いつまで韓国や中国との「友人ごっこ」に国民は付き合わなければならないのか?
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「日本」というスマートフォンがある。
この利用者からは長らく、コンテンツ不足によるクレームを受け続けていた。
スマートフォンの開発者はその打開に、「中国」および「韓国」というアプリの受け入れを決定する。
「中国」というアプリには、二種類ある。
それは、共産党の色濃いプログラムが入っているものと、
比較的それが薄められたプログラムが入っているものとである。
「韓国」というアプリには、一種類しか存在しない。
民主化を成功させたと自称するのであるから、
二つの政府もなければ、二つの外交も存在し得ないので、当然一種類しか存在しない。
アプリの取り込みは、その全体を受け入れるのであって、その中の物の取捨選択はできない。
「日本」というスマートフォンは、長らく「中国」および「韓国」というアプリを無造作にダウンロードしてきた。
そのツケは、いま「日本」というスマートフォンの不具合が実証し始めている。
先んじてダウンロードしていた「米国」という製品保証を担うはずであったアプリが、
「中国」および「韓国」というアプリを後からダウンロードしたが為にプログラムを改ざんされ、
「日本」というスマートフォンを守るどころか、その情報を「中国」および「韓国」というアプリに流し始めている。
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1992年にバブルが弾けて以降の日本は、デフレからの脱却をチャンスは幾度かあれど成しえず、
日銀の金融政策を含めた政府の経済政策には特効薬を見い出せないまま、
「失われた10年」が「失われた20年」へとその悲観に暮れる日々が長期に渡る結果となった。
その間、ものづくりに長ける日本の工場は、人件費の安さだけに誘われ次々に中国へとその拠点を移し、
1993年には、今日の自虐史観を具現化した河野談話による韓国の主張を受け入れ、
クリントン大統領時代の米国民主党は、アジア外交の際に日本を無視して中国に歩み寄った。
それら愚行のツケが、2012年の今日に次々と表面に現れ始めている。
日本によるODAが功を奏したが故の経済的豊かさの更地が出来た中国マネーの受け入れと同時に、
反日運動が盛んな韓国への経済援助の増幅、
異常なまでの韓国コンテンツの受け入れが物語る今現在の極東の奇怪なパワーバランスは、
日本人が「アジア人」として戦ったあの戦争さえ全否定した過去を如実に物語った皮肉な結果である。
日本人が「アジア人」として戦った誇り高い過去よりも、
戦うことさえしなかった者どもの財布の中身や一方的な歴史観の押し売りを重視した皮肉な結果である。
日本人の財布の中身を、その過程がどうであれ結果的に豊かにすることのみが、
日本人を幸せにできる唯一無二の方法であると、浅はかな思いつきを実行した皮肉な結果である。
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経済原理主義、
この思想のみが招いた結果が、今現在の極東の奇怪なパワーバランスである。
この点に否と答える者は、さっさと農地を耕すなり、
売掛金の回収方法を考えるなり、その身の丈にあった生活のみを送ることをお薦めする。
とにもかくにも、
「経済大国」なる称号を手にしたが故の結果が、この有様なのである。
行き着くところまで成長することができた日本というマーケットではあるが、
右肩上がりで天井知らずな成長などこの世界ではありえない。
しかし、90年代の政財界の者どもはそれを望んだ。
そして世紀を跨いでもそれを望むものがいる。
「経済大国」なる称号を手から離したくないとその一心のみの結果が、この有様なのである。
今現在の極東の奇怪なパワーバランスを、望むにしろ望まないにしろ招いて混乱至らしめている根源は、
我々日本人に、世代によりその濃淡はあれど、起因するところ大なのである。
度し難いとは思わないか?
その事実を度外視して、支那人がどうとか、朝鮮人がどうとか、
それらを表現していれば商売になる出自が不明な輩がこの日本国には存在する。
一番の敵は、我々日本人の中に寄生していることを決して忘れてはいけない。
この経済原理主義は、他の国から押し付けられて醸成したものではなく、
日本人が己で選び、己で呼び込んでしまった結果なのであることを。
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「中国」というアプリが、今後どのような立ち位置になるのかはわからない。
転び方によっては、常に人気アプリランキングに顔を出し、名前も変わっているかもしれない。
「韓国」というアプリは、現在のような立ち位置では絶対になくなっているだろう。
現状でもどのようにも転びようもないこのアプリは、先天的にウィルスがプログラムされているからだ。
「米国」というアプリには、そろそろ利用期限が迫っているように思われる。
これを更新するも更新しないも、その選択肢は我々日本人が握っていなければならない。
アプリは、能動的にダウンロードするコンテンツである。
しかし、能動的にダウンロードできるのであれば、能動的にアンインストールもできるはずだ。
10年後、20年後の中心世代に、
今日の中心世代である我々が90年代の中心世代を糾弾しているような愚行を繰り返し味わわさないためにも、
これからの1~2年間は、今後の日本の道程を指し示す大切な踏ん張りどころとなる。
財布の中身ではなく、日本人の「生き方」を残す為の最後の機会が、いますぐそこにやってきている。