歴史と人類

自分が精神であることを忘れた精神、物質主義的世界観に行き着く果てが、現代のこの光景だ。穴ぐらで石器を作っていた時代から、科学の萌芽、近代以降のその爆発的加速を経て、ついにここまで進んできたというわけだ。でも、おそらく石器時代の人々は、自然とともに生きるということが、生きるということの意味だったから、間違えてはいなかった。ギリシャの科学者たちだって、自然の不思議、謎への畏怖を忘れてはいなかった。だからこそ偉大だったんだ。

けれども、宇宙は物質である、科学は万能であると思い込んで、精神のことなど忘れ果てた二千年後の現代人たちのしでかすことの数々を、そう思って冷静に見てごらん。

何のために生きるのかを考えず、とにかく生きればいいのだと思っているから、とにかく生き延びるための生命技術は、大変な発達の仕方をしているね。臓器移植やクローン人間、もっと異様な技術も、これからどんどん出てくるだろう。生きたいという人の願いは自然なものだと、それらの技術を推進する人々は言うけれど、「何のために」生きたいと願うのかは、必ずしも考えられてはいないんだ。もしもそれが、精神を貧しくする快楽や欲得のために生きたいのだったら、そのような人生に何の意味があるだろう。なぜなら、精神が豊かであるということだけが、人生が豊かであるということの意味だからだ。


引用:池田晶子「14歳からの哲学」


ほんとうに考えさせられる。

生き延びさせることが良いことだ、というのは医療の世界では当たり前のことになっている。

延命については軽々しくは語れない。

人それぞれに考えがある。

しかし、ただ生き延びればいいのだろうか。

何のために生き延びたいと思うのか。


何のために生き延びさせたいと思うのか。


考える精神によって生きることを考えるということを放棄した精神は、豊かとは言えないだろう。


精神が豊かであるということだけが、人生が豊かであるということの意味だ

と語る池田さん。


精神のことなど忘れ果てた私たちに、この言葉はいったいどれほどの人の心に響くのだろうか…


精神を豊かにするということを考えている人が、いったいどれくらいいるのだろうか…


とにかく生きればいい…極限状況ではそう思うこともあるだろう。


では、結果的に生き延びられたとして、ではその後、何のために生きたかったのかを問わなければ、ただ生きただけで豊かさとは遠いところにいるのではないだろうか。


~つづく~