人それぞれの人生があります。


あんな生きかたがいいな、と思っても、


まねをしようと思っても少し無理なのかもしれません。


わたしはわたしの世界を生きればよいのではないでしょうか。


他の人のように旅行の思い出を語ったりできないかもしれません。


だれかれのコンサートに行った話しをできないかもしれません。


あるひとには病院での思い出、闘病生活の思い出しかないかもしれません。


また、ある人は貧しい生活に追われ、blogなんぞやったことも、


こんな文章を読んだこともないかもしれません。


人それぞれの世界を生きる


人生はそれぞれの戦いです。


他人の生き方をうらやんでどうしますか。


わたしの戦いをして生きていく、それで良いのでしょう。



写真:富士通株式会社 サンプル



Tillichのブログ

人生の一回性、いまはやりの言葉で言えば、一期一会です。


同じことは二度はないのです。似たようなことはあるでしょう。


正しい歴史は繰り返さないのです。


同じようなことは経験したことがありますが、まるきり同じことはないのです。


詐欺をしようとすると同じことになります。


詐欺事件を二度経験したことがあります。


昔、

北海道
で重いバックを肩にかけ、片足の不自由なある壮年が尋ねてきた。


これこれこういう事情で財布を落としたが、どこどこに住む娘のところに行く

途中で困っている。なんとか交通費を工面してほしい、と言う。知り合いの名刺まで出した。


給料が少ないときだから、少ししか上げれなかった。


数年後、わたしは四国に転勤になった。すると、同じ人が、同じ口上を使って金の無心に来た。


まさかわたしが四国にいるとは思わなかっただろう。あきれた。すぐに帰ってもらった。


同じ頃、別のある青年が、自転車旅行をしているが、事故で金を使ってしまって帰れなくなった、と言って金を無心に来た。怪しいと思って追い返した。


なんと、その人物が翌年に同じ口上で無心に来た。


あちらこちら行っているうちにどこへ行ったのか忘れてしまうのでしょうか。トンマな奴だなあ、と思いました。


詐欺は別にして、もう二度とはない出来事、出会いの中にわたしたちは生きています


大切にしましょう。


写真:T.I 牧草



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仕事を失敗して、周囲が出す言葉は、「頑張れよ」とか「また、チャンスがあるさ」ぐらいである。


わたしたちは成功談よりも失敗談のほうがより勉強になることが多い。


だからそんなときは、「いい仕事をしたな」と、ユーモアで励ましたい。


学生のとき、成功談ばかり話す講師がいて、1年間うんざりだった。


オールポート(19世紀の心理学者)は「ユーモア」について、


「自分の愛する者を笑って、なおかつ、愛し続けることのできる能力」と定義した。


ユーモアは愛がなければ出てこないし、出してはならない。


自分の最も愛する者、つまり自分自身を「バカな奴」と笑いながら、


しかし、軽蔑したり、いじめたりすることなく、いとおしみ、育てていこうとする愛である。


それができないと、失敗もそれなりに評価し、真実に、ユーモアを使って他人を愛するという事ができない。


日本人はアイロニー(皮肉)は、にくいほど得意だが、失敗した他人を生かすユーモアがない



写真:T.I



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エーリッヒ・フロムと言う人が、「愛するということは、

単なる強い感情のことではない。


それは、決意であり、判断であり、約束である」と言っています。


そのことをいま、しみじみかみしめています。


対象が持っている表面的なものに魅せられて、


それでほとばしる感情のことではない。


それはちょうど美人を見て魅せられて、顔を赤くするのに似ている。


そうではなく、自分の内側からにじみ出てくるようなもの、


人知れず決意があり、正しい判断へと直視し、また死をかけた約束があります。


きっとそれはものすごく地味で、時には己を搾り出すようなものではないでしょうか。


だから、愛することに苦しみが伴います。誰もそれを美化することはできません。


愛は他人を生かすために、苦しみを持つのです





写真:T.I



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今年もキューイは実のならかった。


その代わり葡萄が実った。


去年は駄目だったのに。


とにかく日照時間が酷く少なかった。


ラズベリーとブラックベリーはジャムが作れるほど取れた。


クモの巣がすごかった。邪魔するヤツはいるわけで。


ブルーベリーは2,3粒食べたが収穫時期を逃した。


人間も太陽がないと屈折したり、実らなかったり。


希望がないと、と言うか、何に希望や目標を置くかで成長するんだろうな



写真:富士通株式会社 サンプル



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知人がガソリンスタンドで車を洗車してピカピカにした。


その車のドアを開けて乗ろうとしたら、中はごみだらけ、汚い。


人間もそんなもんだろうか。


外側は綺麗だが、中は汚れている。


どうしても、他人の目にはいるところだけを磨いてしまう。


他人には見えない中身を磨くことを忘れるか、おろそかにしてしまう。


一番大事なものは目には見えないのだ。


心は見えない。



写真:T.I



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アメリカでのかの9.11のあの出来事の背後に神はいらしたのかどうか。


わたしはいなかった、と言う。(いたかもしれない)


何故ならば、あの出来事は世界の人々が神を忘れ、


神から離れ、人間の実力で何でもできると浮かれてバベルの塔を作ろうとしていた罪への警鐘であるからだ。


その後、わが国でも、偽証詐称事件が相次いだ。


人間は、儲けるためには何でもする


自分もそうではない、とは断言できない。


わたしは正義に満ちてはいない。正義とは何か。時の状況で変えられえる。


国家の崩壊、政党の崩壊、社会の崩壊は必ず起きる。


人間が自ら招いた金権主義の崩壊である。


あの事件後、アメリカの教会の礼拝人数が極端に増えたと言う。バカらしい。


人間の愚かさだ。


日本では葬式の人数が増えるだけだろう。



写真:富士通株式会社 サンプル



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正義に生きるためにはいつも自分を吟味することが必要です。


「吟味する」とはどういうことでしょうか。


自分を「試みる」とか「調査する」ということです。


自分は何を持っているのか、いないのか、何処に立って生きているのか、


まず詳しく調べなさい、ということです。


その結果何が出てくるのか、


そういうことをしたくない、面倒だ、


いまさら仕方がないという思いがわたしたちの正直な気持ちでしょう。


でも、それは自分を堕落させるだけで、何の益も生み出しません。


自分をいつも吟味できる、やわらかい心を持ちたいですね



富士通株式会社 サンプル



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しかし現代の問題は、自分は弱い者だとして、


れを隠れ蓑にして強い者の同情を買おうとし、


自分のなすべきことを放棄しようとするようになってはいけない。


弱い者は強い。


自分の弱さを出す者は、実は強情なのである。


わたしたちは互いに受け入れあう。


受け入れることが出来ない人がいるということは、


その人は誰からも受け入れられていないことになる。


受け入れあう


このことは現実にかなり難しいことである。


受け入れあう、共に社会的に生きることの原点



写真:読売新聞mixi 090828



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挨拶に思想性が現れる。


日本語の「さようなら」「それならば」とか「御免なさい」というわけの分からない言葉が元であるけれども、


多分、良く解釈して、「また会いましょう」ということか。


チョットよくなる。See you again の英語と同じ。


直接的過ぎる。


good luck (幸運を)はいい。


スペイン語で「さようなら」adiosアディオス」


直訳すると「神共に」というステキな言葉。


ギリシャ語で「ごきげんよう、さようなら」は古代、


「喜びなさい」cai,rete(カイレーテ)であった。


これもステキな言葉。


他にもあったら教えてください。



写真:OCN サンプル



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