なんだか周りと馴染めない。自分だけが「違うこと」をやっている気がする。それは違うよおかしいよとよく言われる。"常識"や"普通"がわからなくて迷惑かけてしまう、嫌われてしまう気がして不安になる。

「ダメなものはダメ」と、理由やロジック、根拠等を説明もしないでただただ否定する、というのは結構な人がやってしまうものであり、よりによって親の立場にある人間が我が子にそう教育してしまう"世間レベルの良くないクセ"が存在してしまっています。

海はなぜ青いの?なんで人を殺したらダメなの?というような問いをされた時、質問者側にしっくりくる感覚を与えることができないであるとか腹落ちさせるだけのものを与えられないだとかする、ああいうもののことです。

「自分はそうは思わないから他の人も同じだろう」「なんでそうなのかがわからないから理解できなくてやってしまう」というものも挙げられます。特に後者の場合、だから覚えられない(繰り返してしまう)という悩みもセットでついてきます。

 

まず"フツウ"とはなんなのか、どこにあるのか、誰が決めたのか、なぜそれが必要とされるのかと言った部分を、明らかにせねばなりません。

それが生きていくうえで常に求められることになるものであり、それを知らなければ集団から爪はじきにされ、周りに迷惑を知らず知らずのうちにかけてしまうことになるからです。

 

結論から申し上げますと「そんなものはない。(画像ry」です。

チョコレートやカレーは"フツウ"子どもに人気のあるとされている食べ物ですよね。でも、それに当てはまらない(嫌い)な人もいます。

女性なら、スカートをはいたり髪の毛が長いことが"フツウ"、"常識的"とされていますが「そうではない人」もたくさんいますよね。なんなら「胸がある」ことを女性的だとされるとデリカシーが無いと怒る人もいますね。

つまり、フツウや常識と言った固定観念は、そう言う思い込み、個人による自己裁量(ただの自己判断)、マジョリティ(なだけ)、ステレオタイプ、そうであるほうが一般的とされるもの、であることと定義づけることができます。特に性別周りのフツウや常識とされているものは、この令和においてはもう古いものがたくさんあります。

では、病気も何もなく、家庭円満で、不自由なく過ごせている"ただ個性的な"あなたは、フツウじゃないのでしょうか?

違いますよね。ですが、"フツウじゃないから"いじめが起きたりすることも、ありますよね。

周りに合わせないとおかしい奴とされてハブられやいじめが起こるなんて、理不尽ですよね?それこそ、おかしいことですよね。

なんとなく「浮いてしまってる人」というのはどうしても存在するものだったりしますし、そんなこと言われてもわからないものはわからないので、対処のしようがありません。

この記事では、そういったお悩みを具体的に解決していくことができる内容となっています。

フツウや常識になんて縛られるから、自己否定してしまって生きるのがつらくなるのです!

 

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まず断言しましょう。常識なんて世代や時代によって常に移り変わっているので適宜アップデートできていない大人たちがどんどん「古い価値観」になっていっているのにそれが見直されていないだけのものです。特に、親御さんとか先生、職場の人がそうである、という声を聞いています。

そして「所謂フツウ」は人の幸せの内容を勝手に決めつけた上に否定して殺す同調圧力と変わりないものです。特に親や友人は、「そう言う思い込み・固定観念」から、当事者を非難して苦しめます。

よくある例としては「恋人を見つけて結婚して子供をつくることが絶対の幸せである」とされているアレのことですね。そんなの、個人の勝手じゃないですか。何を幸せと感じるか、何を好きとするかは他人が決められるものではないはずですよね?

どうしてそれをおかしい間違っていると言えてしまうのでしょうか?誰もそこに疑問を抱かないんです。おかしいですよね

結婚したり子どもを持つことが絶対的幸福人生の勝ち組だなんていつの時代の話なのでしょう?まだ男尊女卑の中に生きているんでしょうか。

"常識"、"フツウ"などという「個性殺し」にこだわり、それに囚われることで自分(自分らしさ)を見失う原因となりうる理由が、ぼんやり見えてきましたね。

(たとえば、特にASDやADHDといった発達障害、HSPやLDといった特徴を持つ人たちが、これらの否定的な価値観によって日々悩み、自殺を考えることさえある実状になってしまっていたりします。否定することで排他するしかないなんてことはなく、消すのではなく共存していく考えほうのほうがずっと平和的なはずです。)

 

フツウじゃないよおかしいよ、非常識的だ、という周囲からのメッセージに加え、そんな自分が嫌いだ好きになれない、失敗ばかりしてしまってなおらない自分は罰せられるべきだとしてしまう人がたくさんいるのです。

一番の拠り所でいて理解者の味方になるべきその子の親が、そんなメッセージを常に発信し続けていたら、どうでしょう……?

本人だってなおせるものならなおしたい、でもなおせないという苦しみの中にいるのに、それに理解を示さない周囲は、無罪と言えるのでしょうか?

もちろん、障害や病気を盾に言い訳してはならないですが、それとこれとは話が違うはずです。

いいな、好きだな、これをしたいやりたい、と「素直に感じたこころ」を、おかしい恥ずかしいやめなさい気持ち悪いなんて言われたら、誰だって手放して捨てたくなるのではないか。否定されたから。そのままでいると見放されそうで怖いから周囲に合わせて自分を歪めてしまう。肯定されなかった。

親や友人が本人にそう感じさせることに問題が無いはずがありません。

 

 

 

では、「じゃあ具体的にどうすれば解決していけるのか」をお話していきましょう。

 

●自分の見ている、知っている「世界」を広げる、増やす

●自分以外の人間の内面や価値観を知りに行く

●自分とは違うタイプの人が集まるコミュニティに参加してみる

●自分は平気でもそれが嫌な人がいるのだと覚える

∟上記の他記事似て詳しいことを解説していますが、「自分と他人の物差しを知り、その違いを知っていってすり合わせを行う」ことが最重要です。

生きてきた中で見聞きしたものや学んだもの、好き嫌いとか信念とか思考思想、いろんなものが隅々まで「自分と異なるもの」ですから、まずはそれを知るところから始めねば、ズレがだんだん大きくなってきてしまいます。

そのズレを、修正するための「知ること、すり合わせること」なのです。

 

 

●「こうしておけば無難だ」というラインを個人的に探す

●常識とされているものの知識をつけに行く(本やニュースを読むなど)

∟「世間一般ではこうであるとされている、こういうことになっている」ということが、自分の中にないのなら、調べに行くしかありません。

「世間一般ではこうであるとされている、こういうことになっている」の部分が所謂"フツウ"とされるヵ所のことですが、必ずしも自分自身に当てはまるわけでもないと思います。そしてその"フツウ"とされているものたちは、多くの一人一人の「自己裁量」によって可視化されているに過ぎない。

つまり、10人いて、そのうちの3人が青であり、7人が赤であれば「赤が普通である」ということであり、しかも「これは赤だろう」「赤のほうがよい」「赤なんだと思う」「赤でなければダメだ」という、個人個人の判断の寄せ集めでしかありません。赤が多いのだから赤が普通なんだ、と言う考え方の中には、青への尊重や肯定が存在しません。数の多い少ないでもう一方を排他していい理由にはなりません

だから「フツウなんて無い(個人の判断が数集まっただけのもの)」と言えるのです

 

 

●他人の価値観は他人の価値観、自分を歪めてまで合わせる必要はないと知る

●苦しいのに自分が悪いんだとせず、無理なものは無理と主張すること

∟フツウであろうとすることにこだわるあまり、本当は違うのに、本当は嫌なのに、本当はそうしたくないのに、「そうしなければならない」と思ってしまう。それは、自分自身の心身の健康に良くないことです。

フツウではないからと、自分の個性を殺してしまうくらいなら、フツウにならなくていいとこのブログは主張します。出る杭を打つ社会がおかしいのですから。

そうすることでもちろん風当りなども強くなるでしょう、だから、フツウになることにこだわることなく、しかし「無難」を探すこと、とするのです。

自分を殺したり曲げたりする必要はない、ただ「こうしておいたほうが安全」という周りへの合わせ方を、知る必要があるだけです。

 

 

●「自分はそれが好きじゃないけどあなたはそれが好きなんだね」が許されるのだと知ること

∟所謂"尊重すること"です。逆もしかりで、自分はそれが好きだけどあなたがそれが好きじゃないんだね、というものもあります。

「自分がやられて嫌なことは人にしない」とはよく言われますが、自分が平気な場合はどうするの?という疑問については、それでは解決できません。

人と自分は違う生き物なんだ、自分と言う国と相手と言う国は、文化も人種も言語も何もかも違うんだ、だから「知る」ことをしたほうがいいんだ、ということです。

 

 

 

「自分の中の世界観や視野を広げる」「自分から進んでたくさんのいろんな体験をする」ことがカギとなります。自主性、能動性が大切です。

簡単なことではないとか、手間も時間もかかるとか、一朝一夕ではいかない分野にはなりますが「やらないままでいると、何も解決されないままになる」ことだけは確かです。