石原都知事は五輪誘致運動のために150億円も使った。
それだけあれば、どれほどの保育園や老人施設を作ることが出来ただろうか。
どれほどの雇用創出を生み出すことが出来ただろうか。
どれほど困っている幼児を、シングル・マザーを、障害者を、老人介護を助けることが出来ただろうか。
石原都知事、早く夢から覚めて、苦しくて悲鳴を上げている社会に目を向けなさい。
写真:富士通株式会社 サンプル
「鳩山首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」の政治資金収支報告書に故人や献金の事実がない人からの献金があったと虚偽の記載がされていた問題で、東京地検特捜部が鳩山首相の担当弁護士を参考人として事情聴取していたことがわかった。
関係者によると、6日までに、特捜部の要請に基づき、鳩山首相の担当弁護士が参考人として事情聴取に応じ、資金管理団体の会計帳簿を提出したという。
会計帳簿には、収支報告書に名前が出ない5万円以下の「匿名献金」についても記載が義務づけられている。匿名献金は過去5年間で総額約1億8000万円に上っており、特捜部は献金の全容解明を進める方針。」
(日テレnews)
金のことはどうでもいい、という意見に賛成する。
問題は、雇 用不安を解消するために、
何が出来るかが重要だ。
東京地検特捜部は鳩山の金の問題が重要なのだろうが、
日本の雇用の問題はもっと重要な状況だ。
「末席に着く」ということが勘違いされています。
それは会衆席の最後列の席に座る、ということではありません。
何かの集会があると、大体後ろの席から埋まっていきます。
そして、前のほうが空いて、そこがさん然と輝いています。
「末席に着く」ということは時に、前列に座ることでもあります。
そこに座ってしまうと、もうどうにもなりません。
後ろの目があります。だらしのない格好もできません。
後ろの席は少し自由があって、出たり入ったりも割りと自由にできます。
小学生のときから、
わたしはそれほど背が大きくないのに、その自由な後ろの席を好みました。
それで成績もよくなかったと思います。
「末席に着く」とは招待されている場合のことです。対面式の会議などで、招待されていたらどうするかということ。
司会者があとで、「どうぞ前にお座りください」と言われるかもしれない。
そのときはそれに従えばよい。
「別の方が着ますので、後ろに下がってください」と言われたら残念恥ずかし。
ですから、会衆席のことではありませんし、会衆席は前列から座るべきです。
写真:富士通株式会社 サンプル
「忙中閑あり」(忙しいとは言っても、たまにはひまな事が有るものだ)と言います。
他人から見てわたしは「閑」ばかりです。
「閑」でいないと大事なことを思い出すことができないからです。
「閑」がないと仕事にならない、と言えるのでしょう。
「閑中忙あり」かな。
実際に忙しくても、「忙しい」と感じたり、言ってしまってはいけません。
すべてのときはわたしの一生を刻んでいます。
実存的歴史にわたしの人格的足跡をしっかりつけています。
ブログで「足あと」をつけたり、「ベタ」をつけたりするのとは違います。
わたしの実存的歴史をこの歴史に刻む一刻一刻の時間がいとおしいのです。
写真:T.I
新幹線が日本中を走り回り、一見便利になったかのように見えます。
家庭やオフィスにも学校にもパソコンなどが入って、便利品があふれています。
それではわたしたちは、それだけ暇になったかというと、その逆です。
情報が多すぎることによって、そわそわし、堂々巡りもし、「何を探しているのかわからなくなっている」(『星の王子さま』)のです。
最近、用があってある項目をPCで検索しているが、うまく出て来ない。
何日も堂々巡りをして、そのことに費やした時間は自分の本来の仕事を忘れるほどでした。
時間は貴重です。
いくらたくさん使えても、正しい目的、目標がなかったらならば、それは無駄に消えて行きます。
生命のこもった時間にはなりません。
生命のこもった時間、わたしたちはどれだけ過ごしているでしょうか。
それは商売がうまく行っている、どこに旅行した、演奏会に行った、映画に行った、どこかに食事に行ったということでは得られないのです。
路傍で死に行く人の友になったマザー・テレサのように、隣人を愛することでしか生まれない時間です。
人と人とに優しい時間なのです。
ミヒャエル・エンデが書いた『モモ』の中にこう書かれている、
「人間は、自分の時間をどうするか自分で決めないといけない。
時計というのは、人間一人一人の胸の中にあるものを、きわめて不完全ながら、
まねて型どったものなのだ。光を見るのに目があり、音を聞くために耳があるように、
時間を感じるために心がある。もし、その心が時間を感じ取らないような時は、
その時間は無いものと同じだ。」
ところが実際は、時間に追いかけられたり、縛られたりもする。
そうやって時間はわたしたちを振りまわす。本来そうではないだろう。
時間を感じて、意思のもとにもっと実存的に時間を生きたい。
ただの時間とその出来事の経過をヒストリー(歴史)と言う。
しかし、実存的に生きた時間をドイツ語では「ゲシヒテ」(実存的歴史)と言う。
写真:T.I
人間の幸福感と時間とは深く関係があります。
時間が足りないとする不幸あり、逆に持て余すほどの時間を感じる不幸もあります。
しかし、時間そのものに責任は無い、それは誰にでも平等に時を刻む無機的なものです。
それをどう感じるか、どう扱うかは一重にその人自身にかかっています。
その人によって輝きもし、また掃いて捨てるゴミにもなります。
ある人は仕事の忙しいさなか良く本を読んでいた。
引退したらじっくりと読むことができると期待して言っていたそうです。
そして、引退した。彼はたくさんある時間の中で、もう本を読まなくなりました。
本を読むことの気力を全く失っていました。不思議なことです。
彼は忙しさの中で寸時を惜しんでなんとか本を読んでいたことに充実感がありました。
多分、わたしも同じようになるのかなと、おびえている、少しだけ。
OCN サンプル
言葉を選んで使う、そういう心遣いが大切です。親しくなるとついその辺がぞんざいになってしまいます。
口を開けたら機関銃のようにしゃべりまくる人がいますけれども、
聞いていて嫌な言葉がたくさん出てきます。
本人はあまり気にしていないのでしょう。
自分がされた痛みを他人にはさせまいと言う優しさが大切です。
「何ぶってるの!」と批判されるかもしれませんが、
口にしてはならない言葉を飲み込んでしまう高貴な心が大切です。
でも、つい雰囲気に負けてしまう弱い心でもあります。
愛すべき人々よ、「高貴な心」であることを忘れてはなりません。
それを保つには、「意志の力」が必要です。
しかし、この力は簡単には手に入りません。
写真:T.I
言葉を口にするまでは、わたしたちは言葉の主人であるはずなのに、
一旦口から出してしまうとなんと哀れなことか、
取り返しの付かないことになってしまい、まるで言葉の奴隷になってしまいます。
「覆水盆にかえらず」と言いますね。
どんなに親しい親子や夫婦関係でも、決して言ってはならない言葉があるはずです。
それはどんなに時間がたっても、癒されないほどに相手を傷つけてしまいます。
「人間の尊厳」はその辺にあるのかもしれません。
わたしはあからさまに人を批判する勇気を持たない優柔不断な人間です。
そうできる人がうらやましくなります。時に、それは必要なのかもしれません。
でも、怖いのです。もし、これでその人が傷ついたらどうしよう、と思ってしまいます。
もしかしたら、それでその人を真に生かすことにはならないのではないかとも思います。
自分が悪く思われたくないのか知れません。言うべきことを言う、人間にもなりたい。
写真:T.I








