板橋の自然健康ヨーガ教室 -4ページ目

私の走りの日記(23)

 

『東京都中学総体。そして通信大会へ』

 

6月の板橋選手権で、池ちゃん、斉田に迫られ、

桐畑に惨敗と気落ちする内容に終わったが、

その後の学校の体育祭の徒競走で、

一年前、池ちゃんに敗北した汚名を返上出来たし、

七月に入り、自主練で、腕振りに良い感覚があり、走りがまとまってきた。

一ヶ月前の落ち込みは消えていき、気持ちは上向きになっていた。

 

七月の始めから二週に渡り、東京都の「総合体育大会」が始まった。

一週目は、200mの決勝まで行われた。

この時の予選はあまり覚えていないのだが、

決勝は、

1着-樋口秀之(練馬)22秒4(東京都中学新記録)

2着-青山範朝(青梅一)22秒6(東京都中学新記録)

3着-桐畑悟史(練馬東)23秒0

4着-守屋雅彦(板橋三)23秒1

5着-小熊邦尚(王子)23秒2

 

樋口、青山は、東京都の短距離陣の中では、実力が抜きん出ていた。

私は、小熊と接戦で、発表があるまで着順が分からなかったが、

結果、何とか四着に入ることが出来た。

ただこの時の判定は、私の中で未だに、

もしかしたら負けていたのではないかと疑問の余地を残している。

23秒1というタイムは、全国大会参加標準記録に達し、

私はこの時点で全国大会出場を決めた。

この時は、一年前に全国大会が決まった時に比べると、

思わず声を上げる喜びはなかった。

よし、まずは200mで決まった、という心境だった。

私の中で、競技をするのも、観るのも好きな順があって、一番は100mだった。

自分がどの種目に適性があるかは考えた事がなく、常に100mを中心に考えていた。

この時も全国参加標準記録が頭になく、結果、付いてきた感じだった。

だからこのレースで、

強者、小熊に勝った事も、桐畑に負けた事も、大きな感情は湧かなかった。

 

勝負は翌週の100m。

大会前に掴んだ、良い感触の腕振りを引っ提げて、予選を難なく通過。

準決勝では、樋口と同じ組になった。

ただ樋口以外は、これといって目ぼしい選手はいなかった。

決勝進出は3着までだから、決勝には進出出来るだろうとの目算が立てられた。

レース前のスタートブロック合わせ。

隣のレーンの樋口のスタートを見て唖然とした。

スタブロを蹴る音が自分とも他の選手とも明らかに違う。

そして蹴った後の腿の上がりが凄く、レベルの違いをまざまざと見せつけられた。

今でも鮮明に覚えているが、惚れ惚れする姿だった。

これでは勝てない。

何とか樋口に離されないでついていこう。

昨年の「地区対抗」と同じ作戦だ。

結果、1着:樋口(11秒2)、2着:守屋(11秒4)。

あの樋口に0秒2の差で納まったのが、決勝に向けて気持ちは上向きでいた。

決勝。

1着-樋口秀之(練馬)11秒1

2着-青山範朝(青梅一)11秒2

3着-小熊邦尚(王子)11秒3

4着-守屋雅彦(板橋三)11秒4

5着-桐畑悟史(練馬東)11秒5

6着-和田智寿(成城)11秒6

 

小熊には負けたが、桐畑に100mで正式に勝ったのは初めてだった。

一年の初めての大会で惨敗の土を舐めさせられてから、

ここまで戦えるようになったと、このレースの結果は割と満足した。

ただ全国大会の参加標準記録は「11秒3」で突破は出来なかった。

望みは、この後に行われる「通信大会」の3レースにかけるしかなかった。

 

また三年の都大会では、もう一つ重要な種目があった。リレーだ。

「東京リレーカーニバル」「東京選手権」と都内では勝っており、

リレーに関しては、優勝を狙っていた。

我が校は、宮林、中村、池内、守屋の走順だ。

種目は、4×200mリレー。

決勝。

私のところには三番手でバトンが渡った。

前には、九段中と渕江中。

距離は結構離れていたが、バトンをもらった瞬間、いけると思える差だった。

直線に入り、前の二人を追いかけていく。

負けてはならないとの強い気持ちが心の奥底から出てきた。

この瞬間、あのゾーン体験がまた現われた。

ぐんぐんと差が縮まり、最後は1メートル以上の差をつけてゴールした。

ゴールした瞬間、無意識に手を挙げてしまった。

勝利のガッツポーズを行ったのは、後にも先にもこれ一度きりである。

東京都大会で初めてもらった「1位」の賞状だった。

 

翌週、「稲付ナイター陸上」があった。

プログラムで参加選手を確認すると、神民一の名前があった。

昨年までは、2番、3番にきっちり位置していた、自分よりも格上の選手だ。

ただ「東京選手権」でこけながらも神に勝ってたことは、

この年のこの後のレースに対して大きな自信になった事は確かだった。

また先週の「総体」でも決勝に上がってこなかったから、

この試合でも勝てるという自信が、不安よりも強かった。

予選、準決、神と私は、ほぼ同タイムで組一着で決勝に上がった。

この時の競技場は、アンツーカーだった。

決勝前、雨が降ってきた。

スタート合わせを行い、いざスタート・ラインに並んだ。

そこには池ちゃんもいたが、私がマークしていたのは神だけだった。

「東京選手権」がまぐれではなかったということを、

きっちりと証明し、自信を確固たるものにしたかった。

次第に雨脚が強くなってきた。

強い雨の中、しばらく立たされていたが、

結局、レースは中止となり、この大会は準決勝で終わってしまった。

準決勝の記録で順位が決まり、走らずして、神が一位、私が二位となった。

この大会の記録の出し方は特異的で、

手動ながら、記録を百分の一秒まで打していた。

その百分の何秒差で二位に決まった。

「この決着は翌週の通信大会でつける」、

そう心に思いながら、自信が弱まる事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の走りの日記(22)

 

『練習内容、環境、そして顧問の先生』

 

部活の練習では、

伝統的に引き継がれてきた練習メニューというのは一切なかった。

顧問の先生が練習を指揮するのは、春、夏、冬休みくらいで、

普段の練習には、必ず先生が顔を出していたということはなかった。

よって一年の時は三年生の指揮で、

二年からは、自分たちのやりたいようにやっていたから、

自主的にやる者は走るが、

意識性が低い者は、大半が長いおしゃべりで時間が過ぎてしまう事も多々あった。

私が入部した当時、三年生に指導してもらったのにも関わらず、

自分が最上級生の立場になった時には、下級生に何一つ指導した記憶がない。

一番指導しなくてはならない立場にいながら、

自分の事で精一杯の駄目な上級生だったと、今更ながら反省する。

けれど部員の中では、誰よりも集中して練習をしていたという自信は持っていた。

が、しかしそれは何のいい訳にもならない。

私が、家に帰って自主練をしているということは、部員も知っていた。

それを知った池ちゃんと栄三は、‘守屋に負けるなと’と一緒に自主練としていたらしい。

そんな時、一年生の短距離有望株二人が、

池ちゃんと栄三に、「走りを教えて下さい」とお願いしたというのだから、

私の人望のなさがうかがえる。

ただ当時は、その話を聞いても、何とも思わなかった。

100%、東京都のトップの連中に目が向いていたからだ。

 

そんな中、6月の体育祭後、校庭の改修工事が入るということで、

練習が校庭で一切出来なくなってしまった。

都大会まで一ヶ月と迫る中、きちんとした練習が出来ない。

結局、学校横にある神社の参道がメインの練習場となった。

これも、今考えると、神社側に何の許可もなく、一礼することなく、

勝手に走っていたのだから、何とも罰当たりな話である。

また反対側の学校横の結構な坂道のダッシュも練習に取り入れた。

参道のスタートダッシュでスピード力を図り、坂でスピードの持続力向上を図った。

これは、自分の自主練から引っ張ってきた内容で、

この時は、部員全員がこの練習を行った。

地面はアスファルト。

脚を痛めるとか、そんな事は言ってられなかった。

理論的な高度な練習は出来なかったし、知らなかったが、

この間に合わせの練習に不安もなかった。

自分で考え、工夫し、やりたいように出来た練習が、

中学生の自分にとっては、一番良かったのかもしれない。

 

そういった点では、

毎日みっちりと指導することのなかった顧問の五十嵐実先生に対し不満もなかった。

試合の時、大勢の部員がぺちゃくちゃ話ながら行列で競技場に向かう時、

私は必ず、先生の横にぴったりとくっ付き、

陸上に関して、自分の聞きたい事、話したい事にとことん付き合っていただいた。

質問する内容は、陸上に関する本当に細かい事や個人的な事。

先生は、学生時代にどっぷり陸上競技に浸かっていた訳ではないから、

返答に、時折困った事だと思う。

常に適切、正解な答えではなかったかもしれないが、

色々調べ、勉強して、親身になって答えていただいた。

そんな先生の答えが私の安心材料になっていた。

もし当時、もっと陸上の知識を持ったキャリアのある方に指導していただいたら、

もっと上にいけたのかどうかは分からないが、

当時も今も、あの先生だから自分はあそこまでやれたんだと思っている。

中学を卒業後、数度お会いしたが、高校卒業してからは一度もお会いしていない。

連絡先も分からないので、連絡の取りようもない。

風の便りでは、婿養子に入られたとも聞いた。

そうなればみ苗字が変わっている可能性がある。

また校長先生になられたとの話も聞いたが、いずれも確かではない。

インターネットで調べてみても、中々調べがつかない。

五十嵐実先生には、これまできちんとお礼を言ったことがなく、無礼のままでいる。

私の人生に、一つの光を射してくれた五十嵐先生に、

一言お礼を申し上げる機会を今でも探している。

 

 

 

私の走りの日記(21)

 

『再び自主練習が始まる』

 

記録会で試しに400mを走ってからは、

先生も400mに関して、私に言わなくなった。

これで100m、200mに専念出来るとホッとしていた時だった。

 

6月の初め、「板橋選手権」が行われた。

昨年は、2年生ながら、100m、200mの両種目で勝つことが出来た。

今年も当然、優勝を狙っていた。

ただ今年は、他区から桐畑が在学する練馬東中が参加していた。

100mの予選、11秒3で走った。

このタイムは、自己新記録、大会記録、中学板橋タイ記録が付いた。

これで気分が良くなり、翌日の種目はいけるだろうと自信が持てた。

翌日は、200mの予選から。

そして100mの準決、200mの準決、またリレーの予選と、

忙しいスケジュールをこなした。

この時は、一本、一本のレース前にきちんとアップを時間かけて行っていたので、

それこそ、休んでいる時がないような状態だった。

ただ、2種目とも、順調に準決勝は勝ち進み、

決勝は、桐畑との一騎打ちになりそうだった。

100mの決勝前。

一つ上の先輩、奈良さんが我々のところにやってきて、

気合のビンタを数発入れていただいた。

池ちゃんは、もう少しお願いしますと、もう数発気合を入れてもらっていたが、

私は、気合のビンタが痛く、逆に集中が散ってしまった。

池ちゃんと試合で走るのは初めてだった。

号砲。

集中しきれないまま、スタートしてしまった。

20m付近で隣の池ちゃんが、ぴったりついている。

この時点で桐畑は、既に前に出ていた。

何か訳の分からないうちに、70mまで進んでしまい、

池ちゃんは一向に離れない。

そして桐畑は、大分先を走っている。

結局池ちゃんを引き離せないまま、胸の差一つでゴール。

1着は、桐畑で11秒3、2着が私で11秒7、3着が池ちゃんで11秒7と同タイムだった。

何だか力の入らないレースで、桐畑にぶっちぎりで優勝をさらわれた事と、

池ちゃんとほぼ同時のゴールだったことに、随分と気落ちしてしまった。

そして200mの決勝前。

突然、鼻血が出た。しばらく上を向いて横になり、スタート地点に着いた。

これも桐畑に惨敗で2着。

しかも一年下の斉田茂(板橋一)に追い込まれてしまった。

レース後、板橋一中の顧問の先生が、私のところにきて、

「あれは、最後、斉田が抜いたよな。着順の判定が間違っているけど、どうする?」

と言ってきた。

私は、2着だったか、3着だったか判らなかったので、

そのままにすると告げたら、分かったということで、そこでお終いになった。

リレーもバトンミスで失格と、散々な結果で終わった。

 

帰りに顧問の先生が、池ちゃんに

「守屋は、このままだと今年は、全国は駄目かもしれない」

と漏らしていたらしい。

浮き沈みの激しい私を、

先生も、幾度と期待したり、落胆したりと繰り返させられたのだろう。

前回良かったら、今回は駄目という、

何かジンクスめいた、交互のパターンに自分自身もうんざりしていた。

 

しかし都大会では、何としてでも第一線で戦いたいし、全国大会にも出たい。

反省し、研究し、練習するしかなかった。

 

この時からまた、学校での練習以外に、帰宅後、夜に自主練を始めた。

走る理論は、正直、よく分からなかった。

だから、当時の私の研究というのは、

ビデオで一流選手の走りを繰り返し観て、それをイメージして試してみる程度で、

その繰り返しの中で、時折、良い感覚があると、

そこを更に追求して、走るというものだった。

とにかく感覚を大事に、そして感覚に頼っていた。

また不破さんのビデオや陸マガに掲載されていた練習方法を参考にして、

意義は分かっていなくても、取り組んでみたりもした。

内容はさておき、こうして自分で考え、自分に必要だと思う事をやる自主練は、

学校でみんなと一緒にやる練習とはまた別に、

スランプを脱出する為には、絶対不可欠なものだった。

また人のやっていない時も、自分はやっているとの自負が、心の安心材料にもなった。

翌月の都大会に向けて、日々、人知れず自主練は続いた。

そして、そこには、完全に自分だけが知る世界があった。

 

 

 

 

私の走りの日記(20)

 

『400mの体験』

 

リラックスの重要性に気付き、

不安に見舞われた「東京選手権」を何とか乗り切る事が出来て、

気持ちは、上向きになっていた。

 

最終学年の3年生になると、

これまでの100mに加え、200mも本格的な勝負する種目として視野に入れ始めた。

その第一戦が5月の「西部地区」になる。

この試合で、樋口の200m走を、先生としっかりと見る事が出来た。

カーブの100mを抜け直線に入った瞬間、急にピッチが上がり、腿がぐんと上がり始めた。

先生もそれをみて、

「あ、走りが変わった」

と声を出した。

後半の100m、そのピッチでぐんぐんと後ろを引き離していく。

凄い200mの走法だなと思った。

それをみて、自分も樋口と同じように走ってみようと試みた。

直線に出た途端、腿を上げて、ピッチを上げてみた。

レースは、トップでゴールしたが、

先生に、走りが樋口のように変わっていたかと聞いたら、

変わっていなかったとあっさり言われてしまった。

その時、樋口は22秒7、桐畑が23秒2、私は23秒5と全体で3番目の記録だった。

樋口の見事な走りに、今年はあの走りと200mを勝負するのかと思うと、

何だか怖くなってしまった。

 

そして翌週、100m。

レース前に樋口がチョコレートを一口食べていた。

それを見ていた私に、

「食べる?」

とチョコレートを一かけらくれた。

当時は、糖分が力になるということを知らなかったので、

なぜ走る前にチョコレートを食べるのか分からなかったが、

樋口が食べているのなら、得はあっても、害はないだろうと思い、素直に食べた。

そしてレース。

これといって知っている名前がなかった組だったが、

いざ走ると、一人だけ離れないでついてくる者がいた。

結局、あまり差をつけられずにゴールをした。

ゴールをした時に、張られている糸で、

左脇を擦って、赤くみみずばれになってしまったので、

1着でゴールした感覚はあったのだが、

折角、樋口からチョコレートをもらって食べたのに、

知らない相手に、圧勝出来なかった事に対して、不満が残った。

更に結果を聞きに行くと、私はそのレースで2着になっていた。

それも1着との差は、0.2秒あった。

最初にテープを切ったから付いたみみずばれ、

まあ、これは記録会の様なものだから、気持ちの上でも、そこで終わりにしたが、

この時、手動計測の不正確性、審判の判定に、間違いがあるということを知った。

 

そして、この試合の前に、先生から

「今年は一度400mにも挑戦してみろ」

と言われていた。

自分としては、トラック一周という距離に、とても気が重かったが、

先生の命令となれば、従うしかなかった。

その予行練習として、この日の全競技が終わった後に、

ノンスパイクで400mを走ってみた。

先生としても、私がどの位走れるのか見たかったのだろう。

400mのペース配分が分からないから、最初の200mを飛ばしてしまった。

そこまでは走ったことがあるから持つのだが、

200mから300mのカーブの部分で、ガクッと体にきた。

そしてラスト100mの直線。

振っている腕の両肘が曲がらなくなってしまった。

体のコントロールが全くきかず、意識が半分上に飛んでいるような感じでもうろうとしてきた。

何とかゴールしたが、あの時、最後の100mは一体何秒かかったのだろうか。

肘が曲がらなくなってしまった事も、後にも先にもこの時一回だけの体験だった。

この体験で、400mという種目に、完全な恐怖心を覚えてしまった。

400mなんて絶対やりたくない、そう思ったが、

一度は出ないと、先生も納得してもらえない感じだった。

こうして、翌月に出場する試合まで、憂鬱な気持ちを抱えたまま一ヶ月を過ごすことになった。

 

一ヶ月後のとある記録会で400mを走る。

自分の中では、400mで勝負したいという気持ちがこれっぽっちもなかった。

この時考えていたことは、

とにかく、ラスト100mであの時のような状態にならないよう、

体力を温存しようということだった。

勝負心のかけらもなく、とにかく守り、守りの姿勢に徹していた。

結果、先頭に随分と離され、2着でゴール。

タイム:54秒8の平凡なタイム。

一ヶ月前の半死の状態は起きなかった。

これで先生も諦めてくれるだろう。

結局、400mのフラットレースに出場したのは、この1回だけになった。

 

話は戻るが、一ヶ月前の予行練習でゴールした後に、

桐畑が私のところに駆け寄ってきた。

「守屋君、400m頑張ろうね」

といきなり握手された。

彼も私と同じく、先生から400mを走ってみろと言われていたらしい。

そして私と同じように不安な心に見舞われていたのだろう。

そんな中、私の半分死んだような様子を見て、少しは救われたのかもしれない。

 

しかしこれは後の話になるが、

彼は、高校に入ってから、400mを主体の選手に転向し、

東京都でチャンピオン、そして国体にも出場した。

私とは、自力も根性も違っていたのだろう。

 

 

 

 

私の走りの日記(19)

 

『リラックス』

 

2年生時の冬季期間は、これといったものを見出せずに終わった。

 

4月半ばの最初の記録会。

競技場で、カメラを持つ樋口に会った。

彼は見学に来ていて、私を一枚撮ってくれた。

そんな東京チャンプの前でいい走りを見せなければと頑張ったが、

結果は11秒7と平凡なタイムに終わった。

 

それから数日後、2週間後の「東京選手権」で、

中学生の100mの招待選手として選ばれたと、顧問の五十嵐先生から告げられた。

この大会は、一般の選手も参加する、中学生レベルの大会と比べると、

格式が高いような大会だということを、先生から説明された。

選抜方法は、昨年の1,2年生の中から、トータル成績を考慮し、

16名が選出され、2組に渡ってレースを行うということだった。

東京都のトップメンバーと走るのは、

7月の都大会頃だろうとのんびり構えていたので、

心身共に全く準備が出来ていなく、

今、彼らと同等に競え会えるのだろうかと、かなり焦り始めた。

授業を受けていても、レースの事を考えるとドキドキしてくる。

正直、このレースから逃げ出したい心境であった。

 

そんな中、東京選手権の一週間前に、「東京リレーカーニバル」が国立競技場で行われた。

この大会は、リレーのみで、上位記録八校が、

翌週の「東京選手権」で一発決勝で参加出来るということだった。

我が校は、全体トップの記録で走り、無事「東京選手権」参加を決めた。

 

招待選手の話を受けた頃だったと思う。

自分の走りの中で、‘リラックス’ということを意識し始めた。

これまで、走る時には、リラックスしなければならないと、

陸マガなどの文献で読んでいたのだが、

全力で走る上での力の抜き感が理解出来なく、

手脚共に力を込めて走った方が、速く走っている感じがしていた。

しかしカール・ルイスもリラックスして走っているなどの話を、

顧問の先生から時折聞かされており、リラックスに関して気にはしていた。

二週間後に迫る大会の焦りから、何とかしなければとリラックスした走法に取り組んでみた。

イメージは、とにかく大きく走る。

そして腕、脚を98~99%位の早さで、

ほんの少しの余力を残す感じで動かすように走ってみた。

これが良いのか、どうかは「東京選手権」当日まで分からなかった。

初日にリレー、翌日に100m。

リレーは四走だった。

トップでバトンが渡った。

そのまま国立競技場のメインコースを、

リラックスを努めた、自分なりの大きなフォームで走った。

余力を残している感があるので、速く走っている感覚は正直なかった。

しかし、後ろから誰も追ってこない。

結果、1着。

後ろと差が縮まっていなかった、先生に確認すると、

いい走りだったと言ってもらえた。

昨年、記録ランキングで2番に入った、

青山率いる青梅一中が、アンカー青山のごぼう抜きで2着に入ったが、

私との差は縮まっていなかったとの先生の言葉に、

自分のリラックスを心掛けた、大きな走りに自信が持てた。

そして翌日、100m。

1組は、青山、小熊、桐畑、曽根田

2組は、樋口、神、米屋、守屋

と組まれていた。

 

1組の結果:(+2以上)

1着-青山範朝(青梅一)11秒23

2着-桐畑悟史(練馬東)11秒48

3着-小熊邦尚(王子)11秒51

 

1組の追い風とは逆に、2組はいきなり向かい風になった。

この組には、樋口を始め、いつも2着、3着に入っている実力者の神がいた。

しかし私は、昨日のリレーの優勝に気分を良くしていたのか、

昨日の自分の走りを信じ、案外落ち着いてスタートに着いた。

号砲!

スタートブロックを蹴ったら、スポーンとスタブロが後ろに滑ってしまった。

それに伴い、私は、体勢が完全に崩れ、こけてしまった。

それでも焦りはしなかった。

落ち着いて体勢を持ち立て直し、力まず、リラックスして大きく走った。

樋口は、随分先に行ってしまったが、後半、神、米屋を捉え2着に入った。

 

2組の結果:

1着-樋口秀之(練馬)11秒25

2着-守屋雅彦(板橋三)11秒65

3着-神民一(北)11秒71

4着-米屋信義(府中八)11秒72

 

こけたレースで、この組で2着に入れたのは、

この年の都大会に向けて、大きな自信になった。

‘これで今年もいける’

国立競技場という素晴らしい競技場で残した結果ということもあり、

この方向でいこうと、道に光が射し始めた大会だった。

 

そしてここで、ようやとリラックスの重要性に気付くことになった。