ここ2日連続して東進スクール講師・林修氏の「受験必要論」から記事を書いていますが、今回も引用します。
とは言いつつ実は今回記事を書くテーマはこの本を読む前からずっと考えていたことです。
今回言いたいことを一言でまとめれば「学校の先生の言っていたことをちゃんと1つずつ疑っているか」です。
<当たり前のこと>なのですが、学校で先生の言ってきた事はちゃんと1回疑わなければなりません。
先生が言っていたこと1つ1つをチェックして○とか×とかをつけていく。
このチェックをする事はまともな大人になるために絶対に必要なことですが、意外とやってないままに大人になっている人が多いのではないでしょうか?
教育崩壊が叫ばれて久しい訳ですが、その崩壊を引き起こしている一因が教師(全員ではないでしょうが)である以上彼らの言っている事を総て引き受けて大人として生きていくのは変である訳です。
教育崩壊を引き起こしているのが教師であるかどうかに関わらず、大人になるとは教師の言ってきたことが本気であったのか、建前であったのか、役人として都合がよいから言ってきたのか(教師ではないとはいえ自分が役人になると「役人の都合で」というのが相当あったのが分かってしまいます(苦笑)を問わず、その言ってきたことを1つ1つチェックする作業が必要なのです。
全否定でもなく全肯定でもなく、クールに是々非々でチェックしていく姿勢。
昔の野党のように全否定する訳でもなく、かと言って教師の言う事を全肯定する訳でもなく是々非々でチェックする。
教師の言ってきたことを1つ1つ洗い出し、その項目にチェックしていく感じです。
自分でチェックリストを作り、チェックしていく。
学校で教師が言っていた事には大きく分けて2つあると思います。
1つは一般的な道徳に関すること。
もう1つは勉強に関すること。
林修氏は「受験必要論」で学校の先生のやっている事として「生活指導」と「学習指導」を挙げています。(p196)
私個人としては学校とは「学習指導」をメインにする場であって「生活指導」なんて(ほぼ)いらないと思っていますが、私のような偏屈な考え方はかなり少数派であり、現実は学校の教師は両方やっています。
私が「一般的な道徳に関すること」と言ったのは「生活指導」とも言えますし、「勉強に関すること」と言ったのは「学習指導」とも言えます。
この2つの大きな分野において具体的なことを教師と呼ばれる人たちがいろいろ言ってきた訳です。
教師の言ってきたことが正しかったのか大人になったら(大人になるために)自分の中でチェックしなければなりません。
以下に事例を4つ挙げていきます。
<例1>みんなと仲良くしないといけない/友達はたくさん作った方がよい(「ともだち100人できるかな?」の世界)
一般的に先生は「友達をたくさん作りましょう」とか「みんなと仲良くなりましょう」なんて言う。
今も言っているかどうかは知りませんが、私が子どもの頃~10代の頃は言っていました。
言わなくても「当たり前だ」という状況ですらあったのかもしれません。
しかし本当でしょうか?
林氏は「受験必要論」の中で次のように書いています。
友達は少ないですよ。
でも、そもそも必要ですか?
家族がいればいい。
僕は結婚もしているし、両親もいます。
あとは、仕事関係のつながりがしっかりしていれば、それで問題はないです。
僕は授業でも、友達は少ない方がいいと言い続けてきました。(p180)
一方で、充実した人生を送っている人は、こうした慣れ合いを嫌います。
たまに会って「おう、頑張っているか」「ああ」、これで終わり。
お互いに充実しているのがわかるから、余計な言葉はいらない。(p180)
そもそも30人か40人かのクラスに放り込まれて、その中に真に仲良くなれる人がいる方が奇跡だとは思いませんか?
そういう人に出会えれば幸運ですが、そうでなくても当たり前のことが起こっただけです。
そして、ひとりの時間を楽しめばいいんです。(p181)
あるいは、芥川賞作家の西村賢太さんも、テレビで「いらないものは小・中学校時代の友人」と言っていました。
しかも西村さんは中卒で、高校や大学には行っていない。
つまり、友達ゼロ。
素晴らしいじゃないですか。(p181~182)
ちょっと引用を多めにしておきました。
本当は1回若い方々(今、本当に小中高の学校に通っている方々)向けに「ともだち100人できるかな?」世界について書きたいのですが、このブログをそのような若い方々が見ているとも思えないので書いていません。
今回は、ちょっとだけその件について書いておきたいと思います。
小中高に通っている方々向けの前に例1の一般的な話を終わらせておきます。
友達が必要なのか?
友達が多い方がいいのか?
実はこの問いに対しての答えは「人による」と言うのが正解だと思います。
どうしても人と接するのが苦手だという人に向かい「友達をたくさん作りなさい」と言うのは酷です。
むしろこんな事で悩むくらいなら「友達はたくさん作った方がよい」のチェックに×をしてしまった方がいいです。
林氏は「受験必要論」の中で男に多い学生時代からの気の許せる仲間たちをやめたらいい関係と切り捨てています。(p180)
建設的な話をする仲間はほとんどなく「いつもの店で、いつもの仲間たちと、いつもの話」になるからと。
他方、人によっては友達が100人いる世界を作ってもいいと思います。
むしろ建設的なお互いを高め合うような友達関係やその豊富な友達関係を使って仕事をうまく回しているケースもあります。
私には絶対に無理な方法ですが、このようなことができる方に対して「友達をたくさん作るのはおかしい」と言うのはこれまたおかしい話です。
だからこの人にとってはこのチェックポイントは○になります。
私の場合は林氏を通り越して「職場」でもほとんど人脈が0です。
10年以上同じ組織にいるのにです。
社会人をしていればわかるのですが、これはかなり奇跡的なことです。
職種にもよるのでしょうが、それでも仕事(業務)は回っていきます。
病気になってから歓送迎会を含めて、出席は酒の席の出席は0。
病気になる前も出席するのは歓送迎会などの正式な職場の飲み会のみで他の付き合いは1つのグループ(数人)のものがたまにだけ。
他は0。
「情熱大陸」によれば林先生は職場の講師達とよく飲みに行くみたいなので、私の方が断然に「孤高」を貫いている事になります。
結婚もしてないですしね。
さてここからが今、小・中・高にかよっている方々に向けたお話です。
どれだけこんなブログを読んでくださっているかどうか怪しいですが。
小学校・中学校・高校で友達がいないであろうが、そんなことは人生において大したことはありません。
大した事ないというか何も関係がありません。
私自身のこと言えば小中高の同級生で今でも付き合いのある人は0人です。
本当に0人です。
しかしながら何も害はない。
同窓会にも出たことがない。
小学校は6年間、中学校・高校に至ってはわずか3年間です。
私は高校卒業後17年くらい人生を送っている訳です。
卒業してからの方がはるかに長い人生を歩んでいる訳です。
3年って長いように感じますが、大人になればそんなに長い期間ではありません。
ある課に配属されたら3年くらい同じされる事もあります。
長い社会人生の中でさっと過ぎ去ってしまう1つの配置に過ぎないくらいの期間です、役人にとっては。
こんな人間でも何も困ったことなく社会人として生きています。
少なくとも出先機関公務員として10年以上生きています。
学校で2人組を作る時に余ってしまうような学生さんでも大丈夫です。
あのね、仕事において2人で何かやる時、相手はそれなりに合わせてきますよ。
だって仕事なんだから。
仕事をちゃんと回さないと自分にマイナスが被って来ますから。
ご心配なく。
しつこく言っておきますが「学校での友達の多さ」なんぞ社会に出れば何も関係ありません。
友達の多さがクラス内でのヒエラルキー(階層/ランクの上下)になっているのかもしれませんが、そんなヒエラルキーは学校を卒業してしまえば何の足しにもなりません。
環境が変われば人の置かれた立場も評価も全く変わるのです。
少し長くなりましたのでここでやめて話を戻します。
例2へ進みます。
<例2>ノートは綺麗に取りましょう
「一般的な道徳編」(林先生の言うところの「生活指導」編は例1の1つだけにしておきました。
ちょっと例1だけで話が長くなってしまいましたので。
でも色々ありますよね。
「身なりはきちんとしましょう」とは「時間は守りましょう」とか「目上の人には敬意を持ちましょう」とか「授業はちゃんと聞きましょう」とか・・・こういうことに対して1つ1つ○とか×とかつけて行って下さい。
それではここからは「勉強に関すること」(林先生の言葉では「学習指導」)です。
中学校の時の理科の先生で異様にノートを綺麗に取ることを強要する先生がいました。
自分の中で成績を作る時の配転ルールを作っていて「中間・期末テスト」○割、ノートの綺麗度○割といった具合にです。
ノートを定期的にチェックして「綺麗に書いているのか」について点数をつけていきます。
確かハンコ(教師の名前のシャチハタ)をいくつ押すかで点数を表示していたと思います。
ハンコを押すのがいかにも役人らしい(私も○○主任としてハンコ押しまくっていますからね。よく内容も確認せず(笑)ですが。
科目は理科でしたから植物の絵を丁寧に書き、しかも色鉛筆で超丁寧に色を塗らないといけないそうです。
結論から言います。
クソです。
その教師曰く「ノートをすごく丁寧に書くことによって理科の成績が上がった生徒がいた」そうです。
しかしそれは「その生徒にとって良い勉強方法」であったのであって私にとっては全くよい勉強方法ではありません。
問題なのはこのノートをクソ綺麗に書くという勉強法を「成績」に反映させることによってなんとか生徒に強制させようとしていることです。
そもそもノートなんぞ綺麗に書く必要があるのでしょうか?
私がノートをとるのであれば完全に殴り書きです。
これは悪い方法ですかね?
今でもそうしています。
私は仕事をする上でかなりのメモ魔です。
周りには呆れられていますが。
正確に言えばルーズリーフを使っています。
そこにメモを書き込みまくり、コピーした資料を貼りまくりといった感じです。
ではメモをとるときに綺麗に書くか?
Noです。
そのルーズリーフは「私が見て分かればいい」のであって他の人が見てどうなのかは関係ありません。
受験勉強でも同じです。
もし私が書くことを勉強にするのなら何度も書きまくる方が断然効果があるでしょう。
1回書いたノートを使うのなら汚く書いたけど自分で分かるノートを持ち歩くか該当ページをコピーして持ち歩いていつでも見ることができるようにしておきます。
何回も見て覚えます。
1回綺麗なノートを書く手間暇をかけるのは無駄(特に時間の)であり、その分回数でこなす訳です。
これは私の「頭が悪い」からであり、回数をこなすことで覚えている訳です。
逆に頭がよければノートをとる必要すらないのかもしれません。
教科書を1回読めばわかる生徒にとってはノートをとること自体が無駄ですから。
特に「丁寧に書け」なんて修行以外の何も意味がない訳です、頭のよい人にとっては。
ここでもう一度東進ハイスクールの林先生のご登場いただきましょう。
「情熱大陸」の中で林先生が「灘文字」と呼ぶ事について述べています。
灘高校の生徒は字が汚い生徒が多い。
本当のトップはノートもよく分からないのが多いし、2番手グループになると綺麗に作るのだそうです。
さらに「受験必要論」から。
勉強とは、自分に合った勉強法を見つけ出していくことが一番の基礎にならなければならない。
その際に、批判的精神を持ちつつ、残念だが林の言うことを聞くしかないというような批判的受容をする。
そして、それを基にして自分の勉強法というものを作り上げていくことが一番大事だよ、と話します。(p17)
本当にトップグループのすごさは「横綱相撲が取れる」ことですね。
受験勉強の際に奇策を弄することもなく、かと言って「こういうやり方しかない!」といったこだわりもなくて、柔軟な対応ができる。
自分が採用している方法も、実に覚めて見ていて、相対的によいとしか思ってない。
だから、こちらの方法がよいなと思ったら、さっさと切り替えることができるんです。
そして、他人のやり方も否定しない。
そういうやり方もあるよねと言う感じです。(p132)
勉強の仕方なんて自分に合うやり方を自分自身で見つけていくしかありません。無から有を生み出すことはできませんので「こういうやり方もあるよ」という方法論の提示は必要です。
しかし自分が示した方法論を絶対化してはいけません。
灘高校トップクラスの汚いノートを書くレベルの子に無理やり丁寧なノートを作ることを強要することは害でしかないし、頭の悪い私に強要されても迷惑千万なのです。
私の受験歴は高校受験に始まり大学受験(浪人したので2回)、公務員試験、行政書士試験、社会保険労務士試験(落ちたので複数回)です。
クソ綺麗なノートをとる勉強法をし続けて何とかなったのは高校受験まででしょう。
大学受験は100浪しかねませんし、公務員試験は絶対に受かりません。
当時は就職氷河期でしたのでもしあの理科教師の言う事をまともに信じ続けていたら私は就職できずに失業者かワーキングプアだったかもしれません。
オーバーに感じるかもしれませんが、本当ですよ。
今、思い返せばちゃんと勉強しているのに成績がさっぱりという子供がいました。
皆さんの周りにも1人くらいはいたのではないでしょうか?
特に中学位のイメージですが。
勿論、学校の勉強という限定なので向き不向きというのはありますが、同級生なので話をしてみればその人が「あぁ、これは勉強に向かないタイプだな」とか分かる訳です。
しかしそういうわけでもないのに成績が悪い。
勉強はちゃんとしている。
もしかすると「やり方が悪かった」のではないかと。
<先生の言う通り>全教科ノートを綺麗に書きまくっているのがダメなんじゃないか。
こういう子には「ノートをそんなきれいに書いている暇があったら、英単語100書いて覚えてみれば」と言ってあげないといけなかったのではないか。
そんな気もします。
教師の言うことを素直に信じすぎて勉強するのもまずい場合があるように感じます。
この理科教師がまだノートを綺麗に書くことを強要していないか、教壇を降りている事を祈ります。
なんて言うと酷すぎるので次へ。
<例3>声に出して覚えましょう
先の理科教師の名誉を回復すべく(?)この例を。
実は先の理科教師が言っていたのがこれです。
この例については私の中で○としておきます。
この理科教師がやったのは「音楽にのせて覚える」というものでした。
「♪クロレラ、ミカヅキモ、クロレラ、ミカヅキモ、ぶんぶんぶんぶんれつれつれつ」という風に。(クロレラとミカヅキモは分裂して増える)
本当は他にもあり、今でも覚えているのはこれだけですが、逆に言えば34歳にもなって覚えているのだから効果はてきめんだった訳です。
音楽にするかどうかは別にして声に出して覚えるのはやり方としてアリだと思います。
五感を使って覚えるというのは世間でも流布しているやり方ですね。
英語で言えば「音読」を重視する勉強法も声に出して覚えるやり方に共通するかもしれません。
しかし英語における「音読」も万人がやらなければならない絶対的な方法ではないですが。
<例4>一つのテーマは見開き2ページでノートをとる。
これは別の社会教師の方法です。
その教師は毎回1テーマにつきプリントを配っていました。
そのプリントを左側に貼り、右側にノートをとるやり方です。
この方法は限りなく○に近いと思います。
まず私はノート(ルーズリーフでもいいのですが)の1ページ目は使いません。
2ページから書き始めて3ページ目も一緒に見ることができるようにします。
一見してみる事ができる範囲を広く取っておく訳です。
しかしながら絶対に1テーマ見開き2ページと几帳面に決めている訳でもありません。
そんなものはケースバイケースで絶対に見開き2ページで収まるとは限らないからです。
例は挙げればきりがないですので、この辺でやめておきます。
本当は例としては「一般的な道徳に関すること」をたくさん挙げておいた方がよかったのかもしれません。
「一般的な道徳に関すること」の方が多いですからね。
大事なことは最初にも書いた通り「学校の先生の言っていたことを1回ちゃんと1つ1つ疑う事」です。
疑った結果の○や×が各個人で違ってよいのです。
またある項目が以前は×だったけど後に○になってもよいのです。
状況が変わる事もあるでしょうし、考え方が変わることもあるでしょう。
その辺の柔軟性は「君子、豹変す」(この言葉、本来良い意味ですよ)の精神で行きましょう。
昔「3年B組金八先生」というドラマにて「生徒が卒業したあと、先生が言っていたことの意味がわかった時に授業終了のチャイムが鳴る」みたいなことを言っていた気がします。
しかしこのセリフは「先生の言っている事が万人にとってすべての事項で正しい」というあり得ない前提に基づいています。
金八先生の言う通りの事になる事もありでしょう。
チェックに○がついた場合です。
他方チェックに×がつけば「生徒が卒業したあと、先生が言っていたことが<間違っていると>がわかった時に授業終了のチャイムが鳴る」事もあるはずです。
両方言わなければウソです。
最後に。
私は「元不良(ヤンキー)が立ち直って大人になった」ことを過度に美談にする傾向が嫌いです。
立ち直らないより立ち直った方がよいに決まっていますが、ずっとマジメでいた人の方が立派に決まっています。
その時にカツアゲにあった人はあとでその人が更生しようがしまいが知ったことではありませんから。
そしてもっと嫌いなのはそういう元不良に限って先生と仲良くなったりしてそれがまた美談になっている所です。
しかし私から見ればその元不良は何も変わっていないように見えます。
やっている事は「全否定」から「全肯定」です。
不良時代は先生のことを全部否定していたが今度は仲良くなって全肯定しているだけです。
極端から極端に変わるというのは一見ものすごく変わったように見えますが、本当は何も変わっていない。
成長してないのです。
厳しいようですが1つのモノの見方として書いておきます。
この見方に同調してくれとは言いませんが。
とは言いつつ実は今回記事を書くテーマはこの本を読む前からずっと考えていたことです。
受験必要論 |
今回言いたいことを一言でまとめれば「学校の先生の言っていたことをちゃんと1つずつ疑っているか」です。
<当たり前のこと>なのですが、学校で先生の言ってきた事はちゃんと1回疑わなければなりません。
先生が言っていたこと1つ1つをチェックして○とか×とかをつけていく。
このチェックをする事はまともな大人になるために絶対に必要なことですが、意外とやってないままに大人になっている人が多いのではないでしょうか?
教育崩壊が叫ばれて久しい訳ですが、その崩壊を引き起こしている一因が教師(全員ではないでしょうが)である以上彼らの言っている事を総て引き受けて大人として生きていくのは変である訳です。
教育崩壊を引き起こしているのが教師であるかどうかに関わらず、大人になるとは教師の言ってきたことが本気であったのか、建前であったのか、役人として都合がよいから言ってきたのか(教師ではないとはいえ自分が役人になると「役人の都合で」というのが相当あったのが分かってしまいます(苦笑)を問わず、その言ってきたことを1つ1つチェックする作業が必要なのです。
全否定でもなく全肯定でもなく、クールに是々非々でチェックしていく姿勢。
昔の野党のように全否定する訳でもなく、かと言って教師の言う事を全肯定する訳でもなく是々非々でチェックする。
教師の言ってきたことを1つ1つ洗い出し、その項目にチェックしていく感じです。
自分でチェックリストを作り、チェックしていく。
学校で教師が言っていた事には大きく分けて2つあると思います。
1つは一般的な道徳に関すること。
もう1つは勉強に関すること。
林修氏は「受験必要論」で学校の先生のやっている事として「生活指導」と「学習指導」を挙げています。(p196)
私個人としては学校とは「学習指導」をメインにする場であって「生活指導」なんて(ほぼ)いらないと思っていますが、私のような偏屈な考え方はかなり少数派であり、現実は学校の教師は両方やっています。
私が「一般的な道徳に関すること」と言ったのは「生活指導」とも言えますし、「勉強に関すること」と言ったのは「学習指導」とも言えます。
この2つの大きな分野において具体的なことを教師と呼ばれる人たちがいろいろ言ってきた訳です。
教師の言ってきたことが正しかったのか大人になったら(大人になるために)自分の中でチェックしなければなりません。
以下に事例を4つ挙げていきます。
<例1>みんなと仲良くしないといけない/友達はたくさん作った方がよい(「ともだち100人できるかな?」の世界)
一般的に先生は「友達をたくさん作りましょう」とか「みんなと仲良くなりましょう」なんて言う。
今も言っているかどうかは知りませんが、私が子どもの頃~10代の頃は言っていました。
言わなくても「当たり前だ」という状況ですらあったのかもしれません。
しかし本当でしょうか?
林氏は「受験必要論」の中で次のように書いています。
友達は少ないですよ。
でも、そもそも必要ですか?
家族がいればいい。
僕は結婚もしているし、両親もいます。
あとは、仕事関係のつながりがしっかりしていれば、それで問題はないです。
僕は授業でも、友達は少ない方がいいと言い続けてきました。(p180)
一方で、充実した人生を送っている人は、こうした慣れ合いを嫌います。
たまに会って「おう、頑張っているか」「ああ」、これで終わり。
お互いに充実しているのがわかるから、余計な言葉はいらない。(p180)
そもそも30人か40人かのクラスに放り込まれて、その中に真に仲良くなれる人がいる方が奇跡だとは思いませんか?
そういう人に出会えれば幸運ですが、そうでなくても当たり前のことが起こっただけです。
そして、ひとりの時間を楽しめばいいんです。(p181)
あるいは、芥川賞作家の西村賢太さんも、テレビで「いらないものは小・中学校時代の友人」と言っていました。
しかも西村さんは中卒で、高校や大学には行っていない。
つまり、友達ゼロ。
素晴らしいじゃないですか。(p181~182)
ちょっと引用を多めにしておきました。
本当は1回若い方々(今、本当に小中高の学校に通っている方々)向けに「ともだち100人できるかな?」世界について書きたいのですが、このブログをそのような若い方々が見ているとも思えないので書いていません。
今回は、ちょっとだけその件について書いておきたいと思います。
小中高に通っている方々向けの前に例1の一般的な話を終わらせておきます。
友達が必要なのか?
友達が多い方がいいのか?
実はこの問いに対しての答えは「人による」と言うのが正解だと思います。
どうしても人と接するのが苦手だという人に向かい「友達をたくさん作りなさい」と言うのは酷です。
むしろこんな事で悩むくらいなら「友達はたくさん作った方がよい」のチェックに×をしてしまった方がいいです。
林氏は「受験必要論」の中で男に多い学生時代からの気の許せる仲間たちをやめたらいい関係と切り捨てています。(p180)
建設的な話をする仲間はほとんどなく「いつもの店で、いつもの仲間たちと、いつもの話」になるからと。
他方、人によっては友達が100人いる世界を作ってもいいと思います。
むしろ建設的なお互いを高め合うような友達関係やその豊富な友達関係を使って仕事をうまく回しているケースもあります。
私には絶対に無理な方法ですが、このようなことができる方に対して「友達をたくさん作るのはおかしい」と言うのはこれまたおかしい話です。
だからこの人にとってはこのチェックポイントは○になります。
私の場合は林氏を通り越して「職場」でもほとんど人脈が0です。
10年以上同じ組織にいるのにです。
社会人をしていればわかるのですが、これはかなり奇跡的なことです。
職種にもよるのでしょうが、それでも仕事(業務)は回っていきます。
病気になってから歓送迎会を含めて、出席は酒の席の出席は0。
病気になる前も出席するのは歓送迎会などの正式な職場の飲み会のみで他の付き合いは1つのグループ(数人)のものがたまにだけ。
他は0。
「情熱大陸」によれば林先生は職場の講師達とよく飲みに行くみたいなので、私の方が断然に「孤高」を貫いている事になります。
結婚もしてないですしね。
さてここからが今、小・中・高にかよっている方々に向けたお話です。
どれだけこんなブログを読んでくださっているかどうか怪しいですが。
小学校・中学校・高校で友達がいないであろうが、そんなことは人生において大したことはありません。
大した事ないというか何も関係がありません。
私自身のこと言えば小中高の同級生で今でも付き合いのある人は0人です。
本当に0人です。
しかしながら何も害はない。
同窓会にも出たことがない。
小学校は6年間、中学校・高校に至ってはわずか3年間です。
私は高校卒業後17年くらい人生を送っている訳です。
卒業してからの方がはるかに長い人生を歩んでいる訳です。
3年って長いように感じますが、大人になればそんなに長い期間ではありません。
ある課に配属されたら3年くらい同じされる事もあります。
長い社会人生の中でさっと過ぎ去ってしまう1つの配置に過ぎないくらいの期間です、役人にとっては。
こんな人間でも何も困ったことなく社会人として生きています。
少なくとも出先機関公務員として10年以上生きています。
学校で2人組を作る時に余ってしまうような学生さんでも大丈夫です。
あのね、仕事において2人で何かやる時、相手はそれなりに合わせてきますよ。
だって仕事なんだから。
仕事をちゃんと回さないと自分にマイナスが被って来ますから。
ご心配なく。
しつこく言っておきますが「学校での友達の多さ」なんぞ社会に出れば何も関係ありません。
友達の多さがクラス内でのヒエラルキー(階層/ランクの上下)になっているのかもしれませんが、そんなヒエラルキーは学校を卒業してしまえば何の足しにもなりません。
環境が変われば人の置かれた立場も評価も全く変わるのです。
少し長くなりましたのでここでやめて話を戻します。
例2へ進みます。
<例2>ノートは綺麗に取りましょう
「一般的な道徳編」(林先生の言うところの「生活指導」編は例1の1つだけにしておきました。
ちょっと例1だけで話が長くなってしまいましたので。
でも色々ありますよね。
「身なりはきちんとしましょう」とは「時間は守りましょう」とか「目上の人には敬意を持ちましょう」とか「授業はちゃんと聞きましょう」とか・・・こういうことに対して1つ1つ○とか×とかつけて行って下さい。
それではここからは「勉強に関すること」(林先生の言葉では「学習指導」)です。
中学校の時の理科の先生で異様にノートを綺麗に取ることを強要する先生がいました。
自分の中で成績を作る時の配転ルールを作っていて「中間・期末テスト」○割、ノートの綺麗度○割といった具合にです。
ノートを定期的にチェックして「綺麗に書いているのか」について点数をつけていきます。
確かハンコ(教師の名前のシャチハタ)をいくつ押すかで点数を表示していたと思います。
ハンコを押すのがいかにも役人らしい(私も○○主任としてハンコ押しまくっていますからね。よく内容も確認せず(笑)ですが。
科目は理科でしたから植物の絵を丁寧に書き、しかも色鉛筆で超丁寧に色を塗らないといけないそうです。
結論から言います。
クソです。
その教師曰く「ノートをすごく丁寧に書くことによって理科の成績が上がった生徒がいた」そうです。
しかしそれは「その生徒にとって良い勉強方法」であったのであって私にとっては全くよい勉強方法ではありません。
問題なのはこのノートをクソ綺麗に書くという勉強法を「成績」に反映させることによってなんとか生徒に強制させようとしていることです。
そもそもノートなんぞ綺麗に書く必要があるのでしょうか?
私がノートをとるのであれば完全に殴り書きです。
これは悪い方法ですかね?
今でもそうしています。
私は仕事をする上でかなりのメモ魔です。
周りには呆れられていますが。
正確に言えばルーズリーフを使っています。
そこにメモを書き込みまくり、コピーした資料を貼りまくりといった感じです。
ではメモをとるときに綺麗に書くか?
Noです。
そのルーズリーフは「私が見て分かればいい」のであって他の人が見てどうなのかは関係ありません。
受験勉強でも同じです。
もし私が書くことを勉強にするのなら何度も書きまくる方が断然効果があるでしょう。
1回書いたノートを使うのなら汚く書いたけど自分で分かるノートを持ち歩くか該当ページをコピーして持ち歩いていつでも見ることができるようにしておきます。
何回も見て覚えます。
1回綺麗なノートを書く手間暇をかけるのは無駄(特に時間の)であり、その分回数でこなす訳です。
これは私の「頭が悪い」からであり、回数をこなすことで覚えている訳です。
逆に頭がよければノートをとる必要すらないのかもしれません。
教科書を1回読めばわかる生徒にとってはノートをとること自体が無駄ですから。
特に「丁寧に書け」なんて修行以外の何も意味がない訳です、頭のよい人にとっては。
ここでもう一度東進ハイスクールの林先生のご登場いただきましょう。
「情熱大陸」の中で林先生が「灘文字」と呼ぶ事について述べています。
灘高校の生徒は字が汚い生徒が多い。
本当のトップはノートもよく分からないのが多いし、2番手グループになると綺麗に作るのだそうです。
さらに「受験必要論」から。
勉強とは、自分に合った勉強法を見つけ出していくことが一番の基礎にならなければならない。
その際に、批判的精神を持ちつつ、残念だが林の言うことを聞くしかないというような批判的受容をする。
そして、それを基にして自分の勉強法というものを作り上げていくことが一番大事だよ、と話します。(p17)
本当にトップグループのすごさは「横綱相撲が取れる」ことですね。
受験勉強の際に奇策を弄することもなく、かと言って「こういうやり方しかない!」といったこだわりもなくて、柔軟な対応ができる。
自分が採用している方法も、実に覚めて見ていて、相対的によいとしか思ってない。
だから、こちらの方法がよいなと思ったら、さっさと切り替えることができるんです。
そして、他人のやり方も否定しない。
そういうやり方もあるよねと言う感じです。(p132)
勉強の仕方なんて自分に合うやり方を自分自身で見つけていくしかありません。無から有を生み出すことはできませんので「こういうやり方もあるよ」という方法論の提示は必要です。
しかし自分が示した方法論を絶対化してはいけません。
灘高校トップクラスの汚いノートを書くレベルの子に無理やり丁寧なノートを作ることを強要することは害でしかないし、頭の悪い私に強要されても迷惑千万なのです。
私の受験歴は高校受験に始まり大学受験(浪人したので2回)、公務員試験、行政書士試験、社会保険労務士試験(落ちたので複数回)です。
クソ綺麗なノートをとる勉強法をし続けて何とかなったのは高校受験まででしょう。
大学受験は100浪しかねませんし、公務員試験は絶対に受かりません。
当時は就職氷河期でしたのでもしあの理科教師の言う事をまともに信じ続けていたら私は就職できずに失業者かワーキングプアだったかもしれません。
オーバーに感じるかもしれませんが、本当ですよ。
今、思い返せばちゃんと勉強しているのに成績がさっぱりという子供がいました。
皆さんの周りにも1人くらいはいたのではないでしょうか?
特に中学位のイメージですが。
勿論、学校の勉強という限定なので向き不向きというのはありますが、同級生なので話をしてみればその人が「あぁ、これは勉強に向かないタイプだな」とか分かる訳です。
しかしそういうわけでもないのに成績が悪い。
勉強はちゃんとしている。
もしかすると「やり方が悪かった」のではないかと。
<先生の言う通り>全教科ノートを綺麗に書きまくっているのがダメなんじゃないか。
こういう子には「ノートをそんなきれいに書いている暇があったら、英単語100書いて覚えてみれば」と言ってあげないといけなかったのではないか。
そんな気もします。
教師の言うことを素直に信じすぎて勉強するのもまずい場合があるように感じます。
この理科教師がまだノートを綺麗に書くことを強要していないか、教壇を降りている事を祈ります。
なんて言うと酷すぎるので次へ。
<例3>声に出して覚えましょう
先の理科教師の名誉を回復すべく(?)この例を。
実は先の理科教師が言っていたのがこれです。
この例については私の中で○としておきます。
この理科教師がやったのは「音楽にのせて覚える」というものでした。
「♪クロレラ、ミカヅキモ、クロレラ、ミカヅキモ、ぶんぶんぶんぶんれつれつれつ」という風に。(クロレラとミカヅキモは分裂して増える)
本当は他にもあり、今でも覚えているのはこれだけですが、逆に言えば34歳にもなって覚えているのだから効果はてきめんだった訳です。
音楽にするかどうかは別にして声に出して覚えるのはやり方としてアリだと思います。
五感を使って覚えるというのは世間でも流布しているやり方ですね。
英語で言えば「音読」を重視する勉強法も声に出して覚えるやり方に共通するかもしれません。
しかし英語における「音読」も万人がやらなければならない絶対的な方法ではないですが。
<例4>一つのテーマは見開き2ページでノートをとる。
これは別の社会教師の方法です。
その教師は毎回1テーマにつきプリントを配っていました。
そのプリントを左側に貼り、右側にノートをとるやり方です。
この方法は限りなく○に近いと思います。
まず私はノート(ルーズリーフでもいいのですが)の1ページ目は使いません。
2ページから書き始めて3ページ目も一緒に見ることができるようにします。
一見してみる事ができる範囲を広く取っておく訳です。
しかしながら絶対に1テーマ見開き2ページと几帳面に決めている訳でもありません。
そんなものはケースバイケースで絶対に見開き2ページで収まるとは限らないからです。
例は挙げればきりがないですので、この辺でやめておきます。
本当は例としては「一般的な道徳に関すること」をたくさん挙げておいた方がよかったのかもしれません。
「一般的な道徳に関すること」の方が多いですからね。
大事なことは最初にも書いた通り「学校の先生の言っていたことを1回ちゃんと1つ1つ疑う事」です。
疑った結果の○や×が各個人で違ってよいのです。
またある項目が以前は×だったけど後に○になってもよいのです。
状況が変わる事もあるでしょうし、考え方が変わることもあるでしょう。
その辺の柔軟性は「君子、豹変す」(この言葉、本来良い意味ですよ)の精神で行きましょう。
昔「3年B組金八先生」というドラマにて「生徒が卒業したあと、先生が言っていたことの意味がわかった時に授業終了のチャイムが鳴る」みたいなことを言っていた気がします。
しかしこのセリフは「先生の言っている事が万人にとってすべての事項で正しい」というあり得ない前提に基づいています。
金八先生の言う通りの事になる事もありでしょう。
チェックに○がついた場合です。
他方チェックに×がつけば「生徒が卒業したあと、先生が言っていたことが<間違っていると>がわかった時に授業終了のチャイムが鳴る」事もあるはずです。
両方言わなければウソです。
最後に。
私は「元不良(ヤンキー)が立ち直って大人になった」ことを過度に美談にする傾向が嫌いです。
立ち直らないより立ち直った方がよいに決まっていますが、ずっとマジメでいた人の方が立派に決まっています。
その時にカツアゲにあった人はあとでその人が更生しようがしまいが知ったことではありませんから。
そしてもっと嫌いなのはそういう元不良に限って先生と仲良くなったりしてそれがまた美談になっている所です。
しかし私から見ればその元不良は何も変わっていないように見えます。
やっている事は「全否定」から「全肯定」です。
不良時代は先生のことを全部否定していたが今度は仲良くなって全肯定しているだけです。
極端から極端に変わるというのは一見ものすごく変わったように見えますが、本当は何も変わっていない。
成長してないのです。
厳しいようですが1つのモノの見方として書いておきます。
この見方に同調してくれとは言いませんが。
受験必要論 |