板橋の自然健康ヨーガ教室 -7ページ目

私の走りの日記(8)

 

『憧れの陸上部に入部、そして初の大会に向かう』

 

小学生の時から待ち遠しかった憧れの陸上部に入部した。

 

池ちゃんも、栄三も一緒だった。

 

顧問の先生は、23歳、新人の五十嵐実先生だった。

 

学生時代に陸上をやっていたらしく、400mを専門としていたと聞いた。

 

板三中の陸上部は、特別な伝統はなく、

 

代々伝わる伝統的な練習メニューもなかった。

 

よって入部したての頃は何をしていたのか思い出せないし、覚えていない。

 

唯一、クラウチングスタートのやり方だけは、

 

三年生の先輩に教えてもらった覚えがある。

 

今のようにドリルとか、腕振り、脚の動かし方、そして走り方などの指導はなかったと思う。

 

都内の中学校の校庭だったので、一周150mしかとれなく、

 

といってもその150mを走れるのではなく、

 

一つの校庭に、野球部、サッカー部、そして陸上部と使用していたので、

 

陸上部は、端っこの50~60m位の直線を使って練習していただけである。

 

そんな隅っこで遠慮していても、時折、野球の球が飛んできたりしたので、

 

正直、落ち着いて練習出来なかった覚えがある。

 

これは3年間、変わらなかった。

 

当時の東京都における中学の陸上の試合の流れは、下記の通りである。

 

①地域別の試合(西部地区、東部地区、多摩地区、等)

これは、この後に行われる2つの都大会の出場権を得る為の記録会である。

都大会には、参加標準記録というものがあり、この地区試合で一発タイムトライアルで行われる。

よって予選、決勝などはない。

 

②総合体育大会(通称:総体)

地区試合で、参加記録を突破した者だけが出場できる、東京都全規模の大会。

 

③通信大会

レベル、内容は、上記の区部総体と変わらないが、

この通信大会は、全国の各都道府県で行われる全国共通の大会。

この通信大会の記録が、全国のランキングなどに反映される。

また総体と通信大会で全国大会の参加標準記録を一度でも突破出来れば、

人数無制限で全国大会出場の権利を得る。

都大会出場の参加標準記録と全国大会のとでは、当然ながら雲泥の差がある。

 

④地区別対抗選手権

正式大会名が、これで合っているのか自信はないが、

秋に行われる都大会で、これはこの前に行われる各市区町村での試合成績を元に、

各市区町村が代表選出して、送り込む、地区対抗の試合。

 

 

入学して、夏位までは、この都大会の流れなどは知らなかった。

 

5月に西部地区の試合が、世田谷砧公園の競技場であった。

 

例年は、一年生もこの大会から出場できるのだが、

どういった理由か、この年だけは、この大会に一年生は参加出来なかった。

よって一年生は見学のみだった。

 

三中は、上下関係も全くなく、試合時に上級生のお世話などをする事はなかった。

 

初めて足を踏み入れた陸上競技場。

 

周りの風景がさっぱりしているせいか、特別な感情は湧かなかった。

 

そして一ヶ月後、

 

6月初旬に、駒沢競技場で「区部総体」が行われた。

 

一年生は、男女100mと1500mの2種目のみ出場する事が出来た。

 

そして各種目、各校一人のみ出場。

 

私は、1年生男子100mに選出された。

 

この試合の選抜方法、経緯等は覚えていないが、

 

選抜後、試合に向けて特別な練習はしなかったと思う。

 

だから当日も今まで通りただ全力で走るだけだった。

 

試合に出る為に準備するものを先輩からいくつか挙げられた。

 

*スパイク

*ユニフォーム

*鉢巻

*サロメチール

 

スパイクは、五十嵐先生が学生時代に使用していた物を貸していただいた。

オニツカタイガーのスエード生地のもので、ピンは固定だった。

ピンは大分丸くなっていたが、そんなことは気にせず、

ただくっ付いていて、地面にひっかかればそれで良かった。

サイズも少し小さかったかもしれないが、無理やりにでも入れば、それもOKだった。

 

ユニフォームは、急いで近所のスポーツ用品店に駆け込み、好きなブルーの上下を用意した。

 

鉢巻は、先輩に言われたから、当時は必須のように思っていたが、

これはもちろん、なくても全く困らない品だった。

 

そしてサロメチール。

初めて聞く名前で、これは何なのか分からなかった。

先輩の話では、走る前に腿裏や腕に塗ると熱くなり、身体が動かしやすくなる為、

また額に塗ると額が熱くなり、気持ちがカッとするような類の事を言われた。

 

試合は、土日の二日間行われ、

土曜日は、授業を早退して、試合場に向かった。

 

この時の試合前や競技場に向かていた時の心境は覚えていない。

選手選出からトントンと事が進んでいって、

本人は、どういった試合なのかなど、状況をあまり分かっていなかったのだろう。

 

それでも、いよいよ自分の力が試される本番を迎える時がついにやってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の走りの日記(7)

 

『中学に入学、そして思わぬ出会い』

 

(*今回から実名が度々登場することになります。

登場する名前は、私の走りの人生において、影響を及ぼした人達であり、

調べればすぐに分かる方々もいます。

ここでは、そんな人達に敬意を込めて、敢えて実名で記させていただきます。

また表現の状況においては、敬称略させていただくこともあります。

それぞれの方を敬う気持ちは全く変わらないので、予めご了承下さい。)

 

1983年4月、私は、「板橋区立板橋第三中学校」に入学した。

 

三中には、主に「板一小」、「板九小」(私の出身校)、「中根橋小」、「弥生小」

の4校から生徒が集まってきた。

 

私は1年4組だった。

入学して数日後、4組には「中根橋小」で一番足が速い子がいることを知ることになる。

彼は活発な子で、私も走るのが速いと誰かから聞き、

彼の方から話かけてきた。

 

「守屋、腕づもうやろうぜ」

 

これが彼の私に対する最初の言葉だった。

 

知らない子に話をかけるきっかけとして‘腕づもう’だったのだろう。

 

それに彼と同じ小学校だったOは、中根橋小の番長的存在で、

二人でまずは、4組を仕切ろうという魂胆を腹に含んでいたようだ。

 

腕づもうは、私が勝った。

それを見て、今度はOが私に挑戦してきた。

更に腕っぷしの強いOには負けた。

 

二人は、その腕づもうから、何かと私に話かけてくるようになった。

 

その会話の中で、

「俺は中根橋小では、一番速かったんだ。

走る事に関しては、今まで一度も負けた事ない。」

と言ってきた。

更に

「小学5年生の陸上記録会出た?」

と聞かれた。

「うん」

と答えると、

「あの時、何秒で、何番だった?」

と聞いてきたので、

「15秒6で2番だった」

と答えると、

「俺は、15秒5で、1番だったよ」

と言った。

 

彼があの時の1番の子だったのか、その時、判明した。

これまでに借りをつくり、返せていない二人の中の一人だ。

彼の名は、池内学。

この後、3年間、共に陸上部で切磋琢磨した人間だ。

クラス編成はでは、各小学校からそれぞれのデーターが送られるという話である。

彼と同じクラスになったのは、偶然なのか、それとも意図あるものだったのか。

それはいまだに分からない。

 

彼(池ちゃんと呼んだ)は、明るく、感情を表に出すタイプで、

走る事に関しての自信も、惜しみなく私にさらけ出していた。

私は、逆に大事な感情を内に秘めておくタイプだった。

池ちゃんから話をかけてきたのも、そういった性格の違いからだったのだろう。

しかしこの時、走りに対する自信は、私も池ちゃん以上に持っていた様に思う。

 

池ちゃんと最初に一緒に走った記憶は、体育の時間だ。

先生が「全員ここまで走ってこい」と笛を吹いた。

固まっていた集団は一斉に先生のところまで走ったのだが、

私は先頭で先生のところに着いた。

正式な勝負ではなかったが、こうした何気ないところでも、

走りに意識を持った人間はこだわるものだ。

池ちゃんは、恐らくこの時、初めて走る事に対して負けたのではないかと思う。

 

それから何度も池ちゃんと走る何気ない勝負があったが、私が負ける事はなかった。

 

そして後に聞いてみると、

幼稚園で私が負けた子と池ちゃんは同じ中根橋小で、

一年生の時からその子には、負けた事がなかったと言っていた。

ということは、これまでに借りをつくっていた二人には、

この時点で借りを返したと私の中ではけりをつけた。

 

過去の借りを全て清算し、晴れて、憧れの陸上部に入部した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の走りの日記(6)

 

『小学生最終学年』

 

小学生時代の頃を思い出してみると、

休み時間の遊びはいつも鬼ごっこ、

帰ってからは、大体、どろけいをやっていた。

結局、常に走り回っていたということだ。

 

6年生の時は、町会の野球チームでキャプテンもやっていた。

ポジションは、あちこちピッチャー以外は全てやったが、

最終的にはファーストだった。

運動神経は良い方だと思うし、運動も出来る方だったが、

私は、器用さに欠けるところがあり、

球技種目は勢い、スピードで押し切るだけで、上手い感じではなかった。

また野球などの団体競技もあまり好きではなかった。

試合時に、守備でポロやミスをしたり、

バッティングで三振やゴロ、フライでアウトを取られると責任を感じ、

悔しさよりも、チームのメンバーや監督に、

申し訳ないと、気持ちが委縮してしまうところがあったからだ。

バッティングでは、成績も良く、チームの主力メンバーの一人ではあったが、

気持ちは、いつもどこかおどおどしていた。

 

所属チームから毎年、力のある選手は、先輩たちがいる、

硬式のシニアチーム(中学生)に進むのが、この数年の習わしだった。

噂では、このチームの練習は相当スパルタで、

練習でノックの球を取り損なうと、監督にかなりハードな尻バットをいただき、

最初の1、2年は皆、お尻に斑色のあざが出来ると聞いていた。

夏休みになると、6年生の主力選手は皆、そのシニアチームの練習に参加した。

私もキャプテンで、クリーンナップを打っていたのだから、

当然、そのメンバーの一人に挙げられていた。

監督、先輩、同期の主力メンバーからの圧力も多少あったが、

私は断固として練習には参加しなかった。

そんな思いをしてまで野球をやりたくなかったし、

それ以上に中学に入ってからは、陸上部に入部すると堅く決めていたからだ。

陸上、短距離こそが、何の疑いもなく私のやりたいことだった。

 

例年の秋の運動会前の50Mのタイムは「7秒4」。

2番目のタイムとの差も大分あり、

学内で、明らかに私の実力は抜きん出ていた。

 

自身たっぷりで挑めるはずだった大運動会だったが、

間際にきて、思わぬ心配の種が出現した。

 

背の高さでは、学内で1,2番を争う違うクラスだったIの出現だ。

成長の早い子は、小学高学年くらいから顕著に表れ始める。

Iもまさに早熟のタイプで、当時で170センチ近くの身長があった。

ちなみに私は150センチ半ば位だった。

運動会前にIがクラスの仲間と一緒に走っているのを見かけた。

まるで大人が走っている様な馬力があり、またスピードも感じた。

今まで走る事で目立ったことはなかったはずの彼だったが、

ここにきて、物凄い成長ぶりを見せていた。

徒競走では同じ最終の組。

50Mのタイムでは、私の次だったらしく、私の隣のレーン。

あんな大人みたいのに勝てるかなと、運動会が近づくにつれ不安が募り始めた。

 

タイム順で並べられ、私は一番外のレーン、その内側がI。

スタートラインについたらやるしかない。

号砲と同時に思いっきり飛び出した。

幸いにもこの時の模様は、映像に収められている。

隣のおじさんが8mmカメラで撮影してくれたのだ。

現存する私の最古の映像である。

その映像をみると、スタート直後に一旦、グッとIに詰められていた。

しかしすぐに私がスピードに乗り、ぐんと差が開いていった。

そこから映像が乱れ、最後、私は3着でゴールしていた。

何があったのか。

そうカーブから直線に入る手前の箇所で、私は滑って転倒してしまったのだ。

転んだ瞬間は何が何だか分からなかったが、

反射的に起き上がり、あとはコースに戻り走ったという状態だった。

ちょっとつまずいたというより、大きくコースの外に滑った、完全な転倒だった。

左膝の外側に肉が見える傷を負った。

この傷はいまだに残り、一生物になってしまった。

 

周りの人から言わせると、あの転倒でよく起き上がって走ったよねとか、

更にあんな転倒からよく3着でゴールしたねと言われた。

傷からしても派手に転んだことは明らかで、

自分でもよく反射的に立ち上がったなと思い、3着に悔しさは全くなかった。

結局、1着はIではなく、後に中学で一緒にリレーメンバーとして走った栄三だった。

(ここで初めて実名を出す)

結局、学内では、Iではなく、栄三が一番の好敵手だったのだ。

彼は、高跳びでは、学年で一番飛んでいたし、鬼ごっこで逃げるのもうまかった。

 

最後のリレーは、栄三と同じ組。

そして女子の中で断トツ一番だった子も同じ組。

私は、3組ということでアンカーだったが、バトンもらった時には断トツ一番で、

そのままダントツでゴールをした。

先生も組み分けには、もうちょっと考えた方が良かったのではという位強いチームだった。

 

私が徒競走で転んで負けたからであろうか、

そして小学校最後のリレーの前に、4年生の時に脅したMが、

「最後にお前の速さを見せつけてやれ」

と言ってきた言葉は今でも忘れない。

 

この年の記録会は水泳。

水泳記録会にも、私は50M平泳ぎに選出されたが、結果は、その組で4着。

別段、悔しくもなんともなかった。

 

冬の体育の時間には、持久走が行われた。

この時は、持久走も走るとクラスで一番だった。

担任の先生は、なぜか持久走が好きだったようで、

私が走る度に、呼吸法や何かを教えてくれ、

しまいには、当時、日本テレビの毎週日曜日の朝に放映されていた

「おはようマラソン」に出なさいと言ってきた。

小学生が皇居一周(5キロ)を走るというものだ。

全国から小学生が集まってきていたのか覚えていないが、みんな速かった覚えがある。

走るのは好きだったが、ダッシュするのと、長い距離を走るのではまるで違う。

クラスの中では持久走も速かったが、

一度勝つと、‘負けられない’の気持ちが出て、走る度に息が抜けなく苦しかった。

それにその舞台で勝負をしたいという気持ちも全くなかった。

お茶を濁しているうちに三学期に入り、

卒業に向けて色々と忙しくなり、先生も「おはようマラソン」のことはすっかり忘れていた。

 

この頃になると、中学の話とかがちらほら入ってくる。

一つ上で一番だったT君が、東京都で一番になったという噂を聞いた。

(実際は、かなり事実が曲がって届いた話だったが)

その話を聞いた時、あのT君が東京都で一番になったんだったら、

自分も東京都では一番になれるだろうと勝手に思っていた。

そう思うと、早く中学に上がって陸上短距離で勝負がしたい、

日に日にその思いが増してきて、

中学の陸上部に入る日が待ち遠しくて仕方がなかった。

 

結局、小学校を卒業するまでに借りを作ったと心に残っているのは、

幼稚園で園庭で負けたNと5年生の記録会で、記録で負けた他校の子の二人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の走りの日記(5)

 

『初めての陸上記録会』

 

4年の大運動会の徒競走を1着でゴールした事で、

学年で一番速いということを確証出来た。

 

それ以降、自分の中で、学年トップという意識を持ち始めた。

 

5年生の秋の運動会前の50Mのタイムは「7秒8」。

一年で‘1秒2’速くなった。

学年トップ。

 

この後の運動会の徒競走も1着だったはずだが、

走ったメンバー、その時の事は覚えていない。

 

5年生で覚えている走りの記憶は、運動会の後に行われた、

地域周辺の4校だったか?6校だったか?の対抗「陸上記録会」だ。

 

この記録会は、5、6年生が対象となり、二年に一度行われる様だった。

 

だから誰もが選手に選抜されるにしても、一度しか経験出来ないので、

あまり記録会の存在は知られていなかった。

 

運動会の結果や、体育の様々な種目の測定結果から、

各種目3人ずつの選抜だった。

 

私は、5年生男子100Mの種目と学校対抗のリレーメンバーに選ばれた。

リレーは、5,6年生男子混合で、

私の学校では、6年生が三人、5年生が私一人の四人編成になる。

 

我が校の6年生の中に、明らかに私より速いのではという人が一人いた。

 

会場は、近くの小学校で、自分の学校より校庭が広かった。

私の学校は、一周100mだったが、恐らく150mから200mだったと思う。

 

100M走となると、直線→カーブ→直線となる。

 

事前に詳細は全く分からず、

決められた組でただ走った感じだった。

 

ただ、他校の人と走るのは初めてで、

そこはスタート前も、走っている時も緊張していた覚えがある。

カーブを先頭で抜けてゴールに向かって走ったのだが、

体が力んでいたせいか、力を入れているのに、いつもより前に進まなかった。

 

それでも一着でゴールした。

レースは三組あった。

 

その後、決勝みたいのがあるのかと思いきや、

結局タイムレースで、総合的な順位が決まった。

 

結果発表は、閉会式に放送で発表された。

3位からの発表だったと思うが、

2位の発表で私の名前が呼ばれた。

タイムは「15秒6」。

これまで100Mのタイム測定をした事がなかったので、

このタイムが速いのかどうかは、全く分からなかった。

ただ1位のタイムは「15秒5」。

私と‘0秒1’しか変わらない。

この時のコンマ1秒は、ほとんど同じ位の感じで受け止めていた。

 

だから、結果は2位だったけど、悔しさは全くなかった。

これまでもグッと力を入れて本気を出せば、

最終的には先頭でゴールに到着出来ていたので、

決勝があったら勝てたのではないかという自信はあった。

 

話は移してリレー。

一人、校庭一周のコース。

我が校の先生は、先行逃げ切りを考えたのか、

6年生の一番速いT君を一走に持っていき、

私がアンカーになった。

 

学校では速さが目立ったT君だったが、

6年生の100Mの部では、組で3着の姿を見て、

他校には、自分の知らない速い人が一杯いるんだなと思ったものである。

 

リレーもT君は、3番でバトンを渡し、

そのまま状況は変わらずで、私にバトンが回って、

私も抜きもせず、抜かされもせずの3着でゴールした。

ただこのリレーは、アンカーになった時、

他校のアンカーは、皆、一番速い6年生が揃っていると思い、とても緊張した。

 

翌日、クラスで担任の先生が、私の成績をクラスの中で褒め称えてくれた。

 

しかし自分の中では、二位が特に嬉しくもなく、悔しくもなくという感じだった。

 

四年生の時に、速いなと感じていたHやMも、

この年には、もはや彼らの速さに対する驚異は抱いていなかった。

 

この年で唯一借りが出来てしまったとすれば、

それは記録会で1位になった他校の生徒だけだ。

ただ彼がどこの学校の誰なのかは、中学生になるまで知ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

私の走りの日記(4)

 

『一番思い出に残っている徒競走』

 

私の運動会の思い出となると、

やはり徒競走、リレーの二つに絞られる。

 

この二つの種目と他の参加種目とでは、

思い入れがまるで違っていた。

 

特に徒競走。

リレーは、チーム次第で勝敗が左右されるが、

徒競走は完全な実力勝負。

 

私は、表面にあまり感情を出さない方だったが、

内心は‘負けない’との強い気持ちがいつも宿っていた。

 

徒競走で一番思い出に残っているのは、

小学4年生の秋の大運動会の時だ。

 

3年生までは、徒競走の組は背の順で組まれていたのだが、

4年生からの大運動会からは、

その前の体育の授業で計る、50mのタイム順で組まれることを告知されていた。

 

ここで初めて、学年で誰が一番走るのが速いかが明確になるのだ。

 

この事は、夏休み前から知っていて、

夏休み、部屋でこの徒競走の事を考えると、

心臓が飛び出しそうな程ドキドキしていたのを今でも覚えている。

 

走るのが速いと言われていた者が何人かいて、

自分から見ても、速いなと感じていたので、

‘勝てる’という自信が持てなかったのである。

 

休み明けの50mの計測。

私のタイムは、「9秒0」。

 

学年で「8秒8」が二人、そして「9秒0」が二人と。

全体で3位タイの記録だった。

 

上に二人いることに対しては、それ程引け目を感じなかったが、

「8秒8」で走った一人が、しなやかに走り、速いなと感じさせていたHがいたので、

やっぱりHは速いんだなと思った。

1年生の最初の運動会では、恐らくHに負けて2着になっているのだと思う。

他にも速いと評判の体の大きいMがいた。

 

HとMは同じ3組で、私は2組。

HとMは、学年の番長的存在で、誰からも怖がられていた。

3組は、何となく怖い組で、足を踏み入れるのも嫌だった。

 

タイム順で編成されるので、

その二人とは同じ、一番速い者が集まる組に私も入った。

 

運動会当日。

担任の先生が来る前、

3組の連中から、3組の部屋に来てくれと呼ばれた。

 

隣の3組の部屋にいったところ、

いきなり掃除用具が仕舞ってあるロッカーの前で5、6人に囲まれた。

 

そしてHとMが

「おまえ、今日、何等取りたいんだ?」と言ってきた。

 

私は、すっかりビビってしまい、

「H君もM君も速いから分からないな、勝手ないと思うよ」

と答えた。

 

そしたら二人が

「おまえ、今日、もし一位になったらどうなるか分かってるんだろうな」

と脅してきた。

そして私は、その掃除用具のロッカーの中に閉じ込められてしまった。

袋叩きにされたわけではないので、泣きはしなかったが、

外から

「泣くまで出すな」

との声が聞こえたので、泣くまで出られないと怖くなってしまった。

我慢すれば泣くことはなかったのだが、

涙を出さなければ出してもらえないと思い、少々無理をして泣いた。

そしたら3組の担任の先生が入ってきて、

囲んでいた連中はさっと散り、

私は涙をこぼしながらロッカーの扉を開け、2組の部屋に戻った。

 

こんな脅しを受けての徒競走だった。

 

本気で走ろうか、力を抜こうか、正直迷った。

 

もし1位になったら、後日本当にリンチを食らうことになるだろうと思っていた。

 

気持ちの整理がつかないまま、徒競走を向かえた。

 

スタートのピストル音がなったら、一生懸命走っていた。

 

結果、1着。

 

Hは3着、Mは5着だった。

同じ3組のそれ程目立たない子が、2着に入った。

 

走り終わった後は、彼らの顔を見れなかった。

 

スタートした瞬間、無意識の中で、全力で走ることを選択したのだった。

 

結局、後日、彼らに暴力などを振るわれることはなかった。

 

しかし2着に入った彼は、当日、2等のリボンを二人に取り上げられ、

二つに切り裂かれたそうだ。

 

その後の5年、6年と、徒競走で彼らからちゃちは入れられたが、

力を抜く事はなかった。

 

この思い出を記していて思った事だが、

もしあの時、力を抜いて負けていたら、

学年で一番速いという確信も持てなかったし、

走る事に関しては負けられない、という強い気持ちも植え付かなかったと思う。

もしこの時点で、走ることに対するこだわりが失われていたら、

この後の私の走る経験はなかったかもしれない。

 

そう考えると、あの時は、人生の最初のターニング・ポイントだったのかもしれない。

 

いずれにしても、手を抜いて良かったと、

心の中でけりがつくことは、まずないのではないかと思う。