歴史と人類
でも、この自然観自体が間違えていたわけではない。自然の不思議さを知るために、それを物質として考えるという方法は、確かに実際に有効だ。さまざまな科学的な発明もここから生まれた。けれども、その方法があまりに有効だったために、その方法を自然現象のすべてに同じように適用できる、自然はすべてが物質であると思い込んでしまったんだ。人類の間違いとは、正確にはこのことなんだ。
すべてを自分の「外に」ある物質と見ることで、人は、自分の「内に」ある精神のことを忘れる。あるいは、「内の」精神も、「外の」物質と同じものだと見るようになる。つまり、精神とは物質である、精神とは脳であるという、現代人の九分九厘がそう思い込んでいる錯覚のもとも、ここにある。
精神は物質ではない。物質は見えて触れるものだけれども、精神は見えも触れもしないものだからだ。けれども、精神とは物質であると思い込んでしまった精神は、自分が見えない精神であることを忘れて、見えて触れる物質だけが存在するもの、生きるためには大事なものだと深く思い込んでしまったんだ。でも、そもそも、その「生きる」とはどういうことなのか、「何のために」生きるのかを考えるのが、まさにその精神ではなかっただろうか。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
自然はすべてが物質であると思い込んでしまったんだ。
人類の間違った思い込みを、少しずつ解いていかなければならないときにきているのではないか。
私はどうしても、精神が脳であるとは思えない。
ほんとうに九分九厘の人が、精神とは脳であると思ってるのだろうか?
信じがたいことだ。
逆に、どうしてそう思えるのかを聞いてみたい。
自然を物質と考える方法が有効だったために、全てに適用できると思い込んでしまった…
思い込んでしまったものをそれ以前の状態に戻すのは、ほんとうに大変だ。
これはもしかしたら、間違っているのではないか?という考えを常にどこかに持っていたい。
常識とか当たり前とか言われているものの、それは、その根拠は何なんだろうか、ということを根源にまで遡って考えてみる。
それは、現代こそ必要なものではないだろうか。
~つづく~