ボヤジャントの呟き。 -13ページ目

ボヤジャントの呟き。

過去に行った廃墟探索、今後行う廃墟探索を振り返りつつ、政治経済の話題、時事問題、雑談や長年の趣味であるバイクやギターなどについて雑談して行くのです。

2006年 5月3日

コメント・物件Noと実際に探索した順番が前後している事に関しては、当日のスケジュールや道路状況などで臨機応変に予定を変更しているので、ご勘弁願いたい。
深静峡は奥多摩の更に西、青梅街道が大菩薩ラインに名前を変え、東京都と山梨県の県境にある「柳沢峠」の直ぐ手前から分岐するダート林道の終点に広がる一大リゾート地だった。
しかし、客足が伸びなかったのか経営に失敗し経営者は姿を晦まし、その後は退廃の一途を辿った。
場所が走り屋が集まる奥多摩の近くにあるという事で、この廃虚の存在は一気に知られる事になり、無数のサバゲーマーやDQN、肝試しのカップルが大挙して押し寄せた。
その後、どこかのオオバカモノが放火をしたらしく、建物は全焼。周囲の山林には延焼しなかったものの、レストハウスは原形を認める事が出来ないほどに焼け落ち、廃虚というよりは遺構に近い状態になってしまった。
以下のスライドショーはあまりにも見るものが無いくらいに焼け落ちてしまったので、コメントは入れていない。

関連画像はこちら。

2006年 5月4日

コメント・超有名物件である。
奥多摩周辺にはこの村以外に相当数の廃村があるらしい。
特に知られているのが、ここから数キロも離れていないところに存在した(過去形)、廃村「倉沢」だろう。
しかしあまりにも有名になりすぎた為に、多くの訪問者が訪れなかには心無い者に破壊活動をされ、サバイバルゲームのフィールドにされたりと、なにかと物騒な話が絶えることが無かったという。
その影響を受けてとうとうつい先日、取り壊し事業が入ってしまったのである。
倉沢は峰よりも行きたい廃村の筆頭株だった。しかし、取り壊しされ、廃材が山積みにされているような状況になってしまった後では、もう見る価値は無い。
我々のような、写真を撮るだけ、安全な所でBBQをするだけ、一服をするだけならなんら問題は無かった。いつもいつも取り壊しのニュースがネットに飛び込んでくる度に繰り返し問い直される、廃虚での問題行動だ。

一方峰は、それまで最寄の駅からのアクセスが完全なる「登山」コースだったのが幸いしてか、DQNの魔の手の驚異に晒される事は無かった。
それゆえに、集落の建物の保存状態は数年前までは正に「極上」と呼べるほどに良かった。
しかし、近年の猛暑と異常な数の上陸台風、そして記録的な寒波の襲来と、建物に優しくない異常気象の影響は無くは無い。
自分が始めて「峰」に足を踏み入れた時、殆どの集落の建物が倒壊し、土に返る最初のプロセスを踏み出している状態にあった光景を目の当たりにした時にはすでに「峰」という村が本当の意味で伝説の村になっていくのだという事を身を持って実感したのである。

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2006年 5月7日

コメント・超有名物件である。
しかしこういう物に限って、意外と訪れる機会に恵まれなかったりする。
ネットで公開されてから相当年数が経っているにも係わらず、場所の特定での決め手に迫る事が出来ず、正直探索リストから外してしまっていた。
そこへもってMさんから「ここにあるから行って見たら?」というタレコミ情報を頂き、今回の訪問と相成った。
廃虚探索ローラー作戦「千葉ラウンド」南房総ステージの一番手がこの廃ホテルである。
まず端的に突入した後の感想を述べさせてもらうと「きちゃない」の一言。そのほかにも崩落が激しく足場も悪く、隣接する民家からの監視の目があり、ゆっくりと周囲を見て回る余裕は無いなどと、あまり廃墟としては癒される要素は乏しいと思う。
立地条件は決して悪くは無いのだが、背後に立つ山の影響で、建物全体が凄まじい湿気に覆われ、非常に息苦しく具合が悪くなりそうな空気が濃密に詰まっていた。前日の車中泊で疲労が残っているままで探索開始。体の調子は決してよくなかったはずなのだが、またも探索途中で爆弾投下のミッションが下され、仕方なくホテル内のトイレを拝借して爆弾投下をしてしまった。
今回の探索のスライドショーは、そういう事であまり印象に残るようなシーンに恵まれなかったため、コメントは無しという事で。

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2007年 4月30日


コメント・関東地方には現在巨大廃工場という物は大変に少なくなってきている。
千葉には東京プライウッドという地元民としては充分に自慢できる大型物件がかつては有ったが、今はすでに倉庫に転用されてしまい、その威容を見ることは出来ない。
高崎には豊和製紙という大型工場があったが、これも取り壊された。北茨城にはオレがテレビ局にロケ地として紹介した日本加工製紙というところが有るが、ここも大部分が取り壊され、一部の施設と煙突が残されているのみである。
足尾銅山も最近入手した情報では老朽化した施設から取り壊しをしているらしいし、とにかく加速度的にオレのお気に入りが姿を消しつつあるというのは、本当に心が痛む。
そこへもって、関東地方の最奥部に位置するこの地方都市には、全ての施設が手付かずで残されている巨大工場がある。
いまや、関東地方の廃墟マニアにとっては、国宝級に値する貴重な大型物件だ。
今回、二度目の探索と相成った訳だが、結果は大成功と言える物となった。
それまでの準備をしっかりと整えておき、万全の体制で臨んだので当然といえば当然だったが、やはり予想以上に体力を消耗する難関続きだった。
生命の危機を感じるようなアクシデントは無かった、管理人に見つかるような事も勿論無かったので、ストレスというものは全く感じなかったし、3時間にも渡る探索で動画を数本、撮影した画像数は300枚を越えた。
とにかく、能書きはこれまでにして見ていただくしかない。
あまりのボリュームに途中で疲れてしまうかもしれないが、是非一気に見ていただきたい。

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2006年 5月4日


コメント・有名物件である。
去年の夏にここから数キロ離れたニッチツ鉱山に向かう途中で、偶然発見した。
前前からこの工場の存在を知ってはいたが、まじめに探すまでに時間が経ち過ぎてしまっていた。
そして、この度の廃虚探索ローラー作戦「埼玉ラウンド」にて今回の突入と相成ったのである。
下見というのが今回の探索目的だった。その理由は、この日は朝から河口湖~峰~白岩集落~現在地と、強行軍を行ってきたので流石に体力も底を尽き、日没の時間も迫ってきたから。そして明日は一日だけだが仕事がある、あまり遅くまで遊んでいると、翌日の仕事に影響を及ぼしかねないので、無理な突入は控える事に決めていたのだ。
大型連休の真っ只中、白岩の静寂から一転殆ど動かない埼玉山奥の地方都市C市は、周辺の観光地から集まった観光客のマイカーでごった返し、至る所が無政府状態になっていた。
自分はうまい事裏道に入り込み、渋滞の列から抜け駐車場のある場所に車を停める事が出来た。
機材を用意し、傾きかけてきた太陽に急きたてられるように、工場のある場所へ向かった。
そこで、思わぬ事態に遭遇したのだ。これまでの事前情報では、この休憩施設ある場所から普通に入れば敷地内に出られるとあった。
そして、隣接する工場は今でも現役で職員の出入りがあるから注意されたしとも言われていた。つまりは監視の目があるから突入の時には細心の注意をしてくださいというアドバイスは頭に叩き込まれていた。
しかし今日は事情が違った。行き交う観光客に混じって、セメント工場の入り口へと歩いていったところ、様子がおかしい事に気が付いた。
イベントやっていて、工場が一般開放されているのだ。
正確に言うと、工場の広大な敷地を解放して直ぐ近くの公園で行われているイベント目当てに来場者が乗ってくる車を、有料で収容しているのだ。
ということで、合法的に堂々と本日は敷地内に入り込む事が出来たのだ。
予想外の嬉しい誤算に、オレは「下見」という予定をすっかり忘れてしまった。

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2005年 12月16日

コメント・物件52廃ビルの探索を終え、次に訪問したのがこの廃ホテルだった。今回の物件もMさんのご紹介で赴いた
宿泊施設の廃墟に突入するのは本当に久しぶりだ。恐らく既に全焼してなくなってしまった「紅葉園」以来かもしれない。
やはりこの手の廃墟の特徴である「どの部屋も同じ」という所で、飽きが生じていたのかもしれない、それが原因で足が遠のいていたというのも考えられる。
だが、取り壊し事業が進む昨今残された廃宿泊施設はいまや、貴重な産業遺産の一つになりつつある。
突入前のコメントは特にない。普通に周囲を点検して園後は普通に従業員入り口からお邪魔する。ここの前に突入した時と同じように普通に堂々と入った。
しかし入るまでではなく、入った後の方が緊迫感はあった。その理由は下のスライドショーの中盤あたりで分かると思う。

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2005年 12月16日

コメント・M氏からもたらされた廃墟情報を元に、探索を決行した。前回「赤レンガの廃工場」へMさんと同行した際に「千葉の某市にもまだ幾つか廃墟がありますよ」という話を聞かされたことがあった。
自分も参加しているソーシャルネーム「haikyo.jp」に、地図付きで掲載されているのを見て、「ああ、これが例の物件か」と分かり、しかも地元とあれば行かない理由は無い。今年も後少し、秋口に家族の急病で廃墟探索が一時期頓挫したときもあったので、それを取り返すべくクルマに機材を積み込み急遽現場へと飛んだ。

しかし今年の冬は寒すぎる。例年であれば冬であろうがバイクで現地へ赴いて探索活動を展開していたのだが、流石に今年はそれも躊躇するくらいに気温が低い。そして、撮影機材をグレードアップした事もそれに起因する。使い古したデジカメであればバイクで少々荒っぽい運転をしても気にすることは無かったのだが、DimageA200にしてからは流石にそれは出来なくなった。機動力は落ちるが、現場に行ってから「カメラが壊れました、よって探索中止」などという笑うに笑えない事トラブルも有りえる。そして、正直な所最近通勤以外にほとんどバイク人ら無くなってしまった影響も有ってか、寒さに対する耐性が著しく低下してしまったというのもクルマで出撃する言い訳になると思う。そして今年の冬の異常な寒さ。自分が子供の頃はこれくらいの寒さは当たり前だった。しかしここ数十年続いている暖冬ですっかり体がなまってしまい、少々の寒さでもめげてしまうと言う情けない体になってしまったのもいえる。あとは年齢か・・・・。

話が横道に逸れてしまったので修正。
今日は2件の廃物件を探索する予定にしている。朝から車に乗って廃墟のある某市にはまだ太陽がそれほど高いところまで登っていない時間には到着してしまった。
閑静な住宅街の中にあるコンクリート打ちっぱなしの廃墟。第一印象は御殿場の廃ビルの小型版といったところか。
イヌの散歩をしている人や、郵便配達のバイクが自分の横を通り過ぎてゆく。しかし怪しげな視線を送ってくる人は一人も居ない。
それは、自分のいでたちにあるのかもしれない。普段タンクローリーの運転をしている時に来ている作業服の上下、上には防寒着(通称ドカジャン)で方からカメラの入った大きなバッグを下げているからだろう。まさに建築現場を見に来た同業者か、あるいは放棄物件の値踏みに来た不動産屋に見えるのだろう。
そして自分自身も周囲に人が居るにもかかわらず堂々と写真を撮っては、鉄筋の露出した柱を触ってみたり、処理されていない電気配線を手にとって見たりしてそれっぽい仕草をしてみせているのも怪しまれなかった理由の一つか。

関連画像はこちら。

2005年 12月8日

コメント・超巨大廃工場「日本加工製紙 高萩工場」怒涛の探索の余韻も冷め止む間も無く、数日経ってからM氏からメールが送られてきた。
「例の煉瓦工場でスチールの撮影がありますから、一緒に行きませんか?」というお誘いだった。
その煉瓦工場は、M氏が運営するmixiの廃墟版「haikyo.jp」のトップページに掲載されている場所そのものである。
これまで見た煉瓦建造物の中でも飛びぬけて熟成度が程よく、保存状態が素晴らしくそしてなんといっても、そして特筆すべきはこの物件は現役であるいう事だった。
何故に現役であるこの工場が廃墟のコンテンツとして取り上げられたのか、その理由だが実際に稼動している施設が同じ敷地内にあり、機械警備も設置されている。正門を挟んですぐ隣には工場所有者の自宅がデンと構えていて、警報がなると同時に現場に駆けつけるという体制がとられている。
管理は万全で不審者が入り込むという事は一切出来ない。しかし今回自分が探索し撮影した施設の幾つかの中には紛れも無い廃墟である建物が混在しており、取り壊されること無くそのままに放置されている。
しかし放置されているとは言っても、DQNの驚異に晒されるという心配からは皆無、だから無慈悲な破壊活動に晒されるという事もない。
自分はM氏からこの工場を教えてもらうまでその存在を知らなかった。
なにぶん、現役工場の敷地内にある廃墟なので、一般の廃墟マニアは入り込むことが不可能だからこれまで紹介されるという事は無かったのだろう。煉瓦建築や近代建築マニアがこの工場の写真を自分のサイトにて公開しているのを以前散見したことがあるが、そのどれもが全て敷地外からの撮影に留まっており、その点数も非常に少なく、見ごたえという物に欠ける。塀の外からの撮影ではそれが限界という物だ。

ところがこの工場、実はテレビや雑誌のロケとしてその業界では非常に名が知られているという事が分かったのである。
Cはその代表的な窓口となっており、自分はそのスチール撮影に同行するCのスタッフとして参加させていただくことになったというのが今回の探索のいきさつである。当日の朝7時。某所にてM氏をマイカーでピックアップ。そのまま東名高速にて一路現地へ。途中で休憩を挟みながら現地へと急いだ。
10時頃、工場に到着。
正門に入ってからのその眺めは正に「煉瓦萌え」である。
その素晴らしさは写真では伝えることに限界がある、やはりこういう物は実際に自分の目で見ることで初めてその素晴らしさを体感することが出来るはずだ。
あの赤レンガの建物が木立の中に佇んでいる風景はまさにレトロである。
こんな素晴らしい場所がこんな所にあるなんて、俄かに信じられない気持ちであった。
撮影クルー達は先に到着しており既に準備を始めている。さすがに前回のNKの時のような大掛かりな機材や人数ではない。M氏は前回ここで撮影が行われた際に「当日は東名が集中工事で渋滞するだろうから、早めに上がった方が良いですよ」などと先方スタッフ達に囁いていたらしく、今日の上がりは昼過ぎになるだろうと言われた。
クルマを降りて、まずはスタッフと軽く挨拶を交わす。そして、趣出しまくりの事務棟から出てきた小柄な女性がM氏に声をかけてきた。
この人が現在の工場の管理を任されている人であり、責任者である。要はこの人の裁量次第でここの施設の使用が出来るかそうでなくなるかが決まる訳だ。粗相の無いように気をつけねば。
そして、機材をクルマから下ろして撮影開始。今スライドショーの画像を見直しているが、改めてこの建物の美しさにため息が出る。

北河製品所スライドショー

スライドショーは如何だっただろうか?後半において、煉瓦の一部に緑色の塗装が残っている箇所があるところに気が付いた方もおられると思うが、あれは太平洋戦争当時、米空軍からの空爆を受けないように、迷彩色の塗装が施されていたその名残なのだそうだ。
戦争の影が残るこの煉瓦工場。冬の陽光を受けて静かに佇んでいるが古い歴史ある建造物には一方でそういった、ぬぐい切れない過去を今に伝えているという事も忘れてはいけない。
そして、重ねてここで念を押しておくが、この工場はれっきとした現役工場である。
これまでの閉鎖された工場とは全く違うものだという事を頭に置いて頂きたい。うかつに侵入しようとすれば即刻通報され、社会的地位を失い結果にもなるという事を肝に銘じてもらいたい。
もし「どうしても見たい撮影したい」という方がおられるのであれば、こいった手段で堂々と施設の中を歩き回ることが出来るという可能性があるという事を知っておいて貰えればと思う。
但し、こういう業界に限らず何にでも言えることだが、相手に情報の提供を求めたりする場合は自分の持っている取っておきの情報を相手に提供するのが常識である。クレクレ君が通用しないのは廃墟界でも同じ事だ。あくまでもM氏の信用を得られるまではそれなりの時間と労力が少なからず必要になるという事だ。ただし、こういった力を持っている人と関係を持つようになれば、廃墟探索の可能性は格段に広がるという結果が、NKしかりここの煉瓦工場しかりなのだ。

 

放映日時 2006年 1月12日 21時 テレビ朝日

コメント・
約半年以上に渡って繰り広げられた「NK製紙高萩工場」においての探索活動がいよいよここに来て総決算の段階に達した。
前回の合法探索において、テレビ朝日のスタッフがドラマの撮影を行っているのを横目で見ながら自分自身は無数の画像と貴重な動画撮影を完遂することが出来た。場内の殆どを不法侵入危険予知というリスクから開放された事によって、非常に効率よく敷地内を巡ることが出来たので、突入できなかった施設はこれによって全て踏破できたと言える。
そして、年が明けお屠蘇気分が抜け始めたであろうこの日において、地上波放送局の一つであるテレビ朝日において、「NK製紙高萩工場」でのロケの映像が放映された。
不特定多数の人間が見る地上波民放でしかもキー局のテレ朝での放送である。
おそらく数千万人の人があの廃工場を目にしたとおもう。
ヒロインの米倉涼子とその相手役である佐藤浩市が最初に出会うという工場でのシーンは、このドラマの今後の展開において最も重要視される「第一回」のしかもオープニングで起用された。
まさに手前味噌ながら思いっきり言わせて貰うと
「これこそ金字塔じゃ!」

勿論自分だけの力で、これが出来たわけではないという事は重々承知している。
C代表Mさんならではの交渉能力と工場管理者のAP&PPさんのご協力、テレ朝スタッフの演出能力がいい感じで協力してくれたからだ。
でも!この話を最初に持ち出したのはアタシですから!
まぁ普段、人に自慢するようなことが殆ど無い、地味な社会人生活を営んでいるワタクシですからね、すこしはこういうところでいい気持ちに浸りたかったわけですよ。
という前置きはここまでにして、さっそく見ていただきましょう。