存在の謎2

SF好きの君なら、お馴染みの世界かもしれないね。パラレルワールドや時間旅行、多重人格など、奇想天外な考えがそこでは展開されているけれども、君はあれらが単なる創作、「頭の中の」考えだと思うかい。そんなことはないよね。だって事実、君はあれらの考えを、夢中になって読んでいるんだからね。「考え」というのは、それ自体がひとつの現実、一つの宇宙なんだということも、この本の中で繰り返してきたことだ。人が、多くの人がそれを現実だと思い込んでいる現実を超えた新たな現実を、考えによって提示するということは、本当にすごいことなんだ。もしもその人が本物なら、それは謎に挑む人類史の、偉大な一歩になるはずものなんだ。
まだまだ数は少ないけれども、人類はこれから、この謎、「ある」ということの謎に、少しずづ目覚めてゆくことになるはずだ。今世紀は、人類が、存在の謎に目覚める世紀だ。考えることを選んだ君は、だから、存在の謎の探求者、その先駆者になるというわけだ。これは大変なことだけれども、今や君は、これはせざるを得ないことだともわかるだろう。人類のためじゃない。自分のためだ。なぜだか存在している自分のために、考えざるを得ないんだ。そうやって、考えざるを得なくて考えゆくうちに、自分とは人類のことだったと必ず気がつくわけだから、人類のために考えると言っても、まあ同じことではあるけどね。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


「考え」というのは、それ自体がひとつの現実、一つの宇宙なんだ


「考え」はどこからやってくるのだろう。

また、「考え」はどこにあるのだろう。

そのようなことを考えたりするのとのある人はいますか?

何が考えているのだろうか。

「何が」ではなく、「誰が」と言った方が、通じやすいとは思うけれど。

なぜだか存在している自分のために、考えざるを得ないんだ

自分のため、という意識はあまり持たないけれど、なぜだか考えざるを得ないというのは、不思議だ。

人類のために考える…

自分とは人類のことだった…

なにもそんなこと考えなくたっていいのに、考えてしまうのは、そういうことなのか。

~つづく~
  存在の謎2

「冒険者」とは、今や、必ずしもこの人生の冒険者という意味ではないと、考える君にはわかるだろう。どんな生活、どんな職業、どこかの外国とか、今やそういう意味ではない。なぜなら、この人生でいかに生きるか死ぬかの冒険をするにせよ、それはやっぱり生きるか死ぬかにすぎないからだ。でも、生きるも死ぬもじつはない、生きるも死ぬも言葉にすぎないとわかった君は、生きるの死ぬのを超えた冒険に乗り出すことになるんだ。これは、まったく途方もない冒険なんだ。たとえ君が宇宙飛行士になるにせよ、この冒険の途方もなさにはとても及ばない。なぜならそれは、人がそれを宇宙だと思い込んでいるこの三次元宇宙なんかはるかに超えた宇宙に、考えだけで乗り出して行くことだからだ。君は、内的宇宙の冒険者になるんだ。
ホーキング博士なんかがやっていることが、それだ。車椅子にじっと座ったままのあの人は、いながらにして宇宙旅行をしているんだ。彼は科学者として数式を道具に用いるけれど、でも、彼が計算ではじき出した十一次元の宇宙というのは、では、いったいどこに「ある」のだろう。人間の脳は、三次元の物体のはずだね。では、十一次元という考えは、どこに「ある」のだろう。それを考えているのは、「誰」だろう。「私」? だって、「私」というのは、科学によるなら、その脳のことじゃなかったろうか。「私」は、いったい「どこ」にいるのだろう。いや、「私」なんて、そもそも「ある」のだろうか。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


生きるも死ぬもじつはない、生きるも死ぬも言葉にすぎないとわかった君は、生きるの死ぬのを超えた冒険に乗り出すことになる

生きるも死ぬも言葉にすぎないとは!

え?

目に見える物質としての体と、目に見えない霊としての魂。

「私」なんて、そもそもあるのか…

「私」とは、自分を指すための指示代名詞であって、指示代名詞は指示代名詞にすぎない。

なので、私なんて、ない。

「自分とは誰か」という章をまた読み返してみよう。

考えだけで、三次元を超えた宇宙に乗り出すことができるなんて…

考えているのは、果たして誰なのか。

「考え」そのものが、「考えが考えを呼んで」いき、それが行われているのが「自分という場」であるかのようだ。

「自分という場」は、生きていても死んでいてもあるのだろうか。

何を自分と呼んでいるのだろう。

やっぱり自分という謎は、いつでも顔を出す。

~つづく~
  存在の謎2

生きているということは、それ自体が謎なんだということを知って生きるのと、知らずに生きるのとでは、人の人生はまったく違ったものになるんだ。謎に気がついた君は、どうして「ある」はあるで、「ない」はないなのだろう、なんて言って、気がつかない人たちに笑われるかもしれない。そんなの当たり前じゃないかってね。でも、笑っている彼らだって、「生(ある)と死(ない)」という謎を生きて死ぬということではやっぱり同じなんだから、それなら、謎は謎だと知って、そして生きて死んだほうが、人の倍は人生トクするようなものさ。同じ生きて死ぬのでも、その味わいやら深みやらが、それはもう本当に違うんだ。だから、この本でこれまで考えてきたようなことは、君がこの謎の人生をより深く味わうための、言わば補助線のようなものと言ってもいい。
謎は、漠然と感じているだけでも十分だ。なんとなく変な感じがする、ひょっとしたらそれはそうじゃないのじゃないか、そんなふうに感じ続けているだけでも、君の人生は十分な幅とふくらみを持つだろう。でも、もしも君が、考えること、わからないとわかるからこそ考えるのだと、考える人生をあえて選ぶのなら、君は、冒険者だ。永遠の謎に挑む冒険者になるんだ。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


どうやら、自分は永遠の謎に挑む冒険者になってしまったようだ。

「考える人生をあえて選ぶ」というよりは、選ばずとも「考える人生」を生きるしかないような、そんな流れのなかにいる。

生きているということは、それ自体が謎なんだということ

ほんとうに、生きているということは、それ自体が謎なのですよ。

これ以上の謎はない!と常々おもいます。

世の人びとは、そんなことはあまり感じないのでしょうか。

人間とは?

生きているとは?

この世とは?

生まれて生きて死んでゆく人生とは?

あらゆることがわからずに、不思議で、答えはないけど考えてしまう。

それも、自分というものが存在しているから。

やっぱりそれって謎だし、不思議じゃないですか?

~つづく~
存在の謎2

この本の始まりは、生きているということはつまらないと思うか、素晴らしいと思うかという、最も身近で切実な問いを問うことからだった。その問いを、どんなふうに考えてゆけばいいのか、それを考えることから始まったのだった。さあ、何が何だかよくわからないなりにも、とにかくここまで読んできた君は、この一番最初の問いに、今はどう答えるだろうか。
生きているということ、自分がいるということの謎は、そのまま、宇宙があるということの謎だ。謎は、それが、「ある」ということだ。「ない」のではなくて、「ある」ということだ。最も当たり前なことこそが、最も驚くべき謎なんだ。そのことに気がついた君は、まったく当たり前に思っていた日常、君が生きている毎日の光景が、少し違って見えるようになってきているのじゃないだろうか。
親に叱られたり友だちにいじめられたりのつまらない日常があるのも、どういうわけだかこの宇宙があるからで、惑星や銀河が「ある」のと同じように「ある」からで、だとしたら、うるさい親も意地悪な友だちも、その「ある」ことは、やっぱり謎だ。謎の宇宙に生き死ぬ彼らなんだ。そう思って彼らのことを見てみると、なんだか愛しいような感じがしてこないか。そのことが本当はどういうことなのかわからないままに、子供を叱ったり友だちをいじめたり、とにかく一生懸命やっているのだもの。その意味では、そこにウソはないのだもの。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


まったく当たり前に思っていた日常、君が生きている毎日の光景が、少し違って見えるようになってきているのじゃないだろうか。

毎日何となく過ごしていた日常ではあるけれど、それも当たり前のことではなかった。

日々の諸々のことで、当たり前のことなんてないことに気づく。

なぜだかわからないけど、今ここに在ること、これ以上の不思議はない。

生きているということ、自分がいるということの謎は、そのまま、宇宙があるということの謎だ。

「ある」ということの謎。

「あって」しまったのだから、「なかった」ことにはできない。

「ある」って何なのだろう…
と、いつも同じところで立ち尽くし、考えての繰り返し。

その繰り返しも、決して同じなんてことはないのだと思う。

~つづく~
存在の謎1

なるほど、この本には、答えは書いてなくても、問いの考え方は書いてあるかもしれない。でも、考え方を読んだところで、それを使って実際に考えるのは、やはり君でしかない。泳ぎ方の知識を本で読んでわかったって、実際に水の中で泳げるのでなければ、泳ぎを覚えたことにはならないのと同じことだ。それが頭だけの知識だったということは、溺れてしまうということで明らかだ。さあ、君はこの本で考え方を覚えて、実際にこの人生を溺れずに渡ってゆくことができるだろうか。深い水の中、生きるか死ぬかの場面で、力強く泳いでゆくことができるだろうか。
                                                            
引用:池田晶子「14歳からの哲学」


君はこの本で考え方を覚えて、実際にこの人生を溺れずに渡ってゆくことができるだろうか

14歳のときに、こう問われたら、うーん、どうかなぁ。
わからないなぁという感じだったろうか。

そもそも、考え方というのを教わったことがないような気がする。

問題の解き方は教わってきたが。

考え方を知っていようがいまいが、問題に直面したときは、実際に「考えて」ゆくしかないのだ。

でも、その「考え方」がわからず、悩んでしまうことだろう。

問題に直面したとき、頭だけの知識では何の役にも立ちはしないようだ。

実際に、自分自身の頭、というより全身を使って考えるしかないのである。

人は、体当たりで学んでゆくしかないようだ。

~つづく~