私の走りの日記(22)
『練習内容、環境、そして顧問の先生』
部活の練習では、
伝統的に引き継がれてきた練習メニューというのは一切なかった。
顧問の先生が練習を指揮するのは、春、夏、冬休みくらいで、
普段の練習には、必ず先生が顔を出していたということはなかった。
よって一年の時は三年生の指揮で、
二年からは、自分たちのやりたいようにやっていたから、
自主的にやる者は走るが、
意識性が低い者は、大半が長いおしゃべりで時間が過ぎてしまう事も多々あった。
私が入部した当時、三年生に指導してもらったのにも関わらず、
自分が最上級生の立場になった時には、下級生に何一つ指導した記憶がない。
一番指導しなくてはならない立場にいながら、
自分の事で精一杯の駄目な上級生だったと、今更ながら反省する。
けれど部員の中では、誰よりも集中して練習をしていたという自信は持っていた。
が、しかしそれは何のいい訳にもならない。
私が、家に帰って自主練をしているということは、部員も知っていた。
それを知った池ちゃんと栄三は、‘守屋に負けるなと’と一緒に自主練としていたらしい。
そんな時、一年生の短距離有望株二人が、
池ちゃんと栄三に、「走りを教えて下さい」とお願いしたというのだから、
私の人望のなさがうかがえる。
ただ当時は、その話を聞いても、何とも思わなかった。
100%、東京都のトップの連中に目が向いていたからだ。
そんな中、6月の体育祭後、校庭の改修工事が入るということで、
練習が校庭で一切出来なくなってしまった。
都大会まで一ヶ月と迫る中、きちんとした練習が出来ない。
結局、学校横にある神社の参道がメインの練習場となった。
これも、今考えると、神社側に何の許可もなく、一礼することなく、
勝手に走っていたのだから、何とも罰当たりな話である。
また反対側の学校横の結構な坂道のダッシュも練習に取り入れた。
参道のスタートダッシュでスピード力を図り、坂でスピードの持続力向上を図った。
これは、自分の自主練から引っ張ってきた内容で、
この時は、部員全員がこの練習を行った。
地面はアスファルト。
脚を痛めるとか、そんな事は言ってられなかった。
理論的な高度な練習は出来なかったし、知らなかったが、
この間に合わせの練習に不安もなかった。
自分で考え、工夫し、やりたいように出来た練習が、
中学生の自分にとっては、一番良かったのかもしれない。
そういった点では、
毎日みっちりと指導することのなかった顧問の五十嵐実先生に対し不満もなかった。
試合の時、大勢の部員がぺちゃくちゃ話ながら行列で競技場に向かう時、
私は必ず、先生の横にぴったりとくっ付き、
陸上に関して、自分の聞きたい事、話したい事にとことん付き合っていただいた。
質問する内容は、陸上に関する本当に細かい事や個人的な事。
先生は、学生時代にどっぷり陸上競技に浸かっていた訳ではないから、
返答に、時折困った事だと思う。
常に適切、正解な答えではなかったかもしれないが、
色々調べ、勉強して、親身になって答えていただいた。
そんな先生の答えが私の安心材料になっていた。
もし当時、もっと陸上の知識を持ったキャリアのある方に指導していただいたら、
もっと上にいけたのかどうかは分からないが、
当時も今も、あの先生だから自分はあそこまでやれたんだと思っている。
中学を卒業後、数度お会いしたが、高校卒業してからは一度もお会いしていない。
連絡先も分からないので、連絡の取りようもない。
風の便りでは、婿養子に入られたとも聞いた。
そうなればみ苗字が変わっている可能性がある。
また校長先生になられたとの話も聞いたが、いずれも確かではない。
インターネットで調べてみても、中々調べがつかない。
五十嵐実先生には、これまできちんとお礼を言ったことがなく、無礼のままでいる。
私の人生に、一つの光を射してくれた五十嵐先生に、
一言お礼を申し上げる機会を今でも探している。