成長過程で、親や周りの人間からかけられた言葉。それが悪気の無いポッと出たものであっても、受け取る側の心に衝撃と深い傷を残すものはごまんとあります。
それこそ「価値観の違い」というものもあるでしょうが、そうした何気ない一言、または教育の中でぶつけられた発言たちが、当人の心に深く根付き死ぬまで毒を撒き続け蝕み続ける。
育ての親であるなら特に、その部分に無頓着であってはならない話になります。
エゴの声。簡単に言うと、自分自身に課している「禁止ルール」のことであり「こうであってはならない」の総称です。
親のみならず周りの人間の振る舞いによっても、小さな子供の中には価値観が生まれていきます。幼稚園や学校の友達、バイト先など、月の年齢域(0~7歳)を出ても影響は受け続けます。
誰にでも「こいつのようにはなりたくない」「こんなのクズのすることだ」と感じるような人間は存在すると思うのですが、そういうものを目の当たりにしたときに反面教師的な心理作用が起こるほど「自分への禁止ルール」は増えていきます。
「○○でないと△△てはならない」という、意識の9割以上を占める"無意識領域"に、そんな勝手なルールが山ほど作られている。
それは生育過程で植え付けられた「他人の物差しによる自己評価」であり、世の中を生き抜くすべ、防御のための理論武装かもしれません。
しかしそれは悲しいインナーチャイルドを生んだり、自縄自縛になって自らを成長させない臆病者へと変化させてしまう罠の構造だと気づかねばなりません。
なぜなら?他責的でいて内省が無い、自分のこころも無視し続け、口を開けていれば与えられると思い込み、幸せや未来も手に入ることが無いからです。
「完璧主義」はそんな厳しいルールが山ほどある中でなんだかんだと理論を並べては結局動かないので成果を出さないのに対し、「完了主義」は何でもいいからとにかく動く、80点70点でもいいから終わらせて結果を出す。
100%自分が納得できないといけない完璧主義、及第点前後でもいいからとにかく完了させて改善点などを洗い出す完了主義。
どちらのほうが建設的で前進があるかと言えば、後者なのは明らかです。
完了主義になるにはある程度の妥協が必要であり、少しの勇気を出すことや執着(逃げ腰になる部分)を手放していく必要があります。
もちろん急にスタンスを変えるのは難しいことですし、完璧主義になっているのはそこに許せない何かがあってそれが理由になっているからでしょう。
ではどうすればよいか?自分の中の「どうしてそうしないといけないのか」を掘り下げ、どこかに"傷"が無いかを探してみます。上述の「他者からの言葉によって植え付けられた価値観」の部分です。
それはネガティブな響きのものだけでなく、"そうやって褒められた、認められた"ものが罠になっている場合も、実はあります。
「こうであってほしい」というメッセージであることに、変わりはないからです。
非常に多くの人が「○○でなければならない」と一般的に考え、思い込んでいます。そうであったほうがいい場合もあるので一概にダメ、とも言えませんが「ならこうすればよい」というようなフォローや解決策、折衷案などのカウンター的な思考回路が作られていないことも多いのが、視野が狭まる原因のひとつにもなっています。なぜそうでなければならないの?別にそうじゃなくてもよくない?という点に、気づかないのです。気づかないから代替案も作られず、やたらと頑なに"無根拠なのに"それを守ろうと意固地になる。なぜそんな100点じゃないといけないの?それが自分の行動力を殺してしまっている原因なのに、ということですね。
ではなぜ守ろうと頑なになるのか?そうしなければ責められる、傷つくなどして生きていけなかったからです。
アダルトチルドレンに多い特徴ですが「親が失敗を許さなかった」「親が子どもに興味を持たなかった(育てはしたが向き合わなかった)」「大人側の考え(脳内)が古かった」など、本来子どもを守るべき存在が安全基地たりえなかったゆえに、今大人になった当時の子どもが傷由来の生きにくさ(完璧主義、潔癖的、人を頼れない等)を抱えるに至るのです。
自己否定的な部分と禁止ルールは密接に結びついています。自分を受け入れることと自己否定的は対極にあります。簡単に言うと「そんなクズな自分は受け入れられない」という考えがある限りは、自分を変えることや成長させていくことは難しいということになります。
「きちんと向き合って話を聞いてほしかった」「悪いことをしたら叱ってほしかった」「趣味を受け入れてほしかった」などの幼く深い欲求がどこかにあるはずです。
子どもの頃に厳しく禁止されたものほど、大人になってから激しく爆発する、というのはもう有名な話ですね。
完璧主義は他人だけでなく自分自身をも苦しく縛り付けてしまっていることに無自覚なのはよくあることです。
自分を許せないから、同じ要素・同じカテゴリで自由にできている他人を許せない。
甘えてもいい、人を頼っていい、できなくてもいいのだと自分を許せていれば、同じ内容の他人も許せているはずですからね。
他責的であり、そういう人間は絶対に汚らわしいとしている間は、自分自身のことも縛り続けるだけでしょう。そしてそんな価値観・思考になった原因は、歩んできた環境や生育内容にあるんです。
アダルトチルドレンを生んでしまう親、虐待の連鎖に無頓着な大人たちも、背景に「そう言う過去」があったりします。
自分自身を信じ切っていて他者を裁きたがる人間ほど、自身のそういう内側から目を逸らし、それによって生じる苦痛から逃げているものなので、無自覚的にもなるんです。
他人を穢いと判じる前に、己の穢さに蓋をしていないか。人類皆欲がある限りどこかが穢いのだから、そういう「人間的弱さ」を許さない限りは、自分の弱さも許せない、あるいは誤魔化し続けることになるでしょう。