ボヤジャントの呟き。 -11ページ目

ボヤジャントの呟き。

過去に行った廃墟探索、今後行う廃墟探索を振り返りつつ、政治経済の話題、時事問題、雑談や長年の趣味であるバイクやギターなどについて雑談して行くのです。

取材日時 2006年8月14日

コメント・東北で最も有名であり最も規模が大きい廃墟群生地と言われて久しい、松尾鉱山住宅跡地、緑ヶ丘アパート。
陸奥の軍艦島とも別名で呼ばれており、実際にここを訪れるのは今回が初めてだ。
だが、東北方面はこれまでにも純粋なツーリングで何度も足を運んでいる。
この八幡平アスピーテもZEP400C1に乗っていたとき、Z1に乗っている時いずれも走っている。
天気の相性は悪くなく、いつも遠くまで見渡せるほどの快晴の中を走ることが出来た。

しかし、本日はちょっと事情が違った。
少し下ったところにある松川温泉のキャンプ場から出発し山を登っていくうちに、霧が濃くなり視界が殆ど利かなくなってきた。
「まずいな・・・このままだと何処から入ってよいか分からなくなるぞ・・・」早朝出発で時間は幾らでもあるというのに、早速オレは焦り始めてしまった。
相手は数十年もの昔にも息の根が止まっている廃墟である。看板や標識を頼りに探すことは出来ない。
自宅で印刷し持参したWEB地図と睨めっこしながら、ある場所の分岐をアスピーテラインから入ると、目の前の風景が一変した。
まさに霧の中から忽然と彼らは姿を現したのである。
全身に鳥肌が立った瞬間だった。
「これか!!!!こんなにすげぇのか!!!!」

ということで、思わずバイクに乗ったままアパート群の前の道路を動画撮影してしまった。
刻々と変る太陽光と霧と不気味を通り越して孤高の存在感を放つ廃墟のコラボレーションが見る者の言葉を失います。

 

 

 

 

 

 


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取材日時 2006年8月13日

コメント・久しぶりの長距離ツーリングが、なんと廃墟探索の遠征というオレらしい夏休みとなった。
お盆の季節に連休を取得したと言うのもおそらく2001年以来だろうとおもう。
その後は多忙を極めた仕事で行けなかったり、ロングツーリングを完遂させ燃え尽きたということで、旅に出る気力が失われたということもあり、時を同じくして母が脳卒中で倒れ、それどころではなくなってしまったという時期が間に入り込んでしまったのも長旅に出かけなくなったという理由に挙げてもいいと思う。
それだけに、今回のツーリングは緊張感を伴っていた。
久しぶりの長旅でありそのうえタダのロングツーリングではない「廃墟探索」と言うオプション・・・いや、今回はこれがメインアクティビティということもあって、これまでにない新しい志向の長旅が今年から再開するのである。
緊張しない訳がなかった。
ここではあくまでも、廃墟探索に関するレポートののみを公開します。

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取材日時 2007年4月29日

コメント・某情報筋から寄せられた今回最大の目玉物件である。
去年の夏に閉鎖された、できたてほやほやの煉瓦製造工場である。
周囲には民家もありそれなりに凸の時には緊張を強いられたが、これといって警戒されているという様子もなく、逆に近くを通りかかったウォーキングしているおっちゃんに「この工場はもう動いていないんですか」と聞いて確認できたほどだった。
場内は整理整頓されていて全く荒らされていない。半現役という所に理由があるのかもしれないが、DQNが入り暴れられるような余地は無い。
閉鎖ギリギリまで作られた完成品の煉瓦が倉庫内に山積みにされており、パレットが整然と並べられていた。
その他にも平日には普通に稼動していそうな施設があり、ここはまだ完全な廃墟にはなり切れていない熟制度ゼロの管理物件であるという結論に至った。
だが、管理されている状況で内部に凸出来るところは非常に少なく、別の意味では非常に貴重な将来の産業遺跡を見ることが出来たと思う。

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取材日時 2006年3月19日

コメント・旧万世橋駅の探索を予定通りに終え、時間が余ったのでどこに行こうかという話になった。
そこに降って沸いたのが「靖国神社を見に行くと言う話だった。
これを提案したのは自分だったのだが、これにはきっかけがあり、そのきっかけというのがネットラジオだった。
関西から発信しているネットラジオ「initialGz」という番組があった。(既に放送終了)そこでパーソナリティーが東京に出かけたときに訪問した靖国神社の様子の話を聞いて、非常に興味を持ったからである。
何かと話題に登る有名神社だけに、一度は自分の目で見てみようと常日頃思っていた。
しかし場所が東京ゆえ、それだけの理由で行くのもどうかと思い、先延ばしにしていた。
そこへもって、今回の旧万世橋駅探索の流れで見にいけるというチャンスが巡ってきた。
万世橋から車で一時間も掛からない近隣地にある為に、移動はあっという間。加えて休日という事も有って都内の交通は少なく至ってスムースに目的地にたどり着く事が出来た。

で、さっそく境内に入ってみたのだが、施設そのものはどこを見ても普通の神社だったと思う。問題はそこに来ている様々な人々の姿だった。
特に顕著だったのが、迷彩服を着て集団で行動している右翼団体の人たちだ。
出で立ちはそれなりに威圧感があるのだが、人間そのものを見てみると「平日は公務員」とか「普段は平凡なサラリーマン」風で「いかにも」という人間は殆ど居なかったという事だ。
そのうえ、境内にある休憩所では売店のオバチャンに「お世話になってます~、また来ましたよ。元気でやってます?」などとやさしく声を掛けている。
あの街宣車で大音響で喚き散らしている姿からは全く想像もつかないほどに、静かな語りかけであった。
しかも、休憩所は昼過ぎとあって空いているにもかかわらず、あえて屋外の席で食事を取るあたり、彼らはこの敷地内では大人しく行動するように厳しく指導されているに違いない。

同行したK氏と同様、自分自身も無神論者なので、むやみに訪問した寺社仏閣で参拝する事はしない。
拝殿前にも行ったが、賽銭をあげることもせず写真をとるだけとって次なる目的地遊就館に向かった。
日本の中心的場所にあり、最も右傾的思想の巣窟となっている場所が遊就館である。今回は一階のみの見学としたが、それでもどことなく胸が苦しくなるような異様な感じが館内を支配していたような気がする。
戦争論に関してココで述べるのは場所違いだし、戦争経験者で無いので実体験に基づいた持論を展開する事も出来ないので、あくまでも客観的に且つ端的にしか展示物を見ることが出来ない。
それにあまり何度も行きたいと思うような場所ではないとも思った。
ただ、この資料館の2階部分が言うなれば本丸であり、本当に見なければならないのは自分達が立っている上のフロアに広がる空間だろう。
まぁ廃墟とは違って今日明日にでも取り壊されるような物ではないので、いずれ機会があったら再訪問してみようとは思っているが・・・。

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取材日時 2006年3月19日

コメント・今回は廃墟ではない。
まぁタイトルをご覧いただければそれは分かっている事だと思うが、自分にとっては正に思い出の地そのものだった。
とはいっても、この地に足を運んだのは小学校の遠足で赴いた時と、父に連れられて来た時の2度しかない。オレの記憶に間違いが無ければそれが全てだった。
正直に言うと、オレが今回の特別企画に興味を持ったのは、閉鎖する交通博物館ではなく、今まで一般公開されることが無かった、旧万世橋駅が期間限定で中に入れるという情報を耳にしたからだった。
当日オレは久しぶりにロバート調査団の首領であるKerberos氏と共に、家族連れでごった返す当地にやってきた。
今回はこの時点では現役の建造物であり廃墟ではないので、特に思い入れも無くコメントは最小限にとどめておくことにした。

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取材日時 2007年4月29日

コメント・廃墟探索のキャリアの中で始めての「廃遊園地」である。
この物件は超有名物件で、今更名前を伏せても完全匿名で公開しても、知っている人は見ればすぐ分かるほどに周知されている。
2007廃墟探索ローラー作戦の中で、超巨大セメント工場の次に目玉としていただけに、期待は大きかった。
しかし、元々は廃工場や廃鉱山という硬派で無機質な物件を好みとしていただけに、横浜のドリームランドや、向ヶ丘遊園などの遊園地が閉鎖された時も全く行動を起こさなかった。
あの雰囲気がどうしても好きになれなかったのである、それは廃屋にも言えることだった。
家族の思い出を想起させるような物件を探索するという事はそれまでのオレにはキツかったからである。
だが、今となってはそれも落ち着き、大型物件だけでなく様々な生活臭や人間臭さを感じさせるような廃墟にも足を運べるようになった。
そして、以前から探索のタイミングを狙っていた当該物件への凸がこの度とうとう実現できたのである。
場所を探すのは簡単だった。
ネットにはそのヒントとなる情報が氾濫していたし、某情報筋からの「現地レポ」もあった、そしてなによりもオレが捨てずに持っていた「昭文社ツーリングマップ」にその遊園地がデカデカと乗っかっていたからだ。
ローラー作戦の初日で最大の目玉であるこの遊園地にいざ足を踏み入れた時、その予想外に充実していた内容に絶句してしまった。
オレは悔やんだ、凸のタイミングを夕刻にしてしまった事を。
あまりにも遺物が多すぎて全ての施設を回りきることが出来なかったのである。
回りきれなかった箇所は、涼しくなるのを待って再来訪して踏破しようと考えている。
それまでに取り壊されない事を祈るしかない。

追記・
2008年7月24日 現地際訪問にて取り壊しを確認。R.I.P.

 


 

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取材日時 2006年5月7日

コメント・今回の廃虚探索ローラー作戦の最終物件である。
天気が芳しくない最終日となったが、南房総エリアにはまだまだ未発掘の物件が数多く埋もれているという事をまざまざと見せ付けられ、おなか一杯大満足のシメができて、自分自身やってよかったと思っている。
さて、今物件の廃団地とセメント工場だが、場所は南房総へとダイレクトにアクセスする自動車専用道路のインターチェンジから降りて直ぐの場所にある。
自分はこの物件の前を、ツーリングで何度も通っていて、この工場が有る事は知っていた。
しかし、まさか廃墟になっているとは思ってもいなかった。
そういうケースが過去にもいくつかあったような気がする。もう少し注意して周りの景色を見ておく方がいいのかもしれない。
セメント工場の規模は中の小くらいで、こじんまりとしている。しかし、遺物が殆ど残されており、事務棟と思しき建物にはまだ現役の雰囲気が感じられ今回は接近しなかった。
その傍らにある廃団地はなぜかたった一棟だけあり、全て空き部屋となっている。
全てのドアには鍵が掛かっており開かないようになっている。ところが全てのドアを確認した結果、たった一箇所だけ中に入れる部屋があったのだ。
ドアを開け、中に入った時自分は得体の知れない異様な空気を感じたのだった。
続きはスライドショーで。
ちなみに、寄せられた情報によると、この物件、自分が突入した数週間後に取り壊されてしまったとのこと。
まさに虫の知らせだったのか、またしても貴重な千葉の廃墟が姿を消してしまった。(続く)

 

2007年11月現在の竹中興業跡

そして、なんと驚いた事に。俺が勤務していた会社が倒産し
その会社の車が回送された先が、この場所だったのだ。
建物は、そのまま転用されている。
現在は某陸送会社がこの土地を買い取り、スクラップや
転売されるのを待つトラック達の駐車場となったのである。
ブルーの塗装がされたタンクローリーが、俺が居た会社の
車である。
見渡す限り、何も無い。
あの一棟廃団地も綺麗さっぱり撤去されている。
あそこに住んでいた野良人は何処へ行ってしまったのだろうか?
陰鬱な気分になるような曇り空の下。
まさか再びこの地に訪れるとは誰が想像しただろうか。
あまりの因果の不気味さに戦慄が走った。
ここには確かプールのようなものが有ったはず。
ミキサー車が洗浄する際に流れ出るセメント混じりの水が
溜まっていたはずだ。
ここには確か用途不明の大きな機械が鎮座していたはず。
その形跡も全くなくなっていた。
崖の下には、あの時と変わらない風景。
足元にはかつての名残が辛うじて残っている。

 

取材日時 2006年5月7日

コメント・ネット未既出物件である。情報提供元は御馴染みMさん。
程度は極上、規模はこのての廃虚としては大規模。遺物は大量に残されており、窓ガラス一枚割られていない。廃虚年齢は約6年弱。
ということで、詳しい情報はこれ以上公開できない。場所も勿論だが名称も伏字ではなく仮名のみの公開ということでご容赦願いたい。
全てはスライドショーをご覧になっていただければ分かると思う。
毛色はかなり違うが、今は無き紅葉園以来のヒットだと思う。Mさん凄すぎ・・・。

関連画像はこちら。

取材日時 2006年日時不明

コメント・二年程前にこちらのサイトをご覧になっていた訪問者の方から、探索画像を提供していただいた。
自分自身が探索したわけではないので、具体的なコメントを書くことは出来ないので、割愛させていただく。
ただ、全体を見て感じたのは「何も無い」という事か。
確かにそこここに「何かがあった」というレベルの遺構は確かめることは出来るが、具体的なアトラクションとか建物とかが殆ど撤去されていて見所というものが殆ど無い。
もともと現役当時から敷地内の設備にはショボさがあるという話は聞いていたので、それほど落胆はしなかったがこれほどまでに何もないと果たしてリスクを犯してまで内部に入る必要があるのかどうか疑問を禁じえなくなってしまうのが正直なところだ。

取材日時 2007年4月30日

コメント・ガセネタというのは巨大掲示板では良くある話だ。
実際、暇だった時それに踊らされて何度か存在しない物件を探しに、相方K氏と夜の夜中に車を走らせたものだった。
だが、幾つも寄せられる廃墟情報の中には実在する物件を紹介している物もあるので、全てをガセと判断してしまうのは早合点とも言える。
今回のこの廃墟は巨大掲示板「2ちゃんねる」のとあるスレに一回だけ書き込みがなされた情報を元に見つけ出したものである。
恐らくどこの廃墟サイトにも公開されていない未既出物件と思われるので、情報という物が非常に乏しい。
一体現役当時は何に使われていたのか、何故に倒産して廃業し廃墟化してしまったのか、全く知る由もない。
実際に現場で、残された遺物を元に色々とプロファイリングを試みたが、調べれば調べるほどに混乱してしまったので、あまり深く詮索しない方が得策と判断し、取り合えず見て廻るだけでも充分だろうと、探索に踏み切った。
大きな鉄筋コンクリート二階建ての建造物は、見た感じ何かのホテルかなんかの宿泊施設だろう、としか言いようが無かった。凸口は何処にも無く完全に目張りされていたので中に入ることは出来なかった。中に入れないと、この建物の素性を知ることは極めて困難となる。
続いて、直ぐ隣にある新しめの一軒屋があったのだが、こちらは易々と中に凸する事が出来た。
一階を見て周り、二階に上がって最初の部屋を見た後、スライドショーの29枚目の写真にある引き戸を開けた時、戦慄が全身を駆け抜けた。
薄暗い7~8畳ほどの部屋の中央部分に、腰の高さほどにうず高く積み上げられた大量の何か・・・衣類や布団や布の類のものが大量に集められているのである。雨戸はしまっていないので、部屋の中の様子は何となく見えた。部屋の中の空気が何となくジメっとしている、流れが無くあまり呼吸したくない感覚に襲われた。そして、ふとカメラを構えて部屋の中に入ろうとしたその瞬間だ、オレの目に何かが見えた。

人の手である。

指の配列から察するに右手だ。

そして無意識に左手も見えた。
そして、その両手の真中に人の顔があった。

真っ黒で頬がミイラのように痩せこけたオッサンの顔だったのだ。

思わず声を上げそうになった。30半ば過ぎの大人が久し振りに悲鳴をあげそうになった瞬間だった。
メヂューサに睨まれたかのように固まる事数分。
この決定的瞬間を写真に収めようか、止めるべきか猛烈なスピードで頭の中で考えていた。
オッサンは良く見ると息をしていないようにも見える。呼吸をすれば動くはずの胸の部分が全く動いていないように見えたからだ。
「し・・・・死んでるのか?」「いや、死んだ振りをしているのかもしれない」「シャッターを押した瞬間に飛び掛ってくるかもしれない」

このままこのオッサンは寝ているという事で、起こさない事にしよう・・・・・(汗。

ということで、何も見なかった知らなかった事にして、この廃墟を緊急退出した。
敷地を飛び出し、車道を渡り、車のエンジンを掛ける、オッサンが追いかけてきていない事を確認して、ようやくタバコを吸う気になれた。
それにしても、あのオッサン、この山奥でどうやって食糧を調達しているのだろうか。
野良人が住むのは大抵市街地である、コンビニやファーストフードの残飯を漁って、空腹を凌ぐのが普通。
しかし、この廃墟がある場所は思いっきり山奥である、ランボーのようにイノシシでも捕まえなければ、満足な蛋白資源は無いはず。
ただ、少し山を降りれば民家は数軒ある、殆どの民家の庭先には自家農園がある、それを夜中に来て盗んでいるのだろうか?
何にしても、これだけ驚いたのは久し振りだ。
何度も野良人の居住エリアに凸してしまった事はあったが、本人と遭遇したのはこれが始めて、あまり気分のいいものではない事は確かだ。
この物件にはオレは二度と行かない。オッサンのその後が気になる人はご自分で行く事をお勧めする。

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