板橋の自然健康ヨーガ教室 -3ページ目

私の走りの日記(26)

 

『1985年全国大会』

 

関東大会を終え、この夏残るは全国大会のみとなった。

関東大会、全国大会と共に200mのみだったが、

それに向けての練習は特別しなかった。

というか、200mに向けてどのような練習をすればいいのか分からなかった。

この時には、学校の校庭も使えるようになり、

一周150メートルの距離を一周半くらい走り込むことはやったかもしれないが、

特に記憶には残っていない。

ただ今年の全国大会は2回目となるので、

私も先生も、昨年のようにただ参加するだけでいい、という気持ちではなかった。

かと言って、昨年と比べると、全国ランキングが上がっていた訳でもない。

むしろ持ちタイムは、参加標準記録ギリギリの一番下だ。

それでもこの年は前年に比べ、都大会等の成績は安定している。

そういったところをモチベーションにつなげ、士気を高めていた。

目標はと自分で問えば、昨年も同じだが「優勝」だった。

ただ本気で優勝を狙っているか言われれば、

自分の持ちタイムと、周りの持ちタイムを比較してしまうと、

本気で自分を信じる事が出来なかった。

これは、現実を見てしまうと仕方のない事なのかもしれないが、

陸上を始めて、負けを何回も経験するうちにいつの間にか、

勝負する前からこの相手には勝てないだろうと決めつけて、

小学生の頃の様に、常に一着だけを狙うということをしなくなっていた。

現実を知ったと言えばその通りなのだが、

中学生くらいの若いうちは、

もっともっと貪欲にいかなければ駄目だったと今更ながら思う。

本気で自分を信じて、がむしゃらに努力しなければ、

関東大会の青山のように、突然変異なんか起きやしないのだ。

折角二回も出場出来た全国大会。

もっともっと大切に準備をすればよかったと反省している。

 

この年の会場は、北海道の丸山陸上競技場だった。

この時、私は初めて飛行機に乗った。

元々、乗り物酔いする性質だったので、

時折ある、ふーと飛行機が下がる感覚に顔が青ざめた。

五十嵐先生も苦手だったのか、

「何だか怖いな」

と声を漏らしていた。

私達は、他の選手より一足先に空港に着いたので、

その足で競技場に向かって、軽めの練習をした。

200mをスタンディングスタートからの全力走を一本走ったが、タイムは23秒5。

感覚的も普通で、タイムももう少しいい数字が欲しかったなという感じだった。

東京都の宿泊先は大きなホテルだった。

今年は最上級生ということもあり、三年生男子選手の中には、

目をつけた女子選手のところにいって、はしゃいでいる者もいた。

私は気持ち的にそんなはしゃぐ余裕はなかったし、

こんな所ではしゃいだら、明日のレースに罰があたると思っていた。

でも結果、このはしゃいでいた選手の中にも、いい結果を残していた者もいたので、

そんなに堅くならないで、もっとリラックスしても良かったのかもしれない。

そんな中、小熊は一人部屋で勉強していた。

彼は勉学の成績がとても優秀らしく、受験も難関と言われる高校を目指していたらしい。

全国大会前の東京都の練習会の帰りも小熊と一緒だったのだが、

彼は電車の中でも問題集を広げて勉強していた。

私もそれを横で見て、この北海道にも手を付けたことのないドリルを持ち込んでいた。

競技場での姿、勉強する姿と、小熊は本当に根性者だと私は思っていた。

そして夜には、樋口に誘われ、電車ですすきのに行った。

お土産を買いに行くという事だったが、

当時の私は、すすきのがどういう街か全く知らなかった。

 

翌日、200mの予選。

1組に樋口。2組に私と組まれていた。

樋口は三着だった。

あの樋口も全国大会の予選では三着なのか。

関東大会で樋口の負けた姿はみたから、驚きはしなかったが、

走る前に、全国大会の大きさを改めて感じてしまった。

そして私の二組。

同じ組に関東大会で100m優勝した荒川がいた。

昨年、前年度のチャンピオンと同じ組だったのを経験しているから、別段動じなかった。

いざスタート。

コーナーを抜けたところで全体の中で遅れをとっていた。

そこから盛り返したかったが、差は開く一方だった。

結果、23秒77で8人中7着。

昨年と同じ後ろから二番目。

先生のところに戻ったら、「これはまずいな」と言われた。

しかし自分の中では、これが心身共に自分の実力だと素直に認められた。

 

この後の青山が凄かった。

予選で静岡の杉本龍勇とあたった。

彼は後のインターハイチャンピオンで、オリンピック選手にまでなった人物だ。

中学当時から、静岡の大会では追い風参考ながら凄いタイムを出していた。

その杉本相手に、またもや関東大会同様、凄い追い込みをみせて一着でゴール。

続く準決勝。

樋口は、組三着に入り、タイムで拾われ、決勝進出を果たした。

そして青山は、またもや杉本と対戦。

予選と同じく、後半の物凄い追い込みで一着でゴール。

タイムからみると、順当にいけば三番には入れる位置だった。

そして決勝。

青山に前二つの馬力が感じられない。

後半の爆発が出ないまま七着で終わった。

樋口は青山の一つ前の六番目でゴールし、関東大会の屈辱を何とか果たした。

その一つ前の五着に千葉の吉岡、そして四着に杉本と入り、

二着に一年生から常に入賞を果たしている宮城の高橋栄一が入り、

優勝は昨年の100mチャンピオン、青森の菊池賢だった。

関東大会のリレーの時といい、この時の決勝の時といい、

突然変異した青山は、三本目になると物凄い爆発力が影を潜め、不発に終わっていた。

人一倍がむしゃらに走っている様に見えたから、

二本までしか体力が持たなかったのかもしれない。

後になって、樋口にこのレースの事を聞いたことがある。

予選、準決とタイムで拾われた状況だったが、

決勝では何とか青山には先着したいという気持ちで走ったとの事だった。

東京都チャンピオンのプライドをかけたその執念が、

見事、六位入賞まで登り詰めただった。

この模様はNHKで放映され、現地にいなかった東京の短距離選手は、

樋口、青山の決勝の姿に「オッと!」と思った事だろう。

 

翌日、100m。

この時、北海道には、私の家族、

知り合いのビデオ撮影してくれていたおじさんが観に来てくれていた。

この日は、私の出番もなかったので、

先生も含め私の応援隊ご一行は、レンタカーを借りて、ドライブに出掛けてしまった。

ただ私は、大好物の100m観戦を選び、一人競技場に残った。

一次予選で落ちた小熊が私の隣にきて、

100mの二次予選を観戦していた。

どこかの組で欠場のアナンスが流れた。

それを聞いた小熊が、

「なんだよ、欠場するなら代わりに俺が出るのに」

と言った。

この言葉を聞いて、彼は根性も感じれば、負けん気の強さも感じる男だなと、

同じ競う相手として敬意を表した。

自分もこの予選落ちを、もっと悔しがらなければ駄目なんだとまた反省した。

樋口、青山とも二次予選で落ちた。

二人共昨日の200mで全てを使い果たした感じだった。

結局、優勝は菊池賢。

100m、200mの2冠を達成し、昨年は名倉、今年は菊池の年だった。

優勝した菊池は、同じ学年とは思えない程、とても大きく、大きく見えた。

観客席から100mの表彰式をみて、

全国で一番になるというのは、どんな気持ちなんだろうと思った。

この年もやっぱり参加しただけになってしまった。

そして1985年、中学三年の夏も終わりを迎えていた。

 

 

 

 

私の走りの日記(25)

 

『関東大会』

 

2つの都大会が終わり、

関東大会、全国大会に参加するメンバーが決まった。

全国大会は、参加標準記録を突破すれば出場出来るのだが、

関東大会は、関東の都道府県対抗であり、各種目2名が各都県で選出される。

この年の東京都は、

男子100M:小熊邦尚、新家義織

男子200M:樋口秀之、青山範朝

4×200Mリレー:守屋雅彦、桐畑悟史、青山範朝、樋口秀之(走順)

が選出メンバーだった。

都大会での三年の100m、200mは、共に1、2番が樋口、青山と不動だったので、

東京都の選考委員の先生方も選出には苦労されたのではないかと思う。

タイムで見ると、二人共200mのタイムの方が、

高レベルだったので、東京トップ二人を200mに選出したのだろう。

私から見ると、関東大会でこの二人を敢えて戦わすのは勿体ない気がした。

100mの小熊は、妥当な選出だ。

もう一人、新家は2年生のチャンピオンだ。

都大会では11秒4で走って、私と同タイムであった。

ただ私は、100mで全国大会出場を決めていない。

また3年生で全国大会を決めた他のメンバーは桐畑と和田であったが、

この二人は、2つの大会で私に負けている。

そこで2年生の新家が選出されたのだろうとの推測がついた。

またリレーに関しては、私でなく小熊でもと思ったが、

種目は4×200mだったので、

200mで全国大会出場が決まっている4人が選出されたのだと解釈した。

また私は、この年の東京規模のリレーで負けなしのチームのアンカーだったので、

その点も考慮されたのかもしれない。

大会は、8月9日栃木県総合運動公園陸上競技場で行われた。

選手と引率の先生は前泊し、私は、樋口、桐畑と同室だった。

寝る前に三人で話をしていて、眠くもなかったが明日は試合だからと部屋の電気を消した。

私は目が冴えていたので、すぐには寝付けなかった。

消灯後間もなく、桐畑の寝息が聞こえ始めた。

試合前に、彼は神経が図太いんだなと思った。

その後、樋口も寝付いたのだろうか。

結局、私はしばらく寝付けなかった。

 

翌日、私と桐畑は、リレーのみなので、午前中は割かしゆっくり出来た。

今でもそうだが、私は速い選手のレースを観るのが、三度の飯より好きだ。

特に100m観戦は大好物。

都大会では、こんなにゆっくりと観戦出来る機会はない。

自分事のようにドキドキしながら、そして一陸上ファンとして集中して観戦した。

100mの予選。

小熊は無事予選を通過し決勝に進出した。

新家は残念ながら予選落ちだったが、2年生ながらここに出られるだけ凄いと思った。

200mの予選。

1組は樋口。

カーブを抜け出したところではトップラインに位置している。

そこから持ち前の後半の強さでするすると抜け出し一着でゴール。

各県も選抜されたメンバーの中で、堂々の一位。

さすが、我が東京のエース。

続いて2組は青山が出場。

この組は、埼玉の小林悟。

彼は昨年、全国大会で100m2番に入っており、

この大会でも3年生に交じって、100m2番だった。

そして千葉県の吉岡光一。

彼も昨年の全国大会で100m6番に入っていて、二人共全国区の実力者だ。

明らかにこの組の方がレベルが高い。

いざスタート。

小林が滑らかな走りでコーナーをトップで抜けた。

その速さに、私の周りにいた生徒が「はえー」と声を出したほどだ。

直線に入ってからも小林の独擅場かと思った瞬間、

青山がピッチを上げて、がむしゃらに追いかけてきた。

青山は元々、非常に身体が揺れる、お世辞にもきれいでスマートな走りとではなかったが、

今日の走りは、いつもより馬力が違った。

歯を食いしばり、名一杯力を振り絞り、猛烈に追い込んでいった。

ゴール前で小林を交わし1着でゴール。

その猛烈な追い込みに、またしても周りから「おー」と声が上がったほどだ。

タイムも電気時計で22秒4台と素晴らしい自己新記録。

全体でも一位のタイム。

あの小林と吉岡に勝った青山の力強い走りは、突然変異したかのような変身ぶりだった。

 

午前中は、100m、200mの予選を観て、

私と桐畑は、東京都の短距離担当の先生から、

アップして、一本全力で200m走っておけと言われたので、

サブトラックで200m全力で走り、桐畑にバトンを渡した。

やはり中学生くらいの時は、

本番前に一本全力走を入れておいた方が体が動くというものだ。

 

そして午後。

100mの決勝。

小熊は8位の最下位だった。

しかしスタート前に並んだ姿、ゴールをした小熊の姿をみて、

決勝の舞台で走っただけでも立派だと思った。

私が出ていたら、恐らく予選落ちだっただろう。

やはり小熊の100m代表は間違いなかった。

ちなみに優勝は、栃木県代表の荒川貴幸。

タイムは10秒95と電気時計で11秒を切っていた。

次に200m決勝。

予選の二組はどちらも東京代表がトップに入った。

あの物凄い勢いのあった青山より、やはり樋口の方が速いのか?

観ている私も心臓が飛び出しそうになる位ドキドキしていた。

号砲。

コーナーは、やはり小林が速い。

そのスピードは、明らかに予選より速かった。

恐らく、予選で伏兵、青山に食われたから、

決勝では最初から飛ばせるだけ飛ばそうという作戦だったのだろう。

コーナーを抜けたところでは一人抜けていた。

その差は、予選以上の距離だった。

その後ろに青山、そして吉岡と付き、樋口は若干遅れていた。

やっぱり小林かと思った瞬間、青山が予選と同じく猛烈に小林を追い込み始めた。

しかしこの差はさすがに無理なのではと思ったが、物凄い勢いで迫っていく。

そしてほとんど同時にゴール。

結果、

1着-青山範朝(東京・青梅一)22秒43

2着-小林悟(埼玉・豊野)22秒44

3着-吉岡光一(千葉・和名ヶ谷)22秒72

4着-樋口秀之(東京・練馬)22秒74

青山が全国区の実力者相手に優勝した。

そして樋口が東京の人間に負けたのを初めてみたレースでもあった。

これで青山も一挙に全国区の実力者の仲間入りとなった。

 

予想だにしなかった200m決勝が終わり、

最後に大会締めくくりの種目として、男子4×200mリレーが行われた。

東京は一番外の7コース。

他県の一走は、

栃木県:荒川(100m優勝者)

神奈川県:佐藤泰弘(翌年の国体100mの優勝者)

と他県、100mの全国区の実力者が揃っていた。

私の調子は悪くなかった。

脚にエネルギーがみなぎっている感があった。

それに東京都の代表選手だ。

何であいつが選ばれたんだ?

と後で思われないような走りをしようと思った。

中学生の関東大会レベルでも、この様な責任感を背負う。

オリンピックに選出された選手の重圧は、

この時の私のとでは、まるで比でない。

あそこに選ばれる人は、予選落ちでも、優勝者でも、

物凄い事なのだと改めて思う。

一番アウトレーンなので、前に走る人がいない。

周りを考えずにガンガン飛ばしていこうと決めた。

スタートし、すぐに直線入り、200mにおけるアウトレーンは走りやすいと思った。

後ろから追いかけてくる感じもしない。

後でビデオで観ると三番手位でバトンを渡していた。

このメンバーの中での走りとしては、悪くなかったと思っている。

桐畑もそのままの順で青山にバトンを渡す。

200mチャンピオンの走りが炸裂するかと思いきや、さっきまでの勢いがない。

直線での猛烈な追い込みも見られず、樋口にバトンパス。

東京は三番手だった。

コーナーを抜け、前にいる神奈川県をスーッと抜いた。

そして前にいる栃木県にどんどん迫っていく。

あともう少しというところでゴールしてしまった。

あと15mあったら抜かしていただろう。

樋口もあと10mあったらと言っている。

このリレーの時の樋口は、さすが東京のエースという快走だった。

こうして東京チームは2着になり、

この時の記録は、この年の全国中学リレーランキングの2番になった。

都道府県選抜レースは、関東しか行わない為、

この関東大会の記録がそのまま、

ランキングの上位に占めることは例年の事であったが。

こうして関東大会は終わった。

最後に、支給された東京都のユニフォームを身に纏い、

競技場の芝生で東京都チーム全員で記念撮影を行った。

私もリレーながら、2位の賞状と銀メダルを首にぶら下げて写っている。

この大会に参加出来た事は、これまた写真共にいい思い出になっている。

普段は戦う相手が、この時は仲間として試合に参加出来た。

夏の日の夕陽を浴びながらの現地解散は、とても名残惜しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

私の走りの日記(24)

 

『1985年東京都通信大会』

 

1985年7月27日、28日に江戸川陸上競技場で「通信大会」が行われた。

二日間で、100m、200m、4×200mリレーの3種目に出場する自分にとっては、

ハードなスケジュールとなっていた。

またこの3種目のどれもが、好成績を望める位置にいたのと、

全国大会出場のラストチャンスだったので、

全てにおいて気を抜くことが出来なかった。

初日は、100mの予選、準決勝、そしてリレーの予選が行われた。

まず100mの予選。

レース一着でゴールしたが、タイムは11秒8。

私はアップの仕方が悪いのか、一発目のレースはタイムの悪い傾向があった。

一本全力で走った後くらいの方が、体が動いたのだ。

この時も体の切れは今一だなと思っていたが、このタイムが尾を引いた。

11秒8の者が多数いたのだ。

主要メンバーは全員、すんなり準決勝に進んだのに対し、

11秒8組は抽選になってしまった。

抽選会場に入ったら、知らない選手が沢山集まっていた。

私は「何で俺が抽選を受けなければならないんだ」と心の中で不満に思いながら、

この中に自分がいることが嫌になった。

予選の段階で抽選を受ける状況に、

先生も私に対して「何やってるんだよ」という苛立つ気持ちが少し表に出ていたのを感じた。

抽選で落ちるのは一名だけ。

結局、一名が抽選会場に来なかった為、その場の全員が準決勝に上がった。

私は「当然だ」と心の中で思いながら、会場を後にした。

準決勝の組み合わせが発表された。

決勝進出は、組三着まで。

私は二組で、青山、小熊、神がいた。

一組には、樋口、桐畑、前回の総体で決勝に残った和田がいたが、

和田という名前は、前回の決勝で初めて知った名前で、これまで負けた事はない。

よって自分にとっては、一組の方が決勝進出には楽に思った。

二組は、半分、決勝レベルの組み合わせだった。

しかし抽選で拾われた身である。

この三強の一人に何としてでも勝たなければと強く思った。

青山は、実力が樋口同様、一つ抜けていた。

小熊は、100mにかけては、三年生になってから、一段階強くなった感があった。

現状、この中で崩せる山は、先週、勝負がお預けになった神だと思った。

神には勝つ!

その意気込みで準決勝に挑んだ。

スタートから中盤、青山、小熊、神は自分の前にいた。

しかし心が諦めなかった。

後半、神に追いつき、ほぼ同時にゴールした。

先生も私も、結果発表があるまで3着か4着か分からなかった。

このレースの3着か4着では、決勝進出という大きく明暗が分かれる。

もし4着ならば、決勝進出は出来ず、全国大会出場の挑戦もここで絶たれる。

一組の結果発表。

1着:樋口(11秒0)

2着:和田(11秒3)

3着:桐畑(11秒3)

この時、追い風が3m以上吹いたので、参考記録となったが、

和田と桐畑は、この時点で全国大会出場を決めた。

二組の発表までには、これから少し時間が空いた。

私と神の着順判定に時間がとられているのだろうか。

そしてようやく結果発表。

1着:青山(11秒2)

2着:小熊(11秒3)

3着:守屋(11秒4)

4着:神(11秒4)

何とか3着に入る事が出来、決勝の舞台に首の皮一枚つながった。

ただ二組は、風が向かい風になってしまい、追い風に乗れなかった。

しかしこの難レースを、無事乗り切る事が出来、

翌日の決勝に向けて強い気持ちを持っていた。

この後、リレーも難なく、翌日の決勝に進出を決めた。

 

大会二日目。

まずは朝一に、200mの予選があった。

私は23秒4の全体3番目の記録で決勝に進出した。

そして午後にいよいよ100mの決勝を迎えた。

連日34度の気温で暑かったが、

私の気持ちも気温と同じく燃え、充実していた。

レース前にはお気に入りの音楽をウォークマンを片手に聴いて、

更に心を奮い立たせていた。

当時聴いていた音楽は、

「ジャーニー/Chain Reaction」

「アルフィー/スターシップ」

「ラウドネス/ガッタファイト」

などで、これらの曲で、気持ちが燃えてくる箇所も決まっていた。

私は2コースで一番端だった。

隣に小熊がいた。

私は、ふくらはぎが子持ちシシャモのように、足首に比べると異様に太い。

調子の悪い時は、このふくらはぎがぼてっとして見えるのだが、

調子がいい時、気持ちが充実している時は、膝から下がすっとしまって見えた。

この時もすっと見え、気持ちが充実しているのを感じた。

いよいよ全国大会出場へ挑戦出来るラストチャンスだ。

位置に着いての合図に

「お願いします!」

と大きな声を出して、スタートラインに着いた。

体にグッとエネルギーがこもる。

エネルギーが充満しすぎて、号砲よりも僅か早く飛び出し、フライングしてしまった。

しかし、集中もエネルギーも途切れることはなかった。

2回目の号砲。

私はドンピシャで飛び出した。

今までの中では、間違いなく一番のスタートだった。

20mまでは体一つ抜けて先頭に立っていた。

30mで早くも樋口につかまった。

それでも勢いは落ちることなかったが、力が入っていた。

後半、青山にも追いつかれ、

ゴール前で小熊にも迫られ、小熊とほとんど同時にゴールした。

結果、

1着-樋口秀之(練馬)11秒1

2着-青山範朝(青梅一)11秒3

3着-小熊邦尚(王子)11秒4

4着-守屋雅彦(板橋三)11秒4

5着-和田智寿(成城)11秒5

6着-桐畑悟史(練馬東)11秒6

 

この時のレースは、ビデオに撮影していて、

今でも観る事が出来るのだが、本当に私と小熊は同時で、

どちらが先着したか判らない。

このレースのゴール時の写真が、陸マガにも載っているが、

角度のせいだか、写真で見ると、私が先着している様に見える。

しかしこの判定に不服はなかった。

一つ残念だったのが、後半、小熊に刺された事だった。

昨年までは、前半リードしてれば勝てる算段が付いていたのだが、

その目算が崩された事は悔しかった。

100mに関しては、間違いなく彼は、私の一つ上にいた。

結局、100mの全国大会出場は果たせなかった。

このレースに走ったメンバー中、

100mで全国大会に出場できなかったのは私だけだった。

しかしこのレースを終えた後、落胆はなかった。

それは前回の総体同様、

全国大会出場を決めた桐畑、和田には、2大会共勝っていたし、

共に決勝に残り、そしてビリではなかったということで、

昨年よりは成績も安定したと感じたからだ。

これで自分も東京都の中で、100mのファイナリストとして、

確固たる地位が築けたものと自負で出来た。

 

続いて200mの決勝がこの後、1時間もない内に行われた。

コール時には、私もまだ疲れが抜けていなかったが、

他のメンバーもそうで、特に樋口が、

「絶対100mの決勝で走った者の方が不利だよ」

と声を荒げた。

これまで都大会で、一度も一位の座から降りた事のない樋口を、

常に安定した絶対王者にみていたが、

考えてみると、どのレースも一番でなければならないと、常に自分と戦っていたのだ。

だからこのレースも例え疲れていたとしても、

誰にも負ける訳にはいかなかったのだろう。

この時の荒声は、正しく絶対王者の叫びであった。

逆に私は、この時の200mの決勝に関しては、少々気が抜けていた。

それは、既に200mでは全国大会出場が決まっていたし、

この疲れている体で200mを名一杯走ってしまうと、

この後に控えているリレーが走り切れるか心配だったからだ。

200mは何着までに入るという気持ちはなかったが、

リレーに関しては、これまで勝っているだけに、

絶対負けられないという強い気持ちがあった。

そこで、これから200m走り、

更にその後、絶対負けられない200mを走る事を考えると、

余計、体に疲れを感じた。

しかしそんな事は言っていられない。

予選、全体の中でタイムが良かった私は、

内側に樋口、前に青山に挟まれたゴールデンゾーンに入っていた。

ゴールデンゾーンと言えば聞こえはいいが、

隣の内側に樋口がいるというのは、一番嫌なパターンだった。

あの西部地区の200m後半の見事な走り。

あれが後ろから追いかけてくると思うと怖くなってくる。

昨年、板橋の大会で私に

「早く僕を抜かしてね」と言ってきた中條の気持ちが分かる。

いざスタート。

スタートすれば先の事は、すっかりどこかに飛んでいってしまう。

カーブを抜ける前には、樋口に抜かれた。

しかし意外に追いつかれるのが遅かったと思ったが、

直線に入ってからは、気合も出ず、5着でゴール。

結果、

1着-樋口秀之(練馬)22秒6

2着-青山範朝(青梅一)23秒0

3着-神民一(北)23秒2

4着-小熊邦尚(王子)23秒2

5着-守屋雅彦(板橋三)23秒4

 

小熊も神も、このレースが200mの全国大会出場の最後の挑戦になったが、

結局は突破は敵わなかった。

 

レース後、自分の陣地に戻った。

リレーメンバーの他の三人は、この後の決勝に向けてアップに出たという。

私は、とてもじゃないが、すぐアップに出られる程、体力が残っていなかった。

息切れが止まらない。

そしていつからか、私は何本か走ると、左足小指の付け根が切れる様になってきた。

これが痛いので、いつも水絆創膏で補っていた。

この日も既に何回か水絆創膏を塗っていて、

これから塗ったら本番までに乾かないと思ったので、

思い切って、小指と薬指をテーピングでまとめた記憶がうっすらとある。

体の疲労と、出るからには勝たなければならないという、

精神的プレッシャーから、一瞬、逃げ出したくもなった。

しかし当然そんな事は出来る訳もなく、しばらくその場で横になって腕で目を覆った。

メンバーがアップから戻ってきて、

「まーちゃん、行くよ」

と急かした。

他のメンバーは、当然ながら気合十分である。

この時、私の体力が中々回復しなかったのは、主には精神的なところにあった。

前回の総体で、私にバトンが渡った時には、結構な差で前に二人いた。

今回も決勝に残った学校は、ほぼ同じだったので、

前回同様のレース展開になる事は、容易に予想出来た。

その時の私に、前回同様に抜かしてゴールする体力も残っていなかったし、

その展開を頭の中でイメージすると、絶対に抜かすという気力も湧いてこなかった。

まして一走の宮林は、受験体勢に入り、

7月に入ってからほとんど練習に出てこなかった。

彼が走れていないのは、目に見えて明らかだった。

コールを終えて、みんなで「行くぞ」と気合を込めながら、

1走、3走がスタート、ゴール地点、

2走、4走が200mのスタート付近に別れた。

レースが始まる前に、2走の栄三が、

「まーちゃん、気合を入れてくれ」

と私に一発、気合のビンタをせがんできた。

この時、ずっと一緒にやってきた仲間の存在を強く感じた。

強いビンタを栄三に一発入れたと同時に、自分自身も喝が入った。

一走の宮林がやはり大分遅れている。

二走の栄三はそのままの順位で三走の池ちゃんにバトンが渡った。

後で映像を見る限り、この時は後ろの方だった。

しかし池ちゃんがコーナーでスーッと何人か交わし、

直線に出た時には、2番手についていた。

先頭は前回同様、九段中。

そして池ちゃんの後ろにぴったりと、前回3着の渕江中が付いていた。

前回と違い、私は2番手でバトンをもらった。

ほぼ差のない渕江中は後ろにいる限り問題ではなかった。

バトンをもらい走り出した時に感じた。

前に走る九段中との差は、前回の総体の時より明らかに差が開いている。

前回は、前に二人いても、バトンをもらって走り出した時点でいけると感じたが、

今回は、そうは感じなかった。

ラスト100mの直線に入ってから、一瞬、駄目かもと頭によぎった。

まだまだ差が開いている。

万事休すだ。

残り70m。

走っていく中で、「やっぱり負けられない」という気持ちが、

心の奥底からまた沸き起こってきた。

しかし出てきたのが遅かったかもしれない。

それでも「勝つ」という気持ちが私を支配した。

あのゾーンがまた現われた。

ゴールまでの距離と相手との距離を瞬時に察知して、

射程距離に収めたかの様に、グイグイ、グイグイと追い上げていった。

そしてゴール前、私が胸をぐんと出して、胸一つで勝利した。

これは、勝つという気持ちの差の表れだったと思う。

レース前に心身共に疲労困憊していた状態からの、本当の火事場のクソ力だった。

思い返すと、このレースのラスト50mは呼吸していなかったと思う。

またフラットレースでは、23秒1がベストタイムだが、

この時のスピードは、加速走とかを考慮しなくても、

間違いなく22秒台のスピードで走っていたと思う。

栄三の気合が勝利に導き、池ちゃんのごぼう抜きの好走が勝利に導き、

皆の気持ちが、私の走りにつながった。

リレーの中では、このレースが一番思い出に残るものとなった。

 

この大会の結果、

私は、翌月に行われる「関東大会」で、

東京都代表として4×200mリレーのメンバーに抜擢された。

 

そしてもう一つこの大会にはおまけが付いた。

リレーが終わった後、アップシューズを取りに戻ったら、

私のシューズだけなくなっていた。

①誰かが、自分のと間違えて履いていってしまったのか?

②私の事を嫌っていた人物が盗んだのか?

③または、私のファンである女性が持っていってしまったのか?

事情は分からず仕舞いだが、どうせなら③であればいいなと思うし、

今はそう思って、事を片づけている。

その後、先生交えて、リレーメンバーと記念写真を撮ったのだが、

私の足元には、観に来てくれた知り合いのおじさんに借りた、

おじさんスニーカが写っている。

 

 

 

 

 

 

私の走りの日記(23)

 

『東京都中学総体。そして通信大会へ』

 

6月の板橋選手権で、池ちゃん、斉田に迫られ、

桐畑に惨敗と気落ちする内容に終わったが、

その後の学校の体育祭の徒競走で、

一年前、池ちゃんに敗北した汚名を返上出来たし、

七月に入り、自主練で、腕振りに良い感覚があり、走りがまとまってきた。

一ヶ月前の落ち込みは消えていき、気持ちは上向きになっていた。

 

七月の始めから二週に渡り、東京都の「総合体育大会」が始まった。

一週目は、200mの決勝まで行われた。

この時の予選はあまり覚えていないのだが、

決勝は、

1着-樋口秀之(練馬)22秒4(東京都中学新記録)

2着-青山範朝(青梅一)22秒6(東京都中学新記録)

3着-桐畑悟史(練馬東)23秒0

4着-守屋雅彦(板橋三)23秒1

5着-小熊邦尚(王子)23秒2

 

樋口、青山は、東京都の短距離陣の中では、実力が抜きん出ていた。

私は、小熊と接戦で、発表があるまで着順が分からなかったが、

結果、何とか四着に入ることが出来た。

ただこの時の判定は、私の中で未だに、

もしかしたら負けていたのではないかと疑問の余地を残している。

23秒1というタイムは、全国大会参加標準記録に達し、

私はこの時点で全国大会出場を決めた。

この時は、一年前に全国大会が決まった時に比べると、

思わず声を上げる喜びはなかった。

よし、まずは200mで決まった、という心境だった。

私の中で、競技をするのも、観るのも好きな順があって、一番は100mだった。

自分がどの種目に適性があるかは考えた事がなく、常に100mを中心に考えていた。

この時も全国参加標準記録が頭になく、結果、付いてきた感じだった。

だからこのレースで、

強者、小熊に勝った事も、桐畑に負けた事も、大きな感情は湧かなかった。

 

勝負は翌週の100m。

大会前に掴んだ、良い感触の腕振りを引っ提げて、予選を難なく通過。

準決勝では、樋口と同じ組になった。

ただ樋口以外は、これといって目ぼしい選手はいなかった。

決勝進出は3着までだから、決勝には進出出来るだろうとの目算が立てられた。

レース前のスタートブロック合わせ。

隣のレーンの樋口のスタートを見て唖然とした。

スタブロを蹴る音が自分とも他の選手とも明らかに違う。

そして蹴った後の腿の上がりが凄く、レベルの違いをまざまざと見せつけられた。

今でも鮮明に覚えているが、惚れ惚れする姿だった。

これでは勝てない。

何とか樋口に離されないでついていこう。

昨年の「地区対抗」と同じ作戦だ。

結果、1着:樋口(11秒2)、2着:守屋(11秒4)。

あの樋口に0秒2の差で納まったのが、決勝に向けて気持ちは上向きでいた。

決勝。

1着-樋口秀之(練馬)11秒1

2着-青山範朝(青梅一)11秒2

3着-小熊邦尚(王子)11秒3

4着-守屋雅彦(板橋三)11秒4

5着-桐畑悟史(練馬東)11秒5

6着-和田智寿(成城)11秒6

 

小熊には負けたが、桐畑に100mで正式に勝ったのは初めてだった。

一年の初めての大会で惨敗の土を舐めさせられてから、

ここまで戦えるようになったと、このレースの結果は割と満足した。

ただ全国大会の参加標準記録は「11秒3」で突破は出来なかった。

望みは、この後に行われる「通信大会」の3レースにかけるしかなかった。

 

また三年の都大会では、もう一つ重要な種目があった。リレーだ。

「東京リレーカーニバル」「東京選手権」と都内では勝っており、

リレーに関しては、優勝を狙っていた。

我が校は、宮林、中村、池内、守屋の走順だ。

種目は、4×200mリレー。

決勝。

私のところには三番手でバトンが渡った。

前には、九段中と渕江中。

距離は結構離れていたが、バトンをもらった瞬間、いけると思える差だった。

直線に入り、前の二人を追いかけていく。

負けてはならないとの強い気持ちが心の奥底から出てきた。

この瞬間、あのゾーン体験がまた現われた。

ぐんぐんと差が縮まり、最後は1メートル以上の差をつけてゴールした。

ゴールした瞬間、無意識に手を挙げてしまった。

勝利のガッツポーズを行ったのは、後にも先にもこれ一度きりである。

東京都大会で初めてもらった「1位」の賞状だった。

 

翌週、「稲付ナイター陸上」があった。

プログラムで参加選手を確認すると、神民一の名前があった。

昨年までは、2番、3番にきっちり位置していた、自分よりも格上の選手だ。

ただ「東京選手権」でこけながらも神に勝ってたことは、

この年のこの後のレースに対して大きな自信になった事は確かだった。

また先週の「総体」でも決勝に上がってこなかったから、

この試合でも勝てるという自信が、不安よりも強かった。

予選、準決、神と私は、ほぼ同タイムで組一着で決勝に上がった。

この時の競技場は、アンツーカーだった。

決勝前、雨が降ってきた。

スタート合わせを行い、いざスタート・ラインに並んだ。

そこには池ちゃんもいたが、私がマークしていたのは神だけだった。

「東京選手権」がまぐれではなかったということを、

きっちりと証明し、自信を確固たるものにしたかった。

次第に雨脚が強くなってきた。

強い雨の中、しばらく立たされていたが、

結局、レースは中止となり、この大会は準決勝で終わってしまった。

準決勝の記録で順位が決まり、走らずして、神が一位、私が二位となった。

この大会の記録の出し方は特異的で、

手動ながら、記録を百分の一秒まで打していた。

その百分の何秒差で二位に決まった。

「この決着は翌週の通信大会でつける」、

そう心に思いながら、自信が弱まる事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の走りの日記(22)

 

『練習内容、環境、そして顧問の先生』

 

部活の練習では、

伝統的に引き継がれてきた練習メニューというのは一切なかった。

顧問の先生が練習を指揮するのは、春、夏、冬休みくらいで、

普段の練習には、必ず先生が顔を出していたということはなかった。

よって一年の時は三年生の指揮で、

二年からは、自分たちのやりたいようにやっていたから、

自主的にやる者は走るが、

意識性が低い者は、大半が長いおしゃべりで時間が過ぎてしまう事も多々あった。

私が入部した当時、三年生に指導してもらったのにも関わらず、

自分が最上級生の立場になった時には、下級生に何一つ指導した記憶がない。

一番指導しなくてはならない立場にいながら、

自分の事で精一杯の駄目な上級生だったと、今更ながら反省する。

けれど部員の中では、誰よりも集中して練習をしていたという自信は持っていた。

が、しかしそれは何のいい訳にもならない。

私が、家に帰って自主練をしているということは、部員も知っていた。

それを知った池ちゃんと栄三は、‘守屋に負けるなと’と一緒に自主練としていたらしい。

そんな時、一年生の短距離有望株二人が、

池ちゃんと栄三に、「走りを教えて下さい」とお願いしたというのだから、

私の人望のなさがうかがえる。

ただ当時は、その話を聞いても、何とも思わなかった。

100%、東京都のトップの連中に目が向いていたからだ。

 

そんな中、6月の体育祭後、校庭の改修工事が入るということで、

練習が校庭で一切出来なくなってしまった。

都大会まで一ヶ月と迫る中、きちんとした練習が出来ない。

結局、学校横にある神社の参道がメインの練習場となった。

これも、今考えると、神社側に何の許可もなく、一礼することなく、

勝手に走っていたのだから、何とも罰当たりな話である。

また反対側の学校横の結構な坂道のダッシュも練習に取り入れた。

参道のスタートダッシュでスピード力を図り、坂でスピードの持続力向上を図った。

これは、自分の自主練から引っ張ってきた内容で、

この時は、部員全員がこの練習を行った。

地面はアスファルト。

脚を痛めるとか、そんな事は言ってられなかった。

理論的な高度な練習は出来なかったし、知らなかったが、

この間に合わせの練習に不安もなかった。

自分で考え、工夫し、やりたいように出来た練習が、

中学生の自分にとっては、一番良かったのかもしれない。

 

そういった点では、

毎日みっちりと指導することのなかった顧問の五十嵐実先生に対し不満もなかった。

試合の時、大勢の部員がぺちゃくちゃ話ながら行列で競技場に向かう時、

私は必ず、先生の横にぴったりとくっ付き、

陸上に関して、自分の聞きたい事、話したい事にとことん付き合っていただいた。

質問する内容は、陸上に関する本当に細かい事や個人的な事。

先生は、学生時代にどっぷり陸上競技に浸かっていた訳ではないから、

返答に、時折困った事だと思う。

常に適切、正解な答えではなかったかもしれないが、

色々調べ、勉強して、親身になって答えていただいた。

そんな先生の答えが私の安心材料になっていた。

もし当時、もっと陸上の知識を持ったキャリアのある方に指導していただいたら、

もっと上にいけたのかどうかは分からないが、

当時も今も、あの先生だから自分はあそこまでやれたんだと思っている。

中学を卒業後、数度お会いしたが、高校卒業してからは一度もお会いしていない。

連絡先も分からないので、連絡の取りようもない。

風の便りでは、婿養子に入られたとも聞いた。

そうなればみ苗字が変わっている可能性がある。

また校長先生になられたとの話も聞いたが、いずれも確かではない。

インターネットで調べてみても、中々調べがつかない。

五十嵐実先生には、これまできちんとお礼を言ったことがなく、無礼のままでいる。

私の人生に、一つの光を射してくれた五十嵐先生に、

一言お礼を申し上げる機会を今でも探している。