私の走りの日記(3)
『運動会と祖母の思い出』
私が本格的に走る事に取り組み始めたのは、中学生になってからだ。
小学生の時に、走る事について言及された事はほとんどなかった、
ただ一人除いては。
その唯一の人が、祖母だ。
大正15年生まれの几帳面で真面目な性格の祖母は、
何事に対しても手を抜く事が嫌いな性格だった。
そして祖母の話だけによるものだが、
私が運動会で1等賞を取る度に、
「あんたは私に似たんだね。
おばあちゃんも小さい頃から走るのだけは負けた事がなかったんだから。」
そして運動会前になると決まって、
「走る時は、しっかり前を向いて全力で走るんだよ。
途中で横を向いたりしたら駄目だからね。」
と指導を受けたものだった。
陸上競技をやっていた訳でもない人間だから、
特に技術的なことは言及できない。
今思い返せば、いかにも戦前育ちの、
根性論交じりなアドバイスだったと思う。
それでも運動会前の度に喝を入れてくれるので、
自分の中でもいつの間にか、徒競走は負けてはいけない、
という意識になっていったように思う。
また運動会、特に走るのを見るのが大好きだったようで、
運動会当日は、朝早くから場所取りに学校に向かい、
家族で一番の張り切りようだった。
また運動会の度に運動靴を買ってくれた。
運動靴でも一つ思い出がある。
小学6年生の時。
祖母の時代の運動会では、
運動靴を履いて走る人もいたかもしれないが、
速く走る為には、
とにかく足元を出来るだけ軽くした方が良いという考えからだろうか、
足袋や、または裸足で走っていたと聞いた記憶がある。
そのせいだと思うのだが、一緒に運動靴を買いに行く時も、
とにかく軽い靴を店員さんに求めていた。
それまで、軽い靴というと、靴底に厚みがほとんどないような、
見た目も安そうなものだった。
しかし私の小学6年生の時(1982年、昭和57年時)には、
厚底のスニーカーが出始めた頃であり、
ファッション面で進んでいる子は、厚底のスニーカー、
更に上を行くとメーカー品を穿く者が出てきた。
メーカー品というのは、
いわゆる有名なスポーツメーカーから出ているもので、
その中でも、何となく周りではランク付けがあって、
一般的には、アシックス、
次にちょっと地味なPUMA、
その上にADIDAS(クラブADIDAS)なんていうのは更にカッコよかった。
そして最高峰は、世界のNIKEだった。
これらのメーカー品は、もう運動靴ではなく、
スニーカーと表現されるようになった。
このメーカー品は、スニーカーに限ったことではなく、
上下のジャージも憧れの品であった。
今では、安売りの量販店でも、
これらのブランドのキッズの衣類なんかも見かけるが、
当時、
これらのブランドの品を安売りしているところなんて恐らくなかったと思う。
それだけ貴重な、憧れの品だった。
話は運動靴に戻すが、
その6年生時に運動靴を買いに行った時は、
これまでの近所の靴屋さんではなく、
最初に近所のスポーツ用品店に向かった。
もしかしたら私が、靴を買ってくれるなら、
メーカー品がいいとおねだりしたのかもしれない。
祖母はいつものように、店員さんに軽い靴を求めたら、
アシックスの厚底のスニーカーを持ってきた。
恐らく祖母は、その時初めて厚底の運動靴を見たのだと思う。
「こんな底の厚いのじゃダメよ」
と言ったのだが、
私はとにかく自分の物ではなくても、
メーカー品の靴に足を通してみたくて、一応、履かせてもらった。
その時の感触は今でも忘れられない。
これまで履いてきた靴と比べると、足になじむ感じが全然違い、
そして思っていたより全然軽く感じたのだ。
正しく高級なものを身に付けた感じがした。
実際値段も、1万円ちょっとしたと思う。
それまで3千円以上の靴は入ったことがなかったと思う(もしかしたら2千円かも)。
価格に大分ビビった私であったが、あまりの履き心地の良さに、
祖母に一生懸命このスニーカーの素晴らしさを力説した。
小学生、最後の運動会で私の活躍した姿をみたいと、
祖母も例年より力が入っていたので、そのスニーカーを買ってくれた。
しかし祖母は、そのスニーカーに足を通していないから、
その良さは実感出来ない。
どうしてもうす底のぺらぺらの運動靴への思いも捨てられなく、
今度は、近所の靴屋さんで、もう一足、
ぺらぺらの安い運動靴を買ってくれたのである。
「そして祖母は、徒競走は、こっちの薄い靴を履きなさい」と言った。
分かったと言いながら、
結局は、靴を2足持っていく訳にもいかず、
アシックスの高級なスニーカーで走った。
私の走りの日記(2)
『私の幼少期から小学生までの走る経験(1)』
「まーちゃんはあしがはやいね」
そー言われた最も古い記憶は幼稚園年長時の6歳の時。
幼稚園の運動会で年長組は、
男女3名ずつの計6名が選抜され組対抗のリレーが行われた。
その選考会の様子は覚えていないが、私は組のアンカーに抜擢され走った。
アンカーだから、組の中では一番速かったのだろうと思う。
それまでは、近所で走り回って遊んではいたのだろうが、
自分は、かけっこが速いんだという意識はなかった。
現に、年小時の運動会(当時は年小、年長の2年生でした)の徒競走では3着だった。
私に先着した2人は、自分よりはるかに背の高い男の子。
年長になってもその二人とは、身長の差はさほど縮まらなかったが、
走るのはその二人を負かしていた。
だからといって、幼稚園で一番速かったわけではなかった。
違う組に、一度、園庭で走って敵わなかった子が一人いた。
その子は、恐らく全体で一番大きく、体格に恵まれた子だった。
それでも担任の先生は、運動会前の保護者会で、父兄に向かい、
「うちの組のアンカーは、まーちゃんしかいません」
と豪語していたというのを帰ってきた母から聞かされて、
‘へー、僕もあしがはやいんだな’
と意識を持った記憶がある。
そんな幼稚園生が地元の小学校に入学。
当時、運動会は、5月の「春の小運動会」、
10月の「秋の大運動会」と年2回行われていた。
学校とは別に、町会対抗の運動会もあり、
私は年三回、計18回の運動会に全て参加した。
小学校の2つの運動会は、毎回、徒競走が行われ、
秋の運動会と町会の運動会は、必ずリレーがあった。
徒競走は、1年生の春の運動会は、2着だったようで、
記憶にはないけれど、
昔、左腕に緑のリボンを付けていたその時の写真をみた記憶があり、
きっと2着だったんだろうと、自分の中では片づけている。
しかしそれ以降は、6年生の秋の運動会を除いては、全て1等だったはずだ。
徒競走に関しても、‘負けてはいけない’と意識を持ち始めたのは、
1年生の秋の運動会頃からだったと思う。
それはきっとリレーがあり、そこに選抜されたことで、
‘ぼくはあしがはやい’ということを改めて認識し始めたからも一因だと思う。
それから6年まで、秋の運動会、町会の運動会の計12回、
全てのリレーでメンバーに選出された。
小学生の頃は、走ったら速かったというだけで、
特に何を練習したとか、工夫したということは一切なかった。
やった運動は、
*幼稚園から小学2年まで「水泳」
(最初は、水に顔をつける事も出来なく、バタ足も一回一回床に付けてズルをしていた)
*2年から3年の1年間は「剣道」
(これは嫌で嫌でたまらなかった)
*3年から6年の3年間は「野球」
(初めての団体競技、そして球技。最後はキャプテンを努め、
年間打率は、3割7分5厘でチーム2番目だったが、正直、野球は好きではなかった。)
専門的な陸上クラブには入っていなかったが
(というか当時は、今みたいに学校以外で陸上クラブなんてなかったと思う)、
普段の遊びは、鬼ごっこ、どろけい(泥棒と警察)、
そしてリレーと、それこそ一日中走り回っていた。
それでかけっこが速くなったとは言えないと思うけど、
走る事は好きだったんだと思う。
今思うと、準備体操もしないで、いきなり駆け出し、
それを一日中続けていて、脚が痛くなったことは一度もなかった。
改めて幼少期の身体の順応性は素晴らしいと羨ましく思う。
低学年時から、近所の年上の子を相手に負かして走っていたから、
余計と走る遊びは積極的にやっていたのでしょう。
私の走りの日記(1)
『なぜ走る「日記」を綴るのか』
幼少期から走る事が好きで、また得意でした。
中学、高校時は陸上部に入部し、短距離を専門とし6年間走ってきました。
この6年間、走る事に関して、
初めての敗北感、努力、工夫、成長、達成感、気付き、そして挫折感と
一生懸命やれば誰もが味わう事を色々と経験しました。
最後に挫折感が拭い切れないまま高校生活を終えたので、
そこで陸上競技、走る事への挑戦からは離れることにしました。
その時18歳。
それから27年の月日が流れ、45歳の時に再び走り始めました。
それは陸上競技から距離を置いてからも、
常に心の奥底でくすぶっている「悔しさ」を感じ続けていたからだと思います。
しかし走り始めたといっても、当時の10代の様には身体が当然動きません。
30年近くのブランクと、年齢からくる肉体的な衰えは想像以上のものでした。
全力走などは到底出来ず、現役時代に‘流し’という、
走りながら体をほぐし、全力走に備えていく的な位置をもったリラックス走も、
1本走るだけ呼吸は乱れ、肉体の疲労感が早くも出てくる状態。
現役時代は、‘流し’を何本走っても疲れた記憶がなかったが、
今では1本で息が上がり、これが本チャンの練習になっているのが現状。
そして更に追い打ちをかけて、ウォームアップ的だった‘流し’で脚を痛めてしまう始末。
あれから5年、よく3日坊主にならなかったなと時々思う事もあります。
この5年間、試合に一切出る事なく、またその予定もなく、しんどい思いをしながら、
言う事の聞かない我が肉体を相手に、諦めそうになった事も何度かありました。
しかし、そのしんどさとは裏腹に、常に走る事に関して、考え、試し続けていた、自分もいました。
思い返すと、5年前、再び走り始めた頃とは、スプリントに対する考えが大分変わってきているように思います。
いつからか、うまくいった感を時折感じられるようになり、
でもそれを続けていくとやはりうまくいかなった、その繰り返しなのですが、
現在50歳、今でも、走る事に関して、またそれ以上の何かの気付きをいただく事があります。
やっぱり走る事が好きなんだとはっきり認識で来たことと、
この‘気付き’を記しておきたいという思いから、「私の走る日記」を綴る事にしました。
日記ですから、本当は、その日の気付き、考察などを記したいのですが、
幼少期から現役時代までの走る事への経験、経緯も綴っていくので、
しばらくは、全国的に無名な、一スプリンターの本当に個人的な、古い経験話から始めることにします。
2020年9月9日(水)本日のクラス
9時30分~10時30分(60分) (シニア) (担当:守屋亜紀)