私の走りの日記(13)
『自主練習』
1年生の冬、
池ちゃんは、バレー部の顧問に勧誘されて、
陸上部の練習よりも、バレー部の練習に多く参加していた。
陸上の冬季練習は、スピード練習がなく地味なものである。
私と違って、器用だった池ちゃんは、
いきなりバレー部の練習に参加しても、
既存の部員に引けを取らなかっただろうから、新鮮味があり、楽しかったのだろう。
国立競技場の教室はいつまで通っていたのかは知らない。
ただ内心は、ここで差をつけられると思い、少しホッとしていた。
それまで池ちゃんとは、5回走って、5回必ず勝てる程の差はなかったと思う。
しかし心の中では、10回走ったら、10回勝てると思い込むようにしていた。
またライバルは、東京都のファイナリストたちで、
あえて池ちゃんをライバル視しないでいた。
これは、心の問題で、学内に目を向けているようだったら、
到底、東京都のトップの舞台では戦えないだろうと思っていたからだ。
池ちゃんも負けず嫌いであり、表にそれを出していたからよく分かっていたが、
私は表にこそ出さないが、池ちゃん以上に負けず嫌いだと自負していた。
こうした心理面で、私は池ちゃんと戦っていた気がする。
3年生の卒業式間近、
3年生のE先輩が、最後に一緒に走ろうと声をかけてきた。
E先輩は、板橋区で100M2番だった人で、持ちタイムも私より速かった。
しかしいざ走ってみたら、私の方が速かった。
受験勉強で体を動かしていなかっただろうから、勝てたのは当然かもしれない。
けど、その時は、実感はなかったが、少しは速くなったのかなと思ったりもした。
E先輩も勝てなくなっちゃったなと笑って言ってくれた。
2年生になり、最初のレースが、「西部地区」だった。
この年は、例年と異なり、リレーなどは4月に行い、100mなどは5月に行われた。
リレーは、4×200m。私はアンカーで走った。
200mは、昨年、リレーで一度走っただけだった。
どの程度走れるのか分からなかったが、
3年生まで混成のチームの中で、私は3,4人抜かしてトップでテープを切った。
このごぼう抜きには、先生を含め、みんな凄かったと褒めてくれた。
しかしその後、私はトイレに行っていて見れなかったのだが、
あの樋口が、これまたごぼう抜きの芸当を見せてくれたらしく、
そのスピードは、私のよりも凄かったと、一瞬で評価が霞んでしまった。
私が学校で散々、樋口、樋口と言っていたので、
クラブの連中は、みんな樋口の事を知っていた。
後日、一皮むけなければ、立てた目標に現実味が帯びてこないと思い、
朝、6時に起きて、家の前で走ることにした。
家の前は、直線で72mあり、民家が密集する狭い路地にもかかわらず、
朝早くから、二人の弟を練習相手に何本もダッシュをし、タイムをとった。
私が72m、小学6年の弟が60m、小学3年の弟が40mのラインで走っていた。
人を前にして、ゴールまでに追い抜くことを訓練した。
この自主練が、初めて自分で考えて、自ら行動を起こした練習だった。
最初の頃は、ただ走るだけで、72m走なんてタイムを計った事がないので、
それが速いのか、どうかは分からなかった。
また走りに工夫もなかった。
それを毎日繰り返し、しばらくした日、ふと思った。
‘100mは、ただ前に進む競技だ。
そしたら脚が前へ、前へ出た方が得なのではないだろうか’
その考えから、膝下を投げ出すようにして走ってみた。
とにかく脚だけが前に行けばいいと思っていたから、上半身は随分と反った状態になった。
タイムを見たら、これまでのタイムより格段に速い。
計り間違えか、まぐれか?
もう一度同じように走った。
やはり同じようなタイムが出る。
これはもしや!
光が見え始めた瞬間だった。
翌日、翌々日と同じように走るが、これまでよりも随分高いレベルでタイムが安定していた。
走っているスピード感も含め、一皮剥けたと実感出来た。
この記録用紙を、顧問の先生に見せ、記録が向上した経緯を説明した。
そしてこの走りに自信を持てるようになってきた。
一体、今、100mを何秒で走れるだろう。
当時の2年生の全国大会参加標準記録は、「11秒6」。
昨年の自己ベスト記録が「12秒4」。
現在は、どの位の力があるのか?
それを試すには、5月の西部地区まで待たなければならなかった。
この年の西部地区は、大井競技場だった。
ここは風が強く吹きぬける土地柄なのか、この日も風が強く逆走した。
これは、先の二つの都大会の出場権を獲得出来るかの大会なので、
ここでたとえ全国大会参加標準記録を突破しても、参加資格は得られない。
学校で選抜されれば、持ちタイム関係なく、各校2名まで参加出来るので、
大勢の参加者がずらっと集まっていた。
その中には、あの樋口もいた。
樋口は、私の随分前の組で走っていた。
後ろからだから、どの位の速さだったか分からないが、
やはり一着でゴールしていた様に見えた。
樋口も順調に伸びているのだろうと思った。
いざ、自分のレース。
この一皮剥けた走りを試す時がきた。
号砲がなり、力を込め、膝下を前に投げ出すように走った。
2着とは随分差がついたと思う。
結果、「11秒5」(+2.7)。
追い風参考ながら、全国大会参加標準記録を超えていた。
これには自分ながらびっくりした。
‘この走りは本物だ’、そう思えた走りだった。
そして目標に掲げていた、全国大会出場も現実味を帯びてきた。
あの時、樋口は何秒で走っていたのだろう?
それは分からなかったが、昨年と比べ、
間違いなく彼との差は縮まっている、そう強く思えた。
この日は、顧問の五十嵐先生は、用事で引率出来なく、
後日、結果を知らせた。
このタイムには、先生もびっくりしていた。
そして先生の中でも、全国大会を視野に入れたようだった。
自主練のあの時のひらめきは、
私の陸上競技の大きなターニング・ポイントになった。
そして人生のターニング・ポイントの一つだったといっても過言ではないと思う。
私の走りの日記(12)
『秋の大会、そして一年を終えて』
カールルイスの真似した走り方に変えてから最初の試合が、
9月の板橋区の総体だった。
この大会で勝てば、10月に行われる東京都の「地区対抗」に選ばれる可能性が出てくる。
これまでの都大会で、決勝メンバーに板橋区の選手はいなかった。
よって板橋区の中では負けられない、その気持ちは強く持っていた。
会場は、板橋区の中学校の校庭。
今考えると、よく学校の校庭で大会が開かれたなと思うが、
区内に競技場もそうはなく、時代が時代だった。
指を真っ直ぐ立て、カールルイス走りで力一杯走り、
予選、12秒6、決勝、12秒4と、大会での初めての一位だった。
またリレーも勝ち、個人とリレーで、「地区対抗」に選抜された。
翌月の「板橋区民大会」でも、
ライバル視されていた隣の中学のYと初対戦し、先着し一着。
2度の優勝で、自己流のカールルイス走りに自信を深めていった。
10月の後半、「地区対抗」の日が近づいてきた。
試合が近づくにつれて、どうしたことか、
腰からお尻の下の部分に痛みやら違和感を感じ始めるようになった。
中々、違和感が治まらないので、初めてカイロプラクティックに行って、施術してもらった。
1回行っただけだから、治らなかったが、そんな状態で試合当日を迎えた。
10月も後半になるので、気温も低くなり、気になる箇所を中心に、体が思うように動かない。
予選はギリギリで通過し、準決勝は4着で、決勝には進出できなかった。
(本当は5着だったが、4着の選手が失格だったので、繰り上げされた)
(決勝の結果)
1着-樋口秀之(練馬)12秒1
2着-神民一(北)12秒5
3着
4着-小熊邦尚(王子)12秒5
5着-曽根田淳也(大泉西?)12秒5
6着-斉藤義久(大森一)12秒6
やはり樋口が優勝した。
またこの小熊や斉藤もきっちり決勝に残り、東京都ファイナリストの常連となっていた。
またこの大会で初めて聞く名前に、2着の神、3着の渋谷区の選手、そして5着の曽根田がいた。
神は、小熊と同じ北区、曽根田は、樋口と同じ練馬区だが、
練馬区と言えばもう一人、桐畑がいるはずだが、
桐畑は区の予選会で3着で、この試合には出られなかった。
あの桐畑も出られない練馬区、決勝に二人残った北区、
板橋区の両隣の区は、なんてレベルが高いのだろう。
まだまだ東京都には、自分の知らない速い奴が潜んでいたのだ、
と感じさせられた中学一年の最後の試合だった。
そしてやっぱり東京都で一番速いのは、樋口なんだ。
東京都の誰と走っても勝つ樋口に対し、特別視するようになった。
この試合を機に、私のカールルイス走りの自信も陰り始めた。
見た目だけを真似しただけの、浅はかなものだったから、
メッキが剥がれるのも早いものだった。
シーズンが終わり、冬季の練習に入る前に、
ちょっとした出来事があった。
一つ上にOさんという女性の先輩がいた。
Oさんは、我々の知らないところで、
国立競技場で行われていた陸上教室に通っていた。
それを聞きつけた池ちゃんが、Oさんと一緒にこの教室に通いだした。
池ちゃんも、このシーズンは、出たい試合も出られなく、悔しい思いをしていたのだろう。
私も色々悔しい思いをしたが、
池ちゃんは、また違った面で悔しい思いを感じ続けていたのだと思う。
池ちゃんは、感情を表に出すタイプだったから、
教室の話を聞くと、すぐに行動に出たが、
私は、そんなところに通わなくても速くなってやるという思いを内に潜ませ、
教室には通わなかった。
しかし内心は、どんなことをやっているのだろうと気にもなっていた。
教えている人は、全国区で慣らした人らしいし、場所もあの国立競技場だ。
どう考えても、陳腐な教室ではないはずだった。
教室に参加してから少し経ったとき、池ちゃんがグランドでダッシュをした。
その走りは、滑らかに見え、これまでとはスピードが違うように感じた。
内心、少し不安を感じながらも、表には気にしていない風に装った。
一年生の冬は、スピード練習は出来ないので、
駅伝なんかに出場し、少し長距離走もやっていたと思う。
そんな冬を過ごしているうちに、
2年生になってからの目標が漠然と現われてきた。
「全国大会出場、そして東京都のファイナリストの常連になる」
常に心の中には、樋口の名前があった。
この名前が来シーズンに向けて頑張るモチベーションだったのかもしれない。
しかし目標に届くという手ごたえは掴めないまま、一年生の陸上生活を終えた。
私の走りの日記(11)
『1983年夏、カールルイスを知る』
中学一年生の夏、
K先輩が時折、参加していた王子工業陸上部の練習に、
池ちゃん、栄三の三人で一度参加させてもらった。
学校の校庭では、ろくな練習スペースを確保出来なかったので、
一度、高校の練習に参加してみるといいという話からだった。
一周200m位はあったのだろうか、
きれいではないが、きちんとしたトラックだった。
ここで150mか200m走を何本か走らされた。
これまでそんな距離を何本という練習をした事がなかったから、
恐らく2,3本で練習から離脱してしまったと思う。
また当時は、練習中に水は飲んではいけないという風習があった。
夏の暑い日に、汗をかくだけかき、
最後には炎天下の中どんなに動いても汗が出なくなってしまった。
あんな状態を経験したのは、あれ一回きりである。
結局、自分ら一年生にはきつくて、一度しか参加しなかった。
この頃は決まったメニューもなく、技術的な練習もなかったので、
1本、1本走るのに、意識化していなかった。
後々自然と身に付いていったのだが、
短距離の練習で走る時には、体の動き等を意識的に感じたり、
またこの1本は、どこを意識して走ろうなどと、意識化して走るようになる。
その中で、問題点、良かった点などが発見出来、
それを修正、工夫したりして、パフォーマンス向上につなげるのである。
しかしこの時は、まだそんな意識をもっては走っていなかった。
1983年8月、ヘルシンキで第1回世界陸上大会が開催された。
日本でもテレビ放映され、私も運よく観る事が出来た。
これまでオリンピックも観たことがなかったので、
初めて世界規模の大会をテレビ観戦した。
男子100mに出場する選手は一人も知らない。
しかし注目選手がフューチャーされていて、
そこに前世界記録保持者のカールルイスと当時、
大会前に高地で世界記録を出したカルヴィン・スミスが取り上げられていた。
この大会の男子100Mは、ルイスとスミスの一騎打ちというところが一つの見どころであった。
結果は、ルイスが10秒07で優勝(私はずっと10秒06と記憶していたのだが)。
この時のルイスの走る姿が、陸上を始めたばかりの私に多大な影響を与えた。
これは私だけでなく、日本の多くの少年、
また世界の多くの少年に大きな影響を与えたと思う。
まずルイスの走るフォームに魅せられた。
全ての手の指を真っ直ぐ伸ばす腕振り。
きれいに高く上がるももと膝下の動き。
(実際には高く上げていなかった様だが、高く上がっているように見えた)
そしてレース展開も良かった。
ルイスは、完全な後半型で、ラスト20m位で抜き去ってゴールしていた。
これは私の個人的な好みなのだが、
スタートから飛び出して逃げ切るレースと、
後半に抜き去るレースでは、観ていて後者の方に魅せられる。
例えば、2017年の世界陸上で、ウサインボルト選手が3位になったレースがあったが、
2着だったコールマンがスタートから飛び出し、ボルトに0.01秒差で先着したのだが、
コールマンがボルトより速いという印象はなく、
あと10mあったらボルトが抜かしていただろうという余念が浮かんでしまう。
もちろん先着すれば、レース展開はどうでもいいのだが、
逃げ切るより、抜かす方が、勝ち方として好きだった。
ルイスはまさに抜かすレースをしていた。
走る姿、レース展開、そして体つき、速く、強く、美しい、
どこを見ても非の打ち所がない、パーフェクトな姿で私の目には映っていた。
観戦後、早速、自分も10本の手の指を真っ直ぐ伸ばし、
ももを高くあげ、ルイスの真似をして走った。
そしたら今までより力が入る感じがし、速くなった気がした。
実際、それまでより速くなったと思う。
これが初めて走ることに対し、工夫したことであった。
私の走りの日記(10)
『次々と出現するライバルたち、そして全国大会』
初大会で負けた事による気落ち具合は、結構なものだった。
まず、これまでとは、競い走る感覚が異なった。
力を入れれば前に出られる、という感覚が失われてしまったのだ。
そして、精神的にも、せめて同じ歳の者には負けない、
いずれは、誰よりも速くなれる才能があるとの自信も完全に崩れた。
今考えてみれば、1着の者以外は、少なからず皆、ショックを受けていたかもしれない。
走って、先頭に出られなかった経験は、自分と同じ初めてだったのかもしれないのだから。
準決勝で、自分より前にいた桐畑は、随分と速く感じた。
しかし彼も決勝では、3着だった。
負けたのは、あの時が初めてだったかもしれない。
しかし当時は、自分だけが負けたように思っていた。
この時のレースで裏話がある。
準決勝の招集時に、ある選手が、
「あの彼、速いよ。俺、あいつに小学校の試合で負けたんだ」
と言っていた。
知らない人達だらけの一人だったから、確実に誰を指していたのか分からなかったが、
恐らく、決勝で一着だった樋口の事を指していたのだと思う。
幸いにも樋口と桐畑とは、いまだに付き合いがあり、
数年前に、桐畑から聞いた話だが、
桐畑が小学6年生の時の50mのタイムが6秒8で、学内で騒がれたらしいが、
近所の小学校で6秒7で走った人がいるとの噂が回ってきたらしい。
それが樋口だったとの事だ。
私は、7秒4で走り、学内では断トツのタイムで、自分でも速いタイムだと思っていたが、
この時から自力が違っていた事が、大人になって知った。
とにかく初大会で、一挙に5人に借りが出来てしまった。
それから一ヶ月ちょっと経ち、2回目の試合、「稲付ナイター陸上」に参加した。
この試合は、東京全域規模の大会ではなく、
前回決勝に残ったメンバーは誰一人参加していなかった。
この前の都大会でビリだったが、それでも東京都6位という自負を抱いて走ったが、
結果、決勝で3位だった。
まだ他にも速い奴がいるんだなと思った。
そしてちょうど同じ時期に「通信大会」が行われた。
これも東京都全規模の大会だが、私は、林間学校の為、参加出来なかった。
あとでこの「通信大会」の結果を聞いた。
1着-樋口秀之(練馬)12秒1
2着-小熊邦尚(王子)12秒2
3着-T(K中)12秒3
4着-S(?)(A中)12秒3(?)
5着-斉藤義久(大森一)12秒5
6着-桐畑悟史(練馬東)12秒6
先の「総体」では、2着だった斉藤が5位、3着だったあの桐畑がなんと6着で、
前回の私と同じビリ。これには正直驚いた。
出場していたのかどうかは分からないが、
先日「稲付ナイター陸上」で負けた二人の名前がない。
大会の度に、知らない名前が挙がってくる。
東京都の中で、自分より速いやつは、一体、何人いるのだろうか?
決勝のタイムが、一ヶ月前の大会と比較すると、各段上がっている。
そしてもう一つ。
都大会で次々と挙がる名前の中でトップに挙がっているのは、樋口秀之(練馬中)だった。
樋口は、この時、全国大会の参加標準記録(12秒1)を突破し、
全国大会出場の切符を手に入れた。
この時、同学年の中で、
東京都で一番速い男として、‘樋口秀之’という名前が頭の中に刻まれた。
そして7月の終わりに「東京選抜」という大会が大井陸上競技場で行われた。
これは、これまでの東京都の試合結果をもとに選抜され、
全国大会の参加標準記録に挑戦する最後のレースだった。
これまで全国大会という名を聞いたのも、樋口が参加を決めた話を聞いた時が初めてだったし、
ベストタイムが13秒0の自分にとっては、
参加標準記録を突破できる自信なんてこれっぽっちもなかった。
しかしこの大会は、これまで走ったアンツーカー(土)トラックではなく、
タータン(ゴム)トラックで、タイムは、土のトラックより出るはずだと顧問の先生が言ってくれた。
参加者の名前に、樋口や桐畑の名前はなかった。
恐らく林間学校かなんかだったんだろう。
知っている名前は、「通信大会」で2着だった小熊、最初の大会で一緒に走った斉藤、
そして稲付で負けたKだった。斉藤、Kとは予選から同じ組。
斉藤には勝てる気がしなかったが、稲付で僅差で負けたKには勝ちたかった。
Kは都大会の決勝メンバーに名を連ねてもいなかったので、
ここで負けっ放しだと、一度でも決勝メンバーに名を連ねた実績も、
まぐれで終わってしまうと思っていたからだ。
予選は予想通り、斉藤が一着、私とKは同着だった。
決勝は、Kには負けられないの思いで走った。
この日は風が強く、逆走で走った。
追い風が3メートル以上吹き、
1着-斉藤義久(大森一)12秒1
2着-小熊邦尚(王子)12秒1
3着-米屋信義(府中八)12秒1
ここまでが12秒1で全国大会出場決定。
4着-S(A中)12秒3
5着-青山範朝(青梅一)12秒3
6着-守屋雅彦(板橋三)12秒4
7着-K(タイム12秒5か6)
前回と同じ6着だったが、Kには勝てたということと、
追い風参考ながら12秒4で走り、
先の「通信大会」の決勝タイムの中でも、
決して見劣りしないタイムだった(追い風参考だが)ということで、
悔しさ、落ち込みはなかった。
まだ自分は、都大会の決勝の舞台に上がれる力はあると、心の中で片づけたからだ。
そしてこの大会、もう一つ印象に残っていることがある。
それは一つ上の学年の野村明宏(大森六)さんの走りを初めて見たことだ。
野村さんは、一年の時、全国大会で優勝しており、
都大会のプログラムでも、大会記録、都中学記録、
そして当時、全生徒配られていた体育の実技教科書にも名前が載っていたので、
凄い人だということで知っていた。
この日の野村さんは、決勝でかなりの追い風が吹いていたが、
中学2年生ながら10秒9で走った。
間近で走りを見たが、走りながら‘シュッ、シュッ、シュッ’と言っていた記憶がある。
(多分自分の聞き違いで、実際は呼吸はしていなと思うが)
また体も大きく、がっちりしていた。
これが全国レベルの体格、走りなんだなと思った。
そんな全国大会も翌月の8月に行われた。
私は、参加していないので後に陸上マガジンで結果を知った。
参加した東京の4人は、樋口以外は皆、予選落ちだった。
樋口は、11秒99で、組、一着だった。
やっぱり樋口は凄い、他の三人とは格が違うと思った。
準決勝の欄に目をやると、目を疑った。
樋口の名前が最後に書かれている。
ビリだったのだ。
予選では、全体の中でも上位のタイムで走っていたのに。
何があったのだろう。
原因は分からなかったが、あの樋口がビリになる。
全国大会という山は何と高い山なのだろう。
その時の私には、あまりにも高すぎて、
遠くからでも、その全貌を頭の中で見ることが出来なかった。
野村さんは、決勝で2位だった。
これはテレビ放映もされ、テレビを通して、自分の目でみた。
やはり全国優勝レベルの人なんだと凄さを知った。
この時の優勝者は、名倉雅弥さん(藤)。
野村さんとは、0,01の僅差の写真判定だった。
そして5位が同じ東京の田村秀樹さん(芝)。
一つ上の学年の東京都のレベルは高いなと、感じた全国大会でもあった。
自分の知らないところに、上には上がごまんといる。
自分は、学内ではちょっと速かった、凡人だった。
そうはっきり分かったこの頃であった。
私の走りの日記(9)
『初めての大会と現実』
「将来の夢は、オリンピックの陸上100mで優勝することです」
小学6年生の謝恩会の時、体育館の舞台の上で、
先生、親に向かって放った言葉だ。
夢ではなく、力を入れれば、人よりも前に出られるとこの時は思っていた。
いよいよレース。
男子の前に一年女子のレースが行われ、
同じ学校の女子の代表が、そのレースをぶっちぎりでテープを切った。
先生もそれを見て、「合言葉は‘ぶっちぎり’だ」と言った。
女子にそんなレースをされたら、自分もやるしかない。
気持ちに火がついた。
選手の招集があり、随分な大人数で競技場に入っていった。
駒沢競技場は、国立競技場のように、観客席がお椀のように盛り上がっていて、
中から見ると随分大きく感じた。
集まった選手を見渡すと、
学校にはいないような、大人びた人がたくさんいた。
皆、自分より背が高く見えるし、体つきもがっちりしている。
そしてすね毛も立派で、当然、脇毛もしっかり蓄えているだろう雰囲気だった。
当時、まだ脇毛の生えていなかった自分が、随分と子供に感じた。
そして極め付けが、周りの選手の体臭だ。
なんか大人の男っぽい匂いが周りからぷんぷんする。
これでさっきの心の火がか細くなり、少々気負ってしまった。
考えてみると、ここにいる人間は、
自分同様に、これまで走る事に関しては、
負けた事がない連中ばかりだというのは容易に想像できる。
走るのが得意だから陸上部に入り、学年で一番速いから選手に選ばれここにいる。
みんな自分と同じ、走る事に関しては、自信をもっている連中なのだ。
そうこう考えているうちに、自分のレースがきてしまった。
これをやりたくて、小学生の時からうずうずしてきたのだ。
‘やるしかない’
スタート位置に着き、一発でスタート。
走り出したら、今までのように力を入れて、全力で走るだけ。
この時はまだ走る技術が皆無だったが、
半分の地点では、すでに先頭に立っていた。
とにかく全力で、力一杯。
ゴールの白い糸を胸で着ることが出来た。
後日、先生が撮影してくれたこのゴールの写真を見たが、正しくぶっちぎりだった。
タイムは「13秒0」(+2.0)
全体でみると、12秒8が二人、その次に13秒0が二人と、
タイムでは二番目、結果、三位タイだった。
準決、決勝は翌日。
小学5年生の時と同じシチュエーションだ。
力を込めたら、今までと同じ前に出られた。
自信のついた自分は、この日の夜、
母親と弟と近所のとんかつ屋に行った。
母親もゲン担ぎをしてくれたのだろう。
その店の中で、私は母親に
「明日、多分、一位になると思うよ」
と言った。
母親は、笑いながら「あー、そう」と半分信じていないい感じだったが、
私は、結構な自信を持って、この言葉を放っていた。
そして翌日。
準決勝、レース前の事はまるで覚えていない。
二組あり、各組3着までが決勝に進出する。
予選を通過した者だけが集まっているので、
前日と比べると召集の人数も当然少ない。
それが緊迫感が漂う雰囲気に繋がった。
全く緊張しなかったと言えば嘘になる。
このメンバーは、予選を勝ち抜いてきた者たちだ。
しかし、この中でも力を入れ、全力で走れば、昨日と同じように先頭に立てるだろう、
そんな密かな自信ももっていた。
スタートラインに着き、号砲がなった。
この段階では、スタートがうまくいった、失敗したなどの技術的な事は全くなかった。
10m、20m進んだ頃だろうか、
力を入れ、いつもは先頭に並び、立つところだが、体一つか二つ前位に人がいた。
一斉にスタートしてからこの差は、これまでに経験したことのない距離だった。
‘やばい’と頭によぎった。
力抜くことなく、全力で走るが、距離は縮まらない、逆に開いていった。
焦りから力んでしまい、予選の時の様に体が前に進まない感じがした。
結局そのままゴール。
結果は、「13秒2」の3着。
1着は、桐畑悟史(練馬東中)。
全力で走っても、走っても、追いつかなかった初めての相手だった。
力を入れて、全力で走っても、前に出られない事を体感してしまった私は、
これまでの経験も自信も、一瞬のうちに吹き飛んでしまった。
三着だから決勝には残れたもの、
昨夜のような気持ちの勢いはなくなり、決勝を迎えるのが怖くなった。
それから決勝までどのように過ごしたかも覚えていない。
決勝メンバー6人が集まった。
気落ちしている自分から見ると、他の者は、皆、自信に満ちているように感じた。
自分が一番弱いように感じた。
それに体格の面からいっても、明らかに私が一番小さかった。
別に背の高さで勝負が決まる訳ではないが、
どの面から見ても、自信を取り戻せる側面は見い出せなかった。
いざスタート。
私は、2度もフライングをしてしまった。
この時は、同じ選手が3回フライングをすると失格だった。
2回目の時は、隣の準決勝で2着の奴に、
「ちぇ、なんだよ-」と文句を言われ、気負い状態に、さらに追い打ちをかけられた。
気負いと恐怖心。
号砲!
スタート直後に前に出られないのは分かっていた。
案の定、皆が前にいる。
そこで力を入れようが、体が前に進まない。
進まない、進まないと感じながらゴール。
結果、
1着-樋口秀之(練馬中)(12秒8)
2着-斉藤義久(大森一中)(13秒0)
3着-桐畑悟史(練馬東中)(13秒1)
4着-W(13秒2)
5着-K(13秒2)
6着-守屋雅彦(板橋三中)(13秒4)
断トツのビリだった。
レース後、帰宅してもろくに口がきけなかった。
初めて自分の実力を知り、現実を知った。
この時からオリンピックで優勝などの夢は、はるか遠くに消えてしまい、
東京都という舞台でも怖さを感じるようになった。
数日後、学校の学生新聞に私の記事が掲載された。
そこには、東京都で6番、凄い、凄いともてはやされた。
しかし当の本人は、あの結果を肯定的にとらえられることは全くなく、
言われれば言われる程、恥ずかしく、悔しかった。