野良ニャんwwwエサを置いたらいつのまにやらやってきたwwww 

 

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野良ニャん3 野良ニャん4  愛想もクソもないけれど、いろんな表情や行動でわらかしてくれますwww 意外とオマヌケなんだなwwwww
        

ジョン・エドガー・フーヴァーJohn Edgar Hoover, 1895年1月1日 - 1972年5月2日)は、アメリカ連邦捜査局(FBI)の初代長官である。

ワシントンD.C.生まれと自称していたらしいが、生い立ちの詳細はほとんど知られていない謎の人物。出生証明書は1938年までファイルされなかった。よく知られる初期のプロフィールは、ジャーナリストのジャック・アレグサンダーが1937年にニューヨーカー・マガジンに執筆した物による。

高校卒業後、アメリカ議会図書館で働きながら夜間にジョージ・ワシントン大学で法律を学び、司法試験に合格した。学生時代に「カッパ・アルファ・オーダー」のメンバーとなった。 1924年5月10日にFBI長官に任命され、1972年に亡くなるまで長官職にとどまった。就任当時のカルビン・クーリッジからリチャード・ニクソンまで、8代の大統領に仕え、現在に至るまで合衆国で、最も長く政府機関の長を務めた人物である。なお以後のFBI長官任期は、10年に制限されている。

FBIを大きな影響力を持つ組織へと創り上げた点で称賛されるが、一方で自らの権威を盾に、有名人に対する諜報活動や恐喝に加え、政治的迫害を行ったことを始め、(晩年の時点で)その巨大すぎる権力行使は、大きな非難を受けていた。俗称ミスター・アンタッチャブル。

司法省からFBIへ

大学卒業後、司法省に入省し、在留敵国人登録課長としてその有能さをすぐに証明した。1919年に司法省の新しい諜報部門の長となった(組織犯罪パーマー襲撃)。1921年には捜査局副長官、1924年に長官に就任した。1966年にFBI長官としての功績に対し栄誉賞を受賞した。

フーヴァーが捜査局長官に就任したとき、441人の特別捜査官を含むおよそ650人の職員が在籍していた。彼はそれまで予算も少なく腐敗した弱小官庁だったFBIの組織改革に意欲的に取り組んだ。職員の私生活を調査し、不倫・同性愛・借金、さらには体重などを理由に次々に職員を解雇していった。代わりにアメリカ全土から優秀な警察官を採用した。ただ、フーヴァーは人種差別主義者であり、当時のFBI捜査官に有色人種をほとんど起用しなかった。捜査局は1935年に連邦捜査局として変革改名され、1939年にはFBIが国内の諜報分野で卓越した能力を持つことになった。彼がいつも気にしていたにはその検挙率であり、常に数字を気にする小心者でもあった。

Official and Confidential(公式かつ機密)

フーヴァーは人々の情報、特にFBIの記録とは別に非公式に政治家達の情報を収集してファイルに収録することでその影響力を蓄えていった。アメリカ大統領を筆頭にした政権の閣僚のスキャンダルも収録していたので、大統領さえも彼に手を出せなかった。『大統領たちが恐れた男』の原題であるOfficial and Confidential(公式かつ機密)は、フーヴァーが収録したファイルの名前を元にしている。「フーヴァー・ファイル Files of J. Edgar Hoover」には、有名人に対する恐喝や政治的迫害が記録されている。

リンドン・ジョンソン大統領は、自分が上院議員だった頃の電話を盗聴したのかフーヴァーに何度もしつこく電話で尋ねているし、(ジョンソンはフーバーの隣に住んでいた)。ケネディ大統領は、海軍に勤務していた20歳当時、女性との性的な関係を実際に盗聴されてしまった。

政治家からの追及

1960年代の始め、上院議員のエドワード・ロングは聴聞会を開き、FBIの盗聴を追及した。フーバーはこれに激怒し、彼に命じられた側近とFBI捜査官の二人が、ロングのスキャンダルをいくつか収録した「公式かつ機密」ファイルを本人に見せに行った。以後、ロングの追及は尻すぼみになり、以降、彼の政治的活動は終焉を迎える。

ジョン・F・ケネディもフーヴァーを免職しようとした。フーヴァーはすぐにケネディのもとに行き、もし免職したら自分が持っている情報(ケネディの弱点である女性問題や、マリリン・モンロー、自らも親しいサム・ジアンカーナなどの組織犯罪との関係)を公開すると言い放った。弟ロバート・ケネディが司法長官として立ち塞がりFBIを厳しく締め上げたとき、フーヴァーの片腕のクライド・トルソンは「誰かが奴を撃ち殺してくれればいいのに」と言い残している。  FBIはケネディ暗殺時、シンジケートとCIAの組織した暗殺実行部隊を市警からガードし、(本来大統領暗殺は市警の統括)ヒットマンを現場から逃がし、捜査権をムリヤリ市警から奪い取る行動を示した。 その証拠に当初ダラス市警のセイモア・ワイズマン巡査がTSBDの6Fで証拠物件であるモーゼル狙撃銃とバレット3発を押収したが、24時間後、そのニュースはぴたりと止まり、イタリア製狙撃ライフル、マンリカ・カルカーノが暗殺使用ライフルであるとFBIからアナウンスされた。 セイモア巡査は銃の専門家であり自説を曲げず、その後、FBI直轄の精神病院に強制的に入退院を繰り返され、最後には自殺している。

1972年、フーヴァーの死の直後、フーバーから見れば弟分のリチャード・ニクソン大統領が部下に命じてフーヴァーの書斎を調査させた。その「遺産」の内容を見たニクソンは激怒したと言われている。フーヴァーの死後、秘書のヘレン・ギャンディが非公式の「遺産」を処分するのに数日を費やした。昼夜を分かたず、現職大統領とその秘書が元FBI長官の庭で秘密書簡類を燃やす鬼気迫る光景.......これで、アメリカの真実の大半が失われて行ったのである。当時ニクソンはウォーター・ゲート事件、ベトナム戦争で追い詰められており、部下から100万ドルの恐喝を受け、なおかつ、自身の発言記録「ホワイト・ハウス・テープ」の削除に躍起になっており、「狂人」状態だったいう。

組織犯罪との関係

競馬など賭博好きのフーヴァーは、当時勢力を強めていたこともあり、存在感とともに非難が高まっていたものの、賭博に強い影響力を持っていたフランク・コステロやサム・ジアンカーナ、メイヤー・ランスキー、ジョニー・ロゼリなどの組織犯罪・シンジケートの存在すら認めず、「FBIの管轄外である」として強い態度に出ることはなかった。要は検挙率の低下を嫌がったのであり。司法長官として君臨したロバート・ケネディに対する反発もあった。決定的なことには組織犯罪から収賄があったことである。

私生活

フーヴァーは強烈なソドミィ(男色)であり、服装倒錯者だったというのは有名である。キューバがまだ革命前などには良くメイヤー・ランスキーやサントス・トラフィカンテの招きに応じ、毎夜少年を抱き、貪ったという。

フーヴァーはFBIのアシスタント・ディレクターであったクライド・トルソンと40年以上の付き合いがあり、彼らはしばしば共に休暇を取り、毎日昼食を共にとっていた。トルソンとの関係を証明する写真を組織が所有していたという。また、彼らは両方とも生涯独身であり、フーヴァーは1938年に母親が亡くなるまで同居していた。

フーバー

 今日11/23は故ケネディ大統領の命日だったが、相も変わらずABCやCNN放送はリー・ハーベイ・オズワルド犯人説を頑なにプロパガンダし、あの日はクーデターであったことを否認し、躍起になってもみ消そうと必死になっていた。(雄一NBCだけは陰謀説を支持している。)、それより気になったのはアメリカ共和党大会の様子だった。 皆、一様にバラク・オバマ現大統領の「弱腰」外交戦略を痛罵し、ある立候補議員などは「我々はイランと北朝鮮の2方面に軍事展開し、圧倒することが出来る。」と豪語し、「強いアメリカを取り戻せ!」と演説していた。 現実、そんなことになったらどうなることだろう? 金は財政破綻でないし、これ以上重税を課すことはアメリカ国民は許さぬだろう。あるいはイラク戦争同様、国連をねじり伏せ、イラン、北朝鮮にも罠を仕掛け、経済制裁で絞り上げ、仕掛けさせるかのように仕向けるシナリオが出来ているのだろう。 2012年、民主党側の現オバマ政権は2期目を狙うだろうが、過去の実績としては長い間アンタッチャブルだった医療制度改善に成功するだけで精一杯で、後はブッシュ政権の不の遺産の後始末、イラク統治問題、アフガン問題、北朝鮮問題、インド、中国、パキスタン、ASEAN、ギリシャ債務など振り回されてばかりで、就任当初のパワフルなイメージや余裕ある言動がまったく影を潜めてしまっている。 もし、彼が2012年、2期目を見かえるとしたら? 彼自身全米1000を超える団体、セクト、黒人宗教団体から莫大な献金を受けており支持基盤は固い。彼はいやいやながら共和党に妥協しながらイラク、アフガン駐留を続けており、「ブッシュ政権の轍は絶対踏まない。」と言い切っており、2期目に入れば、さっさと実行するだろう。 この状況はキューバ、ベトナムをまさに失なおうとする様に近く、WASP共からすれば、「レッド・イスラム世界より人類滅亡の方がマシ」論を絶対認めないだろう。 かつて共和党がリチャード・ニクソンを主軸として回転していたように、やがて時が立てば強力なライバルが現れた時、オバマ大統領の命を保障できる可能性は低い。


メイヤー・ランスキー

 
メイヤー・ランスキー
(Meyer Lansky, 1902年7月4日 - 1983年1月15日)はユダヤ系ロシア人のギャング。本名はマ           イェル・スホフラニスキ(Majer Suchowlański)。幼い頃からの友人であるラッキー・ルチアーノの右腕として活躍する。ルチアーノ帝国の財政顧問。ルチアーノとはシンジケート犯罪史上重要なパートナーシップを組む。身長は低く160Cm前後で愛称は「リトル・マン」。調整役に徹することが多かったため地味な存在に見えるが、長年にわたってシンジケートの重鎮として君臨した大物中の大物である。

プロフィール

当時ロシア帝国領だったグロドノ(現・ベラルーシ)でポーランド系ユダヤ人の両親の間に生まれる。1911年、家族とともにアメリカに移住してニューヨークに定住した。 この時、ラッキー・ルチアーノと出会う。当時ユダヤ人の用心棒をやっていたルチアーノが、小柄だったランスキーに目を付けて自分を雇わせようとしたのが発端で、ランスキーはむしろ用心棒など要らないと突っぱねた。ルチアーノは、ランスキーが、体格で大きく上回る自分に対しても断固とした態度をとってきたことに驚いたと言う。以降無二の親友となる。また、1920年にはベンジャミン・シーゲル("Bugsy" Siegel)とも親交を持つ。

アーノルド・ロススタインの弟分で、彼の死後組織を継ぐ。カナダのサム・ブロンフマン・グループとニューヨークを結ぶ仲介人の役割を果たしていた。

1931年にルチアーノの組織支配に協力し、同じくユダヤ系の大物ギャング、ルイス・バカルターや弟分のシーゲルと共に「マーダー・インク」(殺人株式会社)と呼ばれる組織を設立。暗黒街のおける暗殺ビジネスを請け負う。

1930年代に毎年8月に競馬が開催されるサラトガスプリングにルチアーノ、フランク・コステロらシンジケート・メンバーと行き、そこでカジノ経営のノウハウを覚えた。彼は非常に頭の切れるドンで、ものの見方が幅広かった。教養もあり、賭博についても独自のプランを持っていた。

その後、1936年までにはフロリダ、ニューオリンズ、さらに1930年代後半にはアメリカ当局の手の届かないキューバにも投資しカジノを作った。賭博場開設の許可を取るためキューバの独裁者のフルヘンシオ・バティスタに300万ドルさらに毎年300万ドルを支払う取引をした。 結果的にキューバでのギャンブル事業で成功したのである。他にも競馬場、私設馬券場、競馬通信社を乗っ取り、掛け率をコントロールして莫大な利益を得た。

1938年フランク・コステロとランスキーは25万ドルの秘密基金を作り、ニューヨーク州知事を得ようとしていたトーマス・E・デューイを支持した。彼は選挙資金としてその金を受け入れた。その年の選挙には敗れたが、それから2度と彼らの脅威にならなかったという。

友人のシーゲルがフラミンゴ建設の話を持ちかけてきたときに、他のドンたちに資金集めを頼むが断られる。はじめに興味を持ったのは、当時スロット・マシン王と呼ばれていたコステロぐらいだった。

キューバでのバハマ会議のとき議題がベンジャミン・シーゲルのことになったときフラミンゴの再オープンまで待ってやってくれとかばった。友人シーゲルのラスベガス進出失敗を擁護したが、1947年、シーゲルは組織によって抹殺された。  その間、いわゆる、麻薬取引の中継所の場としてハバナを使用、フレンチ・コネクションをニューオーリンズのドン、カルロス・マルセロ、マイアミのドン、サントス・トラフィカンテ、シカゴのドン、サム・ジアンカーナ、ラスベガスのドン、ジョニー・ロゼリらと構築、莫大な利益を得た。

1959年1月にキューバでバティスタを追放したフィデル・カストロが政権を取り、カジノが閉鎖されたとき1700万ドルを損したという。その失敗から政治の不安定な海外よりアメリカ国内で合法的な賭博場を作ったほうが良いと考え、シンジケートのラスベガス進出を推薦した。さらにランスキーたちシンジケートの幹部たちは、シンジケートがキューバから追い出されると「カストロを消した者には100万ドルの賞金を出す」といった。

1958年、ケネディ政権が誕生し、暫くしてキューバが共産化していくのを危惧していたCIAや陸、海、空、各軍部はキューバ奪回作戦「ピッグス湾上陸作戦」を決行、しかし、米軍投入の軍部の要請にケネディは断固拒否、結局キューバはシンジケートの手から離れることになった。 当然、メイヤー・ランスキーを始めとするシンジケート・メンバーは激怒、ケネディとカストロに対する憎悪は「俺の靴の中から石を取れ!」という、ランスキーのセリフからも察することが出来る。 結局、1961年11月22日、シンジケートのドンの一員である、サム・ジアンカーナに「契約」が与えられ、彼ののもとからヒットマン3人とCIA側が組織したキューバ人ヒットマン3人がFBIに護衛されながら位置につき、モーゼルの狙撃ライフルにて暗殺が実行されたのである。 ケネディ暗殺後は、ラスベガスで大きな権力を誇った。ラスベガスでは組織同士が抗争を起こさないように仲裁役になっていた。ラスベガスでは彼の言葉がそのまま法律だった。まわりは彼のことをミスター・ランスキーと敬意を払って呼んでいた。

1960年代、麻薬密輸、売春業、恐喝、ホテル・ゴルフコースへの投資によって判明しているだけで3億ドルを儲けたと言われる。1970年に脱税容疑を受けてイスラエルに逃亡したが、2年後国外追放されてアメリカに強制送還されたがまもなく釈放され、1976年に病気と老齢を理由に告訴は取り下げられた。このときアメリカ政府は中南米の一部の国にランスキーを入国させないように圧力をかけたという。

ランスキーのシンジケートにおける立場はあまりにも幅広く活動しておりFBIでさえ買収されており実像は不明である。FBI長官エドガー・フーバーを「変態野郎」と呼び、リチャード・ニクソンを「小僧」、CIA長官リチャード・ヘルムズを「手下」、ハワード・ヒューズを「マザコン」、ロックフェラーⅡ世を「坊ちゃん」と呼び、並び立つもののない化け物というしかない。さらに、シンジケートの重鎮でいながら犯罪歴がないいわゆる「ミスター・ノーマーク」でもある。

ドンには珍しく数字に強く、経済学の研究書を読み、経済感覚が秀でていた。彼はマネーロンダリングの創始者であり、事実上資産の大半は世界に合法的財団として分配貯蓄され、その実態は不明である。

後年はマイアミに住み、自分の投資したホテルの近くを散歩したりしていたという。1983年1月15日、ランスキーは表向き4億ドル以上の財産を残して肺癌で死んだ。

先日、某TVで現代資本主義の象徴、ウォール街証券取引所の実情が暴露されたドキュメンタリーが放送されていた。 それによれば、あらゆる投資家達はウォール街証券取引所になるべく近くに居住し、高性能PCを備え、光ケーブルを敷設された環境から有価証券の売買を行う。 しかしながら、近年コンピューターシステムの高速化、アルゴリズムの高度化により、「FLASH CRASH」と言う現象が多発し、わずか1000万分の1秒のうちに売り注文が出され、次の瞬間、最低まで落ちたその銘柄が、買い戻されるという現象が起きるというものである。 2010年5月某日、30分にわたりこの現象が起こり、全銘柄平均ー$700もの値下げを記録したが、なぜか取引停止にならず元の金額まで戻すという怪現象があった。この日の損失は約$9000億にのぼるとされる。 早速、調査委員会が組織され、活動を開始したが、その結論は興味深いものであった。 報告書によるとミネソタ州にある、某投資ファンド会社がまず売り注文を仕掛け、買い注文が入りそうになると、またうり注文を出す。を繰り返し、底値になった瞬間、買い注文に転じる、と言うものだった。 このアルゴリズムは天文物理学計算から派生したもので、スーパーコンピューター10台以上の稼働環境が想定されている。この会社はこの1日で$90億の売り上げを上げたと憶測されている。 証券取引所の周囲にはシンジケートメジャー系投資会社が軒を連ね、少しでも車でも止めようなら警備員がやってkる。 メジャーシンジケート証券会社を辞め、アナリストになった人物が言っていた。「もはや証券取引で資金調達の意義は失われた。資本主義は死んだ。人の手を離れた、ただのBLACK BOXになったんだ。」 次にこうも言っている「私はカードも有価証券も国債も信用していない。現金だけだ。金を稼ぐ方法?農業でもやったら?」

 

パレードルート

 
毎年恒例、11月23日になるとケネデイ暗殺の話題がABCやCNNで特集されるから私も書く。 1963年11月22日、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディはジョンソン副大統領、コナリーテキサス州知事各婦人等とともに、オープンカーに乗り、ダラス市街をパレードをしていた。 しかし、オープンカーがエルム通りを左折した時点でオープンカーのスピードは停止状態になった。  その後、オープンカーは30Km程度に加速したがその直後、まず前方からケネディ大統領の首の真ん中に1発命中し、2発目は背後からケネディ大統領の右肩内側に命中した。 3発目は背後からコナリーテキサス州知事の右ひざに命中、知事は「皆殺しにされる!!」と叫んだが、運転手のシークレット・サービスマンのロイ・ケラーマンとウィリアム・グリアには何も動きはなく、そうこうしているうちに4発目が後方から発砲されたが、これはまったくはずれて跳弾となり、見物人の一人に傷を負わせ、直後、右前方から発射煙が上がると同時に苦しむケネディ大統領の右頭部を吹っ飛ばした。 この時点で、シークレットサービスマンのクリント・ヒルがオープンカーに取りつき、取り乱すジャクリーン夫人を座席に押し込み、そして、全てが終わったかのように急加速して現場を離れた。 パレードルートは前夜変えられていた まさに、3点交差射撃戦術の罠に嵌めるようなもので、射撃する方から見れば七面鳥打ち気分の仕事だったろう。 だが、一体誰がこのような有利な射撃に有利な条件に持っていったか?その権限を持つ者は? それは、アール・カベル、ダラス市長だった。彼は元CIA副長官チャールズ・カベル将軍の実弟であり、キューバ革命後の反攻戦、ピッグス湾侵攻作戦時に、チャールズ・カベル将軍は米軍の介入要請をケネディ大統領に対して半ば脅迫的にせまったが、ケネディは共産国の牽制行動を憂慮しこれを拒絶。結局作戦は失敗、カベル将軍は罷免されるという最悪の結果を招くことになった。 勿論、カベル将軍はケネディを売国奴呼ばわりし、憎むこと甚だしかった。 結果、パレードルート変更など犯罪にも当たらぬ何気ないようにも見えるカベル将軍のちょっとした復讐だったに違いない。

731部隊 UNIT731は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。

満州ハルビンに拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用するあらゆる生物兵器の研究・開発機関でもあり、そのために人体実験や実戦テストまで行っていた。細菌戦研究機関であり、最先端医療の実践現場であり、当時の医学者の憧れの場であった。その中核的存在であったとする見方がある一方で、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。

軍隊において防疫や給水は戦力の発揮のために重要な要素である。そのため日本陸軍も、陸軍軍医学校防疫部を置いて研究を行っていた。1932年(昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた。

1936年(昭和11年)4月23日、「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」により関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した。

1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)に改編された。そのうちの本部が関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)である。他にも支部があった。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている。

1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された。

沿革の通り、731部隊は陸軍軍医学校防疫研究室の下部組織としての性格を有していた。

従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポールの岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。731部隊は、そのうちの関東軍防疫給水部(満州第659部隊)の主力部隊で、最大級の設備を有してはいたが、研究全体の中心ではなく実験・検証施設であったにすぎないとする。

本部隊の活動実態については、長い間情報が不足し不明のままであった。その理由は、当時から高い機密性が保たれていたこと、部隊の解散にあたって厳しいかん口令が敷かれたこと、終戦後のアメリカ軍との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪が不問に付されたこと、および、関係者の多くが戦後医学界の中枢を構成したことなどである。戦後、ハバロフスク裁判で、本部隊がANTHRAX、ペスト・コレラ・性病・ボツリヌス菌毒などの生物兵器、びらん性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特別の部隊であったと認定された。なお、近年になり米国の公文書が機密指定解除されて研究されたが、非人道的な実験が行われた記録が発見されている。

防疫活動

表向きの看板とする見方もあるものの、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。

1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。

1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動している。流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めた。この点、シェルダン・ハリス(en)など、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったとする論者もある。しかし、常石敬一は、これらの自作自演説には確かな証拠が全くなく、むしろ疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病であったと結論付けている。また、常石は、ハリスについて、731部隊と100部隊を混同していること、『続・悪魔の飽食』で問題になった731部隊とは無関係の写真を著書に掲載していることなどを指摘し、その著作の信頼性を疑問視している。なお、当時の満州はペスト蔓延地で、1909年の大流行の際には「国際ペスト会議」を設置しての対策が行われ、日本からも北里柴三郎が出席している。

生物兵器開発

731部隊は、生物兵器の開発に重要な役割を果たしていたのではないかとも言われる。当時、生物兵器の「使用」を禁止する1925年のジュネーヴ議定書が成立していたが、日本は同条約を批准していなかった(1970年批准)。また、そもそも同条約では、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかった。

日本が生物兵器の利用を真剣に検討し始めたのは、731部隊の部隊長などをつとめた石井四郎軍医の働きかけによると言われる。石井は、1928年から1930年にかけてドイツなどヨーロッパ各地やアメリカ合衆国などを視察・研究にまわり、帰国後に生物兵器の有用性を陸軍上層部に訴えるようになった。石井の主張は、細菌を使った生物兵器は資源の乏しい日本にとってコストパフォーマンスに優れた兵器であり、また世界各国も生物兵器の研究にすでに着手しているというものであった。1932年の陸軍軍医学校への防疫研究室の設置も、石井の働きかけによるとされる。

731部隊が生物兵器開発に関与したとする説によると、ペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われていたという。最盛期には1日当たりボツリヌス菌70Kgの生産が可能であった。

人体実験

生物兵器の開発などの目的のため、本人の同意に基づかない不当な人体実験が行われていた。森村誠一『悪魔の飽食』などの本で、731部隊は捕らえた多くの朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人や捕虜等をマルタ(丸太)=材料と呼称し、マルタ小屋に閉じ込め、毎日豊かな食事を与え、生体実験に供した。例えばまず被験者Aに感染させ、死亡直前に生体解剖し各器官を取り出し、より凶悪な毒性を得た細菌を抽出し、次の被験者に移す行為が繰り返された。もちろん、解剖されたものはホルマリン漬けとなって今でもアメリカか日本の研究室の一角に飾れているだろう(ただし、『悪魔の飽食』は、映画の画像を資料として載せていたなど信憑性に批判がでて、内容を改版している)。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は3,000人以上とされていた。これはハバロフスク戦犯法廷での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言に基づく数値である。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700-800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある。終戦時には、生存していたマルタが証拠隠滅のために青酸ガスで404体殺害されたという。

こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、元部隊員などの関係者の証言である。2007年に元731部隊員で中帰連の篠塚良雄(en:Yoshio Shinozuka)は、当時自身が「防疫給水部」というところに配属され、細菌を生きている人へ移すという人体実験を行ったことをアメリカ、イギリス、中国などの歴史番組のインタビューで答えた。篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている。ただし、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定するに至った中国帰還者連絡会関係者などの証言については、その信憑性を疑問視する見方もある。

他方、部隊の活動や証言を裏付ける文献資料は余り確認されていない。近年になり米国の公文書が機密解除されたため調査が行われたが、その中からは非人道的な実験が行われた記録は意図的な削除が行われており、発見されていない。死人に口なしである。

確認されている文献史料としては、まず、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いの特例措置に関する制度があり、これが731部隊での人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている。1938年1月26日に関東軍の各憲兵隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や思想犯、匪賊、アヘン中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソビエト連邦の諜報員(ソ諜、蘇諜等と記載)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している。つまり、「死刑囚」量産制度が罷り通っていたのである。また、現存する731部隊の医学的成果を常石敬一が分析したところによると、「猿」を使った流行性出血熱(孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷治療の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという。このほか、ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎が終戦後に書いた手記が発見されている。それには戦後の彼の行動が克明に記録されており、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていた。この中にも非人道的な活動を明示する内容は無いものの、青木は、隠語の一部が人体実験などを表しているのではないかと疑っている。

生物兵器の実験的使用

生物兵器について、単なる研究だけではなく、実戦使用を行っていたのではないかとの説もある。日中戦争に関しては、1947年に米軍の細菌戦研究機関フォート・デトリック(en)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、浙贛作戦(1942年)などで12回の使用があったとする。ペスト菌汚染された蚤を空中散布したとか、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者がいる。しかし、化学兵器の実戦例とは異なって、生物兵器使用については公式報告書といった文献史料は確認されていない。前述のように1940年の新京でのペスト流行を731部隊と結び付ける者もあるが、証拠が無い憶測で、自然流行と見る方が妥当と言われる。

また、ノモンハン事件においても、給水業務の傍ら、実験的な細菌戦が試みられていたとする説がある。第二次世界大戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判で「血判状など作戦関係の書類を見かけた」との供述があったとされるほか、実行に加わったとする元隊員の証言が1989年になって発表されている。これらの証言によるとチフス菌の培養液をドラム缶で運んで川に流したとされるが、科学的には加害効果がとうてい期待できないことから、研究者の常石敬一や秦郁彦はデモンストレーションにすぎないとしている。なお、前述のノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある。 だが、誰が否定しようとも731部隊のあった兵房郊外にはマルタを縛り付け、細菌爆弾を浴びせた「安達(アンダー)実験場も存在するし、細菌培養のためのボイラー室も存在するし、陶器で出来た細菌爆弾の実物もある。 戦争末期「ふ」号作戦、いわゆる風船爆弾が多数放たれたが、実態はアメリカの小麦穀倉地帯を狙った細菌兵器であったことはあまり注目されていない。

このほか、太平洋戦争中のサイパンの戦いなどに際しても、島の利用を妨害するための細菌汚染が大本営などで計画され、731部隊や石井四郎も関わっていたとする説もある。初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする説もある。

米軍 (GHQ)との取引

終戦時に特別列車でさっさと日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市の某寺院に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。

1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQは大混乱に陥り、ワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。

石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。

結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。

日本国への賠償請求

詳細は「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」を参照

731部隊が日中戦争中に違法な生物兵器の実戦使用を行ったとし、それにより損害を受けたとする者らが、日本国を相手取って損害賠償請求を求めている。1997年には、中国人180名が、細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判」を起こした。この訴訟の結果は、人体実験等の存否にかかわらず、第二次大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約・協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることから、請求棄却判決により原告敗訴となった。その後に提起された同種の訴訟も、全て原告の請求が棄却された。

M理論(えむりろん)とは、現在知られている5つの超弦理論を統合するとされる、11次元(空間次元が10個、時間次元が1個)の仮説理論である。尚、この理論には弦は存在せず、2次元の膜(メンブレーン)や5次元の膜が構成要素であると考えられています。

この理論の低エネルギー有効理論は、11次元超重力理論となります。この理論に登場する場は重力場(グラビトン場)・グラビティーノ場・3形式場しかなく、超弦理論の低エネルギー有効理論である10次元超重力理論よりも単純な理論であると言え、また、登場する場のスピンが2以下である超重力理論の最高次元は11次元であります(時間次元が1個と仮定した場合)。従って、11次元超重力理論は超弦理論が登場する以前、究極理論である可能性があると考えられていた時期もありましたが、その後、繰り込み不可能であることが数式で証明され、多様体へのコンパクト化でカイラルな理論が作れないと考えられたため、無視されていました。 1995年エドワード・ウィッテンによって提唱されたこのM理論は、11次元超重力理論がもつこれらの難点を克服すると考えられるものであり、その提唱は第二次超弦理論革命へのきっかけとなりました。

超弦理論との関係について

超弦理論が1980年代に物理学界で話題になると研究が急速に進み、超弦理論は5つの異なるバージョンに発展して行きました。それらの5つのバージョンの超弦理論はそれぞれ、I型、IIA型、IIB型、ヘテロSO(32)、ヘテロE8×E8と呼ばれ、これらの5つのバージョンを統合するのがM理論です。M理論は特にIIA型超弦理論の強結合極限として定義されており、さらにこれらすべての超弦理論が双対性によって互いに繋がっていることが示唆されたため、超弦理論よりも根源的な理論と考えられています。ここでの双対性とは、弦の強結合領域と弱結合領域を関係付けるS双対性(strong-weakの略)、空間の極大領域と極小領域を関係付けるT双対性(target-spaceの略)、S,T双対性を結びつけたU双対性(unifiedの略)です。特に、T双対性は極大領域における弦の振動モードと極小領域における弦の巻きつきモードを対応付けるものであって、小さい領域に巻きつくという弦特有の(点粒子には無い)性質が反映されたものになっています。従って、M理論が定式化できた暁には、5つの超弦理論はM理論の一部であると主張されることになるでしょう。

M理論に関する研究の現状

現時点ではM理論は超弦理論より更に未完成であり、現実の物理法則に合致するものも得られていないため、最終的に物理理論として成立するか不明瞭です。数学的な仮説の段階だとも言え、また最近では、M理論を超弦理論よりも深遠な理論であるとすることに疑問を持っている研究者も少なからずいるのが現実です。M理論を定式化するにあたっての特に大きな問題は、2次元の膜を量子化する方法が分からないことであり、これについては、IIA型超弦理論におけるD0-braneを自由度とした行列模型(flat時空を背景とするBFSS行列模型、pp-wave時空を背景とするBMN行列模型)によってM理論を定式化しようとする動きもあり、研究が進められている最中です。

M理論は万物の理論となる可能性が高く、今も学者の中で日々研究されています。 M理論が証明されると時間に質量を持つことが許され、まだまだ不明瞭なことばかりで、いかに、ほかの理論との矛盾点を掻い潜っていくかが最大の難点となります。 もしこの理論で時間に質量が有るとされたなら、今後の科学が大いに変わっていくのは必至であろうと思われます。

名称の『M』についてウィッテン自身は、2003年ヒストリー・チャンネルのドキュメンタリー番組『美しき大宇宙』の中で「Mは、マジック、ミステリー、メンブレーン(膜、超弦理論におけるひもの構成要素)などその人の好きなものを意味します。」と述べるにとどまり、『M』の意味については明言は避けジョーク交じりに答えています。注解)わかりやすく言えば現在我々の宇宙は真空のエネルギーに満ちた上位波動領域の二枚の対立する膜の間にゼロエネルギーの相転移から粒子と反粒子が同時に生成され、なんらかの原因かで粒子のみが残り「ビッグバン」+インフレーションを起し、ほぼ光速で膨張した残りかすにに過ぎぎない、ありふれた宇宙の一つに過ぎません。 ですから真の宇宙を理解するには反粒子間に作用する「力」を解明せぬ限り真の統一理論にはたどりつけないでしょう。 ですから昨年、超弦理論の元々の提唱者であるスティーブン・ホーキング博士は「我々の宇宙には神はいない。」とまことに深遠なるコメントを残しています。彼の戦いはまだ続いているのです。 身近な例でいうとPSとPS2で発売されたゼノギアス&ゼノサーガシリーズはこのM理論に負うことが大きく高橋監督も明言はしませんでしたが、明らかに影響を受けていることがありありです。 私自身もあるいは「神」とはこの上位波動領域に存在するのではないかと夢想したり、キリスト教グノーシス派の教義が実にM理論に合致しているため、あるいは「神」と接触できるかも.....などと考えに耽ったりしました。

ただ、現実の宇宙世界は甘くなく、現在恐るべき実態が次々と判明してきています。まず近い所では太陽活動が不安定なこと、全体的に寒冷化に向かっているのに時たま、メガフレアを噴出することです。そのせいで東日本大震災が誘発され、地球の自転は0.56秒早くなりました。 さらに宇宙全体が凄まじいほどのスピードで膨張していることです。今現在天体として観測されているのは宇宙の物質の10%程度と言われており、あとは見えない物質、ダークマターとして存在しています。宇宙の形は自転?でもしているのか平べったく長径で137億光年と見積もられていますが、強烈な膨張によるドップラー効果のため真っ赤にしか見えず、赤外線衛星望遠鏡で観測するのがやっとです。 天文物理学者の大半は宇宙外からの干渉、ダークエネルギーによるものという意見が出て来ていますが、私にも材料不足で何ともコメントできません。

あと最後の5億年が観測不能なのは残念ですが、後はハッブル宇宙望遠鏡の後継機やγ線バースト観測機に委ねましょう。

ただ、意外と熱エントロピーの拡散効果は激しいものですから、後1万年もすれば全天の星空全体が真っ赤に見えるかも。です。

2003年以来、日本に於いては首都機能、または首都移転の論議が国会でなされ、東京一極集中の弊害を避けようという立場から、福島ー仙台、岐阜ー名古屋、三重などの各地域が候補として選定されていた。 しかし、自民党政府の崩壊、政権不在の時期が続き、結果、なし崩し的に2011年を持って、この論議自体が白紙状態となりなかったものとしてポイ捨てされる運命だった。 だが、2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故が、首都機能移転の論議を再燃させ、大阪の橋下知事などはその論議の急先鋒であり、熱弁を奮っている。 日本は何処へ行こうとも災害とは無縁ではいられず、後は交通・通信インフラの充実と、水、平野が必須となる。だが、自分が思うにそんなもの単なる官僚の我儘であって、北は北海道、南は南鳥島まで通信インフラを引くだけでいいのだ。 別に霞が関に机と椅子がなければ仕事が出来ぬわけでもあるまい。スターバックスだろうがミスタードーナッツだろうが入院中だろうが勤務可能じゃね~かスマホがありゃ。 在宅勤務で金稼げよ官僚。たれかしてんじゃね~ちゃきちゃき働け。儲けろ。