私の走りの日記(28)
『中学生最後の大会、ライバル、三年間の反省、そして感謝』
私にとって中学生最後の陸上の大会、「東京都地区対抗」出場権を目指し、
その選考会を兼ねた「板橋区総体」を無事、板橋区新記録で優勝した。
「よし、この記録をぶら下げて、彼らと中学最後の勝負だ」
と意気込んでいた。
「総体」から数日後、板橋区の選考委員会が開かれた。
戻ってきた先生から告げられた。
「お前は200mになった。最初、100mで名前が挙がったんだが、
ある重鎮の先生が、「守屋は200mでしょ」と一声上がり、それで決まった。
100mは池内が出ることになった。」
これを聞いた時、がっかりした。
どちらが得意かは別として、やっぱり100mが好きだった。
それは最も速い者を決める種目は、100mだという思いがあったからだ。
100mは、無呼吸で全力で走り切れる種目だ。
それに対し200mという距離は、呼吸なし、
また100mのように全てを全力で走るのは無理で、
スタートからほんの少しの余力を確保しなければ走り切れない。
また100mの一直線に並んで勝負をするというのも、
完全な公平感があり、好きな理由であった。
自己記録も十分、彼らとより対等に渡り合えるタイムだったので、
最後の試合は100mの勝負しか頭になかった。
それでも先生方々の間で決まった事を、
私がとやかく言ってもひっくり返りはしない。
「分かりました」と受けるしかなかった。
その反面、池ちゃんはいいなと羨ましかった。
陸上部に入ったこの三年間、
池ちゃんを羨ましいと思った事はこの時だけだった。
でも前にも書いたが、池ちゃんはこの三年間、
私が壁になって、ずっと苦汁を飲んできたのかもしれない。
池ちゃんの努力、実力が報われる機会が巡ってきたと考えれば、
この件は落ち着くしかなかった。
この大会には、板橋選抜として4×200mリレーのメンバーにも選抜された。
メンバーは走順で、池内、中村、守屋、中條。
中條以外は同じ学校で、中條は「総体」で100mで2着に入っていて、
元々は、400mが強い選手で、200mも走れた。
昨年、200mのレースで私に「早く僕の事を抜かしてね」と言ってきた選手だ。
一年後には、区を代表して一緒のチームを組める選手にまでなったんだなと思った。
9月初旬の「総体」から10月後半の「地区対抗」まで一ヶ月半以上間があった。
9月は普通に練習出来ていたのだが、10月は修学旅行があり、
その準備やら、旅行やらで、思うように練習が出来なかった。
あまりにも集中して練習が出来なかったので、
旅行先の宿舎の廊下でスタートダッシュなんかをしたが、
全然練習にはならず、感覚もずれてきている感じがして、不安になった。
当日。
会場は、一年生の初めての大会と同じ「駒沢オリンピック公園陸上競技場」だ。
二年前は、アンツーカー(土)のグランドだったが、
昨年工事し、きれいなタータントラックになっていた。
9月に自己新を出した時と比べると、肌寒くなっていた。
天候も曇り。
感覚も何だかぼやけていて、気分もしゃっきりしなかった。
プログラムで全国組を確認すると、
100mに、樋口、小熊、桐畑、和田がエントリーされて、
200mは、青山と私しかいなかった。
やっぱり100mで彼らと勝負したかったなと思いながらこの大会に挑んだ。
二日間の初日は、リレーの予選のみ。
ここ二年勝っている練馬選抜がダントツのトップタイムだった。
板橋選抜は、二、三番目というところ。
そして翌日。
200mはエントリー数が少ないので、予選、決勝の二本のみ。
100mは予選、準決、決勝としっかり三本組まれ、
これも何だか、主は100mのような感じがして、しっくりこなかった。
200mのメンバーをみて、青山には勝てる気はしなかったが、
最低でも2番。
それ以外は自分の中で許せなかった。
予選。
トップでゴールしたが、
マークしていなかった選手がぴったりと付いてきた事に、
気分は盛り上がらなかった。
そしてトラック下の通路で、調度、樋口の100m準決勝のスタートをみた。
この時、7月の「総体」に続き、二度目の樋口の凄さを感じた。
スタートからの腿の上がりが、他の選手の動きとはまるで違かった。
間近で見る機会があったせいか、
私の記憶では、他の全国区の選手と比べても、
樋口の走りは、本当にきれいで、凄いイメージがある。
一般の全国、世界のトップ選手は、
遠くや、テレビでしか観たことがなかったから、
実際に近くで見ていた樋口のスタートは、それ以上の迫力を感じていた。
彼はスタート型の選手ではないのだが、
その腿の上がりというか、動きは本当に美しく感じたものである。
話は私に戻り、200mの決勝前、
関東大会で短距離のコーチにあたられた、I先生に観客席でばったりお会いし、
「決勝、頑張れよ。青山なんか負かしてやれ」
と言われた。
今考えると、非常に嬉しいお言葉だったが、
当時の私は駄目で、青山に勝ってやろうという闘志は湧いてこなかった。
そして決勝。
後で映像で見ると、前半のコーナーは、青山と結構いい勝負をしていた。
しかし、関東大会、全国大会で見せられた、
あの後半の馬力がいつ炸裂するのかと思うと、恐怖感を感じた。
しかし青山も私相手に、あの馬力を出すまでもなく22秒9でゴールした。
私は23秒3の2着だった。
何とも情けない話である。
後半潰れてでもリレーの時の様に、
がむしゃらになれば良かったと後悔が残った。
結局、これが私の中学生最後の個人レースとなった。
100mの決勝。
全国メンバーの四人に加え、松本、そして池ちゃんが決勝に残った。
松本というのは、今年の「西部地区」で100mを一緒に走り、
私の胸には、ゴールに張ってある糸を切った後が残っていながらも、
結果、負けてしまった選手だ。
決勝のラインに並んだ彼をみて、彼も速かったんだなと思った。
その決勝のラインに並んだ、これまで競い合った面々をみて、
自分もあそこに立ちたかったと、またつくづく思い、
観客席でみていることが何だか寂しかった。
200mの2位は、都大会で自己最高位だったが、
それに対する嬉しさはまるでなかった。
200mで2位より、100mで彼らと戦って3位の方が何倍も嬉しかったと思う。
結果、
1着-樋口秀之(練馬)11秒0(東京都中学新記録)
2着-小熊邦尚(王子)11秒2
3着-桐畑悟史(練馬東)11秒3
4着-和田智寿(成城)11秒4
5着-松本拓(?)11秒5
6着-池内学(板橋三)11秒7
この結果をみると、
二年前の最初の大会が同じ駒沢で、
1着:樋口、3着:桐畑、6着:守屋、
この大会には小熊は出ていなかったが、
翌月に通信大会では、小熊は2着。
そして池ちゃんは、私と同じ板橋三中で、私と同じ6着。
皆、この三年間、死闘を尽くして、偶然にも最初と同じ位置に落ち着いてた。
もちろん途中に変動はあっても、
三年間、東京都のこの順位を守り抜いたことは、ある意味立派だと思う。
最後のリレーは、練馬選抜が断然優勢だと見られていたが、
一走が予選とは変わり、最初に大変な遅れをとってしまった。
そして2走も順位を盛り返さず、3走の桐畑のところでは、
6チーム中5番目と、前とは大分差がつき、そのまま樋口へ。
さすがの樋口もあまりの差のつきように、一人も抜かせず、
青山とビリ争いで練馬選抜は5着の番狂わせが起きた。
そして何と我が板橋選抜が、優勝の座につくことが出来た。
三走の私のところには、四番手位でバトンが渡ったが、
コーナーを抜ける時には、トップに出て、そのままバックストレートを走った。
後ろに足立区がぴったり私についてきて、
バトンの受け渡しが混戦してしまい、板橋が二着に転落。
しかしコーナーを抜け、ラストの直線で、
中條が、400m選手の持ち前のラストの強さを見せつけ、
先の足立区を抜かし、最後は勝利のガッツポーズを出して優勝。
あの中條が最後の最後にやってくれた。
結局、この年、中村、池内、守屋の板三中リレーメンバーの三人は、
都大会でリレー負けなし、無敗の結果を残す事が出来た。
練馬選抜の思わぬアクシデントに救われ、
この年、リレーの神様は我々に微笑んでくれたんだと思った。
最後の表彰式。
リレーの表彰では私が、一位の一番高い表彰台に上がらせてもらった。
都大会で初めての一番高い表彰台だった。
この時の写真が残っているが、後でこの写真を見る度に、
この表彰台には、唯一他校の中條か、
我が校の部長の栄三に上がってもらうべきだったとこれまた後悔している。
これで私の中学最後の試合が終了した。
この二週後、11月2日、3日に「ジュニアオリンピック」が国立競技場で行われた。
「ジュニアオリンピック」の参加標準記録は、
全国大会よりも厳しく、私は参加資格がなく、見学に行った。
東京都の短距離陣で出場したのは、樋口と青山のみ。
秋も深まり、ヤッケを羽織る肌寒い季節感だった。
樋口は準決勝まで進み、青山は予選落ちだった。
決勝には、全国大会の決勝常連メンバーが大まかに残り、
優勝は、青森の菊池賢だった。
この時彼は、予選、準決、決勝と全て電気時計で10秒台で揃えた。
観客席で観た、彼の走る姿は、中学生とは思えない程、とても大きく感じた。
これが中学時代に足を運んだ最後の競技場となった。
この後は、大分遅れていた受験勉強に専念し、
部活の練習には一切顔を出さなかった。
(ライバル)
(自分の中だけで勝手にライバルにして、記述していることを予めご了承いただきたい)
(樋口秀之)
三年間の都大会を全て優勝という快挙を成し遂げた。
その走りから何から何まで、東京都の中で最も私に影響を与えた、
私にとって特別な選手だった。
(青山範朝)
彼は、樋口と共に全国区のトップ選手にまで上りつめ、一躍飛躍した。
彼の実力を初めて感じたのは、二年の全国大会前の合同練習の時だった。
一緒に走った200mで、後半が随分と速かった。
この時、密かに力のある選手だと感じていた。
その後の都大会から東京都で二番手の頭角を現してきて、
この年の活躍は先に記述した通り。
これは後の話になるが、高校三年時には彼が事実上一番になり、
高校卒業後の国体のリレーでは、
三走で出場し、アンカーにはあの不破弘樹さんが入られ、
不破さんにバトンを渡し、優勝したという輝かしい経歴を残した。
(小熊邦尚)
参加した都大会で全て決勝に進出を果たした。
これは樋口と小熊だけである。
彼の根性、精神力の強さは、彼を知れば知るほど、伝わってきた。
常に安定したその強さに、私はいつも一目置いていた。
(桐畑悟史)
私が初めて負けたレースの勝者であった彼は、
例年この地区対抗は、地区予選で負けて個人参加出来なかったが、
それでも2年、3年と全国大会に出場し、
最後のこの大会では、11秒3の好タイムで堂々3着に入った事は、
私からすれば称賛に値する。
やっぱりあの時、いくら力を出しても、
追いつかなかった強さは本物だったと納得する選手だった。
(和田智寿)
3年になってから頭角を現してきた彼だが、
この年の都大会の100mは全て決勝に残り、
完全にファイナリストの常連メンバーになった。
最後の地区対抗での走りは、全国大会メンバーと堂々に競っており、
他の選手達とは、既に一つ抜けた実力をつけていた。
(神民一)
同年代で、東京都で強かった選手と言えば、彼の名前は外せない。
一年の最後の大会でいきなり出てきて、二番に入り、
翌年からは、常に決勝で上位に食い込んだ。
前の年の「地区対抗」のリレーの決勝の時。
バトンにまごついた私をさっと抜いて、前にいる樋口を追いかけた快走は、
後に樋口が「あの時の後ろから追いかけてきた神の足音が怖かった」言わしめた程。
「強い」といつも感じさせた選手だった。
(池内学)
小学校の陸上大会で、私が負けた唯一の選手。
中学に入ってからは、私の壁があり、中々、都大会の表舞台に立てなかったが、
不屈の精神で遂に都大会のファイナリストに名を連ねた。
もし私が逆の立場で、一年生から過ごしていたら、
最後にこの様な結果を残せただろうか?
この三年間、彼の私に対する対抗心があったからこそ、
学内でも気を抜くことなく、私も成長出来たことは、間違いない事実である。
「反省」
練習内容については、基礎的な事を含め、
理論的に、そしてきちんと体系づけて練習をした事はなかった。
よって正しい技術はどういうものかということも知らないで競技に挑んでいた。
基本的な事をしっかり身に付ければ、
もっと上に行けたかもしれない等と考えられるかもしれないが、
その点についての後悔、反省はない。
中学生くらいまでは、技術を固めていくことよりも、
負けても、負けても、明日は分からぬと上を目指す根性、
目標に向かってのがむしゃらな努力、
そして根拠がなくても持てる自信、
こういった大胆性、若さゆえの勢い、エネルギーを生かすことの方が大事に思える。
小学生の頃、誰と走っても本気で勝つ気でいた。
中学で初めて負けてから、負ける感覚を知り、
それが繰り返されるうちに、
何とかして一つでも上にいってやると練習した半面、
明らかに力の差を感じる相手には、
勝負をする前から、結果を予想してしまうようになってしまった。
だから格上の相手に、
追い込まれた状況で現われた「ゾーン」体験は一度も起こらなかった。
中学二年の通信大会準決勝までのあの気持ち、
闘志を最後まで持ち続けられればと大きく反省している。
若ければ若いほど成長も著しく、何が起こるか、変化するか分からない。
強い相手に恐怖感を抱かず、
毎回、もっともっと強い闘志で挑むべきだった。
強い相手と戦う時には、失うものはないのだから。
それと私は、他のライバルと比べると、
試合の結果に安定性が欠けていた。
時折つかんだいい感覚を何度と味わったにもかかわらず、
それは一時的なものとなってしまい、
その時々に影響された、中身のない人真似に走ってしまった傾向が多々あった。
所詮、人は体も個性もそれぞれ違うのだ。
何の知識も持たないものが、上辺だけ一流選手の真似をしても、
それは逆効果だということは、明らかであった。
それよりも、掴んだ感覚をもっともっと大事に育てた方が、
どれだけ得る物が多かっただろうか。
例えそれが間違った技術だとしても、中学生の時期ではそれはあまり問題ない。
自分の長所をもっと伸ばすように考えれば良かったと思う。
(感謝)
思い返すと、私は、都大会をメインの戦場として戦ってきたと思う。
そして彼らに追いつき、追いていかれないように頑張ってきた。
その上で全国大会出場を目指し、練習を積んだ。
練習でつかんだ走りは、
今、自分なりに勉強し、照らし合わせてみると、間違いだらけだったことに気づく。
しかし、当時大事だったのは、何度も悔しい思いをし、それをばねにして、
自分なりに研究し、考え、そして人のいないところでも練習し、努力した事だった。
この経験は、今でも「あの時、俺は精一杯やった」と言い切れるし、自慢出来る。
この三年間の陸上競技の経験は、人生のこれから先を通しても、
私の生涯で、最も貴重な時期の一つになる事は間違いないであろう。
だから、この時から35年経った今でも、
こんなにも細かく、ほとんど資料をみる事なく覚えていて、記述出来るのである。
上記に記したライバル達に改めて感謝したい。
そしてこの中の何人かは、いまだに付き合いを持てることに幸せを感じている。
私の走りの日記(27)
『「脱力こそ最大の力なり」を知る』
全国大会が終わり、残る試合は2つになった。
9月に板橋区の「総体」。
ここで勝つと10月に東京都の「地区対抗」に進み、
この大会で中学陸上生活を締めくくる予定だった。
板橋の「総体」は、短距離は学年別の100mしか種目がなく、
それも各校一名のみの選出で競う試合だった。
前年までの二年間は、自然的に私が出場し、勝っていた。
この年も自動的に自分が出場するものだと思っていた。
しかし全国大会前に池ちゃんが
「「総体」出場をかけて守屋と勝負をさせて欲しい。」
と先生に打診していた。
私はその事を全国大会で競技を終えた夜に宿舎で告げられた。
「東京に戻ったら池内と勝負する。そして勝った方を「総体」に出場させる」
その事を告げられた時は、正直気分が良くなかった。
これまで板橋区の人間には負けた事がなかったし、
この年も都大会で全て決勝に残り、堂々と勝負できていたからだ。
他校のライバルたちは、何も総体に向けて、学内で選考会など行わないだろう、
なぜ俺だけ改めて勝負しなければならないんだと。
しかし後で、当時の事を考えてみると、
池ちゃんもこの年の板橋区の大会では、私の次の着順で入っている。
記録も良い記録で走っていた。
他校だったら堂々と代表に選出され、
決勝に残り、上位でゴールする力がある選手なのだ。
その事は自分でもよく分かっていて、
それでもこの二年間、思いを心に秘め、悔しい思いをしていたのだ。
後々、この申し出は理解で来たし、正当なものだった。
北海道から帰ってきた翌日は練習を休ませてもらった。
そしてその翌日、遅れて練習に顔を出した。
疲れが残っていて体はだるく、力が入らなかった。
池ちゃんと顔を合わせるや否や
「今日、勝負だって」
と言った。
「うん」
と私はうなずいた。
アップをし、流しをして、勝負に入った。
校庭の直線で70mから80m位の勝負だったと思う。
スタートし、20m付近で前に出られた。
一度前に出れたら、池ちゃんには後半抜かれる心配はなかった。
そのまま大した差はつかなかったが、私が先着した。
先生も「守屋でいく」と一言言ってこの勝負は終わった。
これで池ちゃんも納得してくれただろう、私はそう思い、片づけたかった。
夏休みが明けてすぐに「総体」はやってきた。
試合前日前夜、急に体に倦怠感を感じた。
熱を計ると38度を超えていた。
とにかく休まなければと、早めに布団に入った覚えがある。
翌朝、熱は下がったものの、倦怠感は消えない。
競技場に入り、アップをした時にもまだ状態は変わらなかった。
身体に全く力が入らないのだ。
体に力が入らないと全力で走れない。
アップ時には、全力走が出来なかった。
これまで板橋区の大会で、板橋の人間に対して、
例え上級生であれ、無敗を誇ってきた。
板橋の人間には絶対負けられないという強い気持ちがあった。
しかしあまりの力の入らない状態に、
これで勝負出来るのかと急に大きな不安に襲われた。
そして状態が回復しないまま予選が始まった。
先が読めない、ぶっつけ本番の心境のままスタートラインに着いた。
号砲が鳴り、いつものように飛び出した。
しかし案の定、脚にも上半身にも全く力が入らない。
2,3歩進んだところで、もうどうにでもなれと無意識的に開き直り、
全身の力を敢えて抜いてしまった。
脱力なまま、脚は前に投げ出すように、
そして腕は後ろに投げ出すようにと。
速く走っている感じはしないが、誰も私についてこない。
この状態で誰も追いかけてこないなんてラッキーだと思いながらゴールした。
予選は何とか一着でゴール出来、ひとまずホッとした。
そして放送で結果発表が流れた。
私のタイムは、11秒3で自己タイ記録で、他を大きく引き離していた。
これにはびっくりした。
あれで11秒3で走れるのか。
身体に力こそ入らないが、このタイムで自信もすっかり快復し、
気持ちは、気持ちよく上に向いてしまった。
自信が回復すれば、板橋の大会では断然自分に分がある。
そして決勝。
予選では、一気に脱力したらあれだけ走れたんだから、
決勝では、同じように一気に脱力した後に、
予選よりももう少し手足を速く動かすように努めてみようと考えた。
号砲。
スタートしたら案の定、力は入らない。
先程は半分無意識に力を抜いたが、今度はすぐに意識的に力を抜いた。
力の抜けた状態で、脚を前へ投げ出すように、腕を後ろに投げ出すように、
そしてさっきよりも気持ちの上で速く動かすように走った。
後ろから誰も付いてこない。
そのままゴールに向かって突っ走った。
結果:11秒2
このタイムは、自己新記録、
昭和43年に樹立された11秒3を17年ぶりに更新した
大会新記録、そして板橋区新記録となった。
なぜあの走りで自己新記録を出せたのかは分からない。
ただ速く走る為にはリラックスしなければならないということが、
この時、これまでよりももっと深いところで感じられた気がした。
この経験は「ゾーン」体験と共に、
私の陸上競技生活における貴重なものとなった。
そしてこれは、走る事だけではなく、
ヨーガを始め、様々な面においての基軸としている。
私の走りの日記(26)
『1985年全国大会』
関東大会を終え、この夏残るは全国大会のみとなった。
関東大会、全国大会と共に200mのみだったが、
それに向けての練習は特別しなかった。
というか、200mに向けてどのような練習をすればいいのか分からなかった。
この時には、学校の校庭も使えるようになり、
一周150メートルの距離を一周半くらい走り込むことはやったかもしれないが、
特に記憶には残っていない。
ただ今年の全国大会は2回目となるので、
私も先生も、昨年のようにただ参加するだけでいい、という気持ちではなかった。
かと言って、昨年と比べると、全国ランキングが上がっていた訳でもない。
むしろ持ちタイムは、参加標準記録ギリギリの一番下だ。
それでもこの年は前年に比べ、都大会等の成績は安定している。
そういったところをモチベーションにつなげ、士気を高めていた。
目標はと自分で問えば、昨年も同じだが「優勝」だった。
ただ本気で優勝を狙っているか言われれば、
自分の持ちタイムと、周りの持ちタイムを比較してしまうと、
本気で自分を信じる事が出来なかった。
これは、現実を見てしまうと仕方のない事なのかもしれないが、
陸上を始めて、負けを何回も経験するうちにいつの間にか、
勝負する前からこの相手には勝てないだろうと決めつけて、
小学生の頃の様に、常に一着だけを狙うということをしなくなっていた。
現実を知ったと言えばその通りなのだが、
中学生くらいの若いうちは、
もっともっと貪欲にいかなければ駄目だったと今更ながら思う。
本気で自分を信じて、がむしゃらに努力しなければ、
関東大会の青山のように、突然変異なんか起きやしないのだ。
折角二回も出場出来た全国大会。
もっともっと大切に準備をすればよかったと反省している。
この年の会場は、北海道の丸山陸上競技場だった。
この時、私は初めて飛行機に乗った。
元々、乗り物酔いする性質だったので、
時折ある、ふーと飛行機が下がる感覚に顔が青ざめた。
五十嵐先生も苦手だったのか、
「何だか怖いな」
と声を漏らしていた。
私達は、他の選手より一足先に空港に着いたので、
その足で競技場に向かって、軽めの練習をした。
200mをスタンディングスタートからの全力走を一本走ったが、タイムは23秒5。
感覚的も普通で、タイムももう少しいい数字が欲しかったなという感じだった。
東京都の宿泊先は大きなホテルだった。
今年は最上級生ということもあり、三年生男子選手の中には、
目をつけた女子選手のところにいって、はしゃいでいる者もいた。
私は気持ち的にそんなはしゃぐ余裕はなかったし、
こんな所ではしゃいだら、明日のレースに罰があたると思っていた。
でも結果、このはしゃいでいた選手の中にも、いい結果を残していた者もいたので、
そんなに堅くならないで、もっとリラックスしても良かったのかもしれない。
そんな中、小熊は一人部屋で勉強していた。
彼は勉学の成績がとても優秀らしく、受験も難関と言われる高校を目指していたらしい。
全国大会前の東京都の練習会の帰りも小熊と一緒だったのだが、
彼は電車の中でも問題集を広げて勉強していた。
私もそれを横で見て、この北海道にも手を付けたことのないドリルを持ち込んでいた。
競技場での姿、勉強する姿と、小熊は本当に根性者だと私は思っていた。
そして夜には、樋口に誘われ、電車ですすきのに行った。
お土産を買いに行くという事だったが、
当時の私は、すすきのがどういう街か全く知らなかった。
翌日、200mの予選。
1組に樋口。2組に私と組まれていた。
樋口は三着だった。
あの樋口も全国大会の予選では三着なのか。
関東大会で樋口の負けた姿はみたから、驚きはしなかったが、
走る前に、全国大会の大きさを改めて感じてしまった。
そして私の二組。
同じ組に関東大会で100m優勝した荒川がいた。
昨年、前年度のチャンピオンと同じ組だったのを経験しているから、別段動じなかった。
いざスタート。
コーナーを抜けたところで全体の中で遅れをとっていた。
そこから盛り返したかったが、差は開く一方だった。
結果、23秒77で8人中7着。
昨年と同じ後ろから二番目。
先生のところに戻ったら、「これはまずいな」と言われた。
しかし自分の中では、これが心身共に自分の実力だと素直に認められた。
この後の青山が凄かった。
予選で静岡の杉本龍勇とあたった。
彼は後のインターハイチャンピオンで、オリンピック選手にまでなった人物だ。
中学当時から、静岡の大会では追い風参考ながら凄いタイムを出していた。
その杉本相手に、またもや関東大会同様、凄い追い込みをみせて一着でゴール。
続く準決勝。
樋口は、組三着に入り、タイムで拾われ、決勝進出を果たした。
そして青山は、またもや杉本と対戦。
予選と同じく、後半の物凄い追い込みで一着でゴール。
タイムからみると、順当にいけば三番には入れる位置だった。
そして決勝。
青山に前二つの馬力が感じられない。
後半の爆発が出ないまま七着で終わった。
樋口は青山の一つ前の六番目でゴールし、関東大会の屈辱を何とか果たした。
その一つ前の五着に千葉の吉岡、そして四着に杉本と入り、
二着に一年生から常に入賞を果たしている宮城の高橋栄一が入り、
優勝は昨年の100mチャンピオン、青森の菊池賢だった。
関東大会のリレーの時といい、この時の決勝の時といい、
突然変異した青山は、三本目になると物凄い爆発力が影を潜め、不発に終わっていた。
人一倍がむしゃらに走っている様に見えたから、
二本までしか体力が持たなかったのかもしれない。
後になって、樋口にこのレースの事を聞いたことがある。
予選、準決とタイムで拾われた状況だったが、
決勝では何とか青山には先着したいという気持ちで走ったとの事だった。
東京都チャンピオンのプライドをかけたその執念が、
見事、六位入賞まで登り詰めただった。
この模様はNHKで放映され、現地にいなかった東京の短距離選手は、
樋口、青山の決勝の姿に「オッと!」と思った事だろう。
翌日、100m。
この時、北海道には、私の家族、
知り合いのビデオ撮影してくれていたおじさんが観に来てくれていた。
この日は、私の出番もなかったので、
先生も含め私の応援隊ご一行は、レンタカーを借りて、ドライブに出掛けてしまった。
ただ私は、大好物の100m観戦を選び、一人競技場に残った。
一次予選で落ちた小熊が私の隣にきて、
100mの二次予選を観戦していた。
どこかの組で欠場のアナンスが流れた。
それを聞いた小熊が、
「なんだよ、欠場するなら代わりに俺が出るのに」
と言った。
この言葉を聞いて、彼は根性も感じれば、負けん気の強さも感じる男だなと、
同じ競う相手として敬意を表した。
自分もこの予選落ちを、もっと悔しがらなければ駄目なんだとまた反省した。
樋口、青山とも二次予選で落ちた。
二人共昨日の200mで全てを使い果たした感じだった。
結局、優勝は菊池賢。
100m、200mの2冠を達成し、昨年は名倉、今年は菊池の年だった。
優勝した菊池は、同じ学年とは思えない程、とても大きく、大きく見えた。
観客席から100mの表彰式をみて、
全国で一番になるというのは、どんな気持ちなんだろうと思った。
この年もやっぱり参加しただけになってしまった。
そして1985年、中学三年の夏も終わりを迎えていた。
私の走りの日記(25)
『関東大会』
2つの都大会が終わり、
関東大会、全国大会に参加するメンバーが決まった。
全国大会は、参加標準記録を突破すれば出場出来るのだが、
関東大会は、関東の都道府県対抗であり、各種目2名が各都県で選出される。
この年の東京都は、
男子100M:小熊邦尚、新家義織
男子200M:樋口秀之、青山範朝
4×200Mリレー:守屋雅彦、桐畑悟史、青山範朝、樋口秀之(走順)
が選出メンバーだった。
都大会での三年の100m、200mは、共に1、2番が樋口、青山と不動だったので、
東京都の選考委員の先生方も選出には苦労されたのではないかと思う。
タイムで見ると、二人共200mのタイムの方が、
高レベルだったので、東京トップ二人を200mに選出したのだろう。
私から見ると、関東大会でこの二人を敢えて戦わすのは勿体ない気がした。
100mの小熊は、妥当な選出だ。
もう一人、新家は2年生のチャンピオンだ。
都大会では11秒4で走って、私と同タイムであった。
ただ私は、100mで全国大会出場を決めていない。
また3年生で全国大会を決めた他のメンバーは桐畑と和田であったが、
この二人は、2つの大会で私に負けている。
そこで2年生の新家が選出されたのだろうとの推測がついた。
またリレーに関しては、私でなく小熊でもと思ったが、
種目は4×200mだったので、
200mで全国大会出場が決まっている4人が選出されたのだと解釈した。
また私は、この年の東京規模のリレーで負けなしのチームのアンカーだったので、
その点も考慮されたのかもしれない。
大会は、8月9日栃木県総合運動公園陸上競技場で行われた。
選手と引率の先生は前泊し、私は、樋口、桐畑と同室だった。
寝る前に三人で話をしていて、眠くもなかったが明日は試合だからと部屋の電気を消した。
私は目が冴えていたので、すぐには寝付けなかった。
消灯後間もなく、桐畑の寝息が聞こえ始めた。
試合前に、彼は神経が図太いんだなと思った。
その後、樋口も寝付いたのだろうか。
結局、私はしばらく寝付けなかった。
翌日、私と桐畑は、リレーのみなので、午前中は割かしゆっくり出来た。
今でもそうだが、私は速い選手のレースを観るのが、三度の飯より好きだ。
特に100m観戦は大好物。
都大会では、こんなにゆっくりと観戦出来る機会はない。
自分事のようにドキドキしながら、そして一陸上ファンとして集中して観戦した。
100mの予選。
小熊は無事予選を通過し決勝に進出した。
新家は残念ながら予選落ちだったが、2年生ながらここに出られるだけ凄いと思った。
200mの予選。
1組は樋口。
カーブを抜け出したところではトップラインに位置している。
そこから持ち前の後半の強さでするすると抜け出し一着でゴール。
各県も選抜されたメンバーの中で、堂々の一位。
さすが、我が東京のエース。
続いて2組は青山が出場。
この組は、埼玉の小林悟。
彼は昨年、全国大会で100m2番に入っており、
この大会でも3年生に交じって、100m2番だった。
そして千葉県の吉岡光一。
彼も昨年の全国大会で100m6番に入っていて、二人共全国区の実力者だ。
明らかにこの組の方がレベルが高い。
いざスタート。
小林が滑らかな走りでコーナーをトップで抜けた。
その速さに、私の周りにいた生徒が「はえー」と声を出したほどだ。
直線に入ってからも小林の独擅場かと思った瞬間、
青山がピッチを上げて、がむしゃらに追いかけてきた。
青山は元々、非常に身体が揺れる、お世辞にもきれいでスマートな走りとではなかったが、
今日の走りは、いつもより馬力が違った。
歯を食いしばり、名一杯力を振り絞り、猛烈に追い込んでいった。
ゴール前で小林を交わし1着でゴール。
その猛烈な追い込みに、またしても周りから「おー」と声が上がったほどだ。
タイムも電気時計で22秒4台と素晴らしい自己新記録。
全体でも一位のタイム。
あの小林と吉岡に勝った青山の力強い走りは、突然変異したかのような変身ぶりだった。
午前中は、100m、200mの予選を観て、
私と桐畑は、東京都の短距離担当の先生から、
アップして、一本全力で200m走っておけと言われたので、
サブトラックで200m全力で走り、桐畑にバトンを渡した。
やはり中学生くらいの時は、
本番前に一本全力走を入れておいた方が体が動くというものだ。
そして午後。
100mの決勝。
小熊は8位の最下位だった。
しかしスタート前に並んだ姿、ゴールをした小熊の姿をみて、
決勝の舞台で走っただけでも立派だと思った。
私が出ていたら、恐らく予選落ちだっただろう。
やはり小熊の100m代表は間違いなかった。
ちなみに優勝は、栃木県代表の荒川貴幸。
タイムは10秒95と電気時計で11秒を切っていた。
次に200m決勝。
予選の二組はどちらも東京代表がトップに入った。
あの物凄い勢いのあった青山より、やはり樋口の方が速いのか?
観ている私も心臓が飛び出しそうになる位ドキドキしていた。
号砲。
コーナーは、やはり小林が速い。
そのスピードは、明らかに予選より速かった。
恐らく、予選で伏兵、青山に食われたから、
決勝では最初から飛ばせるだけ飛ばそうという作戦だったのだろう。
コーナーを抜けたところでは一人抜けていた。
その差は、予選以上の距離だった。
その後ろに青山、そして吉岡と付き、樋口は若干遅れていた。
やっぱり小林かと思った瞬間、青山が予選と同じく猛烈に小林を追い込み始めた。
しかしこの差はさすがに無理なのではと思ったが、物凄い勢いで迫っていく。
そしてほとんど同時にゴール。
結果、
1着-青山範朝(東京・青梅一)22秒43
2着-小林悟(埼玉・豊野)22秒44
3着-吉岡光一(千葉・和名ヶ谷)22秒72
4着-樋口秀之(東京・練馬)22秒74
青山が全国区の実力者相手に優勝した。
そして樋口が東京の人間に負けたのを初めてみたレースでもあった。
これで青山も一挙に全国区の実力者の仲間入りとなった。
予想だにしなかった200m決勝が終わり、
最後に大会締めくくりの種目として、男子4×200mリレーが行われた。
東京は一番外の7コース。
他県の一走は、
栃木県:荒川(100m優勝者)
神奈川県:佐藤泰弘(翌年の国体100mの優勝者)
と他県、100mの全国区の実力者が揃っていた。
私の調子は悪くなかった。
脚にエネルギーがみなぎっている感があった。
それに東京都の代表選手だ。
何であいつが選ばれたんだ?
と後で思われないような走りをしようと思った。
中学生の関東大会レベルでも、この様な責任感を背負う。
オリンピックに選出された選手の重圧は、
この時の私のとでは、まるで比でない。
あそこに選ばれる人は、予選落ちでも、優勝者でも、
物凄い事なのだと改めて思う。
一番アウトレーンなので、前に走る人がいない。
周りを考えずにガンガン飛ばしていこうと決めた。
スタートし、すぐに直線入り、200mにおけるアウトレーンは走りやすいと思った。
後ろから追いかけてくる感じもしない。
後でビデオで観ると三番手位でバトンを渡していた。
このメンバーの中での走りとしては、悪くなかったと思っている。
桐畑もそのままの順で青山にバトンを渡す。
200mチャンピオンの走りが炸裂するかと思いきや、さっきまでの勢いがない。
直線での猛烈な追い込みも見られず、樋口にバトンパス。
東京は三番手だった。
コーナーを抜け、前にいる神奈川県をスーッと抜いた。
そして前にいる栃木県にどんどん迫っていく。
あともう少しというところでゴールしてしまった。
あと15mあったら抜かしていただろう。
樋口もあと10mあったらと言っている。
このリレーの時の樋口は、さすが東京のエースという快走だった。
こうして東京チームは2着になり、
この時の記録は、この年の全国中学リレーランキングの2番になった。
都道府県選抜レースは、関東しか行わない為、
この関東大会の記録がそのまま、
ランキングの上位に占めることは例年の事であったが。
こうして関東大会は終わった。
最後に、支給された東京都のユニフォームを身に纏い、
競技場の芝生で東京都チーム全員で記念撮影を行った。
私もリレーながら、2位の賞状と銀メダルを首にぶら下げて写っている。
この大会に参加出来た事は、これまた写真共にいい思い出になっている。
普段は戦う相手が、この時は仲間として試合に参加出来た。
夏の日の夕陽を浴びながらの現地解散は、とても名残惜しかった。
私の走りの日記(24)
『1985年東京都通信大会』
1985年7月27日、28日に江戸川陸上競技場で「通信大会」が行われた。
二日間で、100m、200m、4×200mリレーの3種目に出場する自分にとっては、
ハードなスケジュールとなっていた。
またこの3種目のどれもが、好成績を望める位置にいたのと、
全国大会出場のラストチャンスだったので、
全てにおいて気を抜くことが出来なかった。
初日は、100mの予選、準決勝、そしてリレーの予選が行われた。
まず100mの予選。
レース一着でゴールしたが、タイムは11秒8。
私はアップの仕方が悪いのか、一発目のレースはタイムの悪い傾向があった。
一本全力で走った後くらいの方が、体が動いたのだ。
この時も体の切れは今一だなと思っていたが、このタイムが尾を引いた。
11秒8の者が多数いたのだ。
主要メンバーは全員、すんなり準決勝に進んだのに対し、
11秒8組は抽選になってしまった。
抽選会場に入ったら、知らない選手が沢山集まっていた。
私は「何で俺が抽選を受けなければならないんだ」と心の中で不満に思いながら、
この中に自分がいることが嫌になった。
予選の段階で抽選を受ける状況に、
先生も私に対して「何やってるんだよ」という苛立つ気持ちが少し表に出ていたのを感じた。
抽選で落ちるのは一名だけ。
結局、一名が抽選会場に来なかった為、その場の全員が準決勝に上がった。
私は「当然だ」と心の中で思いながら、会場を後にした。
準決勝の組み合わせが発表された。
決勝進出は、組三着まで。
私は二組で、青山、小熊、神がいた。
一組には、樋口、桐畑、前回の総体で決勝に残った和田がいたが、
和田という名前は、前回の決勝で初めて知った名前で、これまで負けた事はない。
よって自分にとっては、一組の方が決勝進出には楽に思った。
二組は、半分、決勝レベルの組み合わせだった。
しかし抽選で拾われた身である。
この三強の一人に何としてでも勝たなければと強く思った。
青山は、実力が樋口同様、一つ抜けていた。
小熊は、100mにかけては、三年生になってから、一段階強くなった感があった。
現状、この中で崩せる山は、先週、勝負がお預けになった神だと思った。
神には勝つ!
その意気込みで準決勝に挑んだ。
スタートから中盤、青山、小熊、神は自分の前にいた。
しかし心が諦めなかった。
後半、神に追いつき、ほぼ同時にゴールした。
先生も私も、結果発表があるまで3着か4着か分からなかった。
このレースの3着か4着では、決勝進出という大きく明暗が分かれる。
もし4着ならば、決勝進出は出来ず、全国大会出場の挑戦もここで絶たれる。
一組の結果発表。
1着:樋口(11秒0)
2着:和田(11秒3)
3着:桐畑(11秒3)
この時、追い風が3m以上吹いたので、参考記録となったが、
和田と桐畑は、この時点で全国大会出場を決めた。
二組の発表までには、これから少し時間が空いた。
私と神の着順判定に時間がとられているのだろうか。
そしてようやく結果発表。
1着:青山(11秒2)
2着:小熊(11秒3)
3着:守屋(11秒4)
4着:神(11秒4)
何とか3着に入る事が出来、決勝の舞台に首の皮一枚つながった。
ただ二組は、風が向かい風になってしまい、追い風に乗れなかった。
しかしこの難レースを、無事乗り切る事が出来、
翌日の決勝に向けて強い気持ちを持っていた。
この後、リレーも難なく、翌日の決勝に進出を決めた。
大会二日目。
まずは朝一に、200mの予選があった。
私は23秒4の全体3番目の記録で決勝に進出した。
そして午後にいよいよ100mの決勝を迎えた。
連日34度の気温で暑かったが、
私の気持ちも気温と同じく燃え、充実していた。
レース前にはお気に入りの音楽をウォークマンを片手に聴いて、
更に心を奮い立たせていた。
当時聴いていた音楽は、
「ジャーニー/Chain Reaction」
「アルフィー/スターシップ」
「ラウドネス/ガッタファイト」
などで、これらの曲で、気持ちが燃えてくる箇所も決まっていた。
私は2コースで一番端だった。
隣に小熊がいた。
私は、ふくらはぎが子持ちシシャモのように、足首に比べると異様に太い。
調子の悪い時は、このふくらはぎがぼてっとして見えるのだが、
調子がいい時、気持ちが充実している時は、膝から下がすっとしまって見えた。
この時もすっと見え、気持ちが充実しているのを感じた。
いよいよ全国大会出場へ挑戦出来るラストチャンスだ。
位置に着いての合図に
「お願いします!」
と大きな声を出して、スタートラインに着いた。
体にグッとエネルギーがこもる。
エネルギーが充満しすぎて、号砲よりも僅か早く飛び出し、フライングしてしまった。
しかし、集中もエネルギーも途切れることはなかった。
2回目の号砲。
私はドンピシャで飛び出した。
今までの中では、間違いなく一番のスタートだった。
20mまでは体一つ抜けて先頭に立っていた。
30mで早くも樋口につかまった。
それでも勢いは落ちることなかったが、力が入っていた。
後半、青山にも追いつかれ、
ゴール前で小熊にも迫られ、小熊とほとんど同時にゴールした。
結果、
1着-樋口秀之(練馬)11秒1
2着-青山範朝(青梅一)11秒3
3着-小熊邦尚(王子)11秒4
4着-守屋雅彦(板橋三)11秒4
5着-和田智寿(成城)11秒5
6着-桐畑悟史(練馬東)11秒6
この時のレースは、ビデオに撮影していて、
今でも観る事が出来るのだが、本当に私と小熊は同時で、
どちらが先着したか判らない。
このレースのゴール時の写真が、陸マガにも載っているが、
角度のせいだか、写真で見ると、私が先着している様に見える。
しかしこの判定に不服はなかった。
一つ残念だったのが、後半、小熊に刺された事だった。
昨年までは、前半リードしてれば勝てる算段が付いていたのだが、
その目算が崩された事は悔しかった。
100mに関しては、間違いなく彼は、私の一つ上にいた。
結局、100mの全国大会出場は果たせなかった。
このレースに走ったメンバー中、
100mで全国大会に出場できなかったのは私だけだった。
しかしこのレースを終えた後、落胆はなかった。
それは前回の総体同様、
全国大会出場を決めた桐畑、和田には、2大会共勝っていたし、
共に決勝に残り、そしてビリではなかったということで、
昨年よりは成績も安定したと感じたからだ。
これで自分も東京都の中で、100mのファイナリストとして、
確固たる地位が築けたものと自負で出来た。
続いて200mの決勝がこの後、1時間もない内に行われた。
コール時には、私もまだ疲れが抜けていなかったが、
他のメンバーもそうで、特に樋口が、
「絶対100mの決勝で走った者の方が不利だよ」
と声を荒げた。
これまで都大会で、一度も一位の座から降りた事のない樋口を、
常に安定した絶対王者にみていたが、
考えてみると、どのレースも一番でなければならないと、常に自分と戦っていたのだ。
だからこのレースも例え疲れていたとしても、
誰にも負ける訳にはいかなかったのだろう。
この時の荒声は、正しく絶対王者の叫びであった。
逆に私は、この時の200mの決勝に関しては、少々気が抜けていた。
それは、既に200mでは全国大会出場が決まっていたし、
この疲れている体で200mを名一杯走ってしまうと、
この後に控えているリレーが走り切れるか心配だったからだ。
200mは何着までに入るという気持ちはなかったが、
リレーに関しては、これまで勝っているだけに、
絶対負けられないという強い気持ちがあった。
そこで、これから200m走り、
更にその後、絶対負けられない200mを走る事を考えると、
余計、体に疲れを感じた。
しかしそんな事は言っていられない。
予選、全体の中でタイムが良かった私は、
内側に樋口、前に青山に挟まれたゴールデンゾーンに入っていた。
ゴールデンゾーンと言えば聞こえはいいが、
隣の内側に樋口がいるというのは、一番嫌なパターンだった。
あの西部地区の200m後半の見事な走り。
あれが後ろから追いかけてくると思うと怖くなってくる。
昨年、板橋の大会で私に
「早く僕を抜かしてね」と言ってきた中條の気持ちが分かる。
いざスタート。
スタートすれば先の事は、すっかりどこかに飛んでいってしまう。
カーブを抜ける前には、樋口に抜かれた。
しかし意外に追いつかれるのが遅かったと思ったが、
直線に入ってからは、気合も出ず、5着でゴール。
結果、
1着-樋口秀之(練馬)22秒6
2着-青山範朝(青梅一)23秒0
3着-神民一(北)23秒2
4着-小熊邦尚(王子)23秒2
5着-守屋雅彦(板橋三)23秒4
小熊も神も、このレースが200mの全国大会出場の最後の挑戦になったが、
結局は突破は敵わなかった。
レース後、自分の陣地に戻った。
リレーメンバーの他の三人は、この後の決勝に向けてアップに出たという。
私は、とてもじゃないが、すぐアップに出られる程、体力が残っていなかった。
息切れが止まらない。
そしていつからか、私は何本か走ると、左足小指の付け根が切れる様になってきた。
これが痛いので、いつも水絆創膏で補っていた。
この日も既に何回か水絆創膏を塗っていて、
これから塗ったら本番までに乾かないと思ったので、
思い切って、小指と薬指をテーピングでまとめた記憶がうっすらとある。
体の疲労と、出るからには勝たなければならないという、
精神的プレッシャーから、一瞬、逃げ出したくもなった。
しかし当然そんな事は出来る訳もなく、しばらくその場で横になって腕で目を覆った。
メンバーがアップから戻ってきて、
「まーちゃん、行くよ」
と急かした。
他のメンバーは、当然ながら気合十分である。
この時、私の体力が中々回復しなかったのは、主には精神的なところにあった。
前回の総体で、私にバトンが渡った時には、結構な差で前に二人いた。
今回も決勝に残った学校は、ほぼ同じだったので、
前回同様のレース展開になる事は、容易に予想出来た。
その時の私に、前回同様に抜かしてゴールする体力も残っていなかったし、
その展開を頭の中でイメージすると、絶対に抜かすという気力も湧いてこなかった。
まして一走の宮林は、受験体勢に入り、
7月に入ってからほとんど練習に出てこなかった。
彼が走れていないのは、目に見えて明らかだった。
コールを終えて、みんなで「行くぞ」と気合を込めながら、
1走、3走がスタート、ゴール地点、
2走、4走が200mのスタート付近に別れた。
レースが始まる前に、2走の栄三が、
「まーちゃん、気合を入れてくれ」
と私に一発、気合のビンタをせがんできた。
この時、ずっと一緒にやってきた仲間の存在を強く感じた。
強いビンタを栄三に一発入れたと同時に、自分自身も喝が入った。
一走の宮林がやはり大分遅れている。
二走の栄三はそのままの順位で三走の池ちゃんにバトンが渡った。
後で映像を見る限り、この時は後ろの方だった。
しかし池ちゃんがコーナーでスーッと何人か交わし、
直線に出た時には、2番手についていた。
先頭は前回同様、九段中。
そして池ちゃんの後ろにぴったりと、前回3着の渕江中が付いていた。
前回と違い、私は2番手でバトンをもらった。
ほぼ差のない渕江中は後ろにいる限り問題ではなかった。
バトンをもらい走り出した時に感じた。
前に走る九段中との差は、前回の総体の時より明らかに差が開いている。
前回は、前に二人いても、バトンをもらって走り出した時点でいけると感じたが、
今回は、そうは感じなかった。
ラスト100mの直線に入ってから、一瞬、駄目かもと頭によぎった。
まだまだ差が開いている。
万事休すだ。
残り70m。
走っていく中で、「やっぱり負けられない」という気持ちが、
心の奥底からまた沸き起こってきた。
しかし出てきたのが遅かったかもしれない。
それでも「勝つ」という気持ちが私を支配した。
あのゾーンがまた現われた。
ゴールまでの距離と相手との距離を瞬時に察知して、
射程距離に収めたかの様に、グイグイ、グイグイと追い上げていった。
そしてゴール前、私が胸をぐんと出して、胸一つで勝利した。
これは、勝つという気持ちの差の表れだったと思う。
レース前に心身共に疲労困憊していた状態からの、本当の火事場のクソ力だった。
思い返すと、このレースのラスト50mは呼吸していなかったと思う。
またフラットレースでは、23秒1がベストタイムだが、
この時のスピードは、加速走とかを考慮しなくても、
間違いなく22秒台のスピードで走っていたと思う。
栄三の気合が勝利に導き、池ちゃんのごぼう抜きの好走が勝利に導き、
皆の気持ちが、私の走りにつながった。
リレーの中では、このレースが一番思い出に残るものとなった。
この大会の結果、
私は、翌月に行われる「関東大会」で、
東京都代表として4×200mリレーのメンバーに抜擢された。
そしてもう一つこの大会にはおまけが付いた。
リレーが終わった後、アップシューズを取りに戻ったら、
私のシューズだけなくなっていた。
①誰かが、自分のと間違えて履いていってしまったのか?
②私の事を嫌っていた人物が盗んだのか?
③または、私のファンである女性が持っていってしまったのか?
事情は分からず仕舞いだが、どうせなら③であればいいなと思うし、
今はそう思って、事を片づけている。
その後、先生交えて、リレーメンバーと記念写真を撮ったのだが、
私の足元には、観に来てくれた知り合いのおじさんに借りた、
おじさんスニーカが写っている。