自由
逆に、法律によって保障されている言論の自由や表現の自由について考えてみよう。
自分が言いたいことを言い、書きたいことを書くのが言論や表現の自由であるとする。人が何かを言ったり書いたりするのは、誰か他人に向けて言ったり書いたりすることだ。人がそれを他人に向けて言うのは、それを言うのが自分にとってよいことだと思われるからだ。自分にはそう思われるのだけれども、でも本当は、それを言うことは悪いことかもしれない。たとえば、正しくない考えや、聞き苦しい悪口なんかを聞かされた人は、その人のことを、無思慮で下品な人だと悪く思うかもしれない。だとしたら、自分が言いたいことを言うことは、自分にとって必ずしもよいことではないわけで、よいことではない言論が、どうして自由であるはずがあるだろう。
自分にも他人にもよいことを言うから、言論は自由なんだ。自分にも他人にもよいことというのは、誰にも正しい言葉のことだ。誰にも正しい言葉なのだから、それを言うのは私の自由だと主張する必要がない。つまり、人には、正しい言葉を言う自由だけがあって、正しくない言葉を言う自由はないということだ。だからこそ、人は正しくない言葉を言う時には、これは言論の自由だ、私の自由だと、他人に対して主張することになるんだ。面白いよね。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
自分にも他人にもよいことというのは、誰にも正しい言葉のことだ
自分にも他人にもよいこととは?
よい、というのは絶対によいなのだった。
だから、誰にも正しい言葉だと言えるのか。
正しい言葉というのはあるんだ。
人には、正しい言葉を言う自由だけがあって、正しくない言葉を言う自由はない
正しくない言葉を言う自由はない、そんなふうに考えたことはなかった。
人は正しいか正しくないかなんて考えることなく、言葉を発している。
自分の立場やその場の状況に応じて人は、感じたこと、思ったことを言葉にしている。
言いたくても、腹におさめたままでいることもある。
それは、どこかで正しくない言葉だと知っているからだろうか。
主張するという行為も、よく考えてみると面白いものだ。
正しくない言葉を言う時に主張するというのは、なるほど、納得するところではある。
人の発する言葉を注意深くながめてみると、言葉はその人自身であることに改めて気づくのではないだろうか。
~つづく~