占いのここが好き

 

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散々怪しいだ胡散臭いだ怖いだなんだ言われてますけどね、そもそもそんなこと言ってる人たちまず占いのことまともに知ろうともせずに偏見先入観だけでそんなこと宣ってるんでしょ?

自制心が無い人が占いジプシーになったり、正しく占いを"利用"できずに逆にコントロール権を明け渡してしまったりそう言う節度の無い人たちの自業自得であって、またクソの占い師にあたった話ばかりを信じるクソバイアスに陥ってるのを棚に上げてそんなこと言っているんでしょう。むかつき

語気が強い?おこ案件ですからね、そこは。批判するならきちんと批判するものを理解してからにしません?

 

人間、自分の中の世界だけでは同じ場所をぐるぐるとさまようだけで厄介な問題を解決に導くことは厳しいです。

だから誰かに相談したり、調べたりって言うことをするんでしょうけど、それでも自分にフィットした答えがそのまま渡されるわけでもないです。

それに、占いで答えを導き出すのと訊いたり調べたりして答えを導くのとでは、なにも違いはありません。

「どうするかを決めるのは自分」だからです。そこを、占い師が言うことはすべて絶対で、その通りにしなければならないんだという部分が手前に来るから、他人(占い)にコントロールされてしまうんですよ。真顔

 

 

 

 

手軽に客観視ができて自分に合わせた自分だけのしっくりくる答えが見つけられるツール(道具)として占いが存在するのであって、自分の人生の手綱を誰かに握らせるものではないし、道具に翻弄されてるんじゃないよ!ともなりますよ。

道具(占い)は何も悪くありません。道具を使う人間の心次第です。それは刃物やお金でも同じことが言えます。物申す

 

 

 

正しく使えば何よりも誰よりも的確に正確に深層を映し出し、「答え」を示してくれる。

その占いを理解するにあたり掘り下げていくことになる世界観(歴史や必要になる共通認識、概念など諸々)もスケールがデカくどこまでも深い。

地球のしくみ、人間のしくみ、宇宙のしくみまで占いは知っている。またそういう「うわ…勧誘…」みたいな顔する!!

教養として掘り下げておくだけでもおもしろいですよ、たのしい。

少なくとも「なんで今自分はこんなにしんどいんだ、うまくいかないんだ」というのを、明らかにできるツールではありますからね、それをあーだこーだ決めつけで近づこうともしないのは、もったいないことをしてますね。

 

 

 

 

 
攻撃心(抑圧・我慢)です。
 

嫌なことを言われたときに一件落着、解決していたり感情を吐き出せているとスッキリしたかなと感じられますが、くすぶっているものが確実にそこにはあるのにその場では何も言わず、心の中で強い反発心を抱えていると攻撃心を吐き出すことができず終わってしまうので、ずっと臨戦態勢、緊張状態が続くことになります。
それでいてこの「攻撃心」は、適宜吐き出して適切に処理していけないと、やがては自分自身に返ってきてこんなんだから自分は……というような自分責めに繋がってしまいます。
本来的には、攻撃心は言われたその時に出せないとなりません。しかし、現実ではそうもいかないシーンもとても多いですから、吐き出そうにも吐き出せないで終わってしまう場合もたくさんあります。

皮肉、当てこすり、当てつけ、斜に構えた批判的な発言。これらが流れるように口から出てしまう人は「そうでもしないとやり返せない危険な環境を過ごしてきた」か「何かがあったことにより植え付けられた強い恐怖で誤学習した結果」があると考えられます。

直接言い返す(やり返す)と怪我をする可能性があった、自分を受け入れてもらえない・輪に入って馴染めないことによる仲間外れの危機によるもの、等。相手より上に立ちたい、仕返ししてやりたい、自分はそいつよりも勝たなければならない。

つまり、未消化の感情(心の訴え)です。でも、それをまっすぐ出すことは環境が許さないから、ねじ曲がった出力をするしかなくなってしまい、非常にイヤな行為になってしまう。

もっと言えば、そこで吐き出さず、またそんなもの持っていてはいけないと否定的になって"無かったことにする"処理が繰り返されると、「自分のこころが自分でわからない」状態に陥ります。自分で自分の感情を無視し、蓋をして存在を無かったことにする、自分で自分の心を殺してしまうのですから、自分の心がわからなくなるのも当然と言えば当然でしょう。


人間は、何かと理屈を並べ立てて理論武装をし、それがたとえ歪んだものであってもなんとか納得しようとしたがるものです。ふんわりとした宙ぶらりん状態を、人間は不安に感じ嫌うようにできているのでとにかくはっきりさせたがります。それは、自分で自分をそう思い込ませる自己洗脳を強めていくだけだったりしますし、そうしていって"色眼鏡"が強化されてもいきます。
しかし「そうでもしないとならなかった」と言う場合がほとんどで、できればそのような思い込みをしないで済むほうがもちろんよいです。

 

愚痴を吐く心理の裏側には「発散」があります。それも、愚痴の理由や原因となった張本人の前では吐き出すことができなかったもののなれの果てです。

負かしてやりたいのに負かすことができない、やり返せない、でもこの渦巻く悪感情をどうにかしたい。だから関係のない第三者に聞いてもらおう、というものです。

前提に「仕返し」が来るので自分を受け入れてほしい、自分は悪くないと思いたい、となる。だから、聞き手は反論やアドバイスは悪手だ、とも言われるわけですね。

 

大切なのは、「愚痴を言うのは絶対にいけないことか?」にはNOである、という部分です。むしろ、何も吐き出さない、吐き出せないほうが問題です。

心理学的に愚痴を吐くという行為には、カタルシス効果(ネガティブとされる感情の昇華)、アウェアネス効果(話すことで整理される気づき)、バディ効果(独りじゃないという安心感)等があると考えられており、うまく運用していくことができれば健康的な内面の維持も期待できます。

要するに"程度問題"でいて、愚痴だらけの人が周囲からエネルギーを奪う踏み荒らす存在として疎まれるのであり、まったくダメということではないのです。

愚痴を聞いてもらったときに後ろめたさや負い目を感じてしまうのであれば、別のかたちでお礼をしてみるのもよいでしょう。すべてのものごとは「循環」させていくことが肝要になります。

 

 

なんだかわからないけれど人と会ってるとやたらと疲れる、だから愚痴っぽくなってしまうのが止められない。という人はもしかしたら、自身でも気づかない「他人軸」状態に常に陥っているのかもしれません。

 

我慢や抑圧をいつの間にか重ねてしまっている。その先に「愚痴」があります。認めてもらえず奥に押し込められてしまった感情たちのことです。

認めてもらえなかったり受け入れてもらえなかったりしたものは"執着"となり、自分自身を負のスパイラルに叩き落すことにもなってしまいます。

耐えるよりも受け流していくことで、意識におけるウェイトを軽減する。

 

この世のだいたいのことは、ほんとうに「考え方ひとつ」なんです。

 

 

 

 

 

なるほど。"周囲からのネガティブな評価を気にするから自分で自分を認めても意味がない"。周りから認められていないなら自分で認めていても無意味である。結果至上主義的ですね、悪しき風習です。

 

 

では、それにもお答えしていきましょう。過去記事にてお話している「機能的価値」「自己価値」の概念を理解していることを前提にお話していきます。

 

 

「他人軸」とは、機能価値的な価値観であり、他者からの評価によって自分の評価をジャッジするものをいいます。役に立てない自分はダメなんだ、この程度のことしかできないから愛されないんだ(認めてもらえないんだ)といった"判断基準が自分以外のところにある"状態です。他者から言われたことに頑張りすぎて自分を追いつめてしまう、自分自身を好きになれない人は他人軸である場合が考えられます。

「これを好きと言ってどう思われるかな」「変だと思われないかな」という気持ちが手前に来て、自分の言うことなすことの判断基準がそこにあるなら、それは他人軸で生きている(他人ファーストの考え方である)証拠です。

「自分軸」とは、傍若無人に周りに迷惑かけていい、(悪い意味での)わがままになっていいい、ということではありません。他人からの評価に左右されない、確かな自己価値を持てていることを言います。誰かからお前最悪、嫌い!と言われても、平気な顔をしていられる状態ですね。他人の言葉を気にする、他人軸だと否定的な言葉を受けた時にグラグラとしてしまうはずです。「嫌われたくない」という気持ちは、他人からの評価に軸があるはずなので、それに応えようとしてしんどくなってしまうことが多いのです。

こんな自分じゃダメなんだ、と言う自己否定は「他人から認められたい」がどこかにあります。

 

他人軸になってしまっている、自分軸なんて持てないよという人は、昔に「そのままのお前ではダメ」と言うメッセージをどこかで受け取っているのかもしれず、それが本人の気づいていない場所で傷や呪いになってしまっているのかもしれませんね。

もしかしたらそれは「親軸」というもののことで、相手がどう思うかの部分が"親がどう思うか"になっている人のこと、その状態のことですね。

「親」とは、子どもにとって最初の他人であり、最初の大人であり、宗教的な教祖にあたります。その人の言うことや教えが絶対になっていて、その人がいなければ自分は生きていけないという依存関係が、生まれた時から作られています。

自分はこれが好き、というものを言いたいときに「でもこんなこと言ったらどう思われるんだろう」とか「怒られるかもしれない、嫌われるかもしれない」と真っ先に考えてしまうのであればそれは親軸、あるいは他人軸になっているんですね。

親軸や他人軸にある人ほど、自分の好きなものや自分のこころがわからなくなっているものです。

 

 

 

 

 

ではどうしてそんなに他人軸、他人ファーストな考え方や生き方が染みついてしまっているのでしょう?そうしなければひどく傷つく(トラウマや生きていけないほどの経験をする)ことが予測される、または実際にそうなったから回避したい、そんな心の動きがそこにあるのかもしれませんね。他人への恐怖を感じて防御姿勢に入るイメージです。自分を守りたくて他人の都合に合わせてしまう、そういう人は「NOと言えない」傾向も持っていることが多いです。

 

「自分軸」であれば、自分のやりたいことや自分の選んだことで失敗をしたとしても"自分で決断したもの"という意識が中心にあるので、後悔しにくい。自分の生き方に自分で責任が持てます。

しかし「他人軸」だと、周りはどう思うか、相手は何をしてほしいかで判断するので他責的になりやすかったりします。自分のためではないから(自分の心の声に従わなかったから)です。

「他人軸」「親軸」の人は、"自分ではない存在の意見"が最優先され、自分のこころは二の次三の次になっている。そういうものが息をするように自然と行われていたりするのですが、あまりに当たり前のこと過ぎて本人は気づいていない、なんてケースはとてもよくありますね。だから対人ストレスを溜めやすいのに発散する方法も持てていない、やがて爆発したり、精神疾患になってしまったりします。

「健康でありたいからダイエットをする」のと「誰かよりキレイになりたいからダイエットをする」のとでも、大きく違いますよね。どこに考えやこころの軸が置かれているのか、ということです。

ダイエットの話でいくと、過去に親から「ブス」「ださい」「みっともない」と言われたことがあったりすると、たとえダイエットに成功しても過去に言われたことがトゲのように刺さってこびりつき、自己肯定感に繋がりにくくなって自信が持てなくなります。親はそんなつもりがなくても子どもには呪いのように人生規模で影響する、のわかりやすい例ですね。

親は最初の他人です。親の発言や行動を気にしながら育ったような人は、親ではない他人、プライベートですらも周囲の反応をずっと気にしながら過ごすような人になっていきます。どこに心休まる暇があるでしょうね……?

 

また、他人軸ならびに親軸である人はインナーチャイルド関係に問題があることがあります。傷ついているのにずっと蓋をして知らないふりをして生きてきた。「抑圧」のことですが、それが無意識レベルで生きづらさの原因になっていることもありますよ。

 

 

 

 

 

つまるところ、「自分らしく生きていく」ことができなくなる他人から植え付けられた深刻な呪い、ということですね。

それは無意識の領域、潜在意識に溜め込まれているので本人の自覚には上がりにくいものです。でもしっかりと呪われている。

他人からの評価を軸にして生きている、それが何よりもの裏付けになっています。

そこに気づけたなら、気づいた時に軸を修正してみましょう。繰り返していくと、そのうち他人の言葉に動かされなくなっていきますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

現代日本人は特に、できなかったことや欠点などに意識を向けやすくあります。

不安や恐怖などが根底にあるからですが、そもそもネガティブなものに反応しやすい研究結果が出ています。

何故かと言えば、それは原始の時代から続く「危機回避能力」の遺伝子から来ているとも言われています。不安や恐怖、ひいては想像できる苦痛を「感じない」体質とかだったら、感覚が麻痺して危険を回避することもできませんね。

しかし日本人は、自分で自分の期待や希望を潰してしまうほど自分責めや自分の不出来さについての意識を日常的に繰り返しているように思います。それは、過剰です。

 

 

前提として「じゃあなぜ自己否定的な思考(ジャッジ)をしてしまうの?」というところからなんですが、それは主に幼少期の養育内容、当時の環境、大きくなってからでも周囲の人たちから向けられてきた言葉等々が関係しています。

一言で言えば「そうしないとダメだと脅されてきたことによる心の傷と呪い」の部分のことです。このように表現するとそんな大げさでしょう、と思われるかもしれませんが、からかわれたりちょっと叱責されたり認めてもらえなかったりしたことが、(本人の意識の届かないところで)深い闇を作り上げていたりします。

この辺のお話は、他記事にて解説しています。

 

 

 

 

~ 具体的にどうするのか ~

 

多くの人が、強い『減点式』で自分を評価しながら日々を消費している、ということにまず気づかねばなりません。

今日も○○できなかった、自分はここがダメだ、という"マイナス"にフォーカスされている状態を言います。

このブログでは他者から与えられる「機能的価値」と、揺らぐことのない「自己価値」についてもお話しています。

 

 

 

本当に些細なものへの否定でも、積もり積もってそれが大きなストレスとなり、セルフネグレクト(自分で自分を虐待する、粗末に扱う)に繋がっていきます。

自分に価値なんてない、自分を大切にできない、という人は自分自身にかけるお金やオシャレなどの労力、そのためのお手入れもやらなくなっていきます。心当たりありませんか?

自分自身に対してネガティブな評価をしやすい人ほど、あるいは「自分なんてそんなもんなんだから」と常日頃から思っている人ほど、自分自身を大切にできない、頭を撫でてあげられないはずです。

自己の欠点ばかりを見ている、できないことばかりをとりあげてその部分だけジャッジしている(プラスやポジティブもあるのに無視してしまっている)のです。これが減点式の考え方です。

できたことだって、そんなちっちゃなことでしょ?取るに足らないよ、と思う人もいるでしょう。その繰り返しが否定的な自己評価及び"自分で自分に呪いをかける"ことになるんです。

 

○○を休んでしまった(できなかった)場合は?

・からだなりこころなりがつらくて休んでしまった→自分のしんどい気持ちに正直になって休めた。今後の回復のことを考えることができた。自分を大切にできた。

・そうでもないけどサボってしまった→無理をする前に余裕を作る動きができた。その分眠れた、その分リフレッシュできた。

現代日本人、そういう「自分を癒す(回復して次の余裕へと繋げる)ためのムーブ」に興味が無さ過ぎるので、効率化と口うるさくしているわりには非効率的でいて非合理的だったりしますね。心身に鞭打ってでも詰め込みまくって完了させたやつが偉い、みたいになっている気さえします。どうして自らブラックな生き方を望むんでしょうか?

それは、自分自身に興味が無い、頓着しない、自分自身をもっと大事にするだけの価値が感じられていない、つまり「自己肯定感や自己価値の有無」からの「自愛の精神が枯れている」という考え方もできてきます。能力が低い自分なんて、認めてもらえない自分なんてそんな価値あるわけない、というスパイラルに陥ってしまっているがゆえに生じる"思い込み(呪い)"ですね。

 

なので「あえてできなかったことには目を向けず、できたことだけ採用する」ことも時には必要になります。これが「加点式」の考え方になります。

そういうわけにもいかない、なんて思ってしまうのであれば、それはプライベートなのになぜそこまでして会社のような頭をしているのか、と切り替えるとよいかもしれません。

真面目な人、自分自身に厳しい人は、このあたりのことが価値観の中に無い、などしているかもしれませんね。

無いものよりも有るものに目を向けろとはよく言われますね。

「できなかった」よりも「できた」を意識していく。これを繰り返していくことで、世界は変わっていくでしょう。

家事だって本来は時給が出てもいいくらいの重労働です。タダ働きなんです。褒められるべき行動ですからね。

 

 

自分を否定したり責めたりしているのもストレスホルモン(コルチゾール)の分泌を増やしてしまうだけですし、そうするとクッシング症候群周りにも心配が出てきます。わかりやすいところで言うと、肥満のことですね。

コルチゾールが分泌され続けているとやがて副腎も正常に機能しなくなり、ストレス耐性が無くなります。脳の海馬という領域の委縮もさせます。前頭前野の機能を強く低下させるので、感情コントロールにも影響が出てきます。

健康被害だらけで、良いことが無いですね。

 

 

 

早寝できた!歯磨きできた!お風呂に入れた!ゴミ出しできた!でもいいんです。

ご飯を食べれた、栄養が取れた、自分を甘やかすことができた、とかでもいい。

自分の味方は自分、死ぬまで一緒に連れ添うのは自分自身です。

 

 

 

 

 

 

 

 

このブログをPCから見ると、このような記載が上部にあります。

 

これがね!スマホ版からじゃ確認ができない(無料プランブログ)ので、誤解や勘違いが非常に多いみたいでね!ネガティブ

 

 

いろんな意味ですっごぉく困るので、度々このような案内記事を作っています。

助けたい人に自分事だと気づいてほしい・知ってほしいのがメインですが、自分のように「誰も何も教えてくれなかった!そのくせお前らは責めてくるばかりじゃないか!」って荒む人がいるのも知っている、からこそこのブログは紡がれています。

 

友人や知人に「そういう人(かもしれない)」っていう該当者がいたら、このブログを紹介してほしいまでありますね!

なんなら言ってくれれば親身に相談に乗るまである!

ひとつ言いたいことがあるとすればその辺の勧誘や業者ブログと一緒にしないでほしいことくらいですかね。

 

 

 

 

 

そもそも「愛というものを特別で崇高なものだと思い込み過ぎている」「少しの工夫で自分も愛というものと関わることができることに気付いていない」という傾向が世の中には強くあります。

他人事ではない。自分自身が享受できる側でありまた与えることができる側である。

じゃあ愛って何なのか?自分でも扱えるものなのか?よくわからないんだが

そんな話のための愛とは何ぞやのテーマ(カテゴリー)もあります。

 

 

 

このブログの書き手は心理学と脳科学から人心を研究する科学的アプローチに比重を置く占い師です。

ジャンル的にはカウンセラー寄りのそれになります。

 

 

 

 

 

世間の「占い」「占い師」への風当たりと偏見が強すぎてこちらひとりでどうこうしようと思っても無理が過ぎる。

やらないよりはマシだとずっと自己暗示してきていますがつらいもんはつらいので拡散してほしいと毎度言ってますね!

そもそもの話をすれば「そう言う悪徳がいつまでたっても蔓延りまくっている」ことが諸悪の根源で、まさにこういう人間がそのあおりを受けているのだと思いますけど。

純粋な善意や正しい占い師をも疑って警戒する、そういう姿勢が社会的に強すぎるのが問題なんですが、みんなそこわかってる?

善人であろうとするのが損をこうむる、そんなのもうとっくにわかってるんですよ。論点をすり替えてはいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今まで言われてきた中でいまだに一番効いてるのは「お前は誰からも信用されてないんだよ洗脳野郎!」です。面白いことを言いますねその人(真顔)

つまり「そういう業者と一緒くたにされている(またはそう言う悪徳だと思われている)」ということではないですか?アハハ。おもしろいですね。病んだが。

 

何度も何度も「こんなにしんどい思いするなら人助けしたがる優しさなんていらない、こんなのもうやめたい、嫌だ」と荒れ散らかしてきたことを知らないんでしょう。

それでもなぜかそこに戻ってきてしまう、何度も離れようとしたけどそういう流れにされてしまう、そういう苦労を知らないのでしょう。

そういう人がメサイアコンプレックスがよ!と決めつけてくるんですよ、テイカー、マッチャーどころか死にかけてるギバーですが。傷付かないわけないですね。

そういう部分含めて「誤解されている」と思うので、こういう記事を書いている次第であります。

 

全部一人でやってるから降りかかってくるものも全部一人で処理することになるんですよ。味方がいらないわけないですね!

 

↑ここに他サイトへのリンクがすべてあります。

 

 

最初はこういうこともこのブログでは明らかにすまい、と思っていたのですが。

上記他記事に分散してお話しています。