板橋の自然健康ヨーガ教室 -2ページ目

私の走りの日記(31)

 

『走りを再開』

 

18歳で陸上競技をやめ、45歳で走りを再開した。

ブランクは27年。

 

しかし再開したといっても、

マスターズの試合などに積極的に出場して、

もう一度追い込んで競陸上技生活をというものでもなかった。

昔、競い合ったライバル達とリレーチームを組んで、

地域の大会等に出られればという軽い気持ちだった。

自分を始め、皆、とうに走る事を止めてしまっていたから、

いきなり力を入れてしまうと、三日坊主で終わってしまうと思ったからだ。

 

樋口らと練習をする事が決まった一週前位に、

一人で、中三の時に練習した懐かしの神社で軽く走ってみた。

その時のショックは忘れられない。

本当に軽く走ったつもりだったが、10mもろくに走れない。

脚が思うように動かないのだ。

地面を蹴るにも、足首、ふくらはぎの筋肉がきかないし、

上半身も重りを背負っているみたいに、腕もまともに振れない。

5本位走ってみたが、準備体操もろくにやっていなかったせいか、

いきなり左足首を痛めてしまった。

帰りは、まともに歩けなくなってしまった。

この怪我は、結局この後一年半は引きずった。

27年のブランクをなめていた。

 

そして7月下旬。

樋口と中学で同じ陸上部仲間の親友いっちと400mのアンツーカーの競技場で練習した。

いっちは、五年前位からロングを走っていて、この時には、フルマラソンを3回走っていた。

樋口は、大学の4年間まで陸上を続け、その後は家業を継ぎ、引退していた。

まずトラックを5週アップした。

いっちは普段から走っていたから、400mトラック五周のアップは何ともなかったが、

私と樋口は、走るのは何十年ぶりということで、アップだけで、息が上がってしまった。

そして準備体操を終えてから、当時の練習の流れを思い出せず、

とりあえず、三人で150mの流しを数本やろうということになった。

みんなで走るのだが、いっちは足どりが軽い。

樋口も走っていなかった割には、やはり土台がしっかりしているのか、

安定したフォームで走っている。

私一人だけが、足首の痛みを感じ、筋力不足のせいか、

何回も足がガクッと折れながら走った。

そんな様子だから、スピードは本当に遅いのに、

力は無駄にでも使わないと前にも進まないので、

私にとっては、流しが本チャンの様になった。

結局6本走った。

樋口も大分息は上がっているが、最後は一人、バンバン前を走っていた。

この時の樋口を後ろから見て、

やっぱり樋口はスゲーな、あんなのと勝負するのは怖いよなと思った。

いっちも最後まで崩れないで持続している。

私だけが、足首は痛いわ、脚は折れてとまともに走れなかった。

軽い気持ちでみんなを誘い、楽しくやろうと思っていたのが、

初っ端から自分にとっては、相当きつい練習会になってしまった。

月に2回程度集まって、この内容を走ったのだが、

最初の2ヶ月はこの状態が続いた。

 

私は、みんなと一緒に練習するのが怖くなってしまった。

しかし言い出しっぺだし、自分からやめるとは言えないと思い、

何とか皆についていけるように、時間のある時に近所で走るようにした。

それと同時にインターネットで走る事に関する文献や、

youtubeで陸上の映像を色々とみて、勉強し始めた。

そこで知ったのが、伊東浩司さんの解説するすり足走法だった。

当初は、膝を高く上げない、足の軌道を小さくして無駄をなくすという捉え方をした。

私ぐらいの年代のスプリント経験者のほとんどが、

当時正しいと教えられてきたマック式の走法を手本に走っていた。

腿を高く上げて、膝から下を良く伸ばす、そして大きく腕を振るという具合だ。

この最高のお手本が、カール・ルイスだと思っていた。

実際カール・ルイスはこの走法とは異なるものだったということは、

この数年後に知る事になるが。

そんなマック式を正しいと走り込んでいたから、

すり足走法なるものを見たときは、これで速く走れるとは思えなかった。

しかし肉体のあらゆる面の衰えから、

45歳の自分には、マック式走法のように大きく腕脚を動かして走る事が出来なかった。

まずは速く走るよりも、練習で皆についていけるように、

出来るだけ力の使わない、自分でも持続出来そうな走法を探していた。

そこで一人競技場に行き、すり足走法を見よう見真似で試してみた。

ちょこん、ちょこんと、何だか女の子が走っている感じで、

スピードも出ている感じはしなかったが、150mは何とか持つ。

よし次の練習はこれでいってみようと思えたら、気持ちが少し晴れた。

実際、合同練習で150mの流しを樋口と一緒に走ったが、

スピードは出ている感じはしないが、樋口について走る事が出来た。

あの伊東浩司さんの走法だから、

自分が思っているよりもスピードが出ているのかもしれない。

とても昔、スプリンターで少しは慣らした者とは思えない、

安易な発想で、安心していた。

それ以降は、体も少しずつ慣れてきたのか、

完全に遅れをとるような事はなくなった。

 

そして更にインターネットを駆使して、走る文献を色々読んで、観てと勉強した。

その都度、それを試そうと、一人で走る事も多くなった。

その流れがあり、早朝に起きて、

競技場に行き、150mの流しが主だが、6本を目安に走る、自主練を再開した。

私の走りの日記(30)

 

『現役を退いてから再び...』

 

高校3年の7月に、リレーで参加した記録会を最後に現役を退いた。

 

小学六年生の時、

「陸上100mでオリンピックで優勝する」と宣言してから約6年後、

その将来の夢という形は、心の中に一かけらも残っていなかった。

 

卒業してから数年の間に、

遊び半分で数回、競技場で軽い練習をした事はあったが、

それ以外は、わざわざウェアを着て、走るということはゼロになった。

 

陸上の競技は離れたが、

1991年の東京で開催された世界陸上は、たまたまチケットが手に入り、

男子400m決勝をバックストレートで観戦することが出来た。

このレースは、高野進さんが世界規模の大会で初めて決勝へ進出した、

日本陸上短距離界では伝説に残るレースだ。

バックストレートで観ると、ラスト100mでは、全選手が団子状態に見え、

7着だった高野選手も、私の観戦位置からは、3着に入ったように見え、

生で観たレースは、我を忘れ、本当に興奮した。

そしてサブトラックでは、リレーの練習をする為、アメリカやカナダチームがいた。

その中には、あのカール・ルイス、ベン・ジョンソンもいて、

カール・ルイスの身体は、筋肉がグッとしまって、すらっとし、

他のどの選手と比べても、断トツに美しかった。

この時のカール・ルイスは、100mを9秒86の世界新記録で優勝し、

正に最高の状態のカール・ルイスを生で観れた事は、

短距離に勤しんだことのある者にとっては、とても貴重な思い出になった。

 

陸上観戦も、この興奮した1991年の世界陸上を最後に、

この後は、2008年の北京オリンピックまで観る事はなかった。

 

だからこの間に起こった短距離界の映像は、大分遅くなってから観る事になる。

自分と同じ歳の杉本龍勇選手、奥山義行選手、

そして一つ下の井上悟選手等の活躍、

その後に台頭して、長く日本陸上100mを牽引してきた朝原宣治選手の映像、

1998年に伊東浩司選手が、アジア大会で10秒00の日本、アジア新記録を出したレース、

末續慎吾選手の世界大会銅メダルまでの道のり。

カール・ルイスの引退。ドノバン・ベイリー、モーリス・グリーン、

2004年アテネ・オリンピックのジャスティン・ガトリン、

こういった凄い出来事を当時は、知らなかった訳だから、

いかに気持ちも陸上から離れていたかが分かる。

 

2008年の北京オリンピックは、言わず知れるウサイン・ボルト選手の9秒69の伝説のレースだ。

このレースから再び、世界大会を観る事になった。

 

また先日、ようやと伊東浩司さんの『疾風になりたい』を読み、

伊東浩司さんと私は学年が一つ違いの同年代なので、

当時の陸上シーンなどを垣間見ることが出来、楽しめたし、とても感動した読み物だった。

この本を読み、長年、挫折、苦労を繰り返しながら、

それでも陸上を続け、走るを追求した姿に、

一挙に伊東浩司さんのファンになり、陸上界で尊敬するお一人になった。

 

陸上をやめてから、気持ちは離れていたにもかかわらず、

それから約30年近く、定期的に精神的に追い込まれる陸上の夢を見続けていた。

試合が近づくのに、自分は全然走れる状態ではなく、

このままでは、ライバル達と互角に走れないと焦る、決まった内容の夢だった。

中学三年の「東京選手権」前の心境が毎回夢で現われている感じだった。

いつしからか、心の中に不完全燃焼のまま残っているものがある事に気づいた。

 

40歳を過ぎ、また走りたいと思うことが時折あった。

しかし中々踏み出せずに一年、一年と過ぎていった。

45歳の7月。

久しぶりに中学三年時の「通信大会」の映像を観た。

100m決勝の十数秒の映像を繰り返し観た。

結果は分かっているのだが、観る度にドキドキと心臓の鼓動が強く波打った。

 

‘また走ってみよう’

 

そう思い、その場ですぐに樋口にメールし、久しぶりに彼と酒を飲んだ。

それが私の走る再開となった。

この時、すでに27年の月日が経っていた。

 

 

私の走りの日記(29)

 

『高校での陸上活動、そして引退』

 

私は、樋口と同じ高校に進学した。

樋口と一緒に練習し、高校の陸上界で走りたいと思ったからだ。

 

中学の最後の試合から受験が終わるまでの約五ヶ月、

ほとんど練習はしなかった。

もちろん走る事もなかった。

受験に対して、大分遅れを感じていたので、

走る時間があれば、勉強せねばと思っていたからだ。

 

無事、志望校に合格し、

春休みには、樋口と入学先の陸上部の練習に参加させてもらった。

この時は、150mの流しを数本、上級生の方と一緒に走ったのだが、

実際は、実績のある方だったが、私は知らなかった。

だから流しだったが、一緒に走った時にも、

その方に遅れをとるまいと気を張って走った。

 

入学してから樋口と私は、他の一年生とは別に練習した。

4月の試合から、リレーメンバーとして予定が組まれていたからだ。

 

私が入学したのは、保健体育科だった。

中学の時には、部活の上下関係はあまりなく、

練習後のグランド整備等は三年生が行うよう先生から指示されていた。

よってとてもゆるい雰囲気の中で、部活動に勤しんでいた。

 

高校入学から数日後、

一年男子全員が、二年生の部屋に呼び出された。

これが保体科伝統の「しめ」というやつで、

部屋に入るや否や、教室の壁づたいに整列させられ、

一人一人大声で自己紹介し、

そして上級生に対する接し方、挨拶などを説教された。

 

高校に入ったら、陸上を頑張るのはもちろんだったが、

中学では出来なかった、

色恋の面でも青春を謳歌したいと淡い高校生活を夢見ていた矢先に、

入学して数日で、いきなり淡い希望が打ち砕かれてしまった。

それからは、坊主頭で完全な体育会系の高校生活が始まった。

部活動内外、学校生活は常にビクビクした生活が続いた。

 

そうなると一分でも早く帰りたいと思うようになり、

部活の練習もビクビク状態で、心身共に強張っていた。

 

そして4月終わり、「第一支部大会」で200mとリレーに出させてもらえた。

これは、都大会の出場権をかけた大会で、

ここで記録の上位8名が都大会に出場出来た。

200mのタイム、順位は覚えていないが、

まるで話にならない結果で、都大会出場を果たせなかった。

リレーも三走を走り、樋口にバトンをつないだが、

明らかに走れていないのが、自他共に分かり、

これ以降は、リレーメンバーから外されてしまった。

 

一年の時は、これ以降、「大会、記録会」に出たのかもしれないが、覚えていない。

ただあまりの走れなさに、二年生になってからは何とかしなくてはとの思いはあった。

しかしその反面、早く学校を出て帰って、友達に会いたいとの気持ちも強かった。

学校での緊張を、地元で友達と会うことで、何とかほぐしていた状態だった。

 

そして二年の春に近づく冬季練習時期。

夕方、暗い中で、重りの片づけをしていた時、

5キロの重りを右足の親指に落としてしまい、骨折してしまった。

この怪我で一ヶ月は松葉づえ。

松葉づえがとれて、骨折した右足の親指を浮かせた状態で歩いていたら、

右足の甲に負担がかかり、今度は右足の甲が疲労骨折してしまった。

この怪我により、ここから2、3ヶ月はほとんど走れなかった。

 

よってこの年の春は、一切試合に出られなかった。

それから夏に記録会などに参加したが、全然走れない。

 

こんな私を見ていて、顧問の先生が、

夏の合宿では、400m部門に入れとのお達しがきた。

100mのスピード種目には見切りをつけられたのだろう。

しかし400mにはトラウマがある。

いきなり合宿で400用の追い込んだ練習をするには、精神的に抵抗があった。

合宿の初日、200mを何本か走っている途中で倒れ込んだ。

意図的に練習をボイコットしたのだ。

もちろんこれは褒められた事ではないし、

選手として、根性からして終わっていた。

 

夏休みが明け、秋の新人戦前。

私は、4×100mリレー、4×400mリレーのメンバーに抜擢された。

こんな私でも、二つのリレーメンバーに選んでいただいた事に感謝すべきだったが、

やはり4×400mのマイルリレーは走りたくなかった。

この時、運が良かったのか、悪かったのか、

練習中に急に喘息が発症してしまった。

これまで喘息を起こしたことはなかった。

結局、マイルリレーは他の選手と交代し、4×100mリレー一本に絞られた。

この時の新人戦は、優勝し、団体だが、高校で初めての都大会優勝経験だった。

 

だがこの年は、怪我によって大分遅れをとり、

出る試合、どれもがみじめな結果に終わっていた。

夏の記録会。

久しぶりに桐畑に会った。

200mの私のあまりにも不甲斐ない姿に

「守屋君、どうしちゃったの」

と言われてしまった。

当時、桐畑は400mで、三年生相手に都大会で優勝しており、

大分上を行っていた。

この時には、ライバルなんていうには、とてもじゃないけど申し訳なく、

面と向かって話をするのも引け目を感じてしまう状態だった。

試合場に行っても、私の落ちぶれた姿に対する周りの目が気になり、

次第に試合に出たくなくなってしまった。

実際は、誰も私の事なんか見ていなかっただろうが、

自分の中ではどんどん気持ちが下向きになる一方だった。

 

そして最上学年。

この時には、学校にいたくないという気持ちはなくなっていた。

そして今年こそは、せめて都大会への出場だけは果たしたいものだと思っていた。

この二年間、私は不振な姿しか出す事が出来なかったにも関わらず、

都大会に通じる「支部大会」では、100mに選んでいただいた。

練習では、少しは走れるようになっていたと思うのだが、

結果は、12秒1と信じられないタイムだった。

中学2年時でも出したことのないタイム。

落ちるとこまで落ちてしまった。

 

この時はマイルリレーにも出場したのだが、

試合後のミーティングで、先生がみんなの前で、

「守屋は、個人種目は残念な結果だったが、今日のマイルは見事だった。」

と褒めてくれた。

普段練習では、私もあまり歩み寄らなかったので、

特に多くの指導を受けた事はなかったが、

先生は先生なりに、私の苦心をみていてくれていたんだと、この時思った。

 

そして翌月の都大会で4×100mリレーで都大会で3着に入り、

南関東大会まで進んだ。

この都大会で、マイルリレーの準決勝と樋口が個人種目のスケジュールがあまりにもタイトだったので、

急遽、私が代走として出場した。

この時は、400mは嫌だ等の贅沢も文句も言えるほどの心境ではなかった。

400mは全く練習していなかったが、この時の自分の走りは悪くはなかった。

決勝では、また樋口に変わったのだが、

この時、樋口も私に申し訳ないと思ったのか、

「準決勝の守屋の走りをみて、他校の皆が、

守屋はあんなに400m走れるのかとびっくりしていたよ」

と気を遣ってくれた。

 

同じ月に「目黒区民大会」があった。

私は100mに出場した。

予選で2着に入り、決勝に進出した。

決勝では、中学以来、樋口と走る事になった。

スタートラインに着く前、樋口が

「中学以来の対戦だな」

と言ってきた。

この言葉は、とても嬉しかった。

同じ学校ながら、遥か先に行ってしまった彼が、

「中学の時のお前の姿は覚えているよ」と言われた気がしたからだ。

 

そして南関東大会。

リレーは予選落ち。

樋口は200mで準決勝に進出した。

決勝で6着までに入れば、インターハイだ。

レース前の三年生の身の周りの世話、いわゆるお付きは、

通常、一年生がやるものだった。

しかしこの時は、競技場で樋口と一緒にいられる最後の機会だと思い、

自分が樋口のお付きを買って出た。

結果、樋口は準決勝で落ち、インターハイへの道は閉ざされた。

インターハイ出場を目標にしていただけに、

気持ちは落ち込んでいたはずだが、

走り終わり、私の所へきて、

「ありがとう」

と言った。

きっと、この試合でお付きを買って出た私の気持ちが伝わったのだと思う。

 

こうして私の高校での陸上生活は終わった。

 

高校時の100mのベストタイムは11秒5。

200mは覚えていない。

 

この先、高校を卒業して、陸上を続けようとは思えなかった。

 

折角、樋口と同じ高校に進学したのだが、

練習時の樋口の姿はあまり覚えていない。

それだけ自分自身に余裕がなかったのだと思う。

ただ一度だけ練習で樋口に勝った事だけは覚えている。

70mのスタートダッシュ練習だったと思うが、

私が前に出て、最後まで樋口が私を抜けなかった時が一度あった。

樋口より先にゴール出来たのは、

試合でも練習でもこの時一回だけである。

これは私が速くなったのではなく、

ただ単に樋口が力の入らなかった日だったんだと思う。

樋口は、この事を覚えていないだろうが、

私にとっては、高校での唯一の嬉しい先着だったので、

忘れられない出来事になった。

 

一浪して大学に進学し、二年目の時。

キャンパスでばったり中條とあった。

彼は、二浪して同じ大学に入学していた。

そしてこれから陸上部の練習に向かうとの事だった。

高校では、全く名前を聞かなかったが、

彼は、高校を卒業しても陸上を続けていた。

 

思い返すと、高校時代の私は、精神的に何かにはまってしまった感じだった。

リレーの時は、心に少し明るさもあったが、

それ以外は、走っていても、どこか暗い道を走っている感じだった。

学校を卒業して、数ヶ月後、一度だけ高校に練習しに行ったことがあった。

約一年、全く走っていない状態だったが、

その時のタイムトライアルでのタイムは、

在学中時のこのグランドで走ったタイムより良かった。

 

‘スランプなんて、こんなものなんだろう’

 

なぜ走れないのか?

三年間、もがき苦しんでいた。

あらゆる面から見て、その脱出方法を探した。

身も心もがんじがらめになっていた。

それが解ければ、何の事はなかったのかもしれない。

ただあの時は、それが分からなかった。

内からは見えなかった。

ただ一歩外に出れば、求めなくても、探さなくても、

すぐそこで見えることに気がついた。

 

陸上を離れて、大分経って気づいた事だが、

輝かしい成績を残す事も才能の一つの現れだと思うが、

結果というものに負けず継続出来る事も、また別の面での才能だと思う。

実は、後者の方が芯は強いのかもしれない。

 

陸上を始めて最初の3年は、順調に伸びた。

その後の3年間は、後退したかのように苦しかった。

所詮、守屋はこの程度だったんだと周りには思われただろうし、

自分もそれを受け入れざるおえなかった。

しかし、俺はこの程度の実力だったと認めきれない自分がいた。

 

陸上をやめた時は、あの呪縛から逃れられると解放された気持ちだった。

 

だがその一方で、不完全燃焼の何かが心の奥底で残り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

私の走りの日記(28)

 

『中学生最後の大会、ライバル、三年間の反省、そして感謝』

 

私にとって中学生最後の陸上の大会、「東京都地区対抗」出場権を目指し、

その選考会を兼ねた「板橋区総体」を無事、板橋区新記録で優勝した。

「よし、この記録をぶら下げて、彼らと中学最後の勝負だ」

と意気込んでいた。

「総体」から数日後、板橋区の選考委員会が開かれた。

戻ってきた先生から告げられた。

「お前は200mになった。最初、100mで名前が挙がったんだが、

 ある重鎮の先生が、「守屋は200mでしょ」と一声上がり、それで決まった。

 100mは池内が出ることになった。」

 

これを聞いた時、がっかりした。

どちらが得意かは別として、やっぱり100mが好きだった。

それは最も速い者を決める種目は、100mだという思いがあったからだ。

100mは、無呼吸で全力で走り切れる種目だ。

それに対し200mという距離は、呼吸なし、

また100mのように全てを全力で走るのは無理で、

スタートからほんの少しの余力を確保しなければ走り切れない。

また100mの一直線に並んで勝負をするというのも、

完全な公平感があり、好きな理由であった。

自己記録も十分、彼らとより対等に渡り合えるタイムだったので、

最後の試合は100mの勝負しか頭になかった。

それでも先生方々の間で決まった事を、

私がとやかく言ってもひっくり返りはしない。

「分かりました」と受けるしかなかった。

その反面、池ちゃんはいいなと羨ましかった。

陸上部に入ったこの三年間、

池ちゃんを羨ましいと思った事はこの時だけだった。

でも前にも書いたが、池ちゃんはこの三年間、

私が壁になって、ずっと苦汁を飲んできたのかもしれない。

池ちゃんの努力、実力が報われる機会が巡ってきたと考えれば、

この件は落ち着くしかなかった。

 

この大会には、板橋選抜として4×200mリレーのメンバーにも選抜された。

メンバーは走順で、池内、中村、守屋、中條。

中條以外は同じ学校で、中條は「総体」で100mで2着に入っていて、

元々は、400mが強い選手で、200mも走れた。

昨年、200mのレースで私に「早く僕の事を抜かしてね」と言ってきた選手だ。

一年後には、区を代表して一緒のチームを組める選手にまでなったんだなと思った。

 

9月初旬の「総体」から10月後半の「地区対抗」まで一ヶ月半以上間があった。

9月は普通に練習出来ていたのだが、10月は修学旅行があり、

その準備やら、旅行やらで、思うように練習が出来なかった。

あまりにも集中して練習が出来なかったので、

旅行先の宿舎の廊下でスタートダッシュなんかをしたが、

全然練習にはならず、感覚もずれてきている感じがして、不安になった。

 

当日。

会場は、一年生の初めての大会と同じ「駒沢オリンピック公園陸上競技場」だ。

二年前は、アンツーカー(土)のグランドだったが、

昨年工事し、きれいなタータントラックになっていた。

9月に自己新を出した時と比べると、肌寒くなっていた。

天候も曇り。

感覚も何だかぼやけていて、気分もしゃっきりしなかった。

プログラムで全国組を確認すると、

100mに、樋口、小熊、桐畑、和田がエントリーされて、

200mは、青山と私しかいなかった。

やっぱり100mで彼らと勝負したかったなと思いながらこの大会に挑んだ。

二日間の初日は、リレーの予選のみ。

ここ二年勝っている練馬選抜がダントツのトップタイムだった。

板橋選抜は、二、三番目というところ。

そして翌日。

200mはエントリー数が少ないので、予選、決勝の二本のみ。

100mは予選、準決、決勝としっかり三本組まれ、

これも何だか、主は100mのような感じがして、しっくりこなかった。

200mのメンバーをみて、青山には勝てる気はしなかったが、

最低でも2番。

それ以外は自分の中で許せなかった。

予選。

トップでゴールしたが、

マークしていなかった選手がぴったりと付いてきた事に、

気分は盛り上がらなかった。

 

そしてトラック下の通路で、調度、樋口の100m準決勝のスタートをみた。

この時、7月の「総体」に続き、二度目の樋口の凄さを感じた。

スタートからの腿の上がりが、他の選手の動きとはまるで違かった。

間近で見る機会があったせいか、

私の記憶では、他の全国区の選手と比べても、

樋口の走りは、本当にきれいで、凄いイメージがある。

一般の全国、世界のトップ選手は、

遠くや、テレビでしか観たことがなかったから、

実際に近くで見ていた樋口のスタートは、それ以上の迫力を感じていた。

彼はスタート型の選手ではないのだが、

その腿の上がりというか、動きは本当に美しく感じたものである。

 

話は私に戻り、200mの決勝前、

関東大会で短距離のコーチにあたられた、I先生に観客席でばったりお会いし、

「決勝、頑張れよ。青山なんか負かしてやれ」

と言われた。

今考えると、非常に嬉しいお言葉だったが、

当時の私は駄目で、青山に勝ってやろうという闘志は湧いてこなかった。

そして決勝。

後で映像で見ると、前半のコーナーは、青山と結構いい勝負をしていた。

しかし、関東大会、全国大会で見せられた、

あの後半の馬力がいつ炸裂するのかと思うと、恐怖感を感じた。

しかし青山も私相手に、あの馬力を出すまでもなく22秒9でゴールした。

私は23秒3の2着だった。

何とも情けない話である。

後半潰れてでもリレーの時の様に、

がむしゃらになれば良かったと後悔が残った。

結局、これが私の中学生最後の個人レースとなった。

 

100mの決勝。

全国メンバーの四人に加え、松本、そして池ちゃんが決勝に残った。

松本というのは、今年の「西部地区」で100mを一緒に走り、

私の胸には、ゴールに張ってある糸を切った後が残っていながらも、

結果、負けてしまった選手だ。

決勝のラインに並んだ彼をみて、彼も速かったんだなと思った。

その決勝のラインに並んだ、これまで競い合った面々をみて、

自分もあそこに立ちたかったと、またつくづく思い、

観客席でみていることが何だか寂しかった。

200mの2位は、都大会で自己最高位だったが、

それに対する嬉しさはまるでなかった。

200mで2位より、100mで彼らと戦って3位の方が何倍も嬉しかったと思う。

 

結果、

1着-樋口秀之(練馬)11秒0(東京都中学新記録)

2着-小熊邦尚(王子)11秒2

3着-桐畑悟史(練馬東)11秒3

4着-和田智寿(成城)11秒4

5着-松本拓(?)11秒5

6着-池内学(板橋三)11秒7

 

この結果をみると、

二年前の最初の大会が同じ駒沢で、

1着:樋口、3着:桐畑、6着:守屋、

この大会には小熊は出ていなかったが、

翌月に通信大会では、小熊は2着。

そして池ちゃんは、私と同じ板橋三中で、私と同じ6着。

皆、この三年間、死闘を尽くして、偶然にも最初と同じ位置に落ち着いてた。

もちろん途中に変動はあっても、

三年間、東京都のこの順位を守り抜いたことは、ある意味立派だと思う。

 

最後のリレーは、練馬選抜が断然優勢だと見られていたが、

一走が予選とは変わり、最初に大変な遅れをとってしまった。

そして2走も順位を盛り返さず、3走の桐畑のところでは、

6チーム中5番目と、前とは大分差がつき、そのまま樋口へ。

さすがの樋口もあまりの差のつきように、一人も抜かせず、

青山とビリ争いで練馬選抜は5着の番狂わせが起きた。

そして何と我が板橋選抜が、優勝の座につくことが出来た。

三走の私のところには、四番手位でバトンが渡ったが、

コーナーを抜ける時には、トップに出て、そのままバックストレートを走った。

後ろに足立区がぴったり私についてきて、

バトンの受け渡しが混戦してしまい、板橋が二着に転落。

しかしコーナーを抜け、ラストの直線で、

中條が、400m選手の持ち前のラストの強さを見せつけ、

先の足立区を抜かし、最後は勝利のガッツポーズを出して優勝。

あの中條が最後の最後にやってくれた。

結局、この年、中村、池内、守屋の板三中リレーメンバーの三人は、

都大会でリレー負けなし、無敗の結果を残す事が出来た。

練馬選抜の思わぬアクシデントに救われ、

この年、リレーの神様は我々に微笑んでくれたんだと思った。

最後の表彰式。

リレーの表彰では私が、一位の一番高い表彰台に上がらせてもらった。

都大会で初めての一番高い表彰台だった。

この時の写真が残っているが、後でこの写真を見る度に、

この表彰台には、唯一他校の中條か、

我が校の部長の栄三に上がってもらうべきだったとこれまた後悔している。

 

これで私の中学最後の試合が終了した。

 

この二週後、11月2日、3日に「ジュニアオリンピック」が国立競技場で行われた。

「ジュニアオリンピック」の参加標準記録は、

全国大会よりも厳しく、私は参加資格がなく、見学に行った。

東京都の短距離陣で出場したのは、樋口と青山のみ。

秋も深まり、ヤッケを羽織る肌寒い季節感だった。

樋口は準決勝まで進み、青山は予選落ちだった。

決勝には、全国大会の決勝常連メンバーが大まかに残り、

優勝は、青森の菊池賢だった。

この時彼は、予選、準決、決勝と全て電気時計で10秒台で揃えた。

観客席で観た、彼の走る姿は、中学生とは思えない程、とても大きく感じた。

これが中学時代に足を運んだ最後の競技場となった。

 

この後は、大分遅れていた受験勉強に専念し、

部活の練習には一切顔を出さなかった。

 

 

(ライバル)

(自分の中だけで勝手にライバルにして、記述していることを予めご了承いただきたい)

 

(樋口秀之)

三年間の都大会を全て優勝という快挙を成し遂げた。

その走りから何から何まで、東京都の中で最も私に影響を与えた、

私にとって特別な選手だった。

 

(青山範朝)

彼は、樋口と共に全国区のトップ選手にまで上りつめ、一躍飛躍した。

彼の実力を初めて感じたのは、二年の全国大会前の合同練習の時だった。

一緒に走った200mで、後半が随分と速かった。

この時、密かに力のある選手だと感じていた。

その後の都大会から東京都で二番手の頭角を現してきて、

この年の活躍は先に記述した通り。

これは後の話になるが、高校三年時には彼が事実上一番になり、

高校卒業後の国体のリレーでは、

三走で出場し、アンカーにはあの不破弘樹さんが入られ、

不破さんにバトンを渡し、優勝したという輝かしい経歴を残した。

 

(小熊邦尚)

参加した都大会で全て決勝に進出を果たした。

これは樋口と小熊だけである。

彼の根性、精神力の強さは、彼を知れば知るほど、伝わってきた。

常に安定したその強さに、私はいつも一目置いていた。

 

(桐畑悟史)

私が初めて負けたレースの勝者であった彼は、

例年この地区対抗は、地区予選で負けて個人参加出来なかったが、

それでも2年、3年と全国大会に出場し、

最後のこの大会では、11秒3の好タイムで堂々3着に入った事は、

私からすれば称賛に値する。

やっぱりあの時、いくら力を出しても、

追いつかなかった強さは本物だったと納得する選手だった。

 

(和田智寿)

3年になってから頭角を現してきた彼だが、

この年の都大会の100mは全て決勝に残り、

完全にファイナリストの常連メンバーになった。

最後の地区対抗での走りは、全国大会メンバーと堂々に競っており、

他の選手達とは、既に一つ抜けた実力をつけていた。

 

(神民一)

同年代で、東京都で強かった選手と言えば、彼の名前は外せない。

一年の最後の大会でいきなり出てきて、二番に入り、

翌年からは、常に決勝で上位に食い込んだ。

前の年の「地区対抗」のリレーの決勝の時。

バトンにまごついた私をさっと抜いて、前にいる樋口を追いかけた快走は、

後に樋口が「あの時の後ろから追いかけてきた神の足音が怖かった」言わしめた程。

「強い」といつも感じさせた選手だった。

 

(池内学)

小学校の陸上大会で、私が負けた唯一の選手。

中学に入ってからは、私の壁があり、中々、都大会の表舞台に立てなかったが、

不屈の精神で遂に都大会のファイナリストに名を連ねた。

もし私が逆の立場で、一年生から過ごしていたら、

最後にこの様な結果を残せただろうか?

この三年間、彼の私に対する対抗心があったからこそ、

学内でも気を抜くことなく、私も成長出来たことは、間違いない事実である。

 

 

「反省」

練習内容については、基礎的な事を含め、

理論的に、そしてきちんと体系づけて練習をした事はなかった。

よって正しい技術はどういうものかということも知らないで競技に挑んでいた。

基本的な事をしっかり身に付ければ、

もっと上に行けたかもしれない等と考えられるかもしれないが、

その点についての後悔、反省はない。

中学生くらいまでは、技術を固めていくことよりも、

負けても、負けても、明日は分からぬと上を目指す根性、

目標に向かってのがむしゃらな努力、

そして根拠がなくても持てる自信、

こういった大胆性、若さゆえの勢い、エネルギーを生かすことの方が大事に思える。

小学生の頃、誰と走っても本気で勝つ気でいた。

中学で初めて負けてから、負ける感覚を知り、

それが繰り返されるうちに、

何とかして一つでも上にいってやると練習した半面、

明らかに力の差を感じる相手には、

勝負をする前から、結果を予想してしまうようになってしまった。

だから格上の相手に、

追い込まれた状況で現われた「ゾーン」体験は一度も起こらなかった。

中学二年の通信大会準決勝までのあの気持ち、

闘志を最後まで持ち続けられればと大きく反省している。

若ければ若いほど成長も著しく、何が起こるか、変化するか分からない。

強い相手に恐怖感を抱かず、

毎回、もっともっと強い闘志で挑むべきだった。

強い相手と戦う時には、失うものはないのだから。

それと私は、他のライバルと比べると、

試合の結果に安定性が欠けていた。

時折つかんだいい感覚を何度と味わったにもかかわらず、

それは一時的なものとなってしまい、

その時々に影響された、中身のない人真似に走ってしまった傾向が多々あった。

所詮、人は体も個性もそれぞれ違うのだ。

何の知識も持たないものが、上辺だけ一流選手の真似をしても、

それは逆効果だということは、明らかであった。

それよりも、掴んだ感覚をもっともっと大事に育てた方が、

どれだけ得る物が多かっただろうか。

例えそれが間違った技術だとしても、中学生の時期ではそれはあまり問題ない。

自分の長所をもっと伸ばすように考えれば良かったと思う。

 

(感謝)

思い返すと、私は、都大会をメインの戦場として戦ってきたと思う。

そして彼らに追いつき、追いていかれないように頑張ってきた。

その上で全国大会出場を目指し、練習を積んだ。

練習でつかんだ走りは、

今、自分なりに勉強し、照らし合わせてみると、間違いだらけだったことに気づく。

しかし、当時大事だったのは、何度も悔しい思いをし、それをばねにして、

自分なりに研究し、考え、そして人のいないところでも練習し、努力した事だった。

この経験は、今でも「あの時、俺は精一杯やった」と言い切れるし、自慢出来る。

この三年間の陸上競技の経験は、人生のこれから先を通しても、

私の生涯で、最も貴重な時期の一つになる事は間違いないであろう。

だから、この時から35年経った今でも、

こんなにも細かく、ほとんど資料をみる事なく覚えていて、記述出来るのである。

上記に記したライバル達に改めて感謝したい。

そしてこの中の何人かは、いまだに付き合いを持てることに幸せを感じている。

 

 

 

私の走りの日記(27)

 

『「脱力こそ最大の力なり」を知る』

 

全国大会が終わり、残る試合は2つになった。

 

9月に板橋区の「総体」。

ここで勝つと10月に東京都の「地区対抗」に進み、

この大会で中学陸上生活を締めくくる予定だった。

 

板橋の「総体」は、短距離は学年別の100mしか種目がなく、

それも各校一名のみの選出で競う試合だった。

前年までの二年間は、自然的に私が出場し、勝っていた。

この年も自動的に自分が出場するものだと思っていた。

しかし全国大会前に池ちゃんが

「「総体」出場をかけて守屋と勝負をさせて欲しい。」

と先生に打診していた。

私はその事を全国大会で競技を終えた夜に宿舎で告げられた。

「東京に戻ったら池内と勝負する。そして勝った方を「総体」に出場させる」

 

その事を告げられた時は、正直気分が良くなかった。

これまで板橋区の人間には負けた事がなかったし、

この年も都大会で全て決勝に残り、堂々と勝負できていたからだ。

他校のライバルたちは、何も総体に向けて、学内で選考会など行わないだろう、

なぜ俺だけ改めて勝負しなければならないんだと。

しかし後で、当時の事を考えてみると、

池ちゃんもこの年の板橋区の大会では、私の次の着順で入っている。

記録も良い記録で走っていた。

他校だったら堂々と代表に選出され、

決勝に残り、上位でゴールする力がある選手なのだ。

その事は自分でもよく分かっていて、

それでもこの二年間、思いを心に秘め、悔しい思いをしていたのだ。

後々、この申し出は理解で来たし、正当なものだった。

 

北海道から帰ってきた翌日は練習を休ませてもらった。

そしてその翌日、遅れて練習に顔を出した。

疲れが残っていて体はだるく、力が入らなかった。

池ちゃんと顔を合わせるや否や

「今日、勝負だって」

と言った。

「うん」

と私はうなずいた。

アップをし、流しをして、勝負に入った。

校庭の直線で70mから80m位の勝負だったと思う。

スタートし、20m付近で前に出られた。

一度前に出れたら、池ちゃんには後半抜かれる心配はなかった。

そのまま大した差はつかなかったが、私が先着した。

先生も「守屋でいく」と一言言ってこの勝負は終わった。

これで池ちゃんも納得してくれただろう、私はそう思い、片づけたかった。

 

夏休みが明けてすぐに「総体」はやってきた。

試合前日前夜、急に体に倦怠感を感じた。

熱を計ると38度を超えていた。

とにかく休まなければと、早めに布団に入った覚えがある。

翌朝、熱は下がったものの、倦怠感は消えない。

競技場に入り、アップをした時にもまだ状態は変わらなかった。

身体に全く力が入らないのだ。

体に力が入らないと全力で走れない。

アップ時には、全力走が出来なかった。

これまで板橋区の大会で、板橋の人間に対して、

例え上級生であれ、無敗を誇ってきた。

板橋の人間には絶対負けられないという強い気持ちがあった。

しかしあまりの力の入らない状態に、

これで勝負出来るのかと急に大きな不安に襲われた。

そして状態が回復しないまま予選が始まった。

先が読めない、ぶっつけ本番の心境のままスタートラインに着いた。

号砲が鳴り、いつものように飛び出した。

しかし案の定、脚にも上半身にも全く力が入らない。

2,3歩進んだところで、もうどうにでもなれと無意識的に開き直り、

全身の力を敢えて抜いてしまった。

脱力なまま、脚は前に投げ出すように、

そして腕は後ろに投げ出すようにと。

速く走っている感じはしないが、誰も私についてこない。

この状態で誰も追いかけてこないなんてラッキーだと思いながらゴールした。

予選は何とか一着でゴール出来、ひとまずホッとした。

そして放送で結果発表が流れた。

私のタイムは、11秒3で自己タイ記録で、他を大きく引き離していた。

これにはびっくりした。

あれで11秒3で走れるのか。

身体に力こそ入らないが、このタイムで自信もすっかり快復し、

気持ちは、気持ちよく上に向いてしまった。

自信が回復すれば、板橋の大会では断然自分に分がある。

 

そして決勝。

予選では、一気に脱力したらあれだけ走れたんだから、

決勝では、同じように一気に脱力した後に、

予選よりももう少し手足を速く動かすように努めてみようと考えた。

号砲。

スタートしたら案の定、力は入らない。

先程は半分無意識に力を抜いたが、今度はすぐに意識的に力を抜いた。

力の抜けた状態で、脚を前へ投げ出すように、腕を後ろに投げ出すように、

そしてさっきよりも気持ちの上で速く動かすように走った。

後ろから誰も付いてこない。

そのままゴールに向かって突っ走った。

 

結果:11秒2

このタイムは、自己新記録、

昭和43年に樹立された11秒3を17年ぶりに更新した

大会新記録、そして板橋区新記録となった。

 

なぜあの走りで自己新記録を出せたのかは分からない。

ただ速く走る為にはリラックスしなければならないということが、

この時、これまでよりももっと深いところで感じられた気がした。

この経験は「ゾーン」体験と共に、

私の陸上競技生活における貴重なものとなった。

そしてこれは、走る事だけではなく、

ヨーガを始め、様々な面においての基軸としている。