2010年ノーベル化学賞受賞者、根岸栄一名誉博士の独占インタビュ~

だったが、番組の内容は氏の研究内容のリポートだった。それを見て思わずチキンになった!!

氏はアメリカのバデゥー大学において長年植物の光合成反応の仕組みの謎を解き明かす実験を繰り返してきた。

そしてついに水と二酸化炭素からあらゆるエネルギー、有機系化合物を生み出すという神の領域まで達してしまった。

つまり、水と二酸化炭素からメタノールやガソリン、ケロシン、バーボンウィスキー、果ては革ジャンまで、現代の錬金術だ。

氏はあえて特許を取らず研究内容をオープンにしている。

そのおかげで今や世界の化学者たちは目の色を変えて我先にモノにせんと没頭している。

特にオイルメジャーシンジケートや、穀物メジャーシンジケートは直接打撃を被るため氏を目の敵にしていると言われている。

そして氏は最後に日本政府に対して、警告を発している。

いまの100円を取るか将来の1兆円を取るかと。

後、10年もすれば人類は水をめぐって死力を尽くした戦いを繰り広げることが予想されている。

この、研究が実現すれば世界中の貧困が解消されるが、人口爆発を招き両刃の剱となるだけに恐ろしい。

リチャード・ニクソン

リチャード・ミルハウス・ニクソンRichard Milhous Nixon, 1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国の第36代副大統領および第37代大統領。

デタント政策を推進し、ソビエト連邦との核兵力の削減やベトナム戦争の終結、中華人民共和国との国交成立など平和主義に尽力し、また、環境保護局の設置などを通じ公害の抑制や環境保護にも力を注いだ。しかし、アイゼン・ハウアー政権時代、副大統領就任後、ピッグス湾上陸作戦の事実上の推進者であり、また、ベトナム戦争の影の推進者であり、ジョン・F・ケネデイ暗殺、ロバート・ケネディ暗殺、キング牧師暗殺、ジョージ・ウオラス暗殺未遂事件、「ウォーターゲート事件」に関与し、数々の疑惑と非難にまみれ、任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。

生い立ち

1913年にカリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダ(Yorba Linda)に生まれたニクソンは、ギリシア系の父フランシスと、ドイツ系の裕福な家の出身で熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)によって、福音主義のクエーカー教徒として育てられた。なお果樹園を経営する父親は元々クェーカー教徒でなかった上、1922年に母の実家の近くのウィッティアに移ってからは、父親は油田で技術者として働き、その後食料品およびガソリン販売店に専念したこともあり、それほど宗教活動には熱心ではなかった。

実家はクエーカー教の経典を順守し贅沢を避け、裕福でもない中産階級といった感じの質素な暮らしをしており、ニクソンの幼少時のしつけは、飲酒やダンス、罵り言葉を差し控えるような保守的な福音主義の遵守に特徴づけられる。なおニクソンは幼少時の事を「貧しかったが幸せだった」と回顧録などで記述しているが、父親が経営するガソリン販売店の経営が軌道に乗っていた上に、ピアノやバイオリンを習う余裕があったことから、決して貧しいものではなかった。しかし4男のアーサーや長男のハロルドが肺病で闘病生活を続け、医療費がかかったこともあり、ニクソンは青年期に多くのアルバイトを体験している。

その後、ニクソンは地元のウィッティア高校を卒業し、奨学金を受けてハーヴァード大学への進学が決まっていたものの、兄弟の多額の医療費の負担から、実家が東海岸での1人暮らしの資金を負担できないこともあり、母親の実家が奨学金を設けていた地元のウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学、1934年に2番目の成績で卒業し、奨学金を受けデューク大学法学大学院で法律を学んだ。

弁護士

デューク大学法学大学院を三番目の成績で1937年に卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。ニューヨーク州の大手弁護士事務所への就職を希望したが、東部の人間との人脈に恵まれなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめ、カリフォルニアに戻って地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職した。1939年には自らの弁護士事務所を開業した。

弁護士として活動中の1940年6月11日に、ネバダ州出身の高等学校教師で、演劇サークルで知り合ったセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。その後1941年12月に物価統制局に転職し、夫婦でワシントンD.C.に移転することとなった。

海軍時代 アメリカ海軍時代のニクソン

1941年12月よりアメリカも参戦した第二次世界大戦中は、1942年8月に士官募集に応募してアメリカ海軍に入隊し、補給士官に任命され1943年5月より南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島、さらにはニューカレドニアなどへ配属された。

海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。

1944年7月にはブーゲンビル島の前線より帰還し、カリフォルニア州アラメダの海軍基地で勤務した。その後1945年1月にはアメリカ東部の基地への移転を命じられ、そこで終戦を迎えた。海軍時代には後に国務長官になるウィリアムズ・P・ロジャーズと知り合っている。

下院議員・上院議員

1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴う海軍除隊後にペプシコ社の弁護士になり、ペプシコーラの世界進出に協力。各国の炭酸市場の切り崩しというロビー活動のもたらす「アメリカの産業を保護する」という大義名分は満足感を生み、さらに国際的な弁護士の看板はヨーロッパや日本で人脈を築くのにも役立ったが、この仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。

上院議員選挙時のニクソン

しかしその本人が、母校であるウィッティア大学の総長や、ニクソンの母の知人のバンク・オブ・アメリカのウィッティア支店長らの地元有力者からの依頼を受け、1946年に地元のカリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党候補として立候補した。このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、民主党選出で、労働組合をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴーァリスを破り下院議員に選出されたが、真実はシンジケートの一員であるロサンゼルスのドン、ジョニー・ロゼリ、白人主義者で資本主義の権化と呼ばれたハワード・ヒューズからの莫大な献金をうけていたことが大きい。

同じ年の選挙では、ニクソンの将来のライバルとなるマサチューセッツ州のジョン・F・ケネディも上院に初当選し、同じ南太平洋地域で従軍した海軍の退役軍人出身と言う点でも共通していたこともあり、当初は友好的な関係を築いた。

その後ニクソンは、東西冷戦の激化を受けて設けられた下院の非米活動調査委員会のメンバーになり、ジョン・フォスター・ダレス国務省顧問やウィリアム・P・ロジャースなどの協力を受けて、反共主義で高名な共和党選出の上院議員のジョセフ・マッカーシーとともに、前政府高官アルジャー・ヒスの偽証罪の裁判に協力したことで、「反共の闘士」、「アカ狩り」の先兵として、その名が全米に知れ渡った。

1950年には上院への鞍替えを試み、女優であり民主党選出議員のヘレン・ギャーギャン・ダグラスと争った。地元の油田開発に反対するなどのダグラスのリベラルな言動が有権者に嫌われたうえに、選挙の活動期間中に朝鮮戦争が勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出されたが、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引く。ニクソンは、夫が左翼シンパとして有名であったものの、自らは「単なるリベラル派」との評価をそれまで受けていたダグラスに対して「国家社会主義者」のレッテルを貼ったが、そのことが多くのリベラル派を自認するジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領選挙の際に執拗な攻撃を受けるきっかけとなる。

副大統領時代

しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年に行われた大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に選ばれた。大統領選での顕著な出来事の1つは、当時普及が進んでいたテレビの革新的な使用だった。

「チェッカーズ・スピーチ」

副大統領候補選定前よりニクソンは、ニクソンが金銭的に余裕がないことを知った地元の支持者たちが作った支援基金団体から、政治活動資金のための資金援助を受けていた。民主党の大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、リベラル派であったイエローペーパーのニューヨーク・ポスト紙は、副大統領候補選定後の9月にニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し、さらに「物品の提供も受けた」とも批判した。その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた。

これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否した上で、その後有名になるスピーチ「チェッカーズ・スピーチ」を行い、自らに対する攻撃に対して反論した。その中でニクソンは、個人資産の詳細を事細かく説明したほか、民主党のハリー・トルーマン政権の閣僚の妻達の中に、「院外活動をする人々から高価な毛皮のコートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」といいトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。

併せて、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちが犬を飼いたいと言っていることを耳にしたテキサス州の支援者からコッカースパニエルをもらった。しかし、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた。

この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払しょくし、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補としてとどめることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補としてとどまることになった。しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった。

副大統領就任

このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは、大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

その後ニクソンは初の外国への公式訪問として、キューバやベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際の、暴徒化し地元国の警察でさえコントロールできなくなった反米デモ隊に対する、沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。

またその後も、この頃旧宗主国からの独立が相次いでいたアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った他、同年の10月から11月にかけて、日本や中華民国、韓国などの北東アジアからフィリピンやラオス、カンボジアなどの東南アジア、インドやパキスタン、イランなどの西アジア、オーストラリアやニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。

「キッチン討論」

この様な外遊の一環として、1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都のモスクワを初めて公式訪問した。

その際に、博覧会会場で、ソ連の指導者であるニキータ・フルシチョフと、展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星「スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。

この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は、冷戦下のアメリカ国民のみならず自由諸国の国民に強い印象を残し、後に「キッチン討論」として有名になった。

アイゼンハワーとの確執

アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にアドレー・スティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役を押し付けられるなど、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。

しかしながら、1955年9月24日のアイゼンハワーの心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の発作の際の3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督したが、通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。その上、1956年の再選時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知ったレン・ホール共和党全国委員長らによって、この指示が取り消されたということもあった。

さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった。

また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている。アイゼンハワーの真意はニクソンとシンジケートとの繋がり、CIAとのジョイント・オペレーションなど許可もしていない極秘作戦を進行させていたりと、軍産との繋がりを懸念していたこともある。それは彼の最後の演説「軍産複合体の危険性」(映画JFK冒頭に登場)にも見て取れる。

1960年の大統領選挙 予備選挙

1951年のアメリカ合衆国憲法修正第22条の批准完了によって、アイゼンハワー大統領は再度大統領職を求めて出馬することができなかった。1952年と1956年の2度選出されていた。アイゼンハワーは1960年時点でもその人気は高かったものの、健康問題とそれの影響を受けた引退の願望があり、もし可能だったとしても再出馬はありそうに無かった。この様な状況を受けて副大統領であったニクソンは共和党予備選挙に出馬することとなった。

1959年に行われた共和党予備選挙においてニクソンは、共和党中道左派の指導者で、ニューヨーク州知事で大富豪のネルソン・ロックフェラーから、あたかも共和党の指名争いで重大な挑戦を受けたような形になった。しかし、ロックフェラーは全国遊説を行った後で共和党の大半がニクソンを支持していることが分かったので、大統領候補にはならないと表明した。ロックフェラーの撤退後、ニクソンは共和党の指名については意味のある反対に直面しなかった。

シカゴで開催された1960年共和党全国大会では、アリゾナ州選出の上院議員のバリー・ゴールドウォーターが10票の代議員票を獲得しただけで、ニクソンは圧倒的な支持を得て共和党の大統領候補に指名された。

テレビ討論

大統領選挙の本選において、ケネディ陣営による大規模な選挙キャンペーンが行われ、現在でも多くの人々によって「ニクソンの敗北の最も重大な要因は最初のテレビ討論だった」と喧伝されている。夕刻でひげが伸びた状態の上、スタジオへ行く途中で膝を怪我して顔色が悪かったにもかかわらず、ニクソンは「議論の内容が重要である」としてテレビ用のメイクアップを拒絶した。テレビ討論前には完全に優勢であったニクソンは、その勢いを保ったまま、外交政策への専門知識を持った思慮深い投票者を勝ち取るつもりでいた。

しかし当時のアメリカでは白黒のテレビしか普及しておらず、多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用した、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。なお、前述のようにこの時ニクソンは膝を怪我しており、そのことがニクソンの表情をひときわ気難しく見せる結果になった上、テレビ用のメイクアップを拒否したことも外観を貧弱に見せることになった。一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが選んだスーツを身に着け、テレビ用のメイクアップをこなしていたこともあり、若く健康的に見えた。

討論をラジオで聞いた人々は討論の内容はニクソンがケネディに黙らせられる場面が多々あり、テレビ的な見栄えに勝るケネディに引き込まれたテレビ視聴者の票がニクソンからケネディに動き、「選挙のアマチュア」と甘く見ていたニクソン陣営にとって、手痛いダメージとなり、最終的にケネディに僅差での勝利を与えたと言われる。これ以降、アメリカの各種選挙においては、本格的に服飾やメイクアップなどの外観のコンサルタントが導入されることになる。

ケネディの選挙への対応

この時の選挙において、ケネディが予備選挙中に友人のフランク・シナトラから紹介してもらったシナトラの元恋人のジュディス・キャンベル・エグズナーを経由して、イリノイ州シカゴのドンサム・ジアンカーナを紹介してもらい、ウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した他、FBIの盗聴により、シナトラが同州の組織からケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている。なお、フランク・シナトラはサム・ジアンカーナ配下の人形シンガーに過ぎないが、ジョン・F・ケネディへ証人喚問の免訴の契約を帯び、アプローチしたが、かえって反発され、失敗した後は、リチャード・ニクソンに鞍替えしている。

何のことはない。ケネディ家自体、カトリック・アイリッシュ・シンジケートの一員にであり、禁酒法時代に密造酒、密輸入で莫大な財を成した組織であることに変わりはない。ケネディは誰にも頭を下げる必要が無かった。

これらのケネディ陣営に対する組織による選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの激戦でニクソン陣営は9000票差で敗北。ニクソンはこの現実を受け止めることが出来ず、暫くの間精神科に通っていたほどである。後に彼が大統領職に就いた際、最初に行ったことはイリノイ州の選挙結果のやり直しを繰り返したほどだ。当時ワシントンではニクソンは誇大妄想狂?なる特集が組まれたりしたほどである。

大統領選挙落選後

大統領選挙落選後は、ニューヨーク州に移りペプシコ社などの大企業の弁護士として活動していた。なお、この不遇期には副大統領時代からの友人であった岸信介が度々世話をしており、顧問先を紹介したり、日本に招いて弟の佐藤栄作を交えてもてなしたりしている。このことは、ニクソン復権後、佐藤政権における沖縄返還などの日米関係に少なからず貢献することになった。

大統領選挙落選の2年後の1962年11月には、政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬するが、その思いも空しくケネディの擁立した対立候補のエドムンド・“パット”・ブラウンに大差で敗れ落選した。

選挙後にビバリーヒルズのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見でニクソンは焦りのあまり、詰め掛けたマスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「もう二度と記者会見をしない」と口走る始末であった。そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることが無いであろう」と評した。

しかしその後も、ペプシコ社の弁護士として世界各国を訪れる傍ら、日本を訪問した際には駐日大使で学者のエドウィン・O・ライシャワーに対して、アメリカによる中国共産党政府の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた。もう一つの真実ケネデイ暗殺時のニクソンのアリバイである。1963年11月22日、ニクソンは暗殺の数時間前まで、実はダラスにいた。それは、シンジケートのコミッションのドン、メイヤー・ランスキーの番頭であるユージン・へイル・ブレイディングと、そのホテルに後にリー・ハーヴェイ・オズワルドを射殺するジャック・ルービーが宿泊していた。そこには相互の友人であるエドワード・メイヤーズと言う陸軍情報部員が宿泊していた。そして何を隠そうエドワード・メイヤーズはペプシコーラ社を通じてニクソン個人に仕えている事実があったことが判明しているからである。当時、ダラスでは清涼飲料水業者の大会が催されており、表向き、彼もそれに出席するためダラスにいたのである。FBIの調書によれば10月20日にダラスを立ち去っていると証言している。アメリカン航空の記録には11月22日にダラスに”向かって”いたのだ。そしてエドワード、ブレイディング、ルービーと会合し、トンボがえりでダラスを去ったという訳である。彼のアリバイは崩れた。

1968年の大統領選挙

その後、ケネディの死により、ニクソン最後のチャンスがめぐって来る。しかし、また、立ち塞がる男が現れた。名前はJからRに変わったが、同じケネディ、弟のロバート・ケネデイであった。この時の世論調査では圧倒的にロバートが有利であり、ニクソンは最早、大統領になるチャンスは二度とないとさえ評された。ところがロバート・ケネディの予備選の勝利パーティが行われた1968年6月4日、アンバサダーホテルにおいてロバートはサーハン・サーハンというパレスチナ人の男に撃たれて死んでしまう。彼曰く「私はボビー・ケネディが大好きだった。今でも彼を殺したとは信じてはいない。しかし、周囲がそういうのだから多分私がやったのだろう。」彼は裁判中から異常なほど催眠術に懸りやすい事は話題になっていた。事実パーティー会場でサーハンの隣に白人の女性がトム・コリンズをのみながらサーハンに話しかけていたという。CIA当たりなら、簡単なマインド・コントロールである。結局サーハンは終身刑を言い渡されて、サン・クウェンティン刑務所に収監されている。これで誰が一番得をしたのかについてIQ200は必要あるまい。ニクソンは念願の大統領に就任した。

ベトナム・エスカレーション

ニクソンが大統領になったことでアメリカは55万人もの兵を投入し、最も長く、金がかかった戦争へ突入していく。この戦争で倒産寸前だった企業が再生された例は多い。ヘリコプター業界、通常爆弾製造業界、輸送業界(フライング・タイガー社など)。メコンデルタにはGE所有地、リットン所有地、ダウ・ケミカル所有地、ペプシコーラ所有地、グッドイヤー所有地などに工場が立ち始めた。しかし、ペプシコーラ社の工場内部では一本のコーラも生産もしなかった。その代りヘロインが精製されていたのである。そして、軍人は左官は准将、小将へ、中将は大将へ、文字通りベトナムはボーナスだった。戦線は拡大を続け、カンボジア、ラオスに広がり、「勝てたはずの戦争」はいつか泥沼へと向かっていった。ニクソンはそのような状況でも「核を落として血まみれにしろ。」とキッシンジャーに対しあくまでも戦争を継続する意思は曲げなかった。

ジョージ・ウォラス暗殺未遂事件

1972年5月、ウォラスは当時大統領選挙に出馬しており、意外な人気を集めつつあった。予備選挙で無党派層、民主党、共和党問わず、逃亡票をキャッチし次第にクローズアップされていった。その彼が遊説中に狙撃され重傷を負ったのだ。狙撃した男はアーサー・ブレマー。エベレット・ハワード・ハントはニクソンの側近チャールズ・コルソンからミルウォーキーにあるブレマーのアパートに侵入するよう命令を受けた。この侵入はハントの反対により取りやめになったが、ニクソンはすぐFBIのフーバーに依頼し、アパートそのものを密閉状態にしてしまった。リチャード・ニクソンが関係した選挙のうち2つの暗殺事件と1つの暗殺未遂事件が起きていたわけだ。これらの事件により一体誰が得をしたか?他でもないリチャード・ニクソンである。


ウォーター・ゲート事件

  1. 事件の沿革はCIA要員のエベレット・ハワード・ハントを中心とする5人のメンバーが民主党本部ビルに侵入し、ニクソンに不利になるファイルがあればそれを持ち出すこと、もう一つは盗聴器を仕掛けることだった。とにかく捕まった連中が興味深い

    1.エベレット・ハワード・ハント--CIA,ピッグス湾上陸作戦時に関わる
    2.バーナード・バーカー------------CIA,ピッグス湾上陸作戦時に関わる
    3.フランク・スタージェス---------CIA,ピッグス湾上陸作戦時に関わる、キューバ革命時、ギャンブル監督官、後アメリカに亡命しカリブ海反共連                 盟を組織。
    4.チャールズ・コルソン------------CIA
    5.ジョン・コールフィールド------CIA
    6.アンソニー・ウラセウィッツ----CIA

特に興味深いのはエベレット・ハワード・ハントが事件後、ニクソンに対して100万ドルもの恐喝を始めたことである。その根拠となるとウォーター事件だけの口止め料としては高すぎるのだ。さらに、その後、ハント夫人の乗った飛行機が墜落した。墜落現場には待っていたかのようにFBIが集結し取り囲んでしまった。おそらくハント夫人が持っていた何らかの書類を押さえるためであったと推測される。恐喝者の片割れを殺し、証拠を消そうとする行為、とても民主主義国家の政治家とは思えぬ想像を絶する人物である。

もうここまできて、答えは一つしかない。ケネディ暗殺の証拠をハントは握っていたのである。そしてウォーターゲート事件の真の意味は民主党がケネディ暗殺とニクソンとを結びつける何らかの証拠か資料を持っていないかどうかを確認するために行われたのである。当時民主党のボスはオブライエンでケネディとは無二の親友であったことがニクソン独特の疑心暗鬼と誇大意妄想、権力万能主義がミックスされたバケモノとしかいいようがない。終焉ウォーターゲート事件が発覚した時点でまだニクソンは余裕を失っていなかった。しかし、いつも兄貴分として守ってくれたFBI長官フーバーが死ぬと状況は一変する。それまで仲間だと思っていたシンジケートの連中や軍、CIAまで見放すようになってくる。もう狂った暴走機関車扱いするようになる。その先兵として補佐官に就任したのがアレクサンダー・ヘイグ将軍である。ニクソンは金本位制を解除したり、突然中国と国交正常化したりと外交で評価を得ようとしたが、逆に「トリッキー・ディック」と言うありがたくないアダ名で呼ばれたり、完全に浮いた存在となった。結局、辞任し、後をジェラルド・フォードに託して大衆の前から姿を消した。

ホワイトハウス・テープ

ニクソンが大統領職に在職中に自分の言動をチェックするために録音させておいたオープンデッキ・テープの発言資料集であるが、基本的に2029年まで公開禁止。側近のハルデマンらとの会話が録音されているがほとんど放送禁止用語の連続であり、シンジケートのドン顔負けの会話が出てくる。ニクソンの恥部そのままであるが、ところどころ削除された形跡があり、ニクソンの秘密にせまるには役不足ではないかと推測される。独裁者

ニクソンの政権の特徴は、就任直後から以前の大統領よりさらにホワイトハウスに権力を集中させ、閣僚の権力を奪ったところにある(帝王制大統領 Imperial Presidency)。特にロジャース国務長官、レアード国防長官、ヒッケル内務長官などは重要政策でも蚊帳の外であった(郵政長官などは以前から問題外とされていた)。たとえば商務次官補(上院承認の必要な高官)に首を言い渡したのは国家安全保障会議のヒラのスタッフ(バーグステン)であった。補佐官は大統領行政特権があるため、行動や任免について議会に対する説明責任がないとされ、議会の規制を受けずに政策を実行できる。特にハルデマン、エーリックマン、キッシンジャーの3人に権力が集中していた(ジャーマン・シェパードと呼ばれていた)。

  • 首席補佐官 H・R・ハルデマン

副補佐官 スチーブン・V・ブル日程担当特別補佐官 ドワイト・L・チェーピン

  • 内政補佐官 ジョン・D・エーリックマン
  • 国家安全保障補佐官 ヘンリー・A・キッシンジャー

副補佐官 アレキサンダーM・ヘイグJr.(後に陸軍大将)副補佐官 W・ブレント・スカウクロフト(後に空軍中将)上級スタッフ C・フレッド・バーグステンJr.上級スタッフ モートン・H・R・ハルペリン(沖縄返還交渉で若泉敬に関与)上級スタッフ デービッド・R・ヤング(元NSA、エーリックマンの部下)

  • 法律顧問 ジョン・W・ディーンⅢ

副顧問 フレッド・F・フィールディング

  • 大統領報道官 ロナルド・Z・ジーグラー(名目上の上司はハーバート・G・クライン広報連絡局長、ケネス・W・クローソン広報連絡局次長)
  • 大統領個人秘書 ローズ・マリー・ウッズ
  • 大統領個人法律顧問 ハーバート・W・カームバック
  • 特別補佐官(政治担当)チャールズ・W・コルソン、マレー・チョティナー
  • 大統領顧問 レナード・ガーメント
  • 行政管理予算局(OMB)
  • 1972年2月に、アメリカの大統領としては初めて中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国を訪問、事実上承認した(これに伴い同国と対立している中華民国との国交断絶を伴った為批判も多い)。
  • 1973年1月23日のパリ協定調印とベトナムからのアメリカ軍撤退によるベトナム戦争終結。
  • 1973年の麻薬取締局 (DEA) の設置。
  • 1974年2月に、第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響から、ガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名した。

ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉

大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日に南ベトナムへ予定外の訪問をし、グエン・バン・チュー大統領およびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始した。しかしその後の1970年4月にアメリカ軍は、中華人民共和国から北ベトナムへの軍事支援の経由地として機能していたカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、結果的にベトナム戦争はさらに拡大してしまう。

しかしその後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を継続させた。ニクソンはキッシンジャーを使い南ベトナム政府内の強硬派と、戦線の拡大と縮小を巧みにコントロールした上に、1972年には北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問し北ベトナム政府に揺さぶりをかけるなど、様々な手段を使いながら、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日に北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、結果的に「ニクソン・ドクトリン」の発表後も4年以上に亘って戦争を継続する結果となったことは批判を受けた。

アメリカ軍の完全撤退

そして4日後の1月27日に、ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官とチャン・バン・ラム南ベトナム外相、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。なおこの功績に対して、キッシンジャー大統領補佐官とト特別顧問にノーベル平和賞が授与された(ト特別顧問は受賞を拒否した)。

中華人民共和国の承認 [編集]北京でエアフォース・ワンから降りるニクソン夫妻(1972年)ニクソンと毛沢東ニクソンと握手をするエルヴィス・プレスリー。プレスリーはこの際ニクソンより麻薬捜査官の資格を与えられた(1973年)
 
電撃訪問

1949年の国家成立後、長年の間対立関係にあった中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国と和解し、国家として承認することで、冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、1971年7月にキッシンジャー大統領特別補佐官を、秘密裡にパキスタンのイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。

また、ベトナム戦争に早期に決着をつけるとともに、アメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンは、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムもけん制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあったと言われている。

この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国の周恩来首相と会談。その後の記者会見で、「近日中にニクソン大統領が中華人民共和国の北京を訪問する」と発表し、世界を驚愕させた。

国交樹立へ

その後、1972年2月21日にエアフォース・ワンで北京を訪問、毛沢東主席と釣魚台で会談し、中華人民共和国との国交樹立への道筋を作った。しかし、このことにより長年友好関係にあった中華民国と断交した為、多くの自由主義者と反共産主義者から非難を浴びた。

なお、中華民国との断交など解決しなければいけない懸案が多かったことから、アメリカと中華人民共和国の間の国交回復は、ジミー・カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。

また経済界では、自らが顧問弁護士を務めていたペプシコやカリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、さらに連邦議員時代から副大統領時代にかけては、地元のヨーバリンダの近隣のアナハイムで大規模遊園地の「ディズニーランド」を経営していた他、映画界でも高い影響力を持っていた保守派の実業家のウォルト・ディズニーなどと特に密接な関係を保っていた。

大統領辞任後

ウォーターゲート事件の後遺症 [編集]歴代大統領とともに(左から2番目がニクソン)レーガン大統領とともに

ニクソンの首席補佐官であったH・R・ハルデマンや、内政担当補佐官であったジョン・アーリックマンがウォーターゲート事件への関与により有罪宣告を受け、1976年から1977年の間に懲役刑を受けたことや、その後のウォーターゲート事件関連のさらなるテープの公開。さらにニクソンの死後の2003年7月に、1972年の大統領選挙の際の再選運動本部長だったジェブ・マグルーダーが、「ニクソンが電話で個人的に民主党本部侵入と盗聴を命じてきた」と主張したことは、事件の隠蔽および不法な資金融資、民主党本部への侵入と盗聴に対するニクソンの関与に関する疑惑をさらに明らかなものにした。

イメージの修復

しかしながらニクソンは、ソ連や東欧諸国との冷戦が続く中で「外交問題に詳しい長老政治家」として、ソ連や中華人民共和国へ足繁く訪問しこれらの国々との関係構築に貢献した。さらに1968年の大統領選挙で対立候補として戦い、1980年に大統領に就任したロナルド・レーガンに多くのアドバイスを授けた。

これらの活動を通じてアメリカや西側諸国のみならず、東側諸国の政治家や国民からの高い尊敬を獲得したことや、任期中に行った数多くの政策がその後高い評価を得たこと、さらに回顧録を含む多数の書籍を執筆し、そのいくつかは全米でベストセラーとなったことで、晩年までにニクソンはある程度公のイメージを修復することに成功した。

死去

ニクソンは、1993年に死去した妻パットの後を追うように、1994年4月22日にニューヨークで脳卒中とその関連症で81歳で死去した。しかし、アメリカの歴史上初となる任期中の辞任を行ったことなどから、通常大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われず、一市民として生まれ故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにある「ニクソン記念図書館」の敷地内にある妻の墓のそばに埋葬された。

プライベート

弁護士時代の1940年6月に、ネバダ州出身の高等学校教師であるセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。なお、娘のジュリーは、ニクソンが大統領に就任した1968年にアイゼンハワーの孫のデーヴィッド・アイゼンハワーと結婚した。

アメリカ、国防権限法案を可決

アメリカ議会上院は国防権限法案を可決した。既に下院も14日に通過している。狙いは対イランの経済制裁にあり、イラン産原油の輸出量削減を目指す。

事実上、オバマ大統領は、ペンタゴンにイラン政策を丸投げしたようなものであり、膝を屈した形となった。イラク、アフガン撤退の公約は果たされるが、新たに火種がばらまかれる一歩となる。興味深い動きだ。

これで、暫くオバマ大統領は少なくとも暗殺はされないだろう。 核実験
               奈良の生駒は寒くて、思わずタイヤ交換してしもうた!!!www

 


ALJ


                写真と記事は何の関連もアル・ジュールゲンセン親父!!!!wwwwww
NHKのニュースで京都大学がIPS細胞の研究で、血小板の細胞の人工開発に成功したと発表したと報道していた。

だが、この成果は実は「若返り・不老不死研究実験」の過程で生まれた、偶然の賜物にしか過ぎなかった。

京都大学はガンダムSEEDで描かれた「コーディネーター」をも超える「不老不死の超人類」の開発を可能にしてしまった。

それには「ナノマシン・テクノロジー」+「テロメア遺伝子無限増殖技術」との連携が不可欠。

でも、それは既に10年前に確率してしまっている。欧米では宗教上の理由から問題視されるだろうが、絶滅危惧種の動物に対しては施されて、効果を確認されている。

あとは「いつ」「誰に」の問題だけ。

人類はいずれ旧人類と超人類とに分かれ争うのかも知れない。

ライマン・ルイス・レムニッツァーLyman Louis Lemnitzer, 1899年8月29日 - 1988年11月12日)は、アメリカ陸軍の軍人。最終階級は、大将。 経歴

レムニッツァーは1899年8月29日にペンシルベニア州ホーンスデールで生まれた。彼は1920年にウェストポイントを卒業し、沿岸砲兵部隊を志願し配属された。レムニッツァーはフィリピンで軍務に就くが、すぐに参謀部に配属されその軍歴が始まった。

レムニッツァーは1942年6月に准将に昇進し、アイゼンハワー将軍のスタッフとして配属された。彼は北アフリカおよびシシリー島侵攻作戦を計画支援し、1944年11月には少将に昇進した。レムニッツァーは1943年のイタリア降伏および1945年のドイツ降伏調印のために派遣された幹部職員のうちの一人になった。彼はその後、一部のナチス党員が戦争犯罪のための調査を逃れることを可能にしたとして訴えられた。

第二次世界大戦後、レムニッツァーは統合参謀本部の戦略調査委員会に配属され、その後国立陸軍大学の副学長に任命された。1950年には51歳でパラシュート降下訓練を受け、第11空挺師団の指揮官に任命された。彼は1951年11月に朝鮮半島での第7歩兵師団の指揮を任命され、1952年8月に中将に昇進した。

レムニッツァーは大将に昇進し、極東におけるアメリカ陸軍第8軍の指揮官に1955年3月就任する。彼は1959年7月に陸軍参謀総長に指名され、1960年9月に統合参謀本部議長として任命された。統合参謀本部議長としてレムニッツァーはベトナム戦争におけるアメリカの関与やピッグス湾事件をCIAとジョイント・オペレーションを行い、指揮している。さらに彼は、エドウィン・ウォーカー少将(極右の人種差別主義者であり、自らの信条を軍に於いて実施しようと試み軍から解任された。)の活動に関して上院外務委員会での証言を要求された。レムニッツァーは1962年にノースウッズ作戦(隠密工作によりカストロ政権の評判を低下させ、キューバに対する軍事行動への支持を形成するよう提案された計画だが、ジョン・F・ケネディに実施は拒絶された。)の一部を承認している。ピッグス湾事件以降、ケネディの行った政策は、全て軍部、CIAの存在に脅威を投げかけるものばかりだった。彼は軍事予算を削り始め、原子力ジェット・エンジン機、B70爆撃機、ABM対弾道ミサイル網の開発と生産も中止させた。これに対するペンタゴンとその傘下企業約22,000社の反応は凄まじかった。これが中止されることは新たなプロジェクトを始めなければなればならない。しかし、ケネディが大統領でいる限り、そのプロジェクトもありそうもない。それは、1961年6月ケネディは2枚のメモを国家安全保障会議に送った。その一枚はNSAM(National Security Action Memoramdam)55と呼ばれるもので、統合幕僚参謀本部議長ライマン・レムニッツァーに宛てたものだった。通常NSAメモは側近(ソレンセンなど)によってサインされるが、この場合に限ってはケネデイ自身がサインしていた。その内容は「これより統合参謀議長が戦争時にも平和時にも、軍事的活動の責任を取らねばならない。」というものであった。このメモの要約をレムニッツァーに解説したのは空軍情報部のフレッチャー・プラウティー大佐だった。後に1994年、NBCのインタビューで彼はこう答えている。「このメモが意味することは明快だ。「再びビッグス湾事件を繰り返すな。」ということであり、平和時に極秘軍事活動を起さぬこと、インドネシア、ラオス、ダライ・ラマ脱出、ビッグス湾などを過去の遺物とせよ。というケネディの見解を比類なく述べた強力なメモだった。

もう一枚のメモNSAM57はケネデイの側近によってサインされていた。内容はNSAM55の説明である。要点はもし、秘密裡に大きな作戦を展開しなければならない時があってもCIAと軍部はそれを行ってはならない。彼らに任せられる秘密作戦はごく小さなものに限られる、というものであった。フレッチャー・プラウティー空軍情報部大佐は述べている。「もしこの指令が守られ、ケネデイが生きていれば、アメリカのベトナム・エスカレーションは無かった。ケネディはピッグス湾で”エキスパート”共に頼って失敗したことを後悔し、二度と繰り返すまい、と固く誓っていた。」キューバ危機~映画13DAYS~1962年の夏、キューバに出入りする貨物船の数が激増した。ケネディはさすがに、この報告を受けキューバ上空の偵察スパイ飛行を許可した。2度の偵察飛行による分析では弾道ミサイルではないと判断された。共和党のニクソンは中間選挙の目玉としてキューバ問題を取り上げしつこくケネディを攻撃した。10月、イギリス諜報局から中距離弾道ミサイルの輸送確認情報を得たケネディは再びスパイ飛行を許可した。その結果キューバにまさに10基以上の中距離弾道ミサイルが組立準備中に入っている証拠写真と分析結果が10月16日ケネディの元に届いた。これが完成すればアメリカのあらゆる都市が射程距離内でしかも15分の最低警報時間も許されないことになる。ケネディは早速、停船・積荷検査方式をとった。だが、統合参謀本部はキューバへの軍事進攻を主張、ハト派で知られたフルブライトまでも軍部を支持した。しかし、ケネディは米州機構20か国を総集、支持を得、NATOのド・ゴール、マクミラン、アデナウアーもケネディを支持した。それをバックにして軍部に対抗した。ケネディの停船・積荷検査方式に対してソ連船は抵抗を見せずUターン、引き返していった。ミサイルの秘密がアメリカに渡るのを避けたのである。その間、2機のクルセイダー偵察機型と1機のU2が地対空ミサイルによって撃墜された。さらに軍部は挑発するかのように大陸間弾道弾を太平洋に向けて発射したり、事態は急速に悪化しつつあった。ケネディの友人であった国防長官マクナマラもさすがにタカ派になってしまい、ケネデイ自身もフロリダに全軍集結を命じた。勿論警戒レベルは最高であり、ケネディは14日朝をもって侵攻開始の命令を軍部とCIAに命じた。だが、実際には核戦争は起きなかった。実は13日目の夜、ケネディは弟の司法長官ロバートを特使として、ソ連の駐米大使アナトリー・ドブリーニンと極秘に会談していたのである。内容は「大統領は現在、軍部からのっぴきならない立場に追い込まれている。アメリカのシステムの特異性を考慮されるよう熱望している。戦争を始めることは本意ではないが、取り返しのつかない事態が大統領の意思に反して起こりつつある。大統領はニキータ・フルシチョフと直接話し合い終止符を打ちたい、と願っている。」というものだった。この結果、キューバからミサイルを撤去する代わりに、アメリカはトルコから2年後にミサイルを撤去する、と言う密約が結ばれ、キューバ危機は終わりを告げた。キューバ危機後、ケネディとフルシチョフの間には信頼感が形成されていく。ホットラインが敷設され、1963年7月にはアメリカとソ連との間で部分的核実験停止条約が締結された。その次にはアメリカの小麦をソ連に売る交渉も始めた。この間、軍部、CIAは全く出番がなかった。彼らはケネディを「アカと取引した売国奴」と公言し、激しく憎悪した。デタント(緊張緩和)という言葉が使われるようになったのもこのころからである。これは、キューバに対しても適用され始めた。ケネディは直接フルシチョフと対話を開始したようにカストロに対してもアプローチを始めた11月22日、最初の特使がカストロと接触した日、ケネディは暗殺された。レムニッツァーは1962年11月にアメリカ欧州軍総司令官に任命され、1963年1月にNATOヨーロッパ連合軍最高司令官に任命された。この期間に彼は1963年 - 64年のキプロス危機や、1966年のフランスからのNATO軍撤退など困難な事態をリードするよう要求された。

レムニッツァーは1969年7月に退役し、1975年にはフォード大統領によってCIAが違法行為を行ったか調査する、アメリカ国内CIA活動委員会(ロックフェラー委員会)の委員に任命された。

レムニッツァーは1988年11月12日に死去し、アーリントン国立墓地に埋葬された。彼の妻キャサリン・トライオン・レムニッツァー(1901 - 1994)は彼と一緒の墓に埋葬された。

ネルソン・ロックフェラーネルソン・アルドリッチ・ロックフェラー (Nelson Aldrich Rockefeller、1908年7月8日 - 1979年1月26日)は、ニューヨーク州知事およびアメリカ合衆国第41代副大統領。愛称はロッキーRocky)。

メイン州バー・ハーバーで生まれる。父はジョン・ロックフェラー2世。父方の祖父はスタンダード石油の創業者ジョン・ロックフェラー、母方の祖父は共和党保守派の実力者、ネルソン・W・オルドリッチ上院議員(ロードアイランド州選出)である。またアーカンソー州知事を務めた(1967年-1971年))ウィンスロップ・ロックフェラー、チェース・マンハッタン銀行のCEOを務めたデイヴィッド・ロックフェラーは実弟、ジェイ・ロックフェラー上院議員(民主党、ウェストヴァージニア州選出、1985年-)は甥に当たる。

初期の経歴

1930年にダートマス大学を卒業、その後家業に従事することとなる。特にベネズエラでの石油採掘に大きく関わった。第二次世界大戦中に、フランクリン・ルーズベルト大統領によってラテン・アメリカ担当の国務次官補に任命されたが、これはベネズエラでの経歴を買われてのことだった。続くトルーマン政権でも国際開発に関する顧問を務める。

1953年に同じ共和党員のドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任すると、外交問題担当の顧問、政府組織に関する大統領顧問委員会の委員長、保健教育福祉次官を歴任し、アイゼンハワー大統領の側近として活躍した。このように最初からアメリカ冷戦外交政策とオイル政策の総元締的な立場であり、自らのスタンダード・オイル、エクソン、モービル、BP、シェルなどと事実上カルテルを形成し、世界の石油市場での価格を未だに左右している。

1956年にロックフェラーは連邦政府の役職から退き、ニューヨーク州での政治活動に専念するようになる。だが、1961年、ジョン・F・ケネディが大統領職に就くと事情は一変した。ケネディはオイル業界に長年施されてきた特典、利益の27.5%を自動的に必要経費として認める、ことをストップすることを計画していた。この計画を知ったネルソンは烈火のごとく怒ったという。また、若きオイルビジネス・マンに過ぎなかったジョージ・W・ブッシュ元大統領は「ケネディはいずれ暗殺される。」というオイル業界内の当時の空気を述懐している。しかし、ネルソン・ロックフェラーは違った形で自分の理想を追い求めた。ニューヨーク州知事

ニューヨーク州知事時代にリンドン・ジョンソン大統領と会見するロックフェラー

1958年のニューヨーク州知事選で、ロックフェラーは民主党現職のW・アヴェレル・ハリマンを破って当選し、1959年にニューヨーク州知事に就任した。ロックフェラーは1973年まで知事を務めた。知事として彼は教育政策の拡充に努め、ニューヨーク州立大学を全米最大の公立大学に育てた。また都市部の人口増加に対応し、ニューヨーク州都市開発公社(New York State Urban Development Corporation、UDC)を設立するなど、都市部の開発を強力に推進し、高速道路網や低所得者向けの公営住宅を整備した。加えてニューヨーク市の交通システムを管理する機構の改革を実施した。

一方で、ロックフェラーは麻薬の取締りに力を入れ、コカインなど特定の麻薬の所持の量刑を第2級殺人とほぼ同じにするなど、麻薬を厳しく取り締まる一連の立法を行った。これらの法律はロックフェラー麻薬法と一般に総称され、全米でも最も厳しい麻薬取締法として有名であった。また1971年にアッティカ刑務所で囚人の暴動が発生した際には、州兵を送ってこれを鎮圧する毅然とした姿勢を示した。

外交政策における反共主義の立場から、ロックフェラーはニクソン政権のベトナム、カンボジアにおける政策を強く支持した。このことは当時多くの活動家から非難された。

大統領選への挑戦

しかしながら、ロックフェラーの最大の目標はアメリカ合衆国大統領に就任することであった。この目標のために彼は1960年、1964年、1968年の三度にわたって共和党の大統領候補指名を模索した。だが、1960年には現職副大統領にして最有力候補のリチャード・ニクソンが指名を獲得した。

1964年には最有力候補と看做されるが、彼自身の離婚問題もあってバリー・ゴールドウォーター上院議員との激しい指名争いの末、指名獲得に失敗した。1964年の指名争いは、西部を基盤とする保守派のゴールドウォーターが、東部を基盤とする代表である穏健派のロックフェラーを破ったことで、共和党内の主導権が、東部基盤の穏健派から西部(後に南部も加わる)基盤の保守派へ移る契機となったと一般に考えられている。

1968年には一度不出馬及びジョージ・ロムニーミシガン州知事の支持を表明したロックフェラーだが、キング牧師の暗殺を契機に出馬表明をした。だが、再びニクソンの前に敗れた。1968年の大統領選挙で、ヴェトナム反戦、即時撤退を訴える多くの候補者が脚光を浴びた。ユージーン・マッカーシー、ロバート・ケネディ両上院議員はその代表格である。しかし、反共主義者でもあったロックフェラーは一切戦争への反対を訴えず、北ヴェトナム、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)との交渉のみを訴えた。

副大統領職 1976年の共和党大会において(左からボブ・ドール、ナンシー・レーガン、ロナルド・レーガン、ジェラルド・フォード、ロックフェラー、スーザン・フォード、ベティ・フォード)。

1974年にリチャード・ニクソン大統領が辞任し、ジェラルド・フォード副大統領が大統領に昇格した。同時にロックフェラーは、フォード大統領により副大統領に指名された。彼は12月10日に上院で、19日に下院でそれぞれ承認された。これによりロックフェラーは、合衆国憲法修正第25条により副大統領に就任した2人目の人物となった。

ニューディール期以降、大統領の権限の拡大が続く中、特に1960年代には大統領やその側近への権限の集中が進んだ。ニクソン政権下ではこうした傾向が最高潮に達したとされ、ウォーターゲート事件の影響もあって帝王的大統領制(Imperial Presidency)であると非難を浴びた。フォード大統領がニューヨーク州知事を4期務めた大物、ロックフェラーを副大統領に指名したことは、副大統領への権限の移譲を視野に入れてのことだと当時は言われた。特にロックフェラーは、国内政策に関して大きな役割を果たすものと考えられていた。だが、ドナルド・ラムズフェルド大統領首席補佐官(1975年から国防長官)をはじめとした大統領の側近グループは、ロックフェラーの権限の強大化を恐れ、また路線対立もあって副大統領が政策に影響を与えることを抑制した。この結果、ロックフェラーは予想された大きな役割を果たすことができなかった。

1976年の大統領予備選で、フォード大統領は保守派のロナルド・レーガン前カリフォルニア州知事の厳しい挑戦を受け、かろうじて指名を獲得した。ロックフェラーは予備選でレーガンを支持する保守派からリベラルであると看做され、批判を受けていたこともあって、1975年11月に翌年の大統領選挙で副大統領候補としての指名を求めないことを明言した。代わりにロバート・J・ドール上院議員が副大統領候補に指名された。フォード大統領がこの年の大統領選で敗れると、ロックフェラーも1977年に副大統領職を去った。

共和党穏健派のリーダー

彼は自らの立場を「人間に関する問題では、私はリベラルだ。一方経済と財政政策に関する問題では、私は保守主義者だ。」としている。公民権運動に同情的で、人種差別の撤廃を積極的に支持した。他の大半の共和党員と同じく、南部諸州における人種隔離政策に終止符を打ち、人種間の法的な平等を保証する1964年の公民権法を支持した。ロックフェラーは一般に共和党内の穏健派の代表格と考えられている。すなわち、社会問題でリベラルな姿勢をとった。彼のように社会政策に関してはリベラルで、他の問題ではおおむね他の党員と見解を一にする共和党員を「ロックフェラー・リパブリカン」と呼んだ。

しかしロックフェラーは他の分野では他の共和党員と同じ考えを持った。すなわち、政府の市場経済への必要以上の介入に反対し、低い税率、簡素で公平な税制、財政均衡、「小さな政府」を少なくとも表面上は支持した。また「ロックフェラー麻薬法」、アッティカ刑務所暴動に見られるように「法と秩序」の問題では他の共和党員同様強硬で毅然としたスタンスを取った。加えて反共主義者であり、「冷戦の闘士(Cold Warrior)」、タカ派としての一面もあった。ちなみにヘンリー・キッシンジャーは、1968年のキャンペーンにおけるロックフェラーの顧問であった。

ロックフェラーは知事としての任期中、3度増税し、支出を拡大させたと保守派から批判されたが、当時の州知事は、例えばロナルド・レーガンのような人物でも全員支出を拡大させ、増税を行った。従って、この事をもってロックフェラーが「大きな政府」を支持していると批判することは的を射ていない。

私生活と死

ロックフェラーはモダンアートの蒐集家として著名であった。彼の母はニューヨーク近代美術館の設立に大きく関わり、息子のネルソン自身も母親の活動を引き継いだ。彼の息子マイケル・ロックフェラーは人類学者となり、探検先のニューギニアで行方不明となった。ロックフェラーは、マイケルが世界各地で集めた美術品をメトロポリタン美術館に寄贈した。ネルソンはまたロックフェラー財団を通じた慈善事業家としても著名であった。

1979年1月26日、ロックフェラーは急死したが、後にこれが愛人宅における腹上死だったことが公になり大騒動になった。ロックフェラーの心臓発作に動転した愛人が、浮気発覚を恐れて友人宅などに電話をするなどして時間を浪費、救急通報が1~2時間も遅れたことが命取りとなった。皮肉なことだが、イスラエルの首都エルサレムの南郊にはロックフェラー財団建立による「ロックフェラー博物館」がある。最大の呼び物はイエス・キリストが活動した時期と同時期の最も厳しい戒律で知られたエッセネ派が羊皮紙に遺した「クムラン洞窟文書」(死海文書)全巻が公開保存されていることである。別にユダヤ教徒でもないロックフェラー一族だがキリスト教徒WASPにとって敵ともいうべき、ユダヤ教徒の聖典をこうまでしている背景に、背筋が寒くなる思いである。

ハワード・ロバーズ・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes, Jr., 1905年12月24日 - 1976年4月5日)はアメリカの実業家・映画製作者・飛行家で、20世紀を代表する億万長者として知られ、「資本主義の権化」、「地球上の富の半分を持つ男」と評された。ひゅーず

来歴

テキサスのヒューストン出身。父親はハワード・ロバード・ヒューズ・シニア(Howard Robard Hughes, Sr. ビッグ・ハワード、最終学歴はハーバード大学法学部中退)。母親は名家出身のエイリーン・ガノ・ヒューズ(Allene Gano Hughes)。父のビッグは、弁護士資格を持っていたものの、地道に働くのが性に合わず一攫千金を夢見て鉱物の掘削に取り組む。浮き沈みの激しい生活であったがハワードが3歳のとき、ドリルビットの特許と共にシャープ・ヒューズ・ツール社を設立(後のヒューズ・ツール社)した。 同社が製造したビットは、それまでのものとは桁違いの掘削能力を発揮し、ヒューズ家に大金をもたらした。

息子を溺愛していた父親の不在、父方の遺伝による難聴、母親の異常なまでの潔癖症などもあいまって、ヒューズは内向的な性格となった。また、学業にはほとんど興味を示さず、飛行機・レーシングカー・アマチュア無線に魅力を感じるようになった。1922年、ヒューズが16歳のとき母エイリーンが病死し、その2年後に父ビッグが急死した。彼は18歳で孤児となったが、遺産として871,000ドルと評価されたヒューズ・ツール社の株 (75%)と当時、ほとんどのメーカーの石油・ガスの掘削機が使用していたドリルビットの特許を受け継いだ。

1925年にカリフォルニア州に移り、莫大な遺産を元に1927年、かねてからの夢であった映画製作と飛行家業をはじめる。

この頃、偽名でアメリカン航空に郵便係として雇用され、そのまま飛行技術を体得した。

結婚歴

ヒューズには3度の結婚歴が有り、1度目は19歳の時にエラ・ライスと、2度目は44歳の時にテリー・ムーアと、3度目は52歳の時にジーン・ピーターズとである。なお、ヒューズの死後、テリー・ムーアの「ヒューズとはメキシコ沖の公海上のヨットで極秘に結婚し、離婚はしていない」という主張が認められた為、1957年1月12日から1971年6月まで約14年半の間、重婚していたことになった。

映画製作者

地獄の天使

『地獄の天使』公開時の映画館。戦闘機の模型が展示されている

当初はハリウッドの映画界にコネもない上、映画制作の経験もないためその手腕は疑問視されたが、その後、1928年に製作された『暴力団』で第1回アカデミー賞最優秀作品賞候補にノミネートされた他、史上初めて製作費が100万ドルを超えた超大作『地獄の天使』(1930年)や、『暗黒街の顔役』(1932年)などのヒット作の製作を手がけるなど、数々の成功を収めた。

第一次世界大戦のパイロット達を描いた作品である『地獄の天使』は、87機の第一次世界大戦当時の戦闘機や爆撃機を購入し実際に飛行させ撮影するなど、当時としては破格の100万ドルを超える製作費をかけた超大作で、公開当時大ヒットしたものの、結局その製作費を回収することは出来なかった。なお、この映画の撮影には2年の年月がかかった上、撮影中の事故で3人のパイロットが死亡している。また、自身も飛行し墜落、眼窩前頭皮質を損傷する。この怪我が後の自身の奇行の原因になったといわれる。

RKO

1948年には当時の有力映画会社の一つで、経営危機に陥っていたRKO(ラジオ・キース・オヒューム、Radio-Keith-Orpheum) 社を880万ドルかけ買収し傘下に収め、制作・配給体制を強化している。買収後は『征服者』(1956年)や『ジェット・パイロット』(1957年)などのヒット作を送り出すものの、経営状態を改善するまでには至らず、その後トランス・ワールド航空の経営資金を捻出するためもあり、売却することになる。

プレイボーイ また、映画制作の傍ら、キャサリン・ヘプバーンやエヴァ・ガードナー、ジーン・ハーロウなど数々のハリウッド女優やセレブリティらと浮名を流したことでも有名であった。また、自らの趣味をかねて新人女優(その多くが胸の大きな女性であった)を発掘し、育て上げる手腕は評価が高かった。

飛行機好き

トランスワールド航空のロッキードL-1049「スーパー・コンステレーション」

H-4 ハーキュリーズ

ヒューズ・エアクラフト

そんなヒューズが映画の他に情熱を傾けたのは、当時の技術の最先端を行く航空産業であった。手始めに1935年には自らの名を冠した航空機製造会社、ヒューズ・エアクラフト社を設立した。その後、偽名でアメリカン航空のパイロットになっている。

1937年には自らの操縦によりニューヨーク - ロサンゼルス間を7時間29分25秒で飛行、当時のアメリカ大陸横断記録を樹立した。1938年にはわずか91時間で世界一周飛行を行い、こちらも当時の最速記録を樹立した。その後1939年には、当時のアメリカを代表する大手航空会社の一つである「トランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空」(T&WA) を買収、その後自社が導入した大型旅客機ロッキード コンステレーションやコンベア880などの最新鋭機の開発に関わるなど、次々と自らの夢を叶えてゆく。

スプルース・グース

その集大成とも言えるのが、H-4 ハーキュリーズ 飛行艇である(ハーキュリーズはギリシア神話の英雄であるヘラクレスの英語読み)。大部分が木製のため、「スプルース製のガチョウ(スプルース・グース)」とも呼ばれたこの機体は、1947年の完成当時、世界最大の航空機であり、2010年現在までのところ、これよりも大きな翼幅の飛行機は製作されていない(関連: 世界一の一覧)。

当初はアメリカ軍向けの輸送機として開発されたものの、第二次世界大戦の終結により購入契約が破棄された。ヒューズが全力を傾けて作り上げたこの巨大な飛行艇は、わずか1機だけが製造され、完成後はヒューズ自らの手でわずか1回飛行しただけで、その後はカリフォルニア州のロングビーチ港に永く展示された。現在はオレゴン州マクミンビルにあるエバーグリーン航空博物館で展示されている。

TWA

1946年には、自らが開発に関わった高速偵察機 XF-11を操縦中に、機体が故障しロサンゼルス郊外のゴルフ場に不時着を試みるが失敗、住宅地に不時着し大怪我を負うが、それでも飛行機への情熱は失わなかった。 1950年には「トランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空」を、本格的な国際線進出に合わせてトランス・ワールド航空 (TWA) と改名。同社をライバルのパンアメリカン航空と並び、アメリカを代表する航空会社の一つに成長させた。

最終的に1966年に同社を手放すものの、その後も国内航空会社のエア・ウェスト航空を傘下に収めるなど(その後ヒューズ・エア・ウエストに改名)、生涯を通じて航空産業とは深い関係にあった。

政府との関係

ヒューズの政治家との関係で特筆すべきものは、地元のカリフォルニア州選出の上院議員で、後に大統領となったリチャード・ニクソンとの親密な関係である。ヒューズはニクソンの選挙に莫大な献金をしており、1971年にはヒューズからニクソンに選挙と全く関係のない資金が流れたという疑惑も、反共和党のジャーナリストのジャック・アンダーソンにより書き立てられた(もしこれが事実であれば犯罪となる)。これはちょうどウォーターゲート事件の真っ最中だったので、ウォーターゲート調査委員会(アーヴィン委員会)はこの件に関して調査を行ったが、どのように資金が渡されたか決定的な結論は得られず事実と証明することはできなかったために、あくまで疑惑の範囲内に終わった。

ヒューズは、ジョン・F・ケネディに対して嫌悪感を抱いていた。それは、ケネディの進めた黒人の公民権プログラムにある。彼は徹底的な白人主義者であり、この世の病原菌全ては黒人達が運んでいるとさえ思っていた。しかも当時CIAは保安局長シェフィールド・エドワーズはカストロ暗殺を実行できる人間を探し出すよう命令されている。命令したのはCIA作戦局次長リチャード・ビッセルである。まずエドワーズはそのルートに詳しい者としてロバート・メイヒューと言う男にコンタクトする。彼は元FBIエージェントであり、私立探偵であり、ハワード・ヒューズの個人的CIAコネクションの連絡係だった。つまり、ヒューズはCIAのカストロ暗殺計画に対して裏から援護していた事になる。これは別に不思議な事ではなく、彼の創った会社の多くがCIAの隠れ蓑に使われている事実が示している。皮肉なことにケネディ暗殺直後、公民権法は上院を可決通過した。晩年

強迫性障害

様々な事業を手がけ、多才な大富豪として富と名声を手にしたヒューズであったが、その晩年は孤独であった。1946年の墜落事故に痛み止めとして使われた麻薬(コデイン)中毒に陥り、深刻な精神衰弱となった。以前から数回の墜落事故による脳への損傷から強迫性障害と思われる行動を繰り返していたが、年を取るにつれて拍車がかかった。

極度に細菌を恐れるようになり、トランス・ワールド航空を売却した資金で、1966年にネバダ州のラスベガスにある有名なカジノホテル、デザート・インを買収すると、完全に除菌された最上階のスイートルームから、殆ど外出しなくなる。

強迫性障害により、ドアノブを除菌されたハンカチで覆わないと触れなかったり、手を洗い始めると擦り切れて血が出るまでその動作をやめられなくなるため、一切の入浴や手の洗浄が事実上不可能になったとも言われている。そのため、髪と髭は伸び放題で体は垢にまみれ、耐え難い異臭を放っていたという。

孤独な死

1976年2月10日、ラスベガスからメキシコのアカプルコ・プリンセス・ホテルのスイートルームに本拠を移す。1976年4月5日昏睡状態に陥り、治療のためメキシコからアメリカに戻る際に自家用機内で死亡。70歳であった。

190 cmあった長身はアスピリンなどの薬物乱用のため10 cm以上縮み、体重はわずか42 kg。あまりに痩せ細ったその容貌からはヒューズと判定できず、FBIによる指紋照合が行われた。その亡骸は生まれ故郷テキサス州ヒューストンの墓地に埋葬されている。死因は脳血管障害、心臓病などがあげられている。

また、ヒューズは明確な遺書を残さなかったため、彼の残した天文学的な財産を処理するためには莫大な労力とおよそ20年もの歳月が必要であった。 死亡から3週間後、ヒューズの遺言状とされるもの(通称「モルモン遺言書」)が、とあるガソリンスタンドの店員en:Melvin Dummarに届けられる。その内容は、放浪の中でホームレス生活を送った際に、その間1ドルを恵んでくれたMelvin Dummarに遺産の16分の1(推定1億ドル以上)を分け与えるというものであった。

ただ、この「モルモン遺言書」については不可解な点も多く、真偽を巡って現在も訴訟が続いている。詳しくは英語版記事を参照。その他、過去の伴侶達にも遺産は贈与された。

ハワード・ヒューズ医学研究所

1953年に保有するヒューズ・エアクラフト社の全株式を拠出してハワード・ヒューズ医学研究所を設立した。非課税の慈善団体にヒューズ・エアクラフト社の株式を移すことによって租税回避を行いつつ、研究所を介して同社の経営権を維持することが目的だったとされる。ヒューズの死までは、その資産と比較して事業規模(研究資金の拠出額)は大きなものではなかった。事業規模が拡大したのはヒューズ死後のことである。

現在、研究所は、生物医学分野における大学学部教育の助成から大学院生への奨学金、将来性のある若手研究者(特にマイノリティ・女性)への助成、トップクラスの研究者への資金提供まで、広範な助成活動を行っている。とりわけ、トップクラスの研究者に対して重点的に多額の資金提供を行っている。

研究費の提供は、研究助成金(グラント)ではなく、大学等に所属する研究者を在籍のまま同研究所の研究員として雇用するかたちで行われる。研究員ひとりあたり平均年間研究費は約100万アメリカドル。2005年9月現在、財産総額148億アメリカドル、年間事業総額4億8300万アメリカドルで、ビル&メリンダゲイツ財団に次ぐ全米第2位の慈善団体、イギリスのウェルカム・トラストに次ぐ世界第2位の医学研究財団である。

研究員から多くのノーベル賞受賞者を輩出している。所長ロバート・チアン(Robert Tjian、カリフォルニア大学バークレー校教授)、理事長ハンナ・グレイ(シカゴ大学名誉教授)、本部はメリーランド州チェビーチェイス。

中央情報局バージニア州マクレーンにある中央情報局本庁。従来は同州のラングレーだった

アメリカ中央情報局(アメリカちゅうおうじょうほうきょく、Central Intelligence Agency, CIA)は、CIA長官によって統括される、対外諜報活動を行うアメリカ合衆国の情報機関の1つ。

概要

大統領の直轄組織であり、米軍やその他米国政府内の情報機関からは独立して存在している。 CIA自身が収集した情報の他に、国家安全保障局や国家偵察局、国防情報局(DIA)、各軍の情報部、財務省情報部、原子力委員会情報部などからの情報を集めて分析し大統領と国家情報長官に報告する。俗称カンパニー

米国内の多数の情報組織から構成されるインテリジェンス・コミュニティーは国家情報長官によって統括され、CIAはその「中央」にある情報機関である。

徹底した秘密主義、度々暴露されるいくつかの悪事から、いかにも怪しい組織といった印象が全世界的に強いため疑念の対象として見られることも多い。 イランなど反米国家においては、逆にテロ組織に指定されている。国務省や連邦政府がおおっぴらに関与する事の出来ない“裏稼業”を行う事から、「見えない政府」「もう一つのアメリカ政府」「クーデターメーカー」などと渾名される。

イスラエル諜報特務庁(モサド)やイギリス情報局秘密情報部とつながりが深い。また、米国、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの諜報機関は、アングロ・サクソン連合として横の連携がある。

活動内容

アメリカ合衆国の外交政策・国防政策の決定に必要な諜報・謀略活動(ヒューミント)を行う。 スパイを擁する情報機関であるため活動内容には不明な点が多く、虚実の区別が難しく、諜報活動のために膨大な予算と権限を与えられているが、その用途などの詳細情報は報告義務の必要がない。

一般には以下のような活動があるといわれている。

  • 世界に知られる訳にはいかない機密の保持や証拠物件等の抹消
  • 敵国指導者の暗殺
  • 敵国外交官の買収・懐柔・脅迫
  • 敵国内での情報操作、プロパガンダから民衆扇動
  • 交戦中の敵国捕虜に対する尋問・拷問
  • 潜在的敵対国にとっての反政府組織やゲリラなどへの人材・資金面や交流・援助
  • アメリカが攻撃対象とできる反米集団の育成
  • 反米政権打倒と親米政権樹立の援助
  • 独裁政権の打倒や樹立の援助

非アメリカ国籍者をも組み込んで、エージェントを政治家や官僚、軍人から、NPO活動家や宗教団体、留学生、芸術家、無職者に至るまで広範な職業に偽装させて全世界に配置しているという意見がある。 ジャーナリストがテロの対象となるのを防止する意味と、報道の自由、中立性を担保する目的で、エージェントを報道関係者として偽装させないと主張している。

末端のエージェントや職員は自分の活動の目的となる作戦の全容を開示されていない、もしくは虚偽の説明を受けていることも多いという考えもある。

他国の政権中枢と反政府勢力の双方に接触して政策決定をコントロールする分割統治方式を得意としているという。

目的達成のためにはアメリカ国民すら反感を持つような反社会集団の活用も辞さない。 例えば1950年代にはチベットの反中武装闘争組織チュシ・ガンドゥクを支援していた。

フォード大統領により、暗殺禁止の大統領令が出されたこともあるが、今では撤回され、パキスタン、イエメンなどで無人偵察機プレデターでイスラーム主義テロ組織の要人を暗殺している。

ベトナム・イラク・アフガン等での戦争において、局員は現地へ潜入し敵性ゲリラ・民兵・テロリストの情報収集を行い、その拠点や隠処の爆撃時機・座標を米軍へ通知している。しかし、不正確な情報であることもしばしばで、誤爆による多大な民間人の犠牲を招いている。

2001年の9・11テロ後は、コマンド部隊によるテロリストの逮捕・殺害計画を極秘に企画していた。米政府の元高官によると、この計画は1972年のミュンヘンオリンピックで起きたイスラエル人選手の暗殺事件後にイスラエル諜報特務庁(モサド)が実行した報復作戦に類似しているという。

2006年5月、“テロリスト関係者若しくはそれらと接触した人物”をアメリカ上陸の際に拉致し、国内法の及ばない地域(シリアやグァンタナモ米軍基地)の秘密収容所に、取調べを口実に収監していた事が判明して、アムネスティ・インターナショナルや母国政府が調査に乗り出す事態になっている。2006年9月、ジョージ・W・ブッシュ大統領は秘密施設の存在を認め、この秘密施設でのCIAによる取調べを「CIAプログラム」と表現した。

日本への関与

日本占領期から、児玉誉士夫、笹川良一、岸信介、田中清玄、正力松太郎などをエージェントとして、揺籃期の自由民主党に活動資金を提供し、政治及び国内のアメリカニゼーションと政府の親米化に一役買った。

2006年7月18日に公開されたアメリカ国務省編纂の外交史料集によると、冷戦時代にはアメリカ政府の反共政策に基づき日本の親米勢力や左派穏健勢力に秘密資金を提供していた。秘密資金の提供を受けたのは岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者と社会党右派(後に民社党を結党する勢力)とみられている。この結果、右派が民社党をつくり、日本社会党は弱体化することになった。

冷戦終結後、双子の赤字に苦しむアメリカ政府がCIAの人員や経費の削減等を行う危機に直面したCIAは、日本等の友好国の経済情報などの非軍事分野での情報収集と分析をはじめた。 1990年4月にはウェブスターCIA長官が「日本やヨーロッパ諸国の経済上の競争相手に対する情報戦略を扱う企画調整室を設けた」と発言し、1992年4月にはゲーツCIA長官が「業務の約4割、予算の2/3は経済分野に当てる」と演説した。2011年にはジェラルド・カーティスが対日工作者の一人であると名指しされている。

日本の指定暴力団ともコネクションを持つとされる。 岸の系列から、統一協会への関与も主張される。 エージェントの正力松太郎を使って日本全土を縦断する一大反共軍事通信網を構築する構想があったとされる。(→正力マイクロ波事件)

歴史

第二次世界大戦中のOffice of Strategic Services(OSS-戦略事務局)がCentral Intelligence Group(CIG-中央情報グループ)及びOffice of Political Coordination(OPC-政策調整局)を経て1947年に成立した国家安全保障法により改組され誕生した。

第二次世界大戦終了後、アレン・ダレスはドイツから数千人ものナチス出身者を招聘(連行)して、CIAの作戦能力を強化させた(ペーパークリップ作戦、MKウルトラ作戦など)。以後CIAはファシストの総本山として君臨し今もなおその影響力は絶大である。

東西冷戦時代は共産主義国の転覆を狙っていたこともあり、特に有名な活動が1961年のキューバにおけるピッグス湾上陸作戦事件である。長官アレン・ダレスはケネデイに「大統領閣下、この作戦の成功確率は100%以上です。」と言い。かたや亡命キューバ人の軍やシンジケートには米軍の投入を約束そていた。典型的なダブルトーク(二枚舌)である。作戦が実行に移り、アレン・ダレスは即座に米軍の投入をケネディに脅迫的せまったが、中国政府がベトナムと北朝鮮国境で軍の移動を開始したとの情報を入手した途端、これを却下、結局、亡命キューバ軍は全滅、 この作戦は失敗した、アレン・ダレス、チャールズ・カベル副長官は責任を問われ罷免、アレン・ダレス、チャールズ・カベル両人ともケネディを「腰抜けの裏切り者」呼ばわりしCIAを去った。しかし、彼は腹心の部下を要職に就けるのを忘れなかった。リチャード・ヘルムズ、ジェームス・アングルトン、エベレット・ハワード・ハントなどである。そして彼は影からCIAを操り続けた。ケネディは後に「弟のロバートをCIAに入れるべきだった。」と述懐しているが、ともかくCIA長官に親友のジョン・マコーンに就任してもらい改革を計った。 しかし、実現する前に、特にキューバ危機を境にケネディが「共産主義者に膝を屈し、取引した!」とみなされるようになると、CIA内部で計画されていたカストロ暗殺計画と組織がケネディ暗殺に向けてセットアップされていった。結果はケネディ大統領暗殺事件で凶弾に倒れた。ここでCIAが果たした役割はキューバ人からなる暗殺実行部隊ヒットマン提供と、ヒットマン達の国外脱出、そして何よりも”偽の真犯人”リー・ハーベイ・オズワルド”の提供であった。(彼の役割と行動については後述)。その後はリチャード・ニクソンの手足のように働き、ベトナム・エスカレーション、ウォーター・ゲート事件などを引き起こしている。特に注目すべきはCIAのAGENTエベレット・ハワード・ハントがウォーター・ゲート事件後にニクソンに100万ドルの恐喝を行っている点である。それに対してニクソンは応ずるしかないとワシントン・テープの中で述べている。その背景にあるものはなんなのか?ケネディ政権時代、ニクソンはペプシコーラ社の顧問弁護士として生計を立てていた。しかもケネディ大統領暗殺の日前夜、ダラスを立ち去っている。偶然なのであろうか?ハントが要求した100万ドル、すでに新聞にも出てしまっているのに高すぎはしないか?その後ハントの妻が乗っている飛行機が墜落するという事件が起きた。この茶番!ハントがニクソンの何を知り、100万ドルを得て闇に消えた今、謎だけが残る。

ワシントン・テープの公開は2029年だがニクソンの手により削除が徹底的に行われており、あまり価値はない。1980年代ソ連崩壊直前には、世界中で主要敵であるソ連国家保安委員会(KGB)の諜報員の離反を成功させるなどして冷戦の終結に貢献した。

2001年よりブッシュ政権下で予算は大幅に増額された。 一方、CIAはブッシュ政権下では機能が発揮されていないという指摘もある。 ブッシュ政権下で勢力を増したネオコンは、CIAに対し不信感を持っていたため、国防総省の情報分析能力強化やネオコン派による独自の情報分析といった行動を行った。 その結果、CIAはインテリジェンス・コミュニティーの主流派から外れ、十分に機能しなくなった。 こうした流れは、2010年頃まで続いた。

ポーター・J・ゴスは、それまでの最上級幹部を全て辞めさせ、大統領の政策に異議を唱えることを禁じる命令を出した。 これによって、CIAの職員は2005年までに総員の半数が5年以下の経験しか持たない組織になった。

組織

  • 国家秘密本部:旧作戦本部。ヒューミントに従事。
    • 核拡散部
    • 対テロ・センター
    • 防諜センター
    • 麻薬対策センター
    • CIS部
    • 欧州部
    • 近東・南アジア部
    • 東アジア部
    • アフリカ・中南米部
    • 技術支援部
  • 情報本部:情報の評価・分析、情報資料の作成
    • CIS分析部
    • 欧州分析部
    • 近東・南アジア分析部
    • 東アジア分析部
    • アフリカ・中南米分析部
    • 兵器科学研究部
    • グローバル問題部
    • 情報資源部
    • 外国指導者分析部
  • 科学技術本部:技術的情報収集手段の研究・開発
    • 技術システム研究・開発部
    • 傍受部
    • 技術保障部
    • 国外ラジオ放送部(FBIS)
  • 行政本部:人事、訓練、施設の保安等
    • 人事部
    • 要員訓練部
    • 警備部
    • 会計部
    • 情報保管・検索部
    • コンピュータ機材部
    • 通信部
  • 計画本部:諜報活動の計画・調整
  • 法務部
  • 監察部
  • 会計監査部
  • 秘書部
  • 会計計画部
  • CIA史編纂部
  • 暗号書簡部
  • 公表検討会議

長官

2005年4月21日以前、CIAの長官はCIAだけでなく 情報共同体(Intelligence Community)の長(おさ)でもあったため、中央情報長官(DCI、Director of Central Intelligence)と呼ばれていた。この日以降は CIA 専属の長官(DCIA、Director of the Central Intelligence Agency)となり、 インテリジェンス・コミュニティーはアメリカ合衆国国家情報長官が統括している。

これはThe Intelligence Reform and Terrorism Prevention Act of 2004(2004年の情報改革及びテロ予防法)により国家安全保障法が改正されたことを受けた措置である。副長官も、中央情報副長官DDCIがおり、通常は中将が任命される(もっともCIA本部で勤務するが)。CIAには副長官がおらず、次官だけ複数いる。例えば工作担当次官はDDO、情報担当次官はDDIなど。

なお、CIAの日々の業務は Exective Director of the Central Intelligence Agency (EXDIR) が総括することとなっている(2004年4月時点での組織図では、CIA長官の Deputy として DDCI、EXDIR の Deputy として D/EXDIR が記載されている)。

歴代長官

氏名任期シドニー・W・ソワーズ海軍少将1946年1月23日 - 1946年6月10日ホイト・S・ヴァンデンバーグ空軍中将1946年6月10日 - 1947年5月1日ロスコー・H・ヒレンケッター海軍少将1947年5月1日 - 1950年10月7日ウォルター・ベデル・スミス陸軍中将1950年10月7日 - 1953年2月9日アレン・ウェルシュ・ダレス1953年2月26日 - 1961年11月29日ジョン・マコーン1961年11月29日 - 1965年4月28日ウィリアム・F・レイボーン退役海軍中将1965年4月28日 - 1966年6月30日リチャード・ヘルムズ1966年6月30日 - 1973年2月2日ジェームズ・R・シュレシンジャー1973年2月2日 - 1973年7月2日ウィリアム・E・コルビー1973年9月4日 - 1976年1月30日ジョージ・H・W・ブッシュ1976年1月30日 - 1977年1月20日スタンズフィールド・ターナー退役海軍大将1977年3月9日 - 1981年1月20日ウィリアム・J・ケーシー1981年1月28日 - 1987年1月29日ウィリアム・H・ウェブスター1987年5月26日 - 1991年8月31日ロバート・M・ゲイツ1991年11月6日 - 1993年1月20日R・ジェームズ・ウルジー1993年2月5日 - 1995年1月10日ジョン・M・ドイッチ1995年5月10日 - 1996年12月15日ジョージ・J・テネット1997年7月11日 - 2004年7月11日(2004年6月3日に辞任)ジョン・E・マクラフリン2004年7月11日 - 2004年9月24日ポーター・J・ゴス2004年9月24日 - 2006年5月5日マイケル・ヘイデン2006年5月5日 - 2009年1月20日レオン・パネッタ2009年1月20日 - 2011年6月30日デヴィッド・ペトレイアス陸軍大将2011年9月-

ヘルムズには McGarrah というミドルネームがあるが、本人が嫌って M をつけないとされる。

有名なCIA局員 (長官を除く)

  • ジム・アングルトン(Angleton, James Jesus "Jim" )
  • レイ・S・クライン(Cline, Ray S.)
  • エドワード・G・ランズデール大佐(Lansdale, Col.Edward G.,USAF)
  • ジェリー・ドローラー(Droller, Jerald F.)
  • テッド・シャクリー(Shacley, Theodere "Ted")
  • E・ハワード・ハント(Hunt,Edward Howard "Ed")
  • キム・ルーズベルト(Roosvelt, Kermit "Kim")
  • ピアー・デ・シルバ
  • ビル・ハーベイ(Harvey, William King "Bill")
  • ビクター・マルケッティ
  • J・C・キング大佐
  • リチャード・ビッセル
  • クレア・ジョージ(George, Clair Erloy)
  • ルシアン・コネイン大佐(Conein,Lucien Emile Phellipe)
  • ジョン・リチャードソン(Richardson, John Hammond "John")
  • ロバート・エイムズ
  • ロバート・ベア

CIAが主導ないし関与したとされる作戦・事件

  • エイジャックス作戦(en:Operation Ajax) - イランのモハンマド・モサッデク政権転覆作戦。
  • PBSUCCESS作戦 - グアテマラのアルベネス・グスマン政権転覆作戦。
  • U-2撃墜事件
  • ピッグス湾事件 - キューバの「反革命傭兵軍」による親米化クーデターを支援(失敗)。
  • アコースティック・キティー - 猫を使った盗聴作戦(失敗)。
  • プロジェクト・ジェニファー - ソ連の629型潜水艦K-129のサルベージ作戦。
  • チリ・クーデター - サルバドール・アジェンデ政権転覆。
  • イラク・バアス党への資金提供、アブド・アル=カリーム・カーシム政権転覆支援。
  • アフガニスタンのムジャーヒディーンへの資金提供、育成
  • イラン・コントラ事件
  • トンキン湾事件
  • ベトナム戦争におけるCIDG(民間不正規戦グループ)計画および、特殊部隊の支援
  • インドネシアの反スカルノクーデター(9月30日事件)
  • フィリピンのベニグノ・アキノ暗殺およびエドゥサ革命
  • イタリアの反政府組織赤い旅団への資金提供(欧州でのグラディオ作戦 Operation Gladio)元イタリア首相アルド・モーロ/アルド・モロ誘拐暗殺。
  • 韓国KCIAの育成・監督(朴正煕大統領暗殺にも関与説有)
  • パキスタン陸軍参謀長ジア・ウル・ハク将軍によるクーデター、ズルフィカル・アリ・ブットパキスタン元首相処刑(後のハク将軍事故死にも関与説有)
  • アメリカの黒人集住地域、ヒスパニック集住地域での麻薬流通
  • 洗脳技術研究を行ったMKウルトラ計画
  • コールドフィート計画 - ソヴィエト連邦の北極基地での情報収集
  • イラク戦争 - 大量破壊兵器の存在を過大に主張し開戦へと導いた。後に、大量破壊兵器はまったく存在しなかったとコリン・パウエル国務長官が謝罪する結果となった
  • スーダンの製薬工場へのミサイル攻撃 - 実際は製薬工場であった所をVXガスの製造工場であると主張しミサイル攻撃を行わせた。これはエジプト人情報提供者一人の情報を信用した結果であった。
  • イタリアでイスラム教聖職者アブ・オマル師の拉致に関与。協力したイタリアの情報機関員を含めた関係者達が訴追され、欠席裁判でミラノの拠点責任者が8年、他に22人の要員が5年の禁固刑
  • アフガニスタンにおけるカルザイ政権内部の情報収集のために高官達へ資金提供
  • ベネズエラにおける、2002年のクーデター未遂、コロンビア人民兵による武装蜂起未遂

この他にエジプトやイラクでの王制打倒クーデター、エルサルバドルやパナマ、ニカラグアなどラテンアメリカ諸国のみならず全世界で親米・反共化工作(日本に対しても行われていた事は#日本への関与で述べられている通り)、独裁政権の確立、あるいは政権や特定社会集団の破壊に活躍し、工作費用の捻出のために現地で麻薬を販売する方式をいまだに採用すること、および破壊工作に使用することから麻薬流通にも国際的に一役買っているとの主張もある。