民主党を批判するために自民党も公明党も ネガティブ・キャンペーンを張ったという。
ネガティブ・キャンペーンは日本人には相性が合わない。
馬鹿なことをしたと思う。
自分で自分の足を引っ張ったようなもの。
民主党を批判するために自民党も公明党も ネガティブ・キャンペーンを張ったという。
ネガティブ・キャンペーンは日本人には相性が合わない。
馬鹿なことをしたと思う。
自分で自分の足を引っ張ったようなもの。
人間的に言って常に喜んでいることなどはできない。
わたしたちは人間である限り、笑うこともあるが怒りもし、悲しんだりもする。
「常に」などは出来ない。アホでなかろうかとさえ思う。
常に喜ぶことなどできるだろうか。
ある夫婦のインタビューで、一度も喧嘩をしたことはない、と言う。
うらやましいだろうか。わたしはかなり気持ちが悪い。
それは実存をかけてぶつかったことがないだけだ。
実存をもってぶつかれば夫婦だから必ず軋轢が生じる。
男と女の何が平等化といえば、この実存である。
他にもある、と言う人がいるかもしれないが。
実存のないただ可愛いとそばにいるだけの女は愛せない。
写真:OCN サンプル
もし、わたしたちが自分を最低の人間だと思うならば、
また、自分の人生が空しさの極みにあると思うなら、
更にまた、自分の人生が最も苦しく悲しいものであると思うならば、
本当は、人間存在は皆そうなのだ。
自分のうちに何がしかの可能性、期待や希望があるならば、
それでもって生きることができるし、それでもってやってみればよいだろう。
しかし、絶望を見るだけである。
生きる勇気がなければわたしたちは生きられない。
それが愚かであっても、空しくあっても、やるしかない。
富士通株式会社 サンプル
テレビで有名な人たちが占いをやっていて、答えをポッと出してくれる。
自分は何も考えなくても良い。
しかし、自分の大切な一生を自分では何も考えない占いに、
よく任せることが出来るもんだ、とわたしは不思議でならない。
生きることも、愛することも、自分で決断したい。
自分に責任を持つのは自分しかない。
失敗も成功も自分の決断で味わいたい。
それを実存的という。
実存的生こそ真に喜びも悲しみをもある。
写真:富士通株式会社 サンプル
わたしたちは他人を裁き、批判して生きようとする。
ある人が、自分の親は町の誰かのことを茶請けにして、
朝から晩まで批判するのが日課だった、という。
その町では、だれかれの足の指の数まで知られているという。
そのような人は神の前で弁解の余地はない。
他人を裁きながら、実は自分をその罪に定めているのだ。
よく考えてみれば、人は同じようなことをしている。
他人を裁きながら、実は大差ないことをしているのだ。
だから、裁くことよりも愛することを大切にしよう。
たとえそれで噛み付いてきたとしても。
愛することは借りを作らない。
敵を愛することはできそうもない。
しかし、一緒にいることはなんとかできそうだ。
一緒にいる、それが愛することの始まり。
写真:T.I 清里町 サクラマス
社会に求められることは、驚くべきこと、
互いに仕え合い、互いに愛し合うことである。
しかし、現実は、皆お客様のようになって、
仕えることよりも、仕えられることを待ち、
愛することよりも愛されることを待ち、
それがないと、この社会には愛がないと言う。
あかの他人が仕え合い、愛し合うことは何と難しいことか。
不可能に近い。
第一、他人が「仕え合う」という発想すらない。
愛がないのは仕えられることを待ち、
愛されることを待っているあなたである。
自分が誰かを愛すべきことを棚に上げている。
仕えられることではなく仕えることを、
愛されることではなく愛することである。
受身の人生は十分な人生ではない。
写真:T.I 清里町 サクラマス
人それぞれ違うが、何らかの形で感謝を表している。
「あふれるばかりの感謝」、それは他人が見て驚くばかりの感謝ことである。
わたしたちはなるべく平静な日常を望んでいる。
しかし、それはとても寂しいことだ。
人生には感謝の驚きが必要である。
よく歌われる「アメージンググレイス」という歌は、曲が綺麗なのでよく使
われるが、これは神の驚くべき恵みを歌ったものである。
ある人は、人生には良い驚きが必要だ、と言っている。
感謝の念が起きるためである。
この労苦の多い時代に、驚きと感謝に満ちた者を見ることは、
他の多くの人々には驚きである。
感謝、これが人生のバロメーター、それによって多くの人が驚く。
ありがとう、と言える感謝の心、それは驚きをなくすと消え去る。
「あふれるばかりの感謝」をもって生きる人になりたい。
写真:T.I 清里町 サクラマス
宇宙のすべてが変化し、生と死が繰り返され、
一つとしてひとつところに永遠に留まることはない。
森羅万象、有為転変の世界である。
何が真実を示してくれるのか、宗教か、禁欲主義か、倫理・道徳か、
現代の医療、福祉、教育に大きな貢献をしているカトリック教会の修道院も発端は禁欲主義である。
金銭、食べ物の欲から遠ざかって信仰を得ようとした。
しかし、それで真実が見えるのではない。悪も含む。
修道院は現代の医療に、福祉、教育に多くの働きをしている、
また、アシジのフランシスコやマザーテレサなどを輩出している修道院をわたしたちは批判できない。
何が真実を示してくれるのか。だれも分からない。
人はそれらしいことを言う しかしすべては曖昧 絶対は人である以上あり得ない。
人はその信じる道を行くしかない。
真実を追って生きること、必ず素晴らしい生涯になる。
人はその信じるところのものになるからだ。
写真:T.I 清里町 サクラマス