私の走りの日記(26)
『1985年全国大会』
関東大会を終え、この夏残るは全国大会のみとなった。
関東大会、全国大会と共に200mのみだったが、
それに向けての練習は特別しなかった。
というか、200mに向けてどのような練習をすればいいのか分からなかった。
この時には、学校の校庭も使えるようになり、
一周150メートルの距離を一周半くらい走り込むことはやったかもしれないが、
特に記憶には残っていない。
ただ今年の全国大会は2回目となるので、
私も先生も、昨年のようにただ参加するだけでいい、という気持ちではなかった。
かと言って、昨年と比べると、全国ランキングが上がっていた訳でもない。
むしろ持ちタイムは、参加標準記録ギリギリの一番下だ。
それでもこの年は前年に比べ、都大会等の成績は安定している。
そういったところをモチベーションにつなげ、士気を高めていた。
目標はと自分で問えば、昨年も同じだが「優勝」だった。
ただ本気で優勝を狙っているか言われれば、
自分の持ちタイムと、周りの持ちタイムを比較してしまうと、
本気で自分を信じる事が出来なかった。
これは、現実を見てしまうと仕方のない事なのかもしれないが、
陸上を始めて、負けを何回も経験するうちにいつの間にか、
勝負する前からこの相手には勝てないだろうと決めつけて、
小学生の頃の様に、常に一着だけを狙うということをしなくなっていた。
現実を知ったと言えばその通りなのだが、
中学生くらいの若いうちは、
もっともっと貪欲にいかなければ駄目だったと今更ながら思う。
本気で自分を信じて、がむしゃらに努力しなければ、
関東大会の青山のように、突然変異なんか起きやしないのだ。
折角二回も出場出来た全国大会。
もっともっと大切に準備をすればよかったと反省している。
この年の会場は、北海道の丸山陸上競技場だった。
この時、私は初めて飛行機に乗った。
元々、乗り物酔いする性質だったので、
時折ある、ふーと飛行機が下がる感覚に顔が青ざめた。
五十嵐先生も苦手だったのか、
「何だか怖いな」
と声を漏らしていた。
私達は、他の選手より一足先に空港に着いたので、
その足で競技場に向かって、軽めの練習をした。
200mをスタンディングスタートからの全力走を一本走ったが、タイムは23秒5。
感覚的も普通で、タイムももう少しいい数字が欲しかったなという感じだった。
東京都の宿泊先は大きなホテルだった。
今年は最上級生ということもあり、三年生男子選手の中には、
目をつけた女子選手のところにいって、はしゃいでいる者もいた。
私は気持ち的にそんなはしゃぐ余裕はなかったし、
こんな所ではしゃいだら、明日のレースに罰があたると思っていた。
でも結果、このはしゃいでいた選手の中にも、いい結果を残していた者もいたので、
そんなに堅くならないで、もっとリラックスしても良かったのかもしれない。
そんな中、小熊は一人部屋で勉強していた。
彼は勉学の成績がとても優秀らしく、受験も難関と言われる高校を目指していたらしい。
全国大会前の東京都の練習会の帰りも小熊と一緒だったのだが、
彼は電車の中でも問題集を広げて勉強していた。
私もそれを横で見て、この北海道にも手を付けたことのないドリルを持ち込んでいた。
競技場での姿、勉強する姿と、小熊は本当に根性者だと私は思っていた。
そして夜には、樋口に誘われ、電車ですすきのに行った。
お土産を買いに行くという事だったが、
当時の私は、すすきのがどういう街か全く知らなかった。
翌日、200mの予選。
1組に樋口。2組に私と組まれていた。
樋口は三着だった。
あの樋口も全国大会の予選では三着なのか。
関東大会で樋口の負けた姿はみたから、驚きはしなかったが、
走る前に、全国大会の大きさを改めて感じてしまった。
そして私の二組。
同じ組に関東大会で100m優勝した荒川がいた。
昨年、前年度のチャンピオンと同じ組だったのを経験しているから、別段動じなかった。
いざスタート。
コーナーを抜けたところで全体の中で遅れをとっていた。
そこから盛り返したかったが、差は開く一方だった。
結果、23秒77で8人中7着。
昨年と同じ後ろから二番目。
先生のところに戻ったら、「これはまずいな」と言われた。
しかし自分の中では、これが心身共に自分の実力だと素直に認められた。
この後の青山が凄かった。
予選で静岡の杉本龍勇とあたった。
彼は後のインターハイチャンピオンで、オリンピック選手にまでなった人物だ。
中学当時から、静岡の大会では追い風参考ながら凄いタイムを出していた。
その杉本相手に、またもや関東大会同様、凄い追い込みをみせて一着でゴール。
続く準決勝。
樋口は、組三着に入り、タイムで拾われ、決勝進出を果たした。
そして青山は、またもや杉本と対戦。
予選と同じく、後半の物凄い追い込みで一着でゴール。
タイムからみると、順当にいけば三番には入れる位置だった。
そして決勝。
青山に前二つの馬力が感じられない。
後半の爆発が出ないまま七着で終わった。
樋口は青山の一つ前の六番目でゴールし、関東大会の屈辱を何とか果たした。
その一つ前の五着に千葉の吉岡、そして四着に杉本と入り、
二着に一年生から常に入賞を果たしている宮城の高橋栄一が入り、
優勝は昨年の100mチャンピオン、青森の菊池賢だった。
関東大会のリレーの時といい、この時の決勝の時といい、
突然変異した青山は、三本目になると物凄い爆発力が影を潜め、不発に終わっていた。
人一倍がむしゃらに走っている様に見えたから、
二本までしか体力が持たなかったのかもしれない。
後になって、樋口にこのレースの事を聞いたことがある。
予選、準決とタイムで拾われた状況だったが、
決勝では何とか青山には先着したいという気持ちで走ったとの事だった。
東京都チャンピオンのプライドをかけたその執念が、
見事、六位入賞まで登り詰めただった。
この模様はNHKで放映され、現地にいなかった東京の短距離選手は、
樋口、青山の決勝の姿に「オッと!」と思った事だろう。
翌日、100m。
この時、北海道には、私の家族、
知り合いのビデオ撮影してくれていたおじさんが観に来てくれていた。
この日は、私の出番もなかったので、
先生も含め私の応援隊ご一行は、レンタカーを借りて、ドライブに出掛けてしまった。
ただ私は、大好物の100m観戦を選び、一人競技場に残った。
一次予選で落ちた小熊が私の隣にきて、
100mの二次予選を観戦していた。
どこかの組で欠場のアナンスが流れた。
それを聞いた小熊が、
「なんだよ、欠場するなら代わりに俺が出るのに」
と言った。
この言葉を聞いて、彼は根性も感じれば、負けん気の強さも感じる男だなと、
同じ競う相手として敬意を表した。
自分もこの予選落ちを、もっと悔しがらなければ駄目なんだとまた反省した。
樋口、青山とも二次予選で落ちた。
二人共昨日の200mで全てを使い果たした感じだった。
結局、優勝は菊池賢。
100m、200mの2冠を達成し、昨年は名倉、今年は菊池の年だった。
優勝した菊池は、同じ学年とは思えない程、とても大きく、大きく見えた。
観客席から100mの表彰式をみて、
全国で一番になるというのは、どんな気持ちなんだろうと思った。
この年もやっぱり参加しただけになってしまった。
そして1985年、中学三年の夏も終わりを迎えていた。