ボヤジャントの呟き。 -12ページ目

ボヤジャントの呟き。

過去に行った廃墟探索、今後行う廃墟探索を振り返りつつ、政治経済の話題、時事問題、雑談や長年の趣味であるバイクやギターなどについて雑談して行くのです。

取材日時 2007年5月3日

コメント・某情報筋から提供された廃墟物件である。
廃レストランと、廃船を両方同時に見ることができる、日本でも類を見ない廃墟物件だった。
ネタに困っている時であれば、オレは直ぐに現地へ飛んで、探索をしていた。
しかし、情報を貰ったのは2006年の3月。一年以上経ってからの現地訪問となってしまった。
場所が遠いのとその他にも未凸物件を多数抱えていたので後回しにしていたのである。
それが失敗の全てだった。
情報をもらっている時点で、直ぐに現地へ飛んでいったらこのような船を探索する事が出来たはずだった。

これは、情報提供元Mさんが、撮影したステラポラリスの雄姿

そして、この廃船が係留されていた当時のレストランの情報も、今になって次々と発見された。
http://office-k.ddo.jp/sukanjinavia.htm
係留されていた船についてもWikiで詳しく紹介されている
船名はステラポラリスという名前だったそうだ。
係留されていれば、こういう風景を見ることが出来たのだ。

とにかく残念で仕方が無い。
自分の瞬発力の無さを今更ながらに悔やんでいた。
廃墟探索を始めたばかりの頃であれば、間違いなくその日の夜のうちに現地へ飛んでいったであろう。

取材日時 2007年5月4日

コメント・超有名物件である。
数多くの廃墟サイトに紹介され、心霊スポットとしてもその筋の人たちには知れ渡っている。
今更的な紹介のタイミングとなったのは、前回の下見から再来訪までの間に数多くの廃墟物件の情報が飛び込み、そこへ足を運んでいるうち(現を抜かしているうち)に時間が経過してしまった。
その間に取り壊されてしまったり、リニューアルしてしまったりという失敗も何度もあったが、ここの物件は久し振りの訪問にもかかわらず、前回の訪問時と変わらずに、保存されていた。
やはり、地方の廃墟物件は開発の手が及ばない限りそのまま残されている事が多いから、社会人探索家にとってはありがたい。
この物件に突入するに当たって以前から懸念していたのが、「機械警備」についてだった。
過去に下見した後、数人の同志にこの機械警備について問合せをしてみたところ、大御所からははっきりした答えはなく、自分より後から廃墟界に参上してきた管理人たちに聞いてみると、「稼動していないように思える」という意見が相次いだ。
しかし、あのようなインフラはいつ敷設しなおされるか分からない、取り合えず「機械警備は継続して稼動している」という前提で、今回の訪問と相成った。

関連画像はこちら。

2007年 2月11日

コメント・以前から行こう行こうと思っていた廃村の探索を敢行した。
前回の廃村探索は、かの有名な峰。あの俗称「タイムマシンの廃屋」での感動は未だに冷めることは無かった。
「廃村も悪くない」そういう意識改革をもたらせてくれたのも、あの廃屋が残っていなければ、有りえなかったと思う。
やはり、基本的に自分の好みの廃墟は、工場・鉱山・大規模病院であることに変りはない。しかし、近年の景気回復の影響は避ける事は出来ず、
郊外にある大型物件は、自分が凸する直前、直後を境に次々と取り壊しの目に遭っている。
ネタが加速度的に消滅しているのだ。
となれば、物件を求める新天地は更に山奥へとなるのは当然の成り行き。しかし、産業の進出が乏しい山村に同様の物を求めるのは無理がある。
廃村は、そんな隙間を埋めるにはうってつけの物件である。
奥多摩の峰とは違って、まさに徒歩でしか行けない村が、秩父の山奥にある。
そして、峰をはるかに上回る残存廃屋の数と、遺物の多さに感動した充実した探索となった。
しかし、この日の最後に大きな失態をしでかした。
スライドショーの中でも説明するが、この日の物件は二つ。白岩と冠岩を一気に廻ってしまうつもりだった。
この二つの廃集落、地図で見るよりもずっとお互いのアクセスが悪かった。
中間にある鳥首峠までの道は、思いっきり登山道だった。
その上、乗ってきた車の中に峠で食べようと思っていた水と食糧を忘れてしまい、
この日の気温の低さが無かったら、峠付近で脱水状態になっていたかもしれない。
更に困った事に、白岩の探索を終えたら一旦山を降りて車に戻り、秩父市を通り抜けて山の反対側に車を停め、冠岩の探索をすればよかった。
つまり、白岩と冠岩との間の登山道は予想以上に長くて険しかったということなのだ。
結局、冠岩の探索を終えた頃には日没を迎えてしまい、白岩に引き返す事も出来ず(体力的にも無理だった)そのまま徒歩で秩父駅まで歩いて行くという失態を犯してしまった。
歩いた。とにかく、駅でタクシーを拾ってJFEミネラルの工場まで向かうには歩くしかなかった。
その距離、およそ20キロ。一年分の徒歩距離を半日で歩いてしまった気がする。
とにかく、廃墟探索は良く歩くが、今回はその域を脱していた。無茶な計画が災いした分かりやすい例だと思う。

廃村白岩

廃村 冠岩

2006年 5月4日

コメント・廃村「峰」でこれまでに自分が持っていた、廃村にたいするイメージは、かなり変ったと思う。
基本的に大型物件が好みの自分としては、峰を訪問するまではあまり行きたいとは思っていなかった。
なんだか、生活臭が漂っているような、だれかが隠れているようなジメッとした雰囲気がどうしても駄目だったのだ。
どこか、今時分が住んでいる家の末路をイメージさせるような気がして、たまらなかったのだ。
「今オレが不慮の事故で死んでしまったら、俺の家はだれが管理してくれるのだろうか。それともこの家みたいに廃屋となってしまうのか・・・」
そういう思いが頭の中をよぎり、居たたまれなくなってしまったのだ。
しかし、峰を見てからはなにかが少し変ったような気がする。
具体的に何が?と問われても返答に困ってしまうような中途半端な心境の変化なのだが、「峰を見てからは免疫が出来た」としか今の所表現の使用がない。

さて、本筋に修正。
廃損「峰」に引き続き訪問したのが、某巨大掲示板で話題に上がった廃村「白岩集落」だった。
以下 それの引用・・・・・

まだ、廃村までは言っていませんが、奥秩父両神山裏の日窒集落は 壮観です。全盛期1000人くらい住んでいたのが、今10数人だとか。 
奥武蔵、白岩集落。今時車道がないが、20年位前は人が 住んでいた。数年前再訪したら、廃村になっていた。 
有名かどうか知らないけど、丹沢の地蔵平はかなり昔から廃村になっているぞ。25年前に行った頃にはかなり大規模に廃屋が残っていた。今はゲートができて 当時以上に不便になっているからそんなに荒れていないとおもうけど。誰か行った人いないかな。 

 両神山の近くに、フリークライミングで再び脚光を浴びた二子山があって、 その近くに叶山ってあるんだけど、ご存知ですか。(エリアは西上州に分類される 
のかな)  叶山、約20年前に、石灰岩の採掘のために入山禁止になったが、確か、叶後という地名の廃村が当時あった。今はどうなっているのか。 
 夜になると、すり鉢に1ッ個所だけ出入り口があって、その出入り口の左右を 2つの尖鋒が囲んでいて、この世のものとは思えない風景だった。 
 昼間は、柿木があったり、村の中を小川が流れていて、どこか、のどかで、 怖くなかったんだけどね。 
 廃村から移住した人が時々、戻っているという噂話を聞いた事があるが、石灰 採掘で、今はどうなっているか。確か、石灰岩に自生する天然記念物の植物が あった様な記憶もある。今だったら、反対運動で、石灰採掘は中止になっていたかも。

この内容をみるだけでも、かなり興味をそそられた。
その後ネットで下調べをした結果、白岩集落はかなりの原形をとどめた状態で建物が存在している事が分かった。
峰のように全ての原住民が出て行ってからの時間がそんなに経っていないからだろう。
でもって、今回の廃虚探索ローラー作戦のメニューに盛り込むことにしたのだ。

2005年 7月22日


コメント・これまで多くの廃墟を探索してきたが、その殆どは工場とか倉庫とか、大型ホテルや病院などの大物ばかりだった。
しかし飽きというものは必ず訪れるもので、最近は小ぶりで地味めな印象があり、一部の廃墟好きからは敬遠される事もある「廃屋」というものに興味を持つようになってきた。
その決定打となったのが「本庄の心霊豪農屋敷」だった。
元情報は群馬を中心に活躍されている廃墟探索家「ojiya」さんの「設定チキン」というサイトにてその存在を知り、その建物全体の意匠、内部の様子を見て衝撃を受けたのである。
最近はこの手の日本家屋というものが急速に消滅しつつあり、あってもリフォームされて今風に変身してしまったりしていて、無人となった民家を探す事自体が非常に困難で、首都圏では満足に保存されていて誰でも探索できるような廃屋と言うものは殆ど無いと言っていいだろう。
2004年の9月に、オレは一度この地に赴いて豪農屋敷を探した事が有った、しかし実際に探していたエリアが提供された情報とは見当違いの場所だった為に断念、その後は暫く近づく事すらなかった。
そしてここに来て俄かにマイブームとなりつつある「廃村・廃屋」である、スタートは「廃村 峰」で受けたなんともいえない感覚だった。
これは今までの大型廃墟で感じたような一種独特の威圧感とは違う、何か懐かしいような悲しいような、砂を噛むような不思議な感覚だった。それがどうやら癖になってきたらしい。でもって再びこの地に赴く事を決意したのである。
某巨大掲示板で、すでにHTMLされたスレッドにも「豪農屋敷」の情報が僅かに残されては居たが、これを元に物件を探すと言うのはまさに「上級昇級試験」に値するようなほどに難しいものだった。
だが、前回の探索から2年近くが経った今当時に比べても情報は増えた。オブラートにくるんだようなぼやかした情報であっても、それから場所の特定を導き出せるようになり、今回の再訪問は正に当時と比べればピンポイントと言い切れるほどに絞り込めていた。

関連画像はこちら。

2007年 5月3日

コメント・2007廃墟探索ローラー作戦神奈川ラウンド中最も損失の大きかった、取り壊し物件である。
この廃団地の存在は、同志である楓氏のサイトにて最初に公開されてから、ずっと「行かねば・・・行かねば」と思い続けてきたものの、そのタイミングを先延ばしにしていた。
そういう状況になって、探索の時期を逃して、いざその現場に行って見たら既に更地になっていた、とか、リニューアルされて元の面影はなくなっていた、というケースが過去に何度かあった。
しかし、大抵の物件は「急いでいくほど魅力のある物件ではない」と自分が判断した為で、実際取るに足らないものが殆どだった。
しかし、この細谷戸団地は別格だった。この物件は知ったその日から行くべきだったのだ。
今回ようやくその現場に足を踏み入れたのだが、すでに手遅れとなっていた。
取り壊しの情報を得てから半年以上もたった、遅すぎる現地訪問だった。


元々団地のあった場所には既に雑草が生え、区画の痕跡すらも確認する事が出来ない。


ここの物件は携帯電話のカメラで撮影を行った。

車道と思しき道。しかし使用されている様子はない。

かつてはこのバリケードの向こう側には、無人の住宅が林立していたのである。

直ぐ隣には、取り壊された団地から移った住民が住む新しい団地があった。

彼らは、毎日部屋の中からかつて自分達が住んでいた団地の面影を、ここに重ねているのだろう。

初夏を思わせる昼下がりの日差しの中、直ぐ近くの公園では沢山の家族連れがBBQやボール遊びをしている。
その中をカメラを手に行き来する俺の姿は彼らにはどう映ったであろうか。
もう、無くなってしまった物を取り戻す事は永遠に出来ない。
そして、ここに来ることも二度と無い。
あの建て替えられた「新細谷戸団地」がいずれ老朽化して住民が全退去したら、また来ようか・・・あと数十年は待たねばならない。
この空き地には、今度は何を作るのだろうか?
さらば、細谷戸団地。

2006年 5月3日

コメント・今年の大型連休は例年にない過ごし方をしようと前前から考えていた。
それが今回の廃虚探索ローラー作戦である。
県名別にラウンドを設け、山梨・東京・埼玉・茨城・千葉という5つのラウンドを用意。そのそれぞれの県の中で廃虚がある地域をステージとして分け、自家用車に取材道具と仮眠用具を積み込み、車中泊をしながら探索を続けていくという壮大で馬鹿げたなものだった。
連休前半の5月3~4日の一泊二日で山梨~東京~埼玉の廃虚を一気に回る、まず初日一発目は、もっとも遠いエリアとされる山梨の物件から手を付ける。
清里駅周辺に散在する廃ペンションや廃タレントショップを探索。
次に塩山経由で深静峡へと足を伸ばし火災事故後の様子を確認する。
最後に観光客が帰り始める河口湖に夕刻現地入りし、例の有名物件を幾つか探索するつもり。
初日はこれで終了。

サンパークホテル

2006年 5月4日

コメント・廃虚探索ローラー作戦一日目の晩は、道の駅鳴沢にて風呂を済ませ、車中泊をした。
連休中の道の駅は深夜にもかかわらず、駐車場は満車状態だった。しかしそこは仕事で培った勘ですんなり空いている場所を確保、涼しくなった山の空気が車内に入らないように窓を締め切り、10時前には寝てしまった。
そして、あけて翌日は5時から行動開始。道路に一般車が出始める前にそそくさと移動。目的の物件には30分少々で到着してしまった。
物件の後ろには、トンネルが掘られており、殆どの車はそこを通過してゆく。
廃虚の前にも道路があるが、ここはバス釣りをする人のみが来るだけで、車の行き来は殆ど無い。
ちなみに当該物件はMさんからのタレコミにて探索する事になった廃虚である。
廃虚サイトでは有名な物件らしいのだが、自分はこの存在をこの度初めて知った。
しかし、場所が国道から直ぐ近くにあるという事。湖からならその姿を直ぐに見つけられるという事が災いしてか、その破壊度合いは凄まじいの一言。
おまけに放火された形跡もあり、あまり印象は良いとは言えない廃墟だ。

関連画像はこちら。

2006年 5月3日

コメント・Mさんが某日、通りがかりに発見した廃屋である。
今回は自分がその正体・詳細を確かめる役を買って出て、探索をする事にした。
日が傾きかけてきた深静峡を急いで離れ、富士五湖まで一気に移動。
大型連休の只中、しかも夕方で、この廃屋のある交差点は湖を回りこんで都留方面へ抜けようとする車と、大月方面から富士五湖にやってきた車とが出会う場所故に、とんでもない渋滞が発生していた。
交差点の近くには一件のコンビニがあるのだが、渋滞でトイレを我慢してきた車が次々と駐車場に飛び込んでくるので、小さな駐車場は麻痺状態。T字交差点の横断歩道には無数の歩行者が信号無視して渡り、それに怒ったドライバーがけたたましくクラクションを鳴らす。
おまけに呼んでもいないのに、地元の珍走がやってきて騒音を撒き散らすというまさに観光地の一角で修羅場を目の当たりにした感じだった。
しかし、こういう状況にも動じないのが自分である。自分がコンビニにやってきたときには満車だったが、すぐさま方向転換して頭を道路に向けエンジンを止めずに駐車スペースが空くのをミラー越しに待つのだ。離れたところが空いたとしてもそこは無視、あくまでも自分の真後ろの車が出た時に勢いよくバックして入れてしまうのだ。そうしないと、出る時に大変な思いをする。なにせ空くのを待ちきれずに停めた車の後ろに更に車を停めやがるバカヤロウが居るからだ。
待つ事数分で、自分の真後ろの車が店を出た。ギヤをRに入れ後方の安全を確認しつつ一気にスペースに入れる、その横で空くのを待っていたサンドラが悔しそうにこちらを見ている。まぁこんなもんでしょ。
車から降りて、廃屋のある所まで数分、無政府状態の交差点を横目に見ながら早速撮影を開始した。

関連画像はこちら。