道徳的なことを意識したり掘り下げたりしていくと、そこには善悪や正義の思想が浮かんでくると思います。しかし同時に、激しい"暴力"もセットでついてくることがあります。
人は日常的に、あらゆるものに対して裁きながら(ジャッジしながら)生活しています。それは、主観的な善し悪しで行われているはずです。
その時のことを良く思い返してみてほしいのですが、それは表面的なものしか見れていない状態での判断ではないでしょうか。
ノンバイオレンスコミュニケーション(Nonviolent Communication、NVC)というものがありますが、これは1970年の臨床心理学者が提唱したコミュニケーションプロセスのことで、家族、友人、職場、あらゆる人間関係を支配、対立、緊張、依存の関係から自由で思いやりにあふれた、尊重しあい豊かにしあう関係へと変えることができる考え方、話し方の方法です。
「観察」…起こっていること、物事を客観的にとらえる。解釈・評価特別する。
「感情」…自分が何を感じているのかに目を向ける、身体感覚や内面の反応を感じる。考え・思考と区別する。
「ニーズ」…自分にとって大切なことや求めているものに気づく、大切にしているもの・価値に意識を向ける。方法・手段と区別する。
「リクエスト」…何をしてほしいか伝える、YES/NOの両方が言える選択肢を持った提案をする。強要と区別する。
これらに注目しながら、自身の内面との対話や相手の言葉の奥の意図考える、相手との対話を行います。
誤解や偏見、思い込み等を見極め「"今の"気持ち」とその奥にある「大事に思っていること」「価値を置いているもの」明確にしていく。
人は、この暴力をもって他者を「あの人は傲慢だ」などとジャッジし、自分のことも「なぜこんなこともできないのか」などと攻撃する、というものを分析し解決していくものになります。
相手や外部から何か言われた、やられたときに勝手な解釈や決めつけで理解してしまい、それによって湧き出てきた感情を否定して、さらなる否定をするかのように手段にこだわり、自己説得による自己洗脳でまた解釈や決めつけ(思い込み)を強化してしまって、その負に自分が飲まれる。そんな経験は無いでしょうか?
「NVC」を取り入れ実行していくことができれば、このような苦痛と人間関係の破綻の原因となりうる理由を見直すことができ、改善していくことができます。
世界のあらゆる対立・葛藤の背後には「何が正しく・何が間違っているか」という二項対立の視点があることに気づき、"個人的なものではなく、社会的な正しさと間違い"という二項対立的な捉え方が、個人の対立や葛藤を生んでいると提唱者は考えたようです。
自分が悪い、自分を責める。相手が悪い、相手を責める。というのが「防御反応」になります。
悩んだり不安になったり、ネガティブになることを人は悪いものだとして否定しようとします。ですがそれらは、その本人の内側の奥のほうで「何かが起きている」、ニーズがあるからこそ生じるものであると理解できるとよいでしょう。
不安や対立、葛藤を「よくないもの」として捉えるのではなく大切なものとして認識できれば、次の段階の「リクエスト」にも踏み出すことができます。
良い・悪いの二極だけを見定めようとしてあらゆるものを仕分けようとする。それがNGというわけでもないのですが「良いか悪いかの二元論」的な考え方でいると、本質が見えなくなっていくという理解に至っていない人が多いように思います。
「社会的な正しさ」、親や周囲の人間がこれはダメだからこうしなさいと言っていた、というような"誰かの常識"で、生きてはいないでしょうか。
誰かの価値観は自分自身のこころや考えすらも容易く否定して殺してくることがあります。
「何が良くて何が悪いか」の二項対立的ジャッジは、正義という名の大義名分によって暴力することを許してしまうことになります。そこにグレー(中間、中庸、どちらでもない)が存在しないんです。
「良いか悪いか」の善悪を仕分けするやり方を主軸にしていると、自分や相手のこころが何を感じてどう動いているか、という丁寧な観察が忘れ去られ、
自分や相手が本当は何を思っていて何を求めているのか、が見えなくなっていく。表面的なところで判断して、本質や根本が見えなくなるのです。
するとそれは「感情やこころの否定」へとなるのですが、その理由は「悪いものだから存在していてはいけないlと、捻じ伏せて黙らせようとするからなんですね。
良くないとされるものは存在していると不都合ですからね、それが自分自身の心や感情、弱い部分の気持ちであっても。
自分の中の何かを守りたいけど「それが何なのか」掴めていないから、他者にレッテル貼りや攻撃するなどをしないと自分を守れない。
そういう構造がごく一般的な範囲で普遍的に誰もの中に存在しているはずです。
自分の中の奥底の、本当の欲求に気づくことができていれば、そんな火力の伴った訴え方で相手を貶めたり圧倒する必要もないはずですよね。
これは、このブログでも言及してきているインナーチャイルドや毒親家庭育ちの部分と強く関係があるところです。そういう人たちは「自分が本当に求めているものは何なのか」が強く抑圧されてしまっていて、自分自身を長らく見失っている人ばかりだからです。
"自分が本当に求めているもの"というのは、自分自身の奥深くに沈んでいるものを見つめそれと対話をしなければ見えてこないようにできています。過去の傷を押し広げ、蓋をしていた部分を明らかにする。今までずっと、その部分から目をそらし続けてきていたから、自分が何をしてもらいたいのか"具体的に、詳細に"相手に伝えることができない。ラベリングもなされていない。
それらの見えない部分の解析が行われていないから、ただただ渇きや飢え、満たされなさだけがそこに有るだけで。
正しさを相手に思い知らせて誇示することは愛ではありません。正しい論を並べ立てて相手を丸め込むのも寄り添いではありません。自分の考えや意見は正しいのだ、このやり方こそが正義であるのだという言外のメッセージが、その人の言葉の裏にはあります。
正しさは、相手の主張やこころを押さえつけて、出てくる機会を奪います。正しいから存在することを許され、間違っているから否定されて消されるべきである。段階を踏めばそれが必要な場面も出るでしょう、しかしそれよりも前の段階、まずはその気持ちや感情、こころを認めなければならないところで正しさを振りかざしても、また心を閉ざしてしまうようになるだけです。
ただ、ここでひとつ引っかかる点がありまして。それは「そこまで詳細な理解や寄り添いが必要な状態にある人は、親子関係が荒んでいる、正しい愛を知らずに育った可能性がある」という点です。先天性か後天性か脳に変形があり、ダメージを受けすぎていて心が弱りに弱っており、それらの理由から言語化も困難で他者に自分の内面をうまく伝えることができず、少しの刺激で耐えられなくなってすぐにこころの中のものがあふれて爆発してしまう。"飢えている"人です。