このブログでは何度も内面の「傷」や「歪み」について言及してきていますが、それは「嫌だなと思う気持ち、感じるもの」のことなんです。
「それくらい我慢しなさい」「その程度のことで泣いたりするのは弱い」「間違っているのは自分だから」「褒められなければ"ならない"」「自分が変だから世間になじめないんだ」というような風潮(教えや先入観、世間的な価値観)が、こんなことになる原因ですね!(上の前回のブログ記事を参照してください)
 
 
傷や歪みと言われて、なんのこと?と思う人もいるかもしれません。そういう人がもう危ないんです。このブログを読んでほしい人、"気づいてほしい人"です。
それはもしかしたら、日常の中でのちょっとしたモヤモヤかもしれません。泣いてしまったりイライラが強く出たりしてしまったけど寝たら忘れるようなものだったかもしれません。忘れるわけがありません、潜在意識にため込まれているだけ(意識に上がってこなくなるだけ)なので。
傷、歪みという概念がなぜか"勝手に"大層なものであると多くの人が思い込んでいるようですが、それだって知らない人は多いんです。
だから、特に毒親に感じられなかった、虐待だと思っていなかったのに、内面に歪みや自分自身を追い詰めてしまう強い思い込み(呪い)ができてしまっているということですね。

 

 

 

「やだな」と、少しでも感じられたもの、こと。ふわっとしたとても曖昧な、でもはっきりとした”拒否感”。

自分の気持ちが、小さくてもNOと言っている。それを受け入れたくない、続けたくないと主張する。

そういう「こころの声」を、でもやらなきゃいけないことだから。そうしないと不都合だから。甘えだから、それが「普通」だから、周りがそう言ってるからと”理性で無視をする”人は多いと思います。

そんなふわっとしたモヤモヤを一度取り逃がすと、そのまま別のものが次から次へとやってきて積み重ねられていき、そのうち忘れ去られます。忘れ去られて「しこり」になります。

意識的には気にならなくても確実に”傷”になっていきます。

そうするとどうなるかというと、慢性的に(無意識的に)我慢をし続ける状態になるんですね。

自分で自分をそんな状態に持っていってるのに、それに気づかず自分のしんどさを他人のせいにしたくなります。

 

他人に嫌われたくない、捨てられたくない。親から褒められたり好きになられたりしたい。

そんなものを自覚がなくても求めているような人が、我慢を伴う他人軸になり、振り回されやすくなります。

それはもう大きな「気づかれていない傷」の影響です。

本当は嫌だったのにやらなきゃいけなかった、そうしないとならなかった。その気持ちに気づかないから、それを相手に言わない(言えない)から、悪化する。

過去に嫌な体験をしたことがあり、それに蓋をして見ないようにしている人ほど、この仕組みに気づきません。

相手や周りがどうだから、という判断基準では「自分のこころ」というものにいつまでも気づくことはありません。

自分が、どうであるか。主語を自分(私)にすること。自分軸で考えていくこと。

自分で勝手に我慢して、自分で自分を逃げられなくしているのに、それを他責するようなことは褒められたものでもないですね。
 
 
それに「強い人間」というものを誤解や勘違いしてとっている人もかなりいます、確実に。
「本当に強い人」というのは、誰にも頼らず自分だけでどうにかすることを言いません。
自分の弱さを認め、素直に人を頼ることができ、適度に力を抜いて自分を大切にすることができる、そう言う人が「本当に強い人」です。
耐えることが強いわけではない、受け流したり順応したりして自分を柔軟に変えていく。
誰にも頼らないということは自分で自分を追いつめていることに他なりません。全部自分一人でやる、誰にも頼らない、ということは、本来人に頼ることで分散される負荷・ストレスなども、ひとりだけで抱えることになる、でもあります。
そのぶんだけ心や肉体の症状として表れやすくもなります。
 
生き抜く強さというのは忍耐強さや自分に厳しくすることではないんですよ、それは自分自身を早々に壊そうとしている行為に過ぎないですから。
認めて受け入れることができ、それを愛(ゆる)し、柔軟に自分を変容させて順応していくことが生き抜くためのスキルです!


そもそも自分のこころの声というものがわからなくなってしまっている、もしくは自分のこころの声って何?という人が多いんじゃないかと思います。
簡単に言うと「自分が少しでもモヤッとしたり嫌だなと感じるものに耳(意識)を傾けること」「これがイイ、これが好き!というものに包み隠さず正直になる、表現すること」です。
我慢することとは反対の内容ですよね?
そこでそういったこころの反応を無視する、無かったことにする、周りに非難されるからと押さえつけることをすると、だんだんとこころの声は鈍くなり、やがて聞こえなくなるのが普通になってしまいます。
お前のソレは甘えだ、お前が間違ってるんだ、変だからおかしいから直しなよ、○○らしくしなさい、と言われた経験は無いですか?大体それがこうなる原因です。
 

こころの声を無視し続ける、するとそのわだかまりは「癒されない、満たされない気持ち」として放置され続け、そのうち「相手にされない凹み」として飢える、"傷"になるんです。

"歪み"は、そうやって周りに言われたことによる「呪い」、そういうものなんだと思いこまされて歪まされる(洗脳される)「本来の自分とは違うもの」を指します。その洗脳は親子間で日常的に行われます。

Aという嫌な経験を繰り返したら、同じ内容のBもCもAみたいに悪いものなんだ!だから嫌だ!と遠ざけようとする。

占いは怪しいとか、善人には何かあるに違いないと疑うこととか、そういうのですね。

この構造にはもうひとつ他にタイプがあって「愛されてこなかったから愛されている人を僻んでしまう」という心理学のシャドウ投影のパターン。

自分がやりたいと思っていてもやれていないことを、他の人が自由にやっていたら何か嫌味を言いたくなってしまう、そういうやつです。

 

 

 

 

 

 
人は、目の前のもの、目に見えるもの、物質的なもの"だけを"信じたがる部分が過ぎます。こころというものを見ない、後回しにしたがります。
あるいは、理屈や理性で「必要ない」とごく自然な流れで無視や押さえつけをします。
やっていることは自分への虐待なのに、誰もそれに気づきません。なぜでしょう?
余裕が無い人ほど、即物的な挙動になりますねえ……。