先日、足と腰骨を折る怪我をした知人を病院に見舞った。


彼が言うには、トイレに行きたいけれども行けない、


仕方ないので看護士に尿瓶でおしっこを取ってもらったとのこと。


でも、我慢を重ね、入院わずかで膀胱炎になってしまった。


また、便秘にもなり、結局、浣腸で取ってもらったとのこと。


見舞った頃には、車椅子で病室の簡易トイレにいけるようになっていた。


彼が言うには、「人間の尊厳は軽い」と。


わたしも経験があるので良く判る。


怪我や病気で病院のベッドに寝ることで、それは軽く吹き飛んでしまう。


太ももの太い血管からカテーテルを入れる検査のため、


パンツを脱がされ、毛をそられたこともある。あきらめるしかなかった。


しかしきっと、「人間の尊厳」は違うところにあるような気がする。


どんな状況でも、誰からも侵されぬ尊厳である。


その「人間の尊厳」とはなんだろうか


いまだ定まらず。



写真:富士通株式会社 サンプル



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「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。


馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます」とありますが、

自分の口を御することは難しい事です。


口にくつわをはめなければならないような人もいます。


「口は禍のもと」と昔から言います。


言葉は人を真に慰めたり、励ましたりしますが、


反面、人をひどく傷つける道具にもなります。


それをわざと使う人もいれば、知らずに使ってしまう場合もあります。


難しいですが、人を正しく生かすことが言える大人になりたいですね



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「はじける」は、最近では良い意味で使われている。


元気の良さを表すためにも使われる。


もとは、表面にひびが入ることから、〔草木の実などが〕内側から突き破るかのように、飛び散ること(火中の栗)、


恥も外聞も捨てること、失うことである。


見せてはならないものを見せてしまった、という恥さえもなくなったら

もうどうにもならない。


罪の意識がないのだから、恥がなくなったらどうなるだろう。


実存的な罪の概念は是非とも必要だ


(見つかって)「申し訳ありませんでした」という頭を下げるセレモニーを繰り返さないためにも。



写真:OCN サンプル



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「恥の文化」はしかし、この国にやはり根付いている。


最近では、頭を下げて謝ることがはやっている。セレモニーだ。


「多くの方々にご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」、と。


迷惑をかけなければ良いのだろうか。


誰かが知らなければ、謝らなくとも済むのだろうか。


ここでは、自分がしたこと、しなかったことの問題はない。


罪の概念が全くない。誰かが見た、知った、聞いたという恥のレベルですべてが片付けられようとしている。


この罪の意識がない限り、頭を下げて謝るセレモニーはわが国からなくならない。


あるとき、電車の椅子の上でピョンピョン飛び跳ねる子どもがいた。


わたしはそれを見ていた、この母親はこの子をどうするのだろうかと?


母親はその子に注意をした。「おじさんにしかられるから止めなさい」。


「ナンダト・・・・」と心の中で思った。


問題は他人の目なのだ。椅子がどうなるかという問題ではない。


そういう注意しかできない親がいることにわたしはその日グレタ



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日本は治安が良い、という数十年前までの評価があるが、


毎日、殺人事件が報じられるのを見てわたしはそうは思わない。


日本の治安の良さについては、


司馬遼太郎が『日本人と日本文化』の中で、それは日本人の「美意識」によるところが大きいというようなことを言っているが、もはやその「美意識」は破壊されている。


かつて、ルース・ベネディクトも『菊と刀』の中で、日本文化は「恥の文化」と呼んで、欧米の「罪の文化」と対比させた。しかし、「恥の文化」はもう終焉した。


あえて言うならば、宗教の規制のない「脈絡のない罪の文化」が既に始まっている。


「恥」という他人の目を気にするブレーキがなくなっている。勿論、宗教的倫理観もない。


他人の間にも、親子の間にもブレーキがなくなった。「恥の文化」はなくなったのである


ブレーキとなるべき宗教による倫理観が明確でない今の状況は救いがたい。


差別を作る儒教、神道が出てきてもらっては困る。



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「ガンバレ」という言葉が 「うれしかった」と、益に働く場合と、


ある人には「これ以上頑張れない」と、負担に働く場合とがある。


それで自死に至る場合もある。


「ガンバレ」はなんともない普通の言葉だが、


とんでもないことに働いてしまう恐ろしい言葉なのだ。


だから、この人には使えるかどうかを繊細に見極めなければならない。


辛(つら)い人にとっては友人から言われるのはまだしも、


上司から言われると、パアハラになってしまうことがある。


わたしはこの言葉を使わなくなって久しい。


言葉は両刃の剣である。



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わたしたちのうちに働いている良心は、為すべきことを勧める。


しかし、してはならないことを禁じようとする。


ところがそれらの誘惑に負けてしまう良心の弱さを持っている。


為すべきことをしたとき、平安な心になる。


たとえ誰も見ていなくとも、誰からも評価されなくとも。


してはならないことをしたとき、また怠ったとき、


自分に咎(とが)を感じる。


たとえ誰から責められずとも。


こういう素地を育てるには、幼児期からの大人の関わり方が大きな影響を与えるだろう。



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ラインホールド・ニーバーの祈り(20世紀アメリカの神学者)




主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと



変えられるものを変える勇気と



その両者を見分ける英知を我に与え給え



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人生は自分が書いた計画通りにはなりませんね。


計画変更が起きます。それを強いられます。


みんなその違いを修正しながらなんとか生きています。


自分の思い通りにはならない人生を歯を食いしばって生きています


中には、思い通り、という人もいるかもしれません。


でも、ほとんどの人は変更を強いられた旅路を歩んでいるのです。


「人生とは、中断の連続だ」ということわざもあります。


「不連続の連続」です。


理不尽だと思うことも起きるでしょう。


腹が立つことも起きるでしょう。


思わぬ変更、中断をしなければならない、それが人生です。



写真:T.I



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山本有三の詩

「たった一人しかいない自分を


たった一度しかない一生を


本当に生かせなかったら


人間に生まれてきた


かいがないじゃないか」



一生を燃やして生きるとしたならば


ろうそくの芯が自らを燃やし捨てて輝くように


そこには痛みがあり、自らのエネルギーの燃焼がある。


それがいやだったら、そんな人生に何の意味があるだろう。


人生は苦しみが伴う、


苦しみに恐れず前に進みたい



写真:T.I



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