このブログでは、心理学の「シャドウ」についてもお話してきました。
そもそも「シャドウ」とは何なのか?どういったものなのか?の部分をきちんとお話できていなかったと思います。
シャドウとは、簡単に言えば"自分が最も見たくない(直視したくない、認めたくない)自分"のことです。
他人は自分を映す鏡と言いますが、他者が自分の嫌なところを映し出す、他者に対する自分の振る舞いや他者に対して思うことなどが、シャドウ(投影)だったりすることがあります。

自分の中の嫌な部分、歪んだ部分が他人に映し出されて気づかされる。なんかムカツクな、気にいらないな、苦手な人だな、こいつ性格悪いんじゃないかと思うような相手こそ、一度自分自身の中を調べてみるのがよい、わけですね。

 

幼い頃から厳しく育てられて甘えることができなかったとか、なんらかのコンプレックスを持っていてそこを誰かに刺激された時の反応を嫌味っぽく、あるいは後ろ向きに出してしまったりする部分のことですね。
「こうしなければいけない」「こうでなければならない」と"勝手に自分で思い込んでいるだけ"なのに、誰かがそれに反することをしていた、自分がそれに反するものに出くわした。その時に怒りや憎しみが内側から湧き上がる。もしくはダメなんじゃないかとしり込みしてしまって進めなくなる。あの感覚です。
過去に満たされなかった、満たされないままいろいろあって押さえつけて奥底に押し込んで、外に出力されたり発散されることもなく見つめなおされもせず「掘り起こすと痛いから」とずっと見ないフリを"その本人に"されてきた部分。
要は「成長過程で切り捨てられた(禁止された、排除された、制限された)欲求」のことで、他人がそれを自由に発散しているから気にいらなくて攻撃(または過剰な防衛)をしてしまう仕組みのこと、ですね。

このような仕組みを持つ「シャドウ」のお話と、「恐怖や不安は自分自身が勝手に作り出しているに過ぎない幻(幽霊の正体見たり枯れ尾花)」というお話もしてきました。

怖いと思うことや不安になること、誰かを憎んだり傷ついて怒ったりすることをしてはならないということではありません。それらは否定しないでじゅうぶんに咀嚼して愛してあげましょう。

そうではなく、認知の歪みや偏った学習(過去の経験・体験)によって「本来危険のないはずのものに危険を感じて勝手に怯えて遠ざけてしまう」ことに問題がある、そうすることで自分自身の闇を見つめるのではなく他人のせいにして気づかないままでいる、のがその本人のためにならないということです。

 

 

 

 

 

人は幼い頃、今現在の自分と比べてずっとずっと「なんでもやれた」「どこへでも行けた」「どれも言えた」があったはずなのです。それがプラス面、陽の部分。「良いところ・長所」と言われるものですね。

育つ中で見聞きして体験するあんな出来事やこんな言葉などで、それらの"あたかも万能のようである"能力は、ものすごい勢いで姿を消していきます。周囲から受けた影響が作り出す"自分の本当の欲求を押さえつける理性"によって、マイナス面、陰の部分。「悪いところ・短所」とカウントされてしまうのです。

それが下記で言うところの「エス」と「エゴ」の正体になるのですが、ここが無意識(潜在意識)に溜め込まれていくことによって、成長してから大変厄介な"症状"として猛威を振るい出すことになります。

人にこう言われたから、人にこんなことをされたから「自分のそれは捨てるべき部分だ」と判断する理性が、自分の素直で幼いこころを殺してしまう「エゴ(魂で生きることから遠のいてしまう原因となる要素)」です。

 

 

これ嫌だな、苦手だなと"感覚的に"捉えるものを、余地が残らないくらい「なぜそう感じるのか、思うのか」徹底的に掘り下げてみましょう。過去にこう言われたから、過去にこんなことがあったから"そう思うようになった、そう感じるようになった"が出てくるかもしれません。

嫌だから、苦手だからで反射的に拒絶しているばかりでは、何もわからないままになるどころか、何の解決にもならないですからね。

「こうしなきゃいけない」「こうであらねばならない」という"思い込み(自分ルール)"の原因、根っことなるものも並行して見つけることができるでしょう。

その「なぜか許せないもの」をラベリング、言語化できたときに、シャドウだったと理解できるようになるはずです。

 

 

 

 

 

心理学者のカール・グスタフ・ユングは「自分の闇を知ることは、他人の闇に対処する最良の方法」「闇の中に黄金はある」と言葉を残しているそうです。

自分の闇を受け入れない、認めないなら自分の良いところ、光の部分も手に入れることはできません。

それはタロットの逆位置と正位置のようなもので、どちらか片方だけ欲しいなんてことは許されない、なぜならそれは「表と裏両方でひとつのもの」、ニコイチ、ワンセットなのでどちらもそれそのものであるが故。良い部分と悪い部分、という表現も適切ではなく、プラスとマイナス、陽と陰のほうがより正しいです。

自分のネガティブな部分を否定していては、自分の魅力も輝かせることができないのです。自分を輝かせたいなら、自分の中の封じ込めていたものと対峙し、受け入れて解して愛さなければたどり着けない、ということなのでしょう。

短所は長所、とも言いますし「自分がそれをやるなんてとんでもない、他の人がやったほうがいい」と自分自身の能力を過小評価(コンプレックス認識)するのも、そこに隠れているプラスの可能性の否定にもなりますよね。

言い換えればシャドウを刺激されること(刺激すること)で、自分の良い面を見つけることができるかもしれない、自分のプラスの可能性や前向きな能力・才能を開花させるヒントやチャンスになるかもしれないということでもあります。

 

自分で否定している部分やコンプレックスなどの"闇であるとされる要素"を肯定し、しょうかさせることができたなら、魅力や天才性、才能を手に入れることができるかもしれませんね。