私の走りの日記(33)
『自然な走りを求めて』
自然な走りを求めるまでに色々な過程、試行錯誤がある。
まず、腕振り、脚の動かし方を色々と試してみた。
中にはいい感触を受ける事もあるのだが、
それを続けていくと、なぜか上手くいかなくなってくる、この繰り返しだった。
上手くいかなる主な要因は、意識する箇所が、
思うように動かなくなることがほとんどだった。
意識の中で強調してしまうのだろうか、
硬くなってしまうのだ。
そこで自然な肉体の衰えを素直に受け入れ、無理のない動きを求めるようにした。
無理にストライドを広げようとか、膝下を伸ばそうとか、また腿も高く上げようとせずに、
足が地面に落ちるまま、そこに体重を乗せて、地面からの反力で前が進むがままに任せて走った。
最初はいい感じで、これだと思ったのだが、
これも次第に感覚がずれていき、身体の乗り込みがうまくいかなくなってきた。
しばらくして、これまで意識していたのは、体の末端が主だったことが分かった。
そして末端部よりも、中心、いわゆる体幹部分から出る力の方が、
より大きいものだということを知り、体幹を意識して走るようにしてみた。
しかし走るという動作は、脚の動きであり、
体幹をどう働かせれば、よい走りに結びつくのかが分からなかった。
そこで今度は、体幹に一番近く、脚の付け根になる股関節、
そして腕の付け根の根っこの肩甲骨に焦点をあててみた。
股関節の動きは、伊東浩司さんや末續選手の走りの文献で読んでいて、それをヒントに試した。
気持ちよく走れる時もあったのだが、
やはり何本も走ると、次第に硬くなり、動きが悪くなってきた。
そこで臀部の筋肉を使えるように走ってみたり、
更には、日本人と黒人の違いである骨盤を前傾させて走ってみた。
元々、上にピョンピョンと跳ねるような走り方だったが、
骨盤を前傾させることにより、推進力が上に逃げないで、前のみに働くことを感じる事が出来た。
しばらくこれを意識して走っていたのだが、
前に進む体に脚が追いつかなくなり流れ気味になってきた。
脚が流れると、体を支えるのにハムストリングに大きく負担がかかるように感じた。
また無理に骨盤を前傾させていた事により、
次第に腰が重くなり、快適に走れなくなってしまった。
身体の中心部に意識を置き、これではないかと思っていたのだが、
またまた壁にぶち当たり、どこに正解があるのか路頭に迷ってしまった。
そんな中、『奇跡のトレーニング』小山裕史著を手に入れた。
言わずと知れた「初動負荷理論」の書である。
「初動負荷理論」については、ここで私が敢えて紹介するまでもない、
いまや運動界で広く知られている理論である。
私には、この本を読んだだけでは、この理論を中々理解出来ないのだが、
それでも自然な動きには、
「重心移動」、「共縮」、「反射」が大事である事が分かった。
身体が移動するには、最初に重心が移動し、安定していた体のバランスが崩れる。
バランスが崩れたままだと、体は転倒してしまう。
その為、脚や腕がバランスを取ろうと動き出す。
この脚や腕の動きが、意識的に行うと余計な力が加わり、自然な動きに結びつかない。
これが筋肉が緊張する「共縮」という状態であるという。
この「共縮」状態にならない為に、重心移動の際に、
骨盤の片方を前に出して、それについていくように股関節も動く。
こうすると、意識的に脚を動かそうとしなくても、骨盤に脚がついてくる。
この筋肉が緊張することのない、自然な動きが「反射」だと現時点では理解している。
そこに自然に体が乗っかっていく。
これが上手くいくと、膝は高く上げる必要はなく、
競歩の延長のような動きになり、
伊東浩司さんが、すり足を求めたのが理解できる。
ここにくるまでに、もっと様々な事を試し、修正、そしてまた新たに試すと繰り返してきた。
ここでは、細かい部分は省くことにして、
現在に行きついた大まかな経緯は上記の通りだ。
まだまだ観なくてはならない点はごまんとあると思うし、
一ヶ月後には、ここから離れて、また新たな方面を模索しているかもしれないが、
今までの試行錯誤とは異なるところは、
これまでは、体の部分的な動きを検討していたのが、
今は身体全体の移動というところに意識を向ける事が出来た。
より中心から走りを見つめる事が出来たように思っている。
次回からは、日記の様式が変わり、
気が付いた事、分かった事、考えの変更などあった時点で、その都度記していくようにする。
私の走りの日記(32)
『走りを勉強する、そして求める「走り」』
早朝、競技場での自主練。
日中は、中々時間も場所も確保出来ない為からの行動だった。
最初は、試しにやってみた位だったから、
正直、この朝練を続けていこうという固い決意はなかった。
しかし今日も、今日もと競技場に行くうちに、
そこで体操をやっているご年配の方々と挨拶をするようになった。
挨拶が会話になり、顔見知りが増えていった。
こんな感じで毎日ではないが、朝の競技場での練習は日課になった。
走り始めた当初は、リレー出場くらいを目標にしていたのだが、
40代も半ば過ぎると、今更スプリントをやろうという人が何と少ないことか。
たった四人のメンバーが集まらなかった。
そしてメインが朝練になっていくと、次第に仲間と練習する回数が減っていき、
試合出場を念頭に置かず、マイペースでの個人練習に変わっていった。
この朝練を始めてから丸五年が経つ。
冬の寒空の中も、夏の湿度の高い暑い朝も、
そしてこのコロナ渦でもよく続いたなと思っている。
この五年間で、スプリントについて色々と考え、学んだ。
最初は、映像が主で、見よう見真似だったが、これでは当然肉体がついていかず、
頭の中でイメージしていたものが体で表現出来なく、苦悩することが数年続いた。
きちんと勉強していなかったから、
この走りがなぜ速いのだろうと細かいところを理論的に見ていなかった。
すり足走法も、単に脚の軌道が小さく、エネルギーのロスを少なくした、
省エネ的な走りなのだろうと表面しかみていなく、
その根っこにある大局を観ていなかった。
ジャスティン・ガトリンの様に腕を後ろに大きく振ると、
より大きな推進力が出るのかもしれないと試したり、
逆にウサイン・ボルトのように脇を締め、腕を引きつけて振る事により、
スムーズな回転が得られるのではないかと試してみたりと色々やってみた。
結局は、表面的に真似しているだけでは、
肉体的な違いからも、うまくいかない事も次第に認めるようになった。
走り始めてから常に苦労したのは、
頭の中で思っている通りに体が動いてくれない事だった。
いくらスピードを落としても、100m、150m中に膝がガクッと折れるし、
そして腕振りと脚の動きのバランスが狂い始め、スムーズに走れなかった。
それに筋力が落ちているせいなのか、
途中から前に進んでいる感じがなく、そこで何とか前に進もうと、
余計な力を入れるから、体は力んでしまう。
流しもまともに走れないという状態がしばらく続いた。
そんな状態で走っているうちに分かった事があった。
年齢と共に失われていく肉体機能「スピード、パワー、バランス、柔軟」のうち、
取り戻すのが難しいのは、
①スピード ②バランス ③パワー ④柔軟
だということが分かった。
要は、歳をとっても神経より筋肉の方が鍛えやすいということだ。
逆に言えば、筋肉機能より神経機能を復活させるのは困難だということ。
その点を考えて、敏捷な動きでスピードを求めようとする考えを捨てる事にした。
更に勉強していくと、今度は‘接地’と‘反発’という言葉を多く目にするようになった。
30年以上前の現役の時には、これらの言葉を聞いたことも、考えた事もなかった。
100m、200mで速く走る為には、当然つま先接地だという感覚でいた。
つま先(実際は母指球まであたっていたが)で蹴り、
そこで足首がバネの役割を果たして、スプリント特有の走りが出来るものだと思っていた。
つま先で接地するからこそ、腰が入り、高い位置にキープし、ストライドを稼ぐいうイメージだった。
しかし更に調べると、「フラット接地」という言葉を目にした。
これがすり足走法の元祖(?)である伊東浩司さんや末續選手、
そして更に調べると今活躍している桐生選手などこの接地だということを知った。
また逆に遡ると、つま先接地の代表と思っていたカール・ルイスも、
実は「フラット接地」なのではないかとおもえるような、コーチであったトム・テレツ氏の話も目にした。
この‘接地’と‘反発’については、直に専門家に話を聞いたことがないので、
いまだにこれだという確証は得られないが、
あれこれ試しては違うと修正しながら繰り返し研究している。
45歳で再び始め、現在は50歳と50代の仲間入りをしてしまった。
この五年間で、次第に走る目的も変化し、明確になってきた。
まず第一に、高校時代に大分置いてかれてしまったライバル達に、
少しでも追いつき、追い越せるよう、一人心の中で競う事で、
独り練習を続けるモチベーションにしていた。
ライバル達からすれば、勝手に勝負している感じで、おかしな話に聞こえることだろう。
でも辛い時は、彼らの事を思い出しては、もう一本頑張ったりした。
また走る事において求めるものも少しずつ変化していった。
まず100mを全力で走り切る事が自分の肉体的には難しいと感じ、
タイムを上げる為のトレーニングというよりも、
衰えた肉体でも走れるような無駄のない、無理のない、そして怪我のない、
自分にとっての自然的な走りを求めるようになった。
ここを追求すれば、誰にでも適応する、
人間のごく自然的な走りの基本が見つかるのではないかと思っている。
そしてもう一つ走り続ける明確な目標があるが、これはここでは明かさないでおく。
私の走りの日記(31)
『走りを再開』
18歳で陸上競技をやめ、45歳で走りを再開した。
ブランクは27年。
しかし再開したといっても、
マスターズの試合などに積極的に出場して、
もう一度追い込んで競陸上技生活をというものでもなかった。
昔、競い合ったライバル達とリレーチームを組んで、
地域の大会等に出られればという軽い気持ちだった。
自分を始め、皆、とうに走る事を止めてしまっていたから、
いきなり力を入れてしまうと、三日坊主で終わってしまうと思ったからだ。
樋口らと練習をする事が決まった一週前位に、
一人で、中三の時に練習した懐かしの神社で軽く走ってみた。
その時のショックは忘れられない。
本当に軽く走ったつもりだったが、10mもろくに走れない。
脚が思うように動かないのだ。
地面を蹴るにも、足首、ふくらはぎの筋肉がきかないし、
上半身も重りを背負っているみたいに、腕もまともに振れない。
5本位走ってみたが、準備体操もろくにやっていなかったせいか、
いきなり左足首を痛めてしまった。
帰りは、まともに歩けなくなってしまった。
この怪我は、結局この後一年半は引きずった。
27年のブランクをなめていた。
そして7月下旬。
樋口と中学で同じ陸上部仲間の親友いっちと400mのアンツーカーの競技場で練習した。
いっちは、五年前位からロングを走っていて、この時には、フルマラソンを3回走っていた。
樋口は、大学の4年間まで陸上を続け、その後は家業を継ぎ、引退していた。
まずトラックを5週アップした。
いっちは普段から走っていたから、400mトラック五周のアップは何ともなかったが、
私と樋口は、走るのは何十年ぶりということで、アップだけで、息が上がってしまった。
そして準備体操を終えてから、当時の練習の流れを思い出せず、
とりあえず、三人で150mの流しを数本やろうということになった。
みんなで走るのだが、いっちは足どりが軽い。
樋口も走っていなかった割には、やはり土台がしっかりしているのか、
安定したフォームで走っている。
私一人だけが、足首の痛みを感じ、筋力不足のせいか、
何回も足がガクッと折れながら走った。
そんな様子だから、スピードは本当に遅いのに、
力は無駄にでも使わないと前にも進まないので、
私にとっては、流しが本チャンの様になった。
結局6本走った。
樋口も大分息は上がっているが、最後は一人、バンバン前を走っていた。
この時の樋口を後ろから見て、
やっぱり樋口はスゲーな、あんなのと勝負するのは怖いよなと思った。
いっちも最後まで崩れないで持続している。
私だけが、足首は痛いわ、脚は折れてとまともに走れなかった。
軽い気持ちでみんなを誘い、楽しくやろうと思っていたのが、
初っ端から自分にとっては、相当きつい練習会になってしまった。
月に2回程度集まって、この内容を走ったのだが、
最初の2ヶ月はこの状態が続いた。
私は、みんなと一緒に練習するのが怖くなってしまった。
しかし言い出しっぺだし、自分からやめるとは言えないと思い、
何とか皆についていけるように、時間のある時に近所で走るようにした。
それと同時にインターネットで走る事に関する文献や、
youtubeで陸上の映像を色々とみて、勉強し始めた。
そこで知ったのが、伊東浩司さんの解説するすり足走法だった。
当初は、膝を高く上げない、足の軌道を小さくして無駄をなくすという捉え方をした。
私ぐらいの年代のスプリント経験者のほとんどが、
当時正しいと教えられてきたマック式の走法を手本に走っていた。
腿を高く上げて、膝から下を良く伸ばす、そして大きく腕を振るという具合だ。
この最高のお手本が、カール・ルイスだと思っていた。
実際カール・ルイスはこの走法とは異なるものだったということは、
この数年後に知る事になるが。
そんなマック式を正しいと走り込んでいたから、
すり足走法なるものを見たときは、これで速く走れるとは思えなかった。
しかし肉体のあらゆる面の衰えから、
45歳の自分には、マック式走法のように大きく腕脚を動かして走る事が出来なかった。
まずは速く走るよりも、練習で皆についていけるように、
出来るだけ力の使わない、自分でも持続出来そうな走法を探していた。
そこで一人競技場に行き、すり足走法を見よう見真似で試してみた。
ちょこん、ちょこんと、何だか女の子が走っている感じで、
スピードも出ている感じはしなかったが、150mは何とか持つ。
よし次の練習はこれでいってみようと思えたら、気持ちが少し晴れた。
実際、合同練習で150mの流しを樋口と一緒に走ったが、
スピードは出ている感じはしないが、樋口について走る事が出来た。
あの伊東浩司さんの走法だから、
自分が思っているよりもスピードが出ているのかもしれない。
とても昔、スプリンターで少しは慣らした者とは思えない、
安易な発想で、安心していた。
それ以降は、体も少しずつ慣れてきたのか、
完全に遅れをとるような事はなくなった。
そして更にインターネットを駆使して、走る文献を色々読んで、観てと勉強した。
その都度、それを試そうと、一人で走る事も多くなった。
その流れがあり、早朝に起きて、
競技場に行き、150mの流しが主だが、6本を目安に走る、自主練を再開した。
私の走りの日記(30)
『現役を退いてから再び...』
高校3年の7月に、リレーで参加した記録会を最後に現役を退いた。
小学六年生の時、
「陸上100mでオリンピックで優勝する」と宣言してから約6年後、
その将来の夢という形は、心の中に一かけらも残っていなかった。
卒業してから数年の間に、
遊び半分で数回、競技場で軽い練習をした事はあったが、
それ以外は、わざわざウェアを着て、走るということはゼロになった。
陸上の競技は離れたが、
1991年の東京で開催された世界陸上は、たまたまチケットが手に入り、
男子400m決勝をバックストレートで観戦することが出来た。
このレースは、高野進さんが世界規模の大会で初めて決勝へ進出した、
日本陸上短距離界では伝説に残るレースだ。
バックストレートで観ると、ラスト100mでは、全選手が団子状態に見え、
7着だった高野選手も、私の観戦位置からは、3着に入ったように見え、
生で観たレースは、我を忘れ、本当に興奮した。
そしてサブトラックでは、リレーの練習をする為、アメリカやカナダチームがいた。
その中には、あのカール・ルイス、ベン・ジョンソンもいて、
カール・ルイスの身体は、筋肉がグッとしまって、すらっとし、
他のどの選手と比べても、断トツに美しかった。
この時のカール・ルイスは、100mを9秒86の世界新記録で優勝し、
正に最高の状態のカール・ルイスを生で観れた事は、
短距離に勤しんだことのある者にとっては、とても貴重な思い出になった。
陸上観戦も、この興奮した1991年の世界陸上を最後に、
この後は、2008年の北京オリンピックまで観る事はなかった。
だからこの間に起こった短距離界の映像は、大分遅くなってから観る事になる。
自分と同じ歳の杉本龍勇選手、奥山義行選手、
そして一つ下の井上悟選手等の活躍、
その後に台頭して、長く日本陸上100mを牽引してきた朝原宣治選手の映像、
1998年に伊東浩司選手が、アジア大会で10秒00の日本、アジア新記録を出したレース、
末續慎吾選手の世界大会銅メダルまでの道のり。
カール・ルイスの引退。ドノバン・ベイリー、モーリス・グリーン、
2004年アテネ・オリンピックのジャスティン・ガトリン、
こういった凄い出来事を当時は、知らなかった訳だから、
いかに気持ちも陸上から離れていたかが分かる。
2008年の北京オリンピックは、言わず知れるウサイン・ボルト選手の9秒69の伝説のレースだ。
このレースから再び、世界大会を観る事になった。
また先日、ようやと伊東浩司さんの『疾風になりたい』を読み、
伊東浩司さんと私は学年が一つ違いの同年代なので、
当時の陸上シーンなどを垣間見ることが出来、楽しめたし、とても感動した読み物だった。
この本を読み、長年、挫折、苦労を繰り返しながら、
それでも陸上を続け、走るを追求した姿に、
一挙に伊東浩司さんのファンになり、陸上界で尊敬するお一人になった。
陸上をやめてから、気持ちは離れていたにもかかわらず、
それから約30年近く、定期的に精神的に追い込まれる陸上の夢を見続けていた。
試合が近づくのに、自分は全然走れる状態ではなく、
このままでは、ライバル達と互角に走れないと焦る、決まった内容の夢だった。
中学三年の「東京選手権」前の心境が毎回夢で現われている感じだった。
いつしからか、心の中に不完全燃焼のまま残っているものがある事に気づいた。
40歳を過ぎ、また走りたいと思うことが時折あった。
しかし中々踏み出せずに一年、一年と過ぎていった。
45歳の7月。
久しぶりに中学三年時の「通信大会」の映像を観た。
100m決勝の十数秒の映像を繰り返し観た。
結果は分かっているのだが、観る度にドキドキと心臓の鼓動が強く波打った。
‘また走ってみよう’
そう思い、その場ですぐに樋口にメールし、久しぶりに彼と酒を飲んだ。
それが私の走る再開となった。
この時、すでに27年の月日が経っていた。
私の走りの日記(29)
『高校での陸上活動、そして引退』
私は、樋口と同じ高校に進学した。
樋口と一緒に練習し、高校の陸上界で走りたいと思ったからだ。
中学の最後の試合から受験が終わるまでの約五ヶ月、
ほとんど練習はしなかった。
もちろん走る事もなかった。
受験に対して、大分遅れを感じていたので、
走る時間があれば、勉強せねばと思っていたからだ。
無事、志望校に合格し、
春休みには、樋口と入学先の陸上部の練習に参加させてもらった。
この時は、150mの流しを数本、上級生の方と一緒に走ったのだが、
実際は、実績のある方だったが、私は知らなかった。
だから流しだったが、一緒に走った時にも、
その方に遅れをとるまいと気を張って走った。
入学してから樋口と私は、他の一年生とは別に練習した。
4月の試合から、リレーメンバーとして予定が組まれていたからだ。
私が入学したのは、保健体育科だった。
中学の時には、部活の上下関係はあまりなく、
練習後のグランド整備等は三年生が行うよう先生から指示されていた。
よってとてもゆるい雰囲気の中で、部活動に勤しんでいた。
高校入学から数日後、
一年男子全員が、二年生の部屋に呼び出された。
これが保体科伝統の「しめ」というやつで、
部屋に入るや否や、教室の壁づたいに整列させられ、
一人一人大声で自己紹介し、
そして上級生に対する接し方、挨拶などを説教された。
高校に入ったら、陸上を頑張るのはもちろんだったが、
中学では出来なかった、
色恋の面でも青春を謳歌したいと淡い高校生活を夢見ていた矢先に、
入学して数日で、いきなり淡い希望が打ち砕かれてしまった。
それからは、坊主頭で完全な体育会系の高校生活が始まった。
部活動内外、学校生活は常にビクビクした生活が続いた。
そうなると一分でも早く帰りたいと思うようになり、
部活の練習もビクビク状態で、心身共に強張っていた。
そして4月終わり、「第一支部大会」で200mとリレーに出させてもらえた。
これは、都大会の出場権をかけた大会で、
ここで記録の上位8名が都大会に出場出来た。
200mのタイム、順位は覚えていないが、
まるで話にならない結果で、都大会出場を果たせなかった。
リレーも三走を走り、樋口にバトンをつないだが、
明らかに走れていないのが、自他共に分かり、
これ以降は、リレーメンバーから外されてしまった。
一年の時は、これ以降、「大会、記録会」に出たのかもしれないが、覚えていない。
ただあまりの走れなさに、二年生になってからは何とかしなくてはとの思いはあった。
しかしその反面、早く学校を出て帰って、友達に会いたいとの気持ちも強かった。
学校での緊張を、地元で友達と会うことで、何とかほぐしていた状態だった。
そして二年の春に近づく冬季練習時期。
夕方、暗い中で、重りの片づけをしていた時、
5キロの重りを右足の親指に落としてしまい、骨折してしまった。
この怪我で一ヶ月は松葉づえ。
松葉づえがとれて、骨折した右足の親指を浮かせた状態で歩いていたら、
右足の甲に負担がかかり、今度は右足の甲が疲労骨折してしまった。
この怪我により、ここから2、3ヶ月はほとんど走れなかった。
よってこの年の春は、一切試合に出られなかった。
それから夏に記録会などに参加したが、全然走れない。
こんな私を見ていて、顧問の先生が、
夏の合宿では、400m部門に入れとのお達しがきた。
100mのスピード種目には見切りをつけられたのだろう。
しかし400mにはトラウマがある。
いきなり合宿で400用の追い込んだ練習をするには、精神的に抵抗があった。
合宿の初日、200mを何本か走っている途中で倒れ込んだ。
意図的に練習をボイコットしたのだ。
もちろんこれは褒められた事ではないし、
選手として、根性からして終わっていた。
夏休みが明け、秋の新人戦前。
私は、4×100mリレー、4×400mリレーのメンバーに抜擢された。
こんな私でも、二つのリレーメンバーに選んでいただいた事に感謝すべきだったが、
やはり4×400mのマイルリレーは走りたくなかった。
この時、運が良かったのか、悪かったのか、
練習中に急に喘息が発症してしまった。
これまで喘息を起こしたことはなかった。
結局、マイルリレーは他の選手と交代し、4×100mリレー一本に絞られた。
この時の新人戦は、優勝し、団体だが、高校で初めての都大会優勝経験だった。
だがこの年は、怪我によって大分遅れをとり、
出る試合、どれもがみじめな結果に終わっていた。
夏の記録会。
久しぶりに桐畑に会った。
200mの私のあまりにも不甲斐ない姿に
「守屋君、どうしちゃったの」
と言われてしまった。
当時、桐畑は400mで、三年生相手に都大会で優勝しており、
大分上を行っていた。
この時には、ライバルなんていうには、とてもじゃないけど申し訳なく、
面と向かって話をするのも引け目を感じてしまう状態だった。
試合場に行っても、私の落ちぶれた姿に対する周りの目が気になり、
次第に試合に出たくなくなってしまった。
実際は、誰も私の事なんか見ていなかっただろうが、
自分の中ではどんどん気持ちが下向きになる一方だった。
そして最上学年。
この時には、学校にいたくないという気持ちはなくなっていた。
そして今年こそは、せめて都大会への出場だけは果たしたいものだと思っていた。
この二年間、私は不振な姿しか出す事が出来なかったにも関わらず、
都大会に通じる「支部大会」では、100mに選んでいただいた。
練習では、少しは走れるようになっていたと思うのだが、
結果は、12秒1と信じられないタイムだった。
中学2年時でも出したことのないタイム。
落ちるとこまで落ちてしまった。
この時はマイルリレーにも出場したのだが、
試合後のミーティングで、先生がみんなの前で、
「守屋は、個人種目は残念な結果だったが、今日のマイルは見事だった。」
と褒めてくれた。
普段練習では、私もあまり歩み寄らなかったので、
特に多くの指導を受けた事はなかったが、
先生は先生なりに、私の苦心をみていてくれていたんだと、この時思った。
そして翌月の都大会で4×100mリレーで都大会で3着に入り、
南関東大会まで進んだ。
この都大会で、マイルリレーの準決勝と樋口が個人種目のスケジュールがあまりにもタイトだったので、
急遽、私が代走として出場した。
この時は、400mは嫌だ等の贅沢も文句も言えるほどの心境ではなかった。
400mは全く練習していなかったが、この時の自分の走りは悪くはなかった。
決勝では、また樋口に変わったのだが、
この時、樋口も私に申し訳ないと思ったのか、
「準決勝の守屋の走りをみて、他校の皆が、
守屋はあんなに400m走れるのかとびっくりしていたよ」
と気を遣ってくれた。
同じ月に「目黒区民大会」があった。
私は100mに出場した。
予選で2着に入り、決勝に進出した。
決勝では、中学以来、樋口と走る事になった。
スタートラインに着く前、樋口が
「中学以来の対戦だな」
と言ってきた。
この言葉は、とても嬉しかった。
同じ学校ながら、遥か先に行ってしまった彼が、
「中学の時のお前の姿は覚えているよ」と言われた気がしたからだ。
そして南関東大会。
リレーは予選落ち。
樋口は200mで準決勝に進出した。
決勝で6着までに入れば、インターハイだ。
レース前の三年生の身の周りの世話、いわゆるお付きは、
通常、一年生がやるものだった。
しかしこの時は、競技場で樋口と一緒にいられる最後の機会だと思い、
自分が樋口のお付きを買って出た。
結果、樋口は準決勝で落ち、インターハイへの道は閉ざされた。
インターハイ出場を目標にしていただけに、
気持ちは落ち込んでいたはずだが、
走り終わり、私の所へきて、
「ありがとう」
と言った。
きっと、この試合でお付きを買って出た私の気持ちが伝わったのだと思う。
こうして私の高校での陸上生活は終わった。
高校時の100mのベストタイムは11秒5。
200mは覚えていない。
この先、高校を卒業して、陸上を続けようとは思えなかった。
折角、樋口と同じ高校に進学したのだが、
練習時の樋口の姿はあまり覚えていない。
それだけ自分自身に余裕がなかったのだと思う。
ただ一度だけ練習で樋口に勝った事だけは覚えている。
70mのスタートダッシュ練習だったと思うが、
私が前に出て、最後まで樋口が私を抜けなかった時が一度あった。
樋口より先にゴール出来たのは、
試合でも練習でもこの時一回だけである。
これは私が速くなったのではなく、
ただ単に樋口が力の入らなかった日だったんだと思う。
樋口は、この事を覚えていないだろうが、
私にとっては、高校での唯一の嬉しい先着だったので、
忘れられない出来事になった。
一浪して大学に進学し、二年目の時。
キャンパスでばったり中條とあった。
彼は、二浪して同じ大学に入学していた。
そしてこれから陸上部の練習に向かうとの事だった。
高校では、全く名前を聞かなかったが、
彼は、高校を卒業しても陸上を続けていた。
思い返すと、高校時代の私は、精神的に何かにはまってしまった感じだった。
リレーの時は、心に少し明るさもあったが、
それ以外は、走っていても、どこか暗い道を走っている感じだった。
学校を卒業して、数ヶ月後、一度だけ高校に練習しに行ったことがあった。
約一年、全く走っていない状態だったが、
その時のタイムトライアルでのタイムは、
在学中時のこのグランドで走ったタイムより良かった。
‘スランプなんて、こんなものなんだろう’
なぜ走れないのか?
三年間、もがき苦しんでいた。
あらゆる面から見て、その脱出方法を探した。
身も心もがんじがらめになっていた。
それが解ければ、何の事はなかったのかもしれない。
ただあの時は、それが分からなかった。
内からは見えなかった。
ただ一歩外に出れば、求めなくても、探さなくても、
すぐそこで見えることに気がついた。
陸上を離れて、大分経って気づいた事だが、
輝かしい成績を残す事も才能の一つの現れだと思うが、
結果というものに負けず継続出来る事も、また別の面での才能だと思う。
実は、後者の方が芯は強いのかもしれない。
陸上を始めて最初の3年は、順調に伸びた。
その後の3年間は、後退したかのように苦しかった。
所詮、守屋はこの程度だったんだと周りには思われただろうし、
自分もそれを受け入れざるおえなかった。
しかし、俺はこの程度の実力だったと認めきれない自分がいた。
陸上をやめた時は、あの呪縛から逃れられると解放された気持ちだった。
だがその一方で、不完全燃焼の何かが心の奥底で残り続けていた。