私の走りの日記(16)
『初めての全国大会』
7月の2つの都大会が終わると、
この後は、関東大会、そして全国大会となる。
関東大会は、学年別の種目がないので、
各種目、関東1都7県から2名の代表が選出される。
私は無論、選抜候補にも名は挙がらないが、
東京都の男子100mの代表は、野村明宏さんと田村秀樹さん。
共に昨年の全国大会の2位、5位の全国区の実力者だ。
樋口は、補欠に入っていたらしい。
ただ野村さんは、夏前に怪我していて、7月の2つの都大会には出場していなかった。
しかし、過去の実績から野村さんが選出された。
この年は、国立競技場で行われ、私は顧問の先生と観戦に行った。
この時の私のお目当ては、
この年の中学短距離界のスターであった、埼玉の名倉雅弥(藤)さんだった。
名倉さんは、昨年の2年男子100mの覇者で、
今年に入っても、埼玉選手権かなんかの大会で、成人に交じって2着に入り、
10秒78と、あの不破弘樹さんの中学記録(10秒75)に0.03秒と迫る快走を見せていた。
陸上マガジンでも特集が組まれ、全国大会の優勝筆頭者だった。
また、私が名倉さんに興味をもった理由には、もう一つある。
5月に行われた「東京リレーカーニバル」での事だ。
名倉さんが在籍する藤中学のレースを、バックストレートの競技場内で観た。
アンカー名倉さんにバトンが渡った時は、前に随分の差で3,4人がいた。
そこをもの凄いスピードで、あっという間に抜き去り、大きな差をつけてゴールしてしまった。
なんかヒョウかなんかが、急に走り出して、駆け抜けたような光景だった。
前者との差といい、私がこれまで見た中でも、断トツのスピード感だった。
いまだに、あの時の見たことは、何かの見間違いかなと疑念をもってしまう位、
人間離れしたスピードの印象が残っている。
この関東大会でも、名倉さんは100mで優勝。
しかしこの時のレースは、誇大妄想が膨らんでいたせいか、特別驚きはしなかった。
名倉さんの優勝より驚いたことは、100mで2着に入った埼玉の小林悟(豊野)だった。
彼は私と同じ2年生で、
レベルの高い埼玉県の代表に選ばれていた事自体、驚くべきことだったが、
更に各都県の代表(ほとんどが3年生)に交じって、名倉さんの次に入った事にびっくりした。
全国大会では、こういった凄い奴らが競争相手になるのだと思うと、
なんか全国大会という舞台が、随分上方にある、ふわふわしたものに感じてしまった。
この大会から約2週間後、いよいよ全国大会がやってきた。
この年は、和歌山県の紀三井寺競技場で行われたので、
私と顧問の五十嵐先生は、新幹線で和歌山に向かった。
全国大会出場となると、周りも少し騒いでくれるものだった。
担任ではなかった、バトミントン部の顧問をされていた女性の先生からお手紙をいただいたり、
和歌山に向かう当日、何人かの部員が見送りに来てくれ、千羽鶴をプレゼントしてくれたり、
板橋区の広報に、名前が記載されたりと、
自分の知らないところで、周りの方々が動いてくれるものなんだなと思った。
この全国大会まで、特別な特訓や秘策の発見などはなかった。
自主練で見出した、膝下を投げ出す走りも、通信大会で負けてから、どこかにいってしまった。
特に強くなった、速くなったという感覚もなく、試合に挑むことになる。
大会プログラムが配られ、自分の組を確認した。
同じ組に、前年度の覇者、古沢宏年(興文)の名前があった。
当時は、予選で前年度チャンプとあたったのは、ついていないと思ったが、
今思えば、全国チャンピオンと走れる機会なんて、そうそう巡ってくるものではない。
そう考えれば、私はついていたのかもしれない。
結果は、12秒01で組7着。この時初めて、電気時計で計測された。
古沢は、11秒41で組1着。きれいに0秒6の大差をつけられた。
決勝は、
1着-菊池賢(油川)11秒25
2着-小林悟(豊野)11秒29
3着-古沢宏年(興文)11秒31
単純に考えれば、自分と全国のトップとの差は、0秒7位になるのだが、
実際にはもっとあるだろう。
そして古沢の上には、2人いて、関東大会で2位だった小林悟も優勝出来なかった。
優勝した菊池賢は、実力は1年生時からトップだったが、
全国区で優勝したのはこの大会が初めてだった。
我が東京のエース、樋口は、予選のスタート時に、
スタブロを後ろにすっ飛ばして、つまずいてしまい、7着で終わってしまった。
しかしあの状況でも、全国大会出場者を一人抜いたのは、
さすがと言わしめるレースだった。
東京都では、神が唯一、準決勝に残り善戦したが、
あとは、私を含め全員、予選落ちだった。
東京都という舞台も高めの目線で眺めるようであれば、
全国で決勝に残るなんていうのは、まぐれでも起こり得ないことだと感じた。
この年は、ただ参加しただけになってしまったが、
来年は、彼らと堂々と渡り合えるくらいに強くなって参加したいと思えれば見込みもあるのだが、
あまりにも力がかけ離れていて、その意気込みも湧いてこなかった。
ちなみに、3年男子100Mは、名倉さんが優勝。
そして100m-5着、200m-3着にあの伊東浩司さんが入っている。
私の走りの日記(15)
『準決勝と決勝の違い』
1984年東京都の「通信大会」、
男子2年生100mの準決勝、組一着で通過した。
都大会における一着通過は、自身初だった。
もう一組の一着は、やはり樋口。
桐畑は、四着で決勝進出ならなかった。
レース後、結果発表が、放送で流れた。
全国大会参加標準記録を突破した11秒5の記録を耳にした瞬間、
「やった、全国だ」
と思わず叫んでしまった。
それと聞いた池ちゃんは、仰向けになり、腕で目を覆い、泣いていた。
普段は、仲の良い友達だが、一つの目標を達成したライバルに対し、
素直に祝福出来なかった気持ちは、自分なりに分かった。
彼も彼なりに、心の中で常に私と戦っているのだ。
同じ学校のそんな彼の存在は、自分にとってプラスであった事は間違いない。
準決勝から一夜明け、決勝の日。
この日の天気は、雨だった。
午前中に共通200mの予選があったのだが、
3年生までの共通の参加で、予選落ちは目に見えていたので、
先生と相談し、体力温存ということで棄権した。
しかし、他の決勝進出のメンバーは、ほとんど走っているのを見て、
棄権しない方が良かったかなと、ふと思った。
雨の中、決勝に向けて、アップを始めた。
当時は、合羽など持っていなかったから、
ジャージ、靴、靴下、スパイクなどを濡らしながらアップをした。
雨だから走りづらい。
それに体の動きも悪い。
またこの時、前日とは異なる走りのイメージを頭の中に描いていた。
1984年に全国のトップに頭角を現した不破弘樹さん(農大二高)の走る姿が、
頭の中に流れていた。
不破さんは、5月、6月の国内のレースで、
2本共、高校生ながら、国内成人のトップ選手相手に10秒34の日本タイ記録で、
走り勝っていた選手だった。
また不破さんは、当時の中学、高校記録保持者でもあり、
あまりにも高い中学記録には、一年の時から、凄い人だと頭にあった人だ。
カール・ルイスは、世界最高峰のヒーロであったが、
その存在は、何から何まであまりにも自分とは違い過ぎて、
それこそ実在味のない存在であった。
それに比べ不破さんは、同じ日本人で、体格も外国選手と比べ華奢。
レベルはあまりにも違うが、国内レースで実際姿を見たこともあり、
ルイスと比べると、まだ近い存在で、国内では一番影響を受けていた選手であった。
不破さんの走りを真似して練習したわけではないが、
観ていて感じる不破さんの闘魂ぶりに心が浸って、
不破さんのような走り方をイメージしてアップをしていた。
自分の中では、何の根拠もない走りである。
前日までとは違い、体に力がみなぎってこなかった。
いざ、レース。
準決勝の結果をみれば、私は少なくとも2着には入れる状況だった。
しかし準決勝までとは、気持ちの入り方が異なっていた。
準決勝までは、‘絶対に負けられない、勝つ’という強い気持ちがあったが、
決勝では、樋口に勝てる絶対の自信はなかった。
よって‘絶対に勝つ!’との強い意識が抜けていた。
自主練で発見したあの走り、それに伴う強い力感が湧いてこない。
号砲。
ゴール手前までの展開は、記憶にはない。
気づいたら一番最後を走っていた。
準決勝の時のような、ゾーン現象は起きなかった。
結果:
1着-樋口秀之(練馬)11秒4
2着-神民一(北)11秒5
3着-小熊邦尚(王子)11秒7
4着-米屋信義(府中八)11秒7
5着-青山範純(青梅一)11秒7
6着-守屋雅彦(板橋三)11秒7
昨年に引き続きまたもやビリだった。
しかし今回は、昨年と違い、準決勝までの状況では、
先生も、十分上位に入れると予想していたので、がっかりしていた。
自分も落胆し、昨日の全国大会出場決定の喜びは、どこかに飛んでいってしまった。
なぜ負けたのか?
反省してみると、
まず200mの予選を棄権したことが挙げられる。
中学生は、体力はないにしても回復力が早い。
本番とされる決勝前に、1本全力で走って、
体を慣らしっていた方が良かったことは間違いない。
また、中学生のうちから、体力温存などという、積極性に欠ける守り根性が駄目だ。
もう一つ、前日までのいい感じの感覚を、
その時の気分、思いつきで、走る感覚をガラッと変えてしまったことも、
知識も経験も力もない若造には、あまりにも浅はか過ぎたことだった。
結局、これ以降、自主練で身に付けた走法(実際はそんなたいそうなものではないが)と、
その感覚が蘇る事はなかった。
私は、人に強いものに影響されやすい性格で、
ブームのように、頭の中で描く走りが度々変わっていって、
自分の走りというのが定着しなかった。
まあ、これも実力のうちだと言われればその通りで、
この時、ビリになったのも、実力以外の何ものでもなかった。
陸上の場合、準決勝と決勝では、意味合い、重要性がまるで違うことに今更ながら気づく。
準決勝をいくらトップで走っても、タイムを出しても、
決勝で勝てなければ、準決勝の結果の光は、どこかに吹き飛んでしまう。
勝負は、‘最後’に勝ってなんぼであり、
最後に勝ちきることが出来る者こそが、本当の強者なのだ。
決勝で勝ち切るまでの体力、精神力、
これが備わっていなければ、力が拮抗している者たちの中で、勝つことは出来ない。
私には、これが足りなかったのだろう。
またこれも大事な実力の要素なのだ。
同じ月に行われた東京都の「総合体育大会」は、準決落ちで、決勝に残れなかった。
決勝のメンバーは、私と桐畑が入れ替わり、あとの5人は同メンバーであった。
また準決勝3着で通過した桐畑は、
決勝で樋口に次いで2着でゴールし、全国大会出場を決めた。
彼もやはり実力者であり、この2大会の決勝メンバー七人全員が、
この年の全国大会参加標準記録を突破した。
私の走りの日記(14)
『特別な‘力’の体験』
追い風参考ながら11秒5の記録を出してから、
次なる試合は、7月の通信大会まで待たなければならなかった。
ここが、いよいよ東京都のそうそうたるメンバーと対決出来る大会だった。
走る事に関しては、その前に一つ出来事があった。
6月の体育祭り。
池ちゃんが、徒競走で対決しようと言ってきた。
そうした時折ある池ちゃんの挑戦は、正直気持ちの良いものではなかった。
池ちゃんも速かったので、いつでも余裕をもって勝てるという訳にはいかないので、
毎回、気軽に走れなかったからだ。
徒競走は、カーブ有りの100mで、踏み込みが強く、大股で走る自分にとっては、
走りにくいコースだった。
走るタイプでいうと、池ちゃんは、小回りの利くナイフのような切れ味で、
私は、鉈のような大味だった。
砂交じりのコースを、思いっきり踏み込んでスタートをした。
普通の運動靴だったので、思いっきり滑ってしまった。
体勢を立て直して、滑るカーブを転ばないように走って、
カーブを抜けた時には、池ちゃんは私の数歩先を行っていた。
結局そのままゴールで、池ちゃんに負けてしまった。
池ちゃんは、「やったー」と声を上げ、大喜び。
私は、負けてしまったと素直に認めたが、悔しさや、ショックは感じなかった。
競技場のトラックでは、あの走りで負けないぞという自信があったから。
そして、翌月、「通信大会」がやってきた。
初日に予選、準決勝、翌日に決勝の日程だった。
プログラムには、前年に名を上げたメンバーの名が、しっかりと連ねてあった。
いよいよ勝負の時だ。
予選は、11秒7で余裕をもって走れた。
全体の中でも上位の方である。
そして準決勝。
同じ組には、米屋(昨年全国大会出場者)、神(昨年の地区対抗で2位)、
曽根田(昨年の地区対抗で5位、地区大会では、桐畑に勝っている)がいた。
昨年は、皆、東京都で名を上げていて、私よりも数段上にいた連中だ。
しかし、5月の11秒5の自信を胸に秘めて、
この連中に対して、本気で「負けられない、勝つ!」との強い気持ちを持っていた。
この準決勝は、いまだに覚えているが、心身共に強さと力がみなぎっていた。
号砲が鳴り、思いっきり飛び出した。
やはり予選とは違う。すぐには前に出られない。
それでも、昨年の‘駄目かも’という思いは頭によぎらなかった。
全身にぐっと力が入っている。
今考えると十分力んでいるのだが、この時は、この状態が‘力’を感じた。
中間はあまり覚えていないが、
ゴール20m手前では、まだ二人くらい(恐らく米屋と神)が前にいた。
この時、絶対負けないという強いものが、意識の奥底から湧き上がってきた。
更にグッと力が入り、前方に伸び、細くなっていくゾーンの中に、グッと吸い込まれていった。
前者を抜き去り、1着でゴールした。
結果
1着-守屋雅彦(板三)11秒5
2着-米屋信義(府中八)11秒6
3着-神民一(北)11秒6か7
このそうそうたるメンバーに勝て、
自分の走りが、間違いなく強くなったと確信出来た事が嬉しかった。
そして、ここで全国大会の参加標準記録を突破し、全国大会出場を決めた。
今年掲げた大きな目標の一つが達成された。
またこのレースでもう一つ貴重な体験をした。
先に「ゾーン」と表現をしたが、
感覚的には、火事場のくそ力のような感じで、
意識したら絶対に出ないだろうという力が、
絶対に勝つとの強い意識と、自身の力を本気で信じる意思が、
意識の奥底から沸き起こり、それが力となって表れる感じなのだ。
視覚的には、うっすらと先細りの暗闇の中に吸い込まれる感じ。
的確に表現出来ているか分からないが、自分の中では、これをゾーン感覚だと思っている。
私は、この感覚を計4回体験しているが、
思い返してみて、全てに共通することは、
*意識的に出せるものではなく、無意識的に出たもの。
*この感覚が出る時には、本当に追い詰められた状態であったこと。
*この追い詰められた状態の時に、無意識的に高い集中状態になったこと。
*この集中状態が出た時には、走る前に「絶対に勝つ」との強い意識と、
その意識が持てる為の確固たる自信を抱いていること。
逆にみていけば、
確固たる自信から、「絶対に勝つ」との強い意識が生まれ、
後半まで劣勢、万事休すの状況により精神が追い詰められ、
そこで負けられないとの強い意識から、高い集中状態に無意識的に入り、
その集中という光の中に吸い込まれていく。
こんな感じだ。
一流のアスリートの言うゾーンとは、次元が違うものだろうが、
私にとってこれは、特別な‘力’の体験であった。
私の走りの日記(13)
『自主練習』
1年生の冬、
池ちゃんは、バレー部の顧問に勧誘されて、
陸上部の練習よりも、バレー部の練習に多く参加していた。
陸上の冬季練習は、スピード練習がなく地味なものである。
私と違って、器用だった池ちゃんは、
いきなりバレー部の練習に参加しても、
既存の部員に引けを取らなかっただろうから、新鮮味があり、楽しかったのだろう。
国立競技場の教室はいつまで通っていたのかは知らない。
ただ内心は、ここで差をつけられると思い、少しホッとしていた。
それまで池ちゃんとは、5回走って、5回必ず勝てる程の差はなかったと思う。
しかし心の中では、10回走ったら、10回勝てると思い込むようにしていた。
またライバルは、東京都のファイナリストたちで、
あえて池ちゃんをライバル視しないでいた。
これは、心の問題で、学内に目を向けているようだったら、
到底、東京都のトップの舞台では戦えないだろうと思っていたからだ。
池ちゃんも負けず嫌いであり、表にそれを出していたからよく分かっていたが、
私は表にこそ出さないが、池ちゃん以上に負けず嫌いだと自負していた。
こうした心理面で、私は池ちゃんと戦っていた気がする。
3年生の卒業式間近、
3年生のE先輩が、最後に一緒に走ろうと声をかけてきた。
E先輩は、板橋区で100M2番だった人で、持ちタイムも私より速かった。
しかしいざ走ってみたら、私の方が速かった。
受験勉強で体を動かしていなかっただろうから、勝てたのは当然かもしれない。
けど、その時は、実感はなかったが、少しは速くなったのかなと思ったりもした。
E先輩も勝てなくなっちゃったなと笑って言ってくれた。
2年生になり、最初のレースが、「西部地区」だった。
この年は、例年と異なり、リレーなどは4月に行い、100mなどは5月に行われた。
リレーは、4×200m。私はアンカーで走った。
200mは、昨年、リレーで一度走っただけだった。
どの程度走れるのか分からなかったが、
3年生まで混成のチームの中で、私は3,4人抜かしてトップでテープを切った。
このごぼう抜きには、先生を含め、みんな凄かったと褒めてくれた。
しかしその後、私はトイレに行っていて見れなかったのだが、
あの樋口が、これまたごぼう抜きの芸当を見せてくれたらしく、
そのスピードは、私のよりも凄かったと、一瞬で評価が霞んでしまった。
私が学校で散々、樋口、樋口と言っていたので、
クラブの連中は、みんな樋口の事を知っていた。
後日、一皮むけなければ、立てた目標に現実味が帯びてこないと思い、
朝、6時に起きて、家の前で走ることにした。
家の前は、直線で72mあり、民家が密集する狭い路地にもかかわらず、
朝早くから、二人の弟を練習相手に何本もダッシュをし、タイムをとった。
私が72m、小学6年の弟が60m、小学3年の弟が40mのラインで走っていた。
人を前にして、ゴールまでに追い抜くことを訓練した。
この自主練が、初めて自分で考えて、自ら行動を起こした練習だった。
最初の頃は、ただ走るだけで、72m走なんてタイムを計った事がないので、
それが速いのか、どうかは分からなかった。
また走りに工夫もなかった。
それを毎日繰り返し、しばらくした日、ふと思った。
‘100mは、ただ前に進む競技だ。
そしたら脚が前へ、前へ出た方が得なのではないだろうか’
その考えから、膝下を投げ出すようにして走ってみた。
とにかく脚だけが前に行けばいいと思っていたから、上半身は随分と反った状態になった。
タイムを見たら、これまでのタイムより格段に速い。
計り間違えか、まぐれか?
もう一度同じように走った。
やはり同じようなタイムが出る。
これはもしや!
光が見え始めた瞬間だった。
翌日、翌々日と同じように走るが、これまでよりも随分高いレベルでタイムが安定していた。
走っているスピード感も含め、一皮剥けたと実感出来た。
この記録用紙を、顧問の先生に見せ、記録が向上した経緯を説明した。
そしてこの走りに自信を持てるようになってきた。
一体、今、100mを何秒で走れるだろう。
当時の2年生の全国大会参加標準記録は、「11秒6」。
昨年の自己ベスト記録が「12秒4」。
現在は、どの位の力があるのか?
それを試すには、5月の西部地区まで待たなければならなかった。
この年の西部地区は、大井競技場だった。
ここは風が強く吹きぬける土地柄なのか、この日も風が強く逆走した。
これは、先の二つの都大会の出場権を獲得出来るかの大会なので、
ここでたとえ全国大会参加標準記録を突破しても、参加資格は得られない。
学校で選抜されれば、持ちタイム関係なく、各校2名まで参加出来るので、
大勢の参加者がずらっと集まっていた。
その中には、あの樋口もいた。
樋口は、私の随分前の組で走っていた。
後ろからだから、どの位の速さだったか分からないが、
やはり一着でゴールしていた様に見えた。
樋口も順調に伸びているのだろうと思った。
いざ、自分のレース。
この一皮剥けた走りを試す時がきた。
号砲がなり、力を込め、膝下を前に投げ出すように走った。
2着とは随分差がついたと思う。
結果、「11秒5」(+2.7)。
追い風参考ながら、全国大会参加標準記録を超えていた。
これには自分ながらびっくりした。
‘この走りは本物だ’、そう思えた走りだった。
そして目標に掲げていた、全国大会出場も現実味を帯びてきた。
あの時、樋口は何秒で走っていたのだろう?
それは分からなかったが、昨年と比べ、
間違いなく彼との差は縮まっている、そう強く思えた。
この日は、顧問の五十嵐先生は、用事で引率出来なく、
後日、結果を知らせた。
このタイムには、先生もびっくりしていた。
そして先生の中でも、全国大会を視野に入れたようだった。
自主練のあの時のひらめきは、
私の陸上競技の大きなターニング・ポイントになった。
そして人生のターニング・ポイントの一つだったといっても過言ではないと思う。
私の走りの日記(12)
『秋の大会、そして一年を終えて』
カールルイスの真似した走り方に変えてから最初の試合が、
9月の板橋区の総体だった。
この大会で勝てば、10月に行われる東京都の「地区対抗」に選ばれる可能性が出てくる。
これまでの都大会で、決勝メンバーに板橋区の選手はいなかった。
よって板橋区の中では負けられない、その気持ちは強く持っていた。
会場は、板橋区の中学校の校庭。
今考えると、よく学校の校庭で大会が開かれたなと思うが、
区内に競技場もそうはなく、時代が時代だった。
指を真っ直ぐ立て、カールルイス走りで力一杯走り、
予選、12秒6、決勝、12秒4と、大会での初めての一位だった。
またリレーも勝ち、個人とリレーで、「地区対抗」に選抜された。
翌月の「板橋区民大会」でも、
ライバル視されていた隣の中学のYと初対戦し、先着し一着。
2度の優勝で、自己流のカールルイス走りに自信を深めていった。
10月の後半、「地区対抗」の日が近づいてきた。
試合が近づくにつれて、どうしたことか、
腰からお尻の下の部分に痛みやら違和感を感じ始めるようになった。
中々、違和感が治まらないので、初めてカイロプラクティックに行って、施術してもらった。
1回行っただけだから、治らなかったが、そんな状態で試合当日を迎えた。
10月も後半になるので、気温も低くなり、気になる箇所を中心に、体が思うように動かない。
予選はギリギリで通過し、準決勝は4着で、決勝には進出できなかった。
(本当は5着だったが、4着の選手が失格だったので、繰り上げされた)
(決勝の結果)
1着-樋口秀之(練馬)12秒1
2着-神民一(北)12秒5
3着
4着-小熊邦尚(王子)12秒5
5着-曽根田淳也(大泉西?)12秒5
6着-斉藤義久(大森一)12秒6
やはり樋口が優勝した。
またこの小熊や斉藤もきっちり決勝に残り、東京都ファイナリストの常連となっていた。
またこの大会で初めて聞く名前に、2着の神、3着の渋谷区の選手、そして5着の曽根田がいた。
神は、小熊と同じ北区、曽根田は、樋口と同じ練馬区だが、
練馬区と言えばもう一人、桐畑がいるはずだが、
桐畑は区の予選会で3着で、この試合には出られなかった。
あの桐畑も出られない練馬区、決勝に二人残った北区、
板橋区の両隣の区は、なんてレベルが高いのだろう。
まだまだ東京都には、自分の知らない速い奴が潜んでいたのだ、
と感じさせられた中学一年の最後の試合だった。
そしてやっぱり東京都で一番速いのは、樋口なんだ。
東京都の誰と走っても勝つ樋口に対し、特別視するようになった。
この試合を機に、私のカールルイス走りの自信も陰り始めた。
見た目だけを真似しただけの、浅はかなものだったから、
メッキが剥がれるのも早いものだった。
シーズンが終わり、冬季の練習に入る前に、
ちょっとした出来事があった。
一つ上にOさんという女性の先輩がいた。
Oさんは、我々の知らないところで、
国立競技場で行われていた陸上教室に通っていた。
それを聞きつけた池ちゃんが、Oさんと一緒にこの教室に通いだした。
池ちゃんも、このシーズンは、出たい試合も出られなく、悔しい思いをしていたのだろう。
私も色々悔しい思いをしたが、
池ちゃんは、また違った面で悔しい思いを感じ続けていたのだと思う。
池ちゃんは、感情を表に出すタイプだったから、
教室の話を聞くと、すぐに行動に出たが、
私は、そんなところに通わなくても速くなってやるという思いを内に潜ませ、
教室には通わなかった。
しかし内心は、どんなことをやっているのだろうと気にもなっていた。
教えている人は、全国区で慣らした人らしいし、場所もあの国立競技場だ。
どう考えても、陳腐な教室ではないはずだった。
教室に参加してから少し経ったとき、池ちゃんがグランドでダッシュをした。
その走りは、滑らかに見え、これまでとはスピードが違うように感じた。
内心、少し不安を感じながらも、表には気にしていない風に装った。
一年生の冬は、スピード練習は出来ないので、
駅伝なんかに出場し、少し長距離走もやっていたと思う。
そんな冬を過ごしているうちに、
2年生になってからの目標が漠然と現われてきた。
「全国大会出場、そして東京都のファイナリストの常連になる」
常に心の中には、樋口の名前があった。
この名前が来シーズンに向けて頑張るモチベーションだったのかもしれない。
しかし目標に届くという手ごたえは掴めないまま、一年生の陸上生活を終えた。