私の走りの日記(20)
『400mの体験』
リラックスの重要性に気付き、
不安に見舞われた「東京選手権」を何とか乗り切る事が出来て、
気持ちは、上向きになっていた。
最終学年の3年生になると、
これまでの100mに加え、200mも本格的な勝負する種目として視野に入れ始めた。
その第一戦が5月の「西部地区」になる。
この試合で、樋口の200m走を、先生としっかりと見る事が出来た。
カーブの100mを抜け直線に入った瞬間、急にピッチが上がり、腿がぐんと上がり始めた。
先生もそれをみて、
「あ、走りが変わった」
と声を出した。
後半の100m、そのピッチでぐんぐんと後ろを引き離していく。
凄い200mの走法だなと思った。
それをみて、自分も樋口と同じように走ってみようと試みた。
直線に出た途端、腿を上げて、ピッチを上げてみた。
レースは、トップでゴールしたが、
先生に、走りが樋口のように変わっていたかと聞いたら、
変わっていなかったとあっさり言われてしまった。
その時、樋口は22秒7、桐畑が23秒2、私は23秒5と全体で3番目の記録だった。
樋口の見事な走りに、今年はあの走りと200mを勝負するのかと思うと、
何だか怖くなってしまった。
そして翌週、100m。
レース前に樋口がチョコレートを一口食べていた。
それを見ていた私に、
「食べる?」
とチョコレートを一かけらくれた。
当時は、糖分が力になるということを知らなかったので、
なぜ走る前にチョコレートを食べるのか分からなかったが、
樋口が食べているのなら、得はあっても、害はないだろうと思い、素直に食べた。
そしてレース。
これといって知っている名前がなかった組だったが、
いざ走ると、一人だけ離れないでついてくる者がいた。
結局、あまり差をつけられずにゴールをした。
ゴールをした時に、張られている糸で、
左脇を擦って、赤くみみずばれになってしまったので、
1着でゴールした感覚はあったのだが、
折角、樋口からチョコレートをもらって食べたのに、
知らない相手に、圧勝出来なかった事に対して、不満が残った。
更に結果を聞きに行くと、私はそのレースで2着になっていた。
それも1着との差は、0.2秒あった。
最初にテープを切ったから付いたみみずばれ、
まあ、これは記録会の様なものだから、気持ちの上でも、そこで終わりにしたが、
この時、手動計測の不正確性、審判の判定に、間違いがあるということを知った。
そして、この試合の前に、先生から
「今年は一度400mにも挑戦してみろ」
と言われていた。
自分としては、トラック一周という距離に、とても気が重かったが、
先生の命令となれば、従うしかなかった。
その予行練習として、この日の全競技が終わった後に、
ノンスパイクで400mを走ってみた。
先生としても、私がどの位走れるのか見たかったのだろう。
400mのペース配分が分からないから、最初の200mを飛ばしてしまった。
そこまでは走ったことがあるから持つのだが、
200mから300mのカーブの部分で、ガクッと体にきた。
そしてラスト100mの直線。
振っている腕の両肘が曲がらなくなってしまった。
体のコントロールが全くきかず、意識が半分上に飛んでいるような感じでもうろうとしてきた。
何とかゴールしたが、あの時、最後の100mは一体何秒かかったのだろうか。
肘が曲がらなくなってしまった事も、後にも先にもこの時一回だけの体験だった。
この体験で、400mという種目に、完全な恐怖心を覚えてしまった。
400mなんて絶対やりたくない、そう思ったが、
一度は出ないと、先生も納得してもらえない感じだった。
こうして、翌月に出場する試合まで、憂鬱な気持ちを抱えたまま一ヶ月を過ごすことになった。
一ヶ月後のとある記録会で400mを走る。
自分の中では、400mで勝負したいという気持ちがこれっぽっちもなかった。
この時考えていたことは、
とにかく、ラスト100mであの時のような状態にならないよう、
体力を温存しようということだった。
勝負心のかけらもなく、とにかく守り、守りの姿勢に徹していた。
結果、先頭に随分と離され、2着でゴール。
タイム:54秒8の平凡なタイム。
一ヶ月前の半死の状態は起きなかった。
これで先生も諦めてくれるだろう。
結局、400mのフラットレースに出場したのは、この1回だけになった。
話は戻るが、一ヶ月前の予行練習でゴールした後に、
桐畑が私のところに駆け寄ってきた。
「守屋君、400m頑張ろうね」
といきなり握手された。
彼も私と同じく、先生から400mを走ってみろと言われていたらしい。
そして私と同じように不安な心に見舞われていたのだろう。
そんな中、私の半分死んだような様子を見て、少しは救われたのかもしれない。
しかしこれは後の話になるが、
彼は、高校に入ってから、400mを主体の選手に転向し、
東京都でチャンピオン、そして国体にも出場した。
私とは、自力も根性も違っていたのだろう。