ボヤジャントの呟き。 -15ページ目

ボヤジャントの呟き。

過去に行った廃墟探索、今後行う廃墟探索を振り返りつつ、政治経済の話題、時事問題、雑談や長年の趣味であるバイクやギターなどについて雑談して行くのです。

2005年 6月25日


コメント・仕事中に発見した。
発見当初は群馬県の安中から市川の油層所へ戻ってくる途中の幹線道路を都心に向けて走っていたときだったので、
この後の物件45「栗橋の廃リサイクルセンター」の方が実は先に見つけ、その後に畳み掛けるようにこの廃工場を発見したのである。
一日に2件も廃墟物件を見つけてしまうというのは今までにはあまりない事だっただけに、その後の仕事に少々の支障をきたしたのは言うまでもない。
さて、当該物件だが閉鎖されてからかなりの時間がたっているように思える。
窓という窓は殆どないし、かなりのドキュソ爆弾を投下されている。
すぐそばには現役のケーブル工場やら、建材屋やらあって人の出入りがあるにもかかわらず、
建物の周囲をグルリと工事現場などで見かける鉄板の囲いで覆われている。
という事は、それほどまでに酷い破壊活動が行われ連夜のようにドキュソや珍走の集会所になっていたのかもしれない。

30分ほどかけて周囲をロケハンすると、簡単に入れる場所を見つけた。それもいきなり工場の中へ入るというようなものではなく、
ある場所を経由して入るという危険で大胆なコースである。だが、ここを堂々と歩いていけたら逆に疑われることはないと思う。
なにせあぜ道ですから・・・・・。
自分が現場にきたときは既に週末の夕刻を迎えていて、どの工場も「そろそろ帰んべか?」というような感じがした。
車の往来も表を走る大幹線道路は酷い渋滞に見舞われているが、一本入ったこの場所は周囲を畑に囲まれ、行き来するのは犬の散歩をする人やウォーキングをする中年夫婦くらいだった。
ゆえに鉄壁の守りのこの工場も非破壊行動で入れるので、時間帯さえ吟味すればほとんど人目につくことなく静かに廃墟の中へダイブすることが出来るだろう。

さて、今回の探索はあくまでも下見として突入したので、遺物を探してこの工場が現役のころの様子を調べたりとか、廃墟になってからの年齢を調べたりとかという面倒くさいことは一切無しとした。
次の栗橋の廃工場の探索もあるし、すでに時間も夕方といって差し支えないほどに押してきているのであまりノスタルジイに浸っている場合でもないのだ。
よって、これからご覧頂くスライドショーもあまり気の利いたコメントが思いつかなかったので、無視していただければありがたい。今回はあくまでもサラリと画像を見て頂ければいいと思う。

関連画像はこちら。

2004年 9月23日


コメント・幕張は一昔に比べて隔世の感があるほどに発展してきている。
国際展示場の存在も勿論だが、やはり幹線道路沿いの巨大な商業施設の林立は目を見張る。
それを追いかけるように新しい集合住宅も次々と建設され、あたかも千葉の一部でバブルの再来が起きているようにも見える。

しかし、そんなのは良く見ればほんの一部分なのかもしれない。
この日自分はバイク用エンジンオイルを入手する為に五輪の名の付いた量販店の一階にあるバイク用品店を訪れた。
当日は休日とあって来客用の駐車場はほぼ満車、ケイタロウでやってきた自分は停める場所探しに難儀し、早々に外に出てしまった。
こう言うときは店の周囲の住宅地の隙間に止めてしまうのが正解で、ましてや休日ともなると団地に住む住民の友人が大挙して遊びに来て、
団地内の通路に路上駐車をしてしまうのが常だ。
自分もどさくさに紛れてそこに止めてしまおうと思ったのである。
労せずして店の外にでたすぐの所に、やけに閑散とした駐車場があるのを発見。
さっそく駐車スペースの隙間に車を停め、店に向かおうとした瞬間である。
ふと、見上げた建物の様子がおかしい事に気が付いた。
「空家か?」

その建物は周りの団地と明らかに様子が違った。
休日の昼下がり、晴れだと言うのに洗濯物が一切干されていない、そして壊れて外れたままの網戸。
決定的なのは正面玄関だった。金網フェンスが張られていて入れないようになっているのである。
今回は携帯電話カメラでの撮影となったが、これは紛れも無い空家である。
ただし窓ガラスが一枚も割られていない、DQNアートが無い事を考えると管理物件である可能性が非常に強く、突入にはかなり高度なスキルが必要と思われる。
もし内部に突入できれば「廃虚」不可ならば「空家」となる。
今後の探索予定を要チェックである。

2004年 9月26日


コメント・これまで何度も廃虚探索を実施してきたが、今回は想定していなかった合法での探索が可能となった。
現場に到着した時に、正門が開いており車の数台敷地内に停まっていて、人の姿を見た時には「これは駄目か?」
と一端撤収も考えた。
しかし人が居るならダメモトで探索の交渉をすることが出来ると考えた自分は、思い切って現場に居る人に声を掛けてみた。
すると、すんなりOKの返事。

しかしなぜそこまでうまく行ってしまったのか。
それには重大な理由があった。
取り壊しである。それも来月の10月からとの事。
今回の見学会は壊される前の見納めという意味を含んでいるものだったのである。 
鳥肌が立った。
探索の日付を見てもらえば分るが、本日は9月最終の日曜日である。
もしこれを逃していたら、二度とこの工場の姿を写真に収めることが出来なかったのである。
まさに「虫の知らせ」だったのだろうか・・・・・・。
探索がOKとなれば話は早い、本日の探索が頓挫するかもと渋っていた相方K氏に探索OKを伝えると、
途端に顔色が変わり 意気揚揚と車を駐車場に乗り入れ、機材をトランクから取り出し撮影を開始したのだった。

関連画像はこちら。

2005年 8月

コメント・当管理人のバイク仲間である「信号わたる」さんが仕事で三宅島に渡った際に島の至る所に点在する廃墟を目の当たりにした時、
「そういえばTavitoって廃墟好きなんだったっけ」と思い出してくれたそうで、数枚の画像を撮影して送ってきてくれた。
撮影された記録が少し前であり(コンテンツUPは2008年8月)、現在の三宅島も火山活動が継続中であり立ち入り禁止区域もいまだに存在している。
紹介された廃墟物件はわたる氏が職務上特別の許可を得て撮影できたものであり、誰しもが気軽に見に行けるような所ではないとの事。すでに取り壊しされているかもしれないし、どうしても自分の足で見に行きたいという方は、自己責任でどうぞ。
画像の説明文はわたる氏から送られてきたメールの原文のまま。

 
昭和58年の噴火で溶岩が流れ込んだ小学校です。
講堂と思われる屋根の鉄骨が、
溶けるように曲がっている様子が溶岩の灼熱度を想像させ、
こわいです。

2005年 12月12日

コメント・NK探索や煉瓦工場など、新規の物件開拓と探索に追われて、ずっと探索が先送りにされてきた物件である。
発見はいまから2年前で、宇都宮方面の化学工場へ納入で向かう時だった。交通量の多い国道沿いに佇む小さな倉庫廃墟である。
現役当時の事業内容は、廃墟年齢が長いという事と倉庫内に打ち捨てられた不法投棄ゴミのあまりの多さに調べる気力を失い、詳細は不明。
但し他の廃墟サイトの情報から推測すると、食品・酒類や飲料品・生活雑貨などの卸売業をしていたようだ。もしここを読んで突っ込める情報ソースをお持ちの方は是非ご一報願いたいと思う。
写真に対するコメントはあまりない。廃墟馴れしてしまった自分にとっては特に目新しい所は無かったし、美しいかといったらそうでもない。極普通の廃虚に留まっている。ちなみに、ここはかつて廃墟ブームが全盛期だった頃、某有名廃墟サイトに紹介されたのを境に、DQNが大挙して押し寄せ破壊の限りを尽くしたと言う経歴を持っている。
まぁ国道沿いで目立つ場所にある廃墟なので必ずしもそれが原因だとは思わないが、もう壊すところは無いと言わんばかりに吹きさらしになっている。
しかし、一時の廃墟ブームや心霊ブームは影を潜め、実際に廃墟に赴くようなのは、純粋に廃墟への興味があるマジメな人ばかりとなりネットに公開されたら即ドキュソ爆弾が落とされるという悲劇はあまり聞かれなくなった。よって、マイナーな当サイトでは実名入りでこちらをご紹介しようと思う。
ちなみに毛利商店でググってみても、この物件に関する情報はいまや無い。実名で公開するのはここに理由がある。かつては某有名廃墟サイトのコンテンツがヒットしたが、いまではそれも削除されたのでネットからも忘れられた廃墟となりつつある。とにかく汚い廃墟、それがここの印象だった。


関連画像はこちら。

2006年 5月6日

コメント・先に探索した物件34の新日本窯業山工場(仮称)の本工場である。
瓦や土管、煉瓦などの焼き物を製造出荷している工場だった。
閉鎖されてからの年月は不明だが、10年以上は経過していると思われる。
物件情報提供元は、RIF.filmの赤目さんで、この工場では最新作「延示」のロケも行われた。
この工場もご多分に漏れず、取り壊しの波が着々と近づきつつあるようで、屋外のタンクヤードは既に撤去されてしまっていた。
いつまで当時の姿を残していけるかどうかはなんとも微妙である

関連画像はこちら。

栃洞BBQにて舌鼓をしたたか打った後、今回の探索は終了とあいなった。
その後はひたすら400キロ近い道のりを帰るだけなのだが、帰り道の途中で必ず寄る場所がある。
長野県は諏訪湖畔にある超有名な公衆浴場「片倉館」である。
ここで汗を流して(今日に限っては大して汗を流していないが・・・)、気合を入れて帰途につくのが、神岡探索の定番コースとなっている。
これまでに3回神岡には訪問していて、そのいずれも帰り道には片倉館によっているほどのお気に入りの場所である。
しかし建物の外観の撮影に関しては、いままで日没後にしか立ち寄っていなかったので、出来ないでいた。
だが、今回はソソクサと撤収して来たという事と、安房峠を越えてからは天気が一気に回復したので、その美しい建物の様子を写真に収めることに成功した。
ということで、今回の神岡探索のシメとして、歴史ある近代建築の威容を見ていただいて終了とする。

コメント・5月15日
朝から大雨である。気温も低くとても探索どころの騒ぎではなくなってしまった。
確かに前日の茂住は快晴にも恵まれ、思う存分探索を堪能することは出来た。
しかしやはり、規模の大きさロケーションの素晴しさ、施設の多様さを加味して考えると栃洞に軍配は上がってしまう。
神岡に来たからには栃洞は絶対に外せない約束の場所なのだ。

ということで今日も栃洞に行くのだが、この天気では敷地内に入ったとしても満足にカメラを振り回すことは難しい、
そして気になるのは、本坑の崩落の情報だ。
廃墟Exの掲示板で「TEAM酷道」のよごれんさんがかなり詳しく坑道の崩落状況を教えてくれたので、なおさら見に行って確かめる必要があると思っていた。
しかし、この雨である。どう考えても危険な条件がそろっている。
おいそれと入って、足を滑らせてどこかの柱を蹴飛ばして坑道が崩落し「呪われた状態」になるのはあまり好ましい結果とは言えない。
というかレポを作ることが出来なくなってしまうのはちょっと困るので、

「今回ばかりは崩落しているところを見て栃洞は終了」
という方針に転換した。
しかし、なんども言うように「見に行って、崩れてました、ではサヨーナラ」ではつまらなすぎる。
せめて昼頃まではゆっくりと鉱山の中で過ごしてそれから帰ろうではないかという事でロバート調査団の意見はまとまった。
宿を10時前にはチェックアウト、そのまままっすぐ栃洞へは行かずちょっと寄り道しませんか?つー事で、直ぐ近くにある「奥飛騨おもちゃ博物館」というのを見に行こうという(宿で割引券をくれたというのもきっかけだった、しかも丁度券を切らしていたと言う事が発覚し、宿のご主人がわざわざ営業時間前の博物館へチケットを取りに行ってくれたなんというサービス!!!)話にこれまた急に決まった。
車で走って4~5分という所にその博物館というのはあったのだが、中身はというと個人が趣味で集めていた古い玩具をとにかく目一杯集結させたといった印象。

奥飛騨おもちゃ博物館

 

おもちゃ博物館で命一杯脱力感を味わった後、ようやく移動。
しかし相変わらず天候は芳しくなく、強い雨が降ったりやんだりの繰り返し、時間もそろそろ昼頃というあたりになってきたのでソソクサと栃洞に移動することにした。
国道沿いにあるスーパーマーケットにて食料の買出しを行い、すでに通いなれた感のある山道を登り、鉱山に近づくにつれていくつかの集落がある場所に到着。ここでK氏の提案で撮影会を行うことにした。
実はここの集落の中にも小さなプラントがあったのだが、見事に取り壊され綺麗さっぱり無くなっている。鉱山外の施設にまで再開発の手が及んできているのであろうか・・・・・?

栃洞の途中にある民家。
人気が全く無いのだが現役である。
昼間から雨戸を締め切っていたので、
勝手ながら撮影をさせてもらうことにした
家の周りには綺麗な花が咲いている。
芝桜の季節であることを実感した。
民家の裏側に回ると、
かなりいい感じでヤレている。
実はこのあたりを撮影している間に、
K氏がこの家の人と鉢合わせをしたのである。
その住民の方は片手に長い棒を持っていたのだそうだ。
「何しに来た?どこから来た?」などと質問されたが、
K氏がきちっと正直に訳をお話したら、
そのまま家の中に戻っていったのだという。
怪しまれるのも分かる。なにせ丁度この前日に、
多治見市で警察官の拳銃を奪った男2人組が逃走し、
県内に非常線が張られているというニュースを
宿を出るときに我々も見ていたからだ。
手入れしてあるとは思うが、
自分の家の庭がこれだけのお花畑だったら
かなりのメルヘン気分にひたれるだろう。
ただ・・・じぶんは花という物に対して全く興味が無いので、
それはあり得ないが・・・・・。

で、本日の目的地である栃洞坑に到着した。
天気はふもとでは小康状態だった雨が本降りとなっていて、とてもじゃないが雨具無しでカメラを持って歩くのは不可能。
とりあえず、チェーンゲートの前でどうしたものかと思案に暮れていたら、本坑の方から数人の人影がこちらに歩いてくるのが見えてきたのである。
見ると親子連れのようだ。全員が雨合羽を着て、手にはレジ袋を持っている。
その見た感じからして、山菜取りにきたような風だった。
人の出入りがある、雨はやみそうに無い、そうこうしているうちに時間もそんなに余裕がなくなってきたとい事で、今回はこの場で栃洞坑の探索は中止することになった。
その代わりといってはなんだが、すでに昼飯時となっていたので、せめてBBQくらいはやっていこうや(荷物減らしの目的もある)と強引に話を決め、適当な場所を見つけてそこで昼飯とすることとなった。

雨が小止みになっている間隙を縫って、

ここまで突入してきた。
風通しのよい、それでいて可燃物の無い、
床がコンクリートの場所を見つけ
そこでBBQを始める事にした。
BBQといっても、炭火やら材木やらでガンガン
火をおこして狼煙のような煙を立ち上らせて、
派手にやるわけではない。
フライパン余熱をしている間に、カップめんを作る。
左の小さなフライパンの上でチマチマと肉を焼くのだ。
じゅうじゅうという音とともに、
うまそうなニオイが部屋の中に立ち込める。
表では冷たい雨が断続的に降ったり止んだり。
風もあって気温も低い。
トロッコがある本坑は直ぐ傍で大規模な崩落を起こしている。
今日、栃洞に来たのはこれをやる為
というのが本命になってしまった。
某巨大掲示板では、我々のやったBBQの事で、
一時期大騒ぎになったらしいが、
全くもってバカらしいとしか言いようが無い。
ヒステリーの極みだとしか思えなかった。
彼らは人のやっていることに
イチイチイチャモンを付けたくて仕方が無いのだろう。
どこでなにをやったらまずいのか位は、
言われなくとも分かっている。
分かっている人は、後から我々の事情を理解してくれたが、いまだにイタイあの廃墟板の住民ドモは思い出したように、BBQの話題を持ち出す。
本当に暇で生産性の全く無いやつらだ。
それにしても、この日に食った肉も抜群だったなぁ。
あっという間に無くなってしまったが、これだったらもっと奮発して
いい肉にすればよかった・・・・・。

2005年 5月14~15日


コメント・5月14日

神岡に赴く前は、いつもの探索とは違うテンションの高さを感じる。これまで神岡は真夏に1回晩秋に1回づつ行っているが、今回は大型連休が終わり梅雨が始まるまでのもっとも天候が安定しているとされる次期を選んで出かけることとなった。
当日の天気は全国的に晴れとなっていて、探索には申し分ない。いつものように早朝4時に自宅に迎えに来てくれたK氏(これまではM氏と表記していたがHNの頭文字を使うことにした)の車に荷物を積み込み定時どおりに出発。
途中で燃料補給や小休止を挟みながら、中央高速を改装するK氏の4WD。
勝沼を通過したあたりで猛烈な睡魔に襲われたので、「眠くなったら交代するから、それまで体力温存させて」という手前勝手な理由で自分は寝てしまった。
そしてかなりの時間がたったあたりで、K氏に起こされる。
周りを見渡すとすっかり明るくなっていた。どこかのパーキングに停まっているようだった。
K氏は何をしているかというと、ナビモニターを見つけて考え事をしている。
「ここどこ?」と聞くと、K氏は「分からない・・・」という予想外の返答。
T「え・・・・ナビの案内どおりに来たんじゃないの?」
K「そうなんだけどさ、なんかいままでのルートと違うんだよね。もしかしたらもっとショートカット出来るルートを教えてくれているんじゃないかと・・・」
T「そう?そうなの?じゃぁ聞くけどちなみに岡谷ジャンクションはもう過ぎちゃった?」
K「もうかなり前に通り過ぎたと思う」
T「え!じゃぁへたすると木曽福島とかも過ぎちゃったわけ?」
K「ううむ・・・それがはっきりせんのだよ・・・」
一気に眠気が覚めた。
どうやらこの車は岡谷ジャンクションを長野道へと行かずに、中央道をそのまま名古屋方面へと南下してかなり走ってきてしまったようなのである。
確かに神岡は長野県の向こう側、松本ICからも1時間以上は楽勝で掛かるほどの辺境の地にある。
考えようによっては名古屋方面からどこかしらショートカット出来る道路があるのなら、そちらを使えれば時間の節約になるに越したことは無い。
そのまま行ってみましょうという事で車は走り出した。
しかし走りなれたルートではない場所からのアクセスとなると、不安なないわけではないので、その間も自分はナビをあれこれいじって、目的の場所を探してみた。
そしてナビが案内している目的地の場所を見て愕然とした。

ここゴルフ場じゃねぇかYO!

ナビが反乱をおこした。
そう判断するまでにそう時間は掛からなかった。
案内している場所は神岡とは全く関係の無い、愛知県のとあるゴルフ場にその「GOAL」を示す旗が立てられはためいていたのである。
さて、どうしようかという事で改めて別のPAに車を停めて目的地を設定しなおす。
「ここ・・・いったいどこよ・・・。でもってここから神岡までどんくらい走るんだ?」
「・・・・・・・・」
2人してナビのモニターを凝視する。
やがて、ナビが目的地までのルートを決定し案内を始めるアナウンスを発した。「ルート案内を開始します。実際の交通規則にしたがって安全運転してください」
「おお・・でたでた、でもって距離は・・・?」K氏がすばやくナビのリモコンを操作する。すると・・・・

神岡まで250キロかYOOO!

しかも到着予定時刻は午後2時過ぎ。こりゃぁ無茶苦茶だ。へたすると今日は茂住も満足に見て回れないかもしれないという予感が頭をよぎった。
とにもかくにも出発だ。その後はとてもここでは言えないようなペースで移動を開始する。
しかし状況は思わぬ形で好転した。
新しい高速道路の出現である。その名も「東海北陸自動車道」まだ全線開通までは当分先であるが、出来たての真新しい高速国道のお陰で絶望的なタイムロスをかなり改善することが出来てしまった。

結局、神岡の町に入ったのは正午という、あの致命的なルートミスを最小限のダメージで収めることが出来たのである。

午後1時過ぎ。神岡鉱山茂住坑前の駐車場に到着。
ここで今度は自分が今夜の宿の電話番号を控えてくるのを忘れて来たのが発覚して、再び顔面蒼白。
僅かばかりに残された記憶を頼りに直ぐ近くにあった公衆電話のイエローページをめくって電話をしてみる。
すると電話の向こうの人が「はい、T様のご予約承ってますよ」というお返事。またまたガックリと疲れる。
そしてようやく本当にようやく茂住坑に突入する体制が整った。
ここにくるまでにエライ長い道のりを着たような気がする。いや実際に今朝だけで500キロ近く走ってしまったのだから、道のりは実際に長かった。

 


茂住探索後記

いつもだったら新平湯温泉の過去に2階ほど泊まった事のある宿と決めていたのだが、マンネリ化しつつあったというのも少々あったので今回の探索にて利用した温泉宿は、新穂高温泉の某旅館とした。
今までの新平湯温泉の宿もかなりポイントが高かったが、今回の宿も予約して大正解だった。
宿の主人の応対はむさくるしい素性の怪しい男二人組みという組み合わせにも関わらず、非常に丁寧で親切。料理も山奥の旅館としては無理に海産物を取り入れない内容でOK、そして特筆すべき点は風呂にあった。温泉は透明で癖の無い物なのだが、露天風呂が建物を出た外にあり、自分以外に利用客が居ない場合には時間制限はあるものの24時間貸切に出来るという事だった。
新穂高温泉は神岡へのアクセスもよく、温泉旅館も沢山あるので選ぶ選択肢は広い。
今回の宿も十分及第点はクリアしていたので是非次回もと思っているが、実は川向にある巨大な温泉旅館が本命だったので本年の晩秋の時期に行くとしたらそこに決めてしまうかもしれない。
いやぁでも泊りがけの廃墟探索というのは、なんどやっても快適そのものだ。
どこかのサイトの管理人がやっていたような「鉄人レース」まがいの廃墟めぐりオフとは違って、悲壮感も無いし体力も気力も充実して探索に臨めるから事故防止にもなる。ウマイモン食って旨い酒を飲み、温泉にドップリとふやけるまで浸かる。極上の気分だ・・・・・これだから探索は止められない。

今宿の目玉は、露天風呂にあり。
この画像は朝風呂に入っている自分だが、
他に先客居なかったので、貸切となってしまった。
被っている菅笠は、露天風呂の壁に掛けてあり
雨の日はこうして被れば冷たい思いをしなくて澄む。
露天風呂の眺め
同上・・・お約束のケロリン桶、計っていないので
分からないがこの桶は関東サイズなのか関西サイズなのか・・・。
湯温は内風呂に比べると少々ぬるめなのは仕方ないが、
長湯できる温度なので、時間制限(あくまでもマナー上の問題)
があるのがなんとも・・・。
心行くまで入りたければ深夜に入るしかないだろう。
それから、ここの宿の主人がチェックインの時にこう強調なさっていた。
「うちの温泉は完全掛け流しですから!!!!!」と。
それは実際に風呂に入ってみればよく分かった。
確かにオーバーフローしたお湯はそのままこの先にある蒲田川に流れていくようになっていたからだ。
中身の肴の名前は忘れてしまったが、それを包んでいる茶色の
物体は飛騨地方ならではの朴葉だ。
味噌の味が染み込んでいてまさに絶品。
ちなみにこれは朝食膳の風景である。
朝からこれだけ食わせるという宿の姿勢は如何なものか?
お陰で体調は絶好調である。
これで天気がよかったら言う事無かったのだが・・・。