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彼女は、家に招かれるその誘いを受けたとき、心に微かに宿る温もりを感じたのかもしれない。
彼女は、一緒に並んで歩きそして、お菓子なんかを一緒に選んだのだろうか、
買い物をしているそのとき、一人暮らしをし自立したあなたを、
少し大人びた友人だと表情を緩めながら見ていたのかもしれない。
あなたは、恐らく首よりも先に手首から切断したのだろうが、
滴る人間という動物の血液のその色と温度を感じたとき、
人間という動物の生命を感じたのかもしれない。
あなたは、心に微かに温もりを宿して訪れた彼女の腹を割いたとき、
人間という動物の死を初めてその時感じたはずです。
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強盗だの、強姦だの、殺人だのと人間が巻き起こすこれら日常の非日常的な営みは、
文明が文明だのと偉そうに確立していないその当時から必ず行われています。
今現在、こういった事象というものは、とても多数の人間で共有できる色合いのものとなっています。
それは、新聞やテレビのニュース、そしてインターネットが発達したからです。
人々は、これら新聞やテレビのニュース、そしてインターネットから得た情報を通じて、
その行為、則ちその事象の原因と結果から、「納得がしたい」と思っています。
原因と結果という関係ほど分かり易いロジックはないと、真剣に心底信じきっています。
それを全ての人間に当てはめて「納得して、安心したい」と心底思っているのです。
その原因が、自分が置かれている境遇から遠けれな遠いほど、
その結果は、自分が置かれている境遇から必然と遠くなります。
仮にその原因が近ければ、その行動の起因性に納得できるはずです。
納得は安心に繋がり、そして人々は次なる事件へと興味と関心を移していきます。
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人間という動物の死は、その多くは身内を亡くす時期から実感し始めます。
私めなどは小学生の頃合から、少し多めの祖父と少し多めの祖母の死を見てきました。
あの子はきっと、人間という動物の死を実感したかったのではないのか、と私は思っています。
実母が亡くなった経緯も、その状況も知らない私めなどの憶測などは何も役立たないでしょう。
ですが、人間という動物の死をどのような形であれ、どのような時期であれ、
自分自身で実感し、自分自身で消化しなければならない時期が必ず訪れる事を私は知っています。
だからあの子は、人間という動物の死を実感したかったのではないのか、と私は思っているんです。
ネットではあの子のことを、魔物であったりモンスターであったりと、
我々が棲むこの世界とは、隔世に存在するものの如き表現するものを散見します。
あの子が、魔物であったりモンスターであったりすれば、
我々は納得し、そして安心できるのでしょうか?
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この事件を知ることとなった私の気持ちの行き着く先は、
もうすでに知る由もなく叶わぬものなのかもしれないけれど、
彼女があなたに誘われ微かに抱いたであろう心に宿ったぬくもりをあなたが実感したとき、
泣き叫んで欲しい、
ただそれだけの願望なんです。
こういった事件は、全ての人間が加害者であり、全ての人間が被害者であると私は思っているんです。