私の走りの日記(29) | 板橋の自然健康ヨーガ教室

私の走りの日記(29)

 

『高校での陸上活動、そして引退』

 

私は、樋口と同じ高校に進学した。

樋口と一緒に練習し、高校の陸上界で走りたいと思ったからだ。

 

中学の最後の試合から受験が終わるまでの約五ヶ月、

ほとんど練習はしなかった。

もちろん走る事もなかった。

受験に対して、大分遅れを感じていたので、

走る時間があれば、勉強せねばと思っていたからだ。

 

無事、志望校に合格し、

春休みには、樋口と入学先の陸上部の練習に参加させてもらった。

この時は、150mの流しを数本、上級生の方と一緒に走ったのだが、

実際は、実績のある方だったが、私は知らなかった。

だから流しだったが、一緒に走った時にも、

その方に遅れをとるまいと気を張って走った。

 

入学してから樋口と私は、他の一年生とは別に練習した。

4月の試合から、リレーメンバーとして予定が組まれていたからだ。

 

私が入学したのは、保健体育科だった。

中学の時には、部活の上下関係はあまりなく、

練習後のグランド整備等は三年生が行うよう先生から指示されていた。

よってとてもゆるい雰囲気の中で、部活動に勤しんでいた。

 

高校入学から数日後、

一年男子全員が、二年生の部屋に呼び出された。

これが保体科伝統の「しめ」というやつで、

部屋に入るや否や、教室の壁づたいに整列させられ、

一人一人大声で自己紹介し、

そして上級生に対する接し方、挨拶などを説教された。

 

高校に入ったら、陸上を頑張るのはもちろんだったが、

中学では出来なかった、

色恋の面でも青春を謳歌したいと淡い高校生活を夢見ていた矢先に、

入学して数日で、いきなり淡い希望が打ち砕かれてしまった。

それからは、坊主頭で完全な体育会系の高校生活が始まった。

部活動内外、学校生活は常にビクビクした生活が続いた。

 

そうなると一分でも早く帰りたいと思うようになり、

部活の練習もビクビク状態で、心身共に強張っていた。

 

そして4月終わり、「第一支部大会」で200mとリレーに出させてもらえた。

これは、都大会の出場権をかけた大会で、

ここで記録の上位8名が都大会に出場出来た。

200mのタイム、順位は覚えていないが、

まるで話にならない結果で、都大会出場を果たせなかった。

リレーも三走を走り、樋口にバトンをつないだが、

明らかに走れていないのが、自他共に分かり、

これ以降は、リレーメンバーから外されてしまった。

 

一年の時は、これ以降、「大会、記録会」に出たのかもしれないが、覚えていない。

ただあまりの走れなさに、二年生になってからは何とかしなくてはとの思いはあった。

しかしその反面、早く学校を出て帰って、友達に会いたいとの気持ちも強かった。

学校での緊張を、地元で友達と会うことで、何とかほぐしていた状態だった。

 

そして二年の春に近づく冬季練習時期。

夕方、暗い中で、重りの片づけをしていた時、

5キロの重りを右足の親指に落としてしまい、骨折してしまった。

この怪我で一ヶ月は松葉づえ。

松葉づえがとれて、骨折した右足の親指を浮かせた状態で歩いていたら、

右足の甲に負担がかかり、今度は右足の甲が疲労骨折してしまった。

この怪我により、ここから2、3ヶ月はほとんど走れなかった。

 

よってこの年の春は、一切試合に出られなかった。

それから夏に記録会などに参加したが、全然走れない。

 

こんな私を見ていて、顧問の先生が、

夏の合宿では、400m部門に入れとのお達しがきた。

100mのスピード種目には見切りをつけられたのだろう。

しかし400mにはトラウマがある。

いきなり合宿で400用の追い込んだ練習をするには、精神的に抵抗があった。

合宿の初日、200mを何本か走っている途中で倒れ込んだ。

意図的に練習をボイコットしたのだ。

もちろんこれは褒められた事ではないし、

選手として、根性からして終わっていた。

 

夏休みが明け、秋の新人戦前。

私は、4×100mリレー、4×400mリレーのメンバーに抜擢された。

こんな私でも、二つのリレーメンバーに選んでいただいた事に感謝すべきだったが、

やはり4×400mのマイルリレーは走りたくなかった。

この時、運が良かったのか、悪かったのか、

練習中に急に喘息が発症してしまった。

これまで喘息を起こしたことはなかった。

結局、マイルリレーは他の選手と交代し、4×100mリレー一本に絞られた。

この時の新人戦は、優勝し、団体だが、高校で初めての都大会優勝経験だった。

 

だがこの年は、怪我によって大分遅れをとり、

出る試合、どれもがみじめな結果に終わっていた。

夏の記録会。

久しぶりに桐畑に会った。

200mの私のあまりにも不甲斐ない姿に

「守屋君、どうしちゃったの」

と言われてしまった。

当時、桐畑は400mで、三年生相手に都大会で優勝しており、

大分上を行っていた。

この時には、ライバルなんていうには、とてもじゃないけど申し訳なく、

面と向かって話をするのも引け目を感じてしまう状態だった。

試合場に行っても、私の落ちぶれた姿に対する周りの目が気になり、

次第に試合に出たくなくなってしまった。

実際は、誰も私の事なんか見ていなかっただろうが、

自分の中ではどんどん気持ちが下向きになる一方だった。

 

そして最上学年。

この時には、学校にいたくないという気持ちはなくなっていた。

そして今年こそは、せめて都大会への出場だけは果たしたいものだと思っていた。

この二年間、私は不振な姿しか出す事が出来なかったにも関わらず、

都大会に通じる「支部大会」では、100mに選んでいただいた。

練習では、少しは走れるようになっていたと思うのだが、

結果は、12秒1と信じられないタイムだった。

中学2年時でも出したことのないタイム。

落ちるとこまで落ちてしまった。

 

この時はマイルリレーにも出場したのだが、

試合後のミーティングで、先生がみんなの前で、

「守屋は、個人種目は残念な結果だったが、今日のマイルは見事だった。」

と褒めてくれた。

普段練習では、私もあまり歩み寄らなかったので、

特に多くの指導を受けた事はなかったが、

先生は先生なりに、私の苦心をみていてくれていたんだと、この時思った。

 

そして翌月の都大会で4×100mリレーで都大会で3着に入り、

南関東大会まで進んだ。

この都大会で、マイルリレーの準決勝と樋口が個人種目のスケジュールがあまりにもタイトだったので、

急遽、私が代走として出場した。

この時は、400mは嫌だ等の贅沢も文句も言えるほどの心境ではなかった。

400mは全く練習していなかったが、この時の自分の走りは悪くはなかった。

決勝では、また樋口に変わったのだが、

この時、樋口も私に申し訳ないと思ったのか、

「準決勝の守屋の走りをみて、他校の皆が、

守屋はあんなに400m走れるのかとびっくりしていたよ」

と気を遣ってくれた。

 

同じ月に「目黒区民大会」があった。

私は100mに出場した。

予選で2着に入り、決勝に進出した。

決勝では、中学以来、樋口と走る事になった。

スタートラインに着く前、樋口が

「中学以来の対戦だな」

と言ってきた。

この言葉は、とても嬉しかった。

同じ学校ながら、遥か先に行ってしまった彼が、

「中学の時のお前の姿は覚えているよ」と言われた気がしたからだ。

 

そして南関東大会。

リレーは予選落ち。

樋口は200mで準決勝に進出した。

決勝で6着までに入れば、インターハイだ。

レース前の三年生の身の周りの世話、いわゆるお付きは、

通常、一年生がやるものだった。

しかしこの時は、競技場で樋口と一緒にいられる最後の機会だと思い、

自分が樋口のお付きを買って出た。

結果、樋口は準決勝で落ち、インターハイへの道は閉ざされた。

インターハイ出場を目標にしていただけに、

気持ちは落ち込んでいたはずだが、

走り終わり、私の所へきて、

「ありがとう」

と言った。

きっと、この試合でお付きを買って出た私の気持ちが伝わったのだと思う。

 

こうして私の高校での陸上生活は終わった。

 

高校時の100mのベストタイムは11秒5。

200mは覚えていない。

 

この先、高校を卒業して、陸上を続けようとは思えなかった。

 

折角、樋口と同じ高校に進学したのだが、

練習時の樋口の姿はあまり覚えていない。

それだけ自分自身に余裕がなかったのだと思う。

ただ一度だけ練習で樋口に勝った事だけは覚えている。

70mのスタートダッシュ練習だったと思うが、

私が前に出て、最後まで樋口が私を抜けなかった時が一度あった。

樋口より先にゴール出来たのは、

試合でも練習でもこの時一回だけである。

これは私が速くなったのではなく、

ただ単に樋口が力の入らなかった日だったんだと思う。

樋口は、この事を覚えていないだろうが、

私にとっては、高校での唯一の嬉しい先着だったので、

忘れられない出来事になった。

 

一浪して大学に進学し、二年目の時。

キャンパスでばったり中條とあった。

彼は、二浪して同じ大学に入学していた。

そしてこれから陸上部の練習に向かうとの事だった。

高校では、全く名前を聞かなかったが、

彼は、高校を卒業しても陸上を続けていた。

 

思い返すと、高校時代の私は、精神的に何かにはまってしまった感じだった。

リレーの時は、心に少し明るさもあったが、

それ以外は、走っていても、どこか暗い道を走っている感じだった。

学校を卒業して、数ヶ月後、一度だけ高校に練習しに行ったことがあった。

約一年、全く走っていない状態だったが、

その時のタイムトライアルでのタイムは、

在学中時のこのグランドで走ったタイムより良かった。

 

‘スランプなんて、こんなものなんだろう’

 

なぜ走れないのか?

三年間、もがき苦しんでいた。

あらゆる面から見て、その脱出方法を探した。

身も心もがんじがらめになっていた。

それが解ければ、何の事はなかったのかもしれない。

ただあの時は、それが分からなかった。

内からは見えなかった。

ただ一歩外に出れば、求めなくても、探さなくても、

すぐそこで見えることに気がついた。

 

陸上を離れて、大分経って気づいた事だが、

輝かしい成績を残す事も才能の一つの現れだと思うが、

結果というものに負けず継続出来る事も、また別の面での才能だと思う。

実は、後者の方が芯は強いのかもしれない。

 

陸上を始めて最初の3年は、順調に伸びた。

その後の3年間は、後退したかのように苦しかった。

所詮、守屋はこの程度だったんだと周りには思われただろうし、

自分もそれを受け入れざるおえなかった。

しかし、俺はこの程度の実力だったと認めきれない自分がいた。

 

陸上をやめた時は、あの呪縛から逃れられると解放された気持ちだった。

 

だがその一方で、不完全燃焼の何かが心の奥底で残り続けていた。