人は、おとなになるにつれ様々な後天的"添加物"によって「自分が本当に望んでいるもの」を見失っていきます。

本当は早く彼氏が欲しいとか年収ウン百万とかではなく「親に甘えてみたかった」「何でも話し合える友人が欲しかった」とか、そんなふうに考えていることとこころの奥底の叫びにズレが生じてきます。

なぜ結婚したいのか?それは"世間がそういう価値観を幸せと定義しているから"では?なぜお金が欲しいのか?そうであれば"遅れることも負けることもないから"では?

もっと、本質的な部分に目を向けなければいけないことを忘れているのです。

なぜ世間の価値観に合わせる必要がある?自身の望みとは食い違ってはいないだろうか。それは、進学で自分の選びたかった志望校ではない道を、親の言うとおりに選ばされ歩かされるあの現象と似ています。

 

 

自身の中から湧き上がってくる「欲求」に従って生きることが推奨されるのは、それに反するものが所謂「抑圧」と言われる"自分らしさとは遠いもの"になるからなのですが、自分が本当に望んでいるものとあとから付け加えられた"そうしたほうがいいから選び取っているもの"、まずそれを見分けるのに必要な工程が「自分自身の内面をじっくり掘り下げ、しっかり向き合う」になります。そうした手順を踏んで発見されたそれらは「エゴ(本当の自分だと思い込んでいる虚像)」と「魂の望み」と区分けすることができます。

月は、自分で輝いているのではなく太陽の光を受けてその存在を主張し始めます。太陽は魂、魂は太陽。また、月は"自我"です。

そう、これは占星術の話でもあります。月は、データベース(体験による自動化された知識や知恵の塊)化した無意識領域のことです。

ポジティブブロックというものがありますが、人に迷惑をかけるのはよくないから何でも一人でできるようにならなきゃと思い込んでいると「本当は助けてほしいのに」といった"本当の(奥底の)欲求"に気づきにくくなります。

自分を他の誰かと比べ、今現在の自分自身を否定してその誰かのようになろうとする。一見するとポジティブのように見えるけれど「自己否定」が前提になっている。

努力が実らないとか、やっているのにこれ以上やり方がわからないとか、そもそも向いていない気がするとか。そんなようなことが頭をよぎったりするのなら、それはきっと「偽ポジティブによる迷走」かもしれませんね。おそらく、上述の魂からの欲求ではないのでしょう。 

 

 

知識があればこの世のことも、自分と他人の違いも、何が起こっていてどうすればよいのかも、予想外のことに見舞われても、わかるようになる。

そんな「自分から進んで知識を求め続け学び続けることの必要性」を、こちらの記事で言及しました。

もしかしたら、適度に手を抜いて常に余裕を持っておくことや、難しく考えすぎてそれ以外の(もっと簡単な)方法があることが見えていないなど、人によって「ハードルが高く感じる理由」はあるかもしれません。ですがそれも、知識(情報)があるかないかで大きく変わってくる部分ですね。

実際にまだ起きていないのに起きるかもしれないからと避けようとすること、不安の先取りを「予期不安」といいますが、予期不安が生じる原因は"情報(知識)不足"であるとも言われています。

それは"過剰な心配"であり無用でいて取り越し苦労に他ならず、自分で勝手に作り上げるネガティブな妄想なのですが、自分の知らないものや人、未知の世界に触れる際によくあらわれます。

もとより、人間は古い時代の名残で「悪い予想をすることで危機を免れようとする」クセがあります。

ここでは、不安の先取りをすることで「本当にそれを引き寄せてしまう」構造であると定義し、できればそんな不安を掻き立てるようなものとは関係ないようなことに打ち込んだりして気をそらしておく、ことを推奨しておきます。 

 

 

こうであればそれは避けられただろう、というような過去や育ちを否定する書かれ方。あるいは、わかりきっていることだけどそれがやれれば苦労しないというような、非当事者による無茶なテンプレート化。

「こういうパターンの場合の人は"具体的に"どうすればいいのか」という方面の寄り添いが薄いか無いかする読み物がたくさんあふれていますが、そうなってしまった理由や原因、きっかけ等をどれだけ捻っても「そうなってしまったものをこれからどうしていくか、どのようにすれば解決していけるのか」に直接的なアンサーを与えることはありませんし、フォローやケアの意識が不足していると感じています。

実際にそれを受けたことが無い、そういう人が近くにいない。そんなところからロジックのみで語られても、問題解決を望む当事者の中には届きません。

もっと詳細にその人の内面を観察し、隙間を埋めていくように手法をフィットさせていく必要がある。背景も、こころも、当たり前のように個人差があり千差万別ですから。

否定や排他することでしか解決できないやり方やスタンス、時代はもう適切ではない。

 

インナーチャイルドの存在に気付いていなかったり、癒しが完了できていない人は「自分の生き方」を見つけられていない人といえるでしょう。

なぜなら、本当はやりたくない選択を選択するように周りから植え付けられ、それを自分のこころであると誤認したままここまで来てしまっているからです。

ヒントのひとつとして「幼い心にわざと戻ってみる」のもいいかもしれません。「こうしなければ、こうであらなければならない」という考えを、とにかく放り投げてみましょう。大人であらなければ、女であらなければ、男であらなければならない、しっかりしなければ、やくわりをこなさなければならない、というようなことを忘れてみましょう。もっと自由でもっと純粋な心を思い出してみましょう。

子どもの頃の自分は何に憧れ何を求め、何にときめいてワクワクしたのだったか。

否定されたくなかったこと。与えてほしかったもの。受け入れられたかったこと。

欲しかったものややってほしかったことなど、何かが見えてくるはずです。