前回の記事です。

 

 

「誰かを助けたい」と思う気持ちは素晴らしいものです。しかし、世の中にはこんな風に考えている人もいるのではないでしょうか?
「助ける余裕なんてない」「自分だって辛いのに、どうして他人まで支えなきゃいけないの?」と。

 

その通りです。他人を助けるのは、余裕のある人がやればいい。無理に手を差し伸べて自分を壊してしまうくらいなら、まずは自分を大切にするべきだと思います。あなたが倒れてしまったら、結局誰も幸せになりません。そんな時は、自分を守ることが最優先です。

例えば、毒親の下で育った人や、過去にモラハラを受けた経験がある人。長年のトラウマで自己肯定感が傷つき、自分を守る余裕すらなくなっている場合もあります。こういう時に「他人を助けなければならない」なんて言われても、それは無理な話です。自分自身がボロボロの状態で、他人の問題に取り組むなんてできるはずがありません。

 

また、「恩を返さなければいけない」と無理をする必要もありません。人は自分にできる範囲でしか生きられない。余裕がない時にまで何かを返そうとする必要なんてないんです。受け取るだけ受け取って、感謝するだけでも十分です。それ以上のことは、余裕のある人がやればいい。

 

でも、ここでひとつ考えてみてほしいのです。余裕のない自分を助けてくれる人が誰もいない社会、あなたが本当に苦しい時にSOSを出しても無視される社会

それはどう思いますか?

 

助け合いが完全に失われた社会では、人は孤独に潰れていきます。「誰も助けてくれなかったから、自分も誰も助けない」。そういう連鎖が広がると、周囲も、そして自分自身も、生きることがどんどん苦しくなっていくのです。

助けることは余裕がある人に任せていい。ですが、誰もが助けを拒む社会になってしまったら、それは暗闇の中でお互いに背を向けるようなものです。

 

 

想像してみてください。困っている人が声を上げても、誰も立ち止まらない社会を。
隣人が苦しんでいても、「自分には関係ない」と見て見ぬふりをする社会を。
それが当たり前になった世界は、どんな場所になるでしょうか?

 

その答えはシンプルです。人はどんどん孤立し、互いを疑い、そして互いを切り捨てるようになるのです。

 

例えば、高齢者虐待。

介護に疲れ果てた家族が暴力や放置に走り、独居高齢者は誰にも気づかれずに孤独死する現実があります。支援の手が差し伸べられることは少なく、声を上げられないまま命が消えていく。

その原因は何でしょうか?
「他人の家庭の問題に口を出すのは面倒だ」「自分だって忙しいのに余裕なんてない」――そうやって、問題が見過ごされてしまうのです。

 

また、職場や学校ではどうでしょうか? 

いじめやモラハラが目の前で起きていても、ほとんどの人が知らないふりをします。

「余計なことに関わりたくない」「自分がターゲットになるのが怖い」。

その結果、誰も助けず、いじめは深刻化し、被害者は追い詰められていく。誰か一人でも手を差し伸べていたら救えた命が、放置されることで失われることもあるのです。

 

こんな社会では、人々は「助けを求めることすらリスク」だと感じるようになります。

助けを求めても無視される、もしくは「甘えるな」と突き放される。だから誰も声を上げなくなる。そして孤独と不信感が連鎖していくのです。

これは次世代にも引き継がれます。「自分は助けてもらえなかったから、他人を助ける必要なんてない」という価値観が、子どもたちに根付いてしまう。

こうして支え合いの文化は失われ、社会はますます冷たく、不寛容になっていくのです。

 

誰も助けない社会は、人々を孤独にし、余裕を奪い、さらに助け合いを遠ざける負の連鎖を生みます。

いざ自分が助けを必要とした時、手を差し伸べてくれる人が誰もいない世界。そんな場所で、果たして私たちは安心して生きていけるでしょうか?

もちろん、全員が他人を助けなければならないわけではありません。

それは無理ですし、負担を強いるのは本末転倒です。けれど、誰も助けない状況が広がれば、社会全体が冷たさと孤独に覆われる未来が待っています。

 

 

ここまで、「助ける余裕がないときは自分を守るべきだ」という話、そして「誰も助けない社会が生む孤独と冷たさ」について触れてきました。

では、どうすればこの暗闇から抜け出せるのでしょうか?

 

答えはシンプルです。大きなことをしなくてもいい。

まずは、目の前でできる“小さな助け”を始めてみること。

 

例えば、あなたの周りに疲れた顔をしている人がいたら、「大丈夫?」と声をかけるだけでも良いのです。

その一言が、相手にとっては「誰かが気にかけてくれている」という安心感になります。

救急車を呼ぶような大事でなくても、日常の些細なやりとりが人の心を救うことだってあります。

 

実際にあった話をしましょう。

学校でいつも一人でいる子に、ある日「一緒に食べよう」と声をかけた子がいました。それだけのことで、その一人ぼっちだった子は「自分はここにいていいんだ」と思えるようになり、次第にクラスに馴染むようになったそうです。

その声かけにかかったのは数秒ですが、その子の人生を変えたかもしれません。

 

また、職場や家庭でも同じです。「ありがとう」「お疲れさま」といった言葉を、少し意識して伝えるだけで、人は驚くほど救われます。

何気ない会話の中で、「最近どう?」と気遣いを見せることが、相手の孤独感を和らげることもあるのです。

 

助ける行為は、決して完璧である必要はありません。

不器用でも構わないし、すべてに応える必要もありません。誰もが完璧を求めてしまったら、それこそ疲れてしまいます。

むしろ、少しぎこちなくても良いから、気にかけるだけで良いのです。その小さな行動が、意外なほど大きな力を持つこともあります。

 

そして何より、助ける行為は、実は助けられる側だけでなく、助ける側の心も温かくしてくれます。

他人に優しさを向けることで、自分自身が「人のために動けた」という自己肯定感を得る。それは、助ける行為のもう一つの素晴らしさです。

 

 

我々一人ひとりの小さな行動が、社会の暗闇に灯をともすきっかけになります。

その明かりは、少しずつ周囲に広がり、やがて助け合いの連鎖を生むでしょう。だからこそ、あなたができる範囲で、ほんの少しだけでも手を差し伸べてみてください。

 

 

「余裕のない人はまず自分を大切に」。それでいい。でも、誰かが余裕を持ったときには、その余裕を誰かと分け合う。そんな社会を、少しずつ作っていきましょう。それがきっと、助け合いを取り戻す一歩になるはずです。

あなたの小さな優しさが、誰かの人生を変えるかもしれません。そして、その瞬間、きっとあなた自身の心も救われるでしょう。

 

 

 

 

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