リチャード・ニクソン

リチャード・ミルハウス・ニクソンRichard Milhous Nixon, 1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国の第36代副大統領および第37代大統領。

デタント政策を推進し、ソビエト連邦との核兵力の削減やベトナム戦争の終結、中華人民共和国との国交成立など平和主義に尽力し、また、環境保護局の設置などを通じ公害の抑制や環境保護にも力を注いだ。しかし、アイゼン・ハウアー政権時代、副大統領就任後、ピッグス湾上陸作戦の事実上の推進者であり、また、ベトナム戦争の影の推進者であり、ジョン・F・ケネデイ暗殺、ロバート・ケネディ暗殺、キング牧師暗殺、ジョージ・ウオラス暗殺未遂事件、「ウォーターゲート事件」に関与し、数々の疑惑と非難にまみれ、任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。

生い立ち

1913年にカリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダ(Yorba Linda)に生まれたニクソンは、ギリシア系の父フランシスと、ドイツ系の裕福な家の出身で熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)によって、福音主義のクエーカー教徒として育てられた。なお果樹園を経営する父親は元々クェーカー教徒でなかった上、1922年に母の実家の近くのウィッティアに移ってからは、父親は油田で技術者として働き、その後食料品およびガソリン販売店に専念したこともあり、それほど宗教活動には熱心ではなかった。

実家はクエーカー教の経典を順守し贅沢を避け、裕福でもない中産階級といった感じの質素な暮らしをしており、ニクソンの幼少時のしつけは、飲酒やダンス、罵り言葉を差し控えるような保守的な福音主義の遵守に特徴づけられる。なおニクソンは幼少時の事を「貧しかったが幸せだった」と回顧録などで記述しているが、父親が経営するガソリン販売店の経営が軌道に乗っていた上に、ピアノやバイオリンを習う余裕があったことから、決して貧しいものではなかった。しかし4男のアーサーや長男のハロルドが肺病で闘病生活を続け、医療費がかかったこともあり、ニクソンは青年期に多くのアルバイトを体験している。

その後、ニクソンは地元のウィッティア高校を卒業し、奨学金を受けてハーヴァード大学への進学が決まっていたものの、兄弟の多額の医療費の負担から、実家が東海岸での1人暮らしの資金を負担できないこともあり、母親の実家が奨学金を設けていた地元のウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学、1934年に2番目の成績で卒業し、奨学金を受けデューク大学法学大学院で法律を学んだ。

弁護士

デューク大学法学大学院を三番目の成績で1937年に卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。ニューヨーク州の大手弁護士事務所への就職を希望したが、東部の人間との人脈に恵まれなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめ、カリフォルニアに戻って地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職した。1939年には自らの弁護士事務所を開業した。

弁護士として活動中の1940年6月11日に、ネバダ州出身の高等学校教師で、演劇サークルで知り合ったセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。その後1941年12月に物価統制局に転職し、夫婦でワシントンD.C.に移転することとなった。

海軍時代 アメリカ海軍時代のニクソン

1941年12月よりアメリカも参戦した第二次世界大戦中は、1942年8月に士官募集に応募してアメリカ海軍に入隊し、補給士官に任命され1943年5月より南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島、さらにはニューカレドニアなどへ配属された。

海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。

1944年7月にはブーゲンビル島の前線より帰還し、カリフォルニア州アラメダの海軍基地で勤務した。その後1945年1月にはアメリカ東部の基地への移転を命じられ、そこで終戦を迎えた。海軍時代には後に国務長官になるウィリアムズ・P・ロジャーズと知り合っている。

下院議員・上院議員

1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴う海軍除隊後にペプシコ社の弁護士になり、ペプシコーラの世界進出に協力。各国の炭酸市場の切り崩しというロビー活動のもたらす「アメリカの産業を保護する」という大義名分は満足感を生み、さらに国際的な弁護士の看板はヨーロッパや日本で人脈を築くのにも役立ったが、この仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。

上院議員選挙時のニクソン

しかしその本人が、母校であるウィッティア大学の総長や、ニクソンの母の知人のバンク・オブ・アメリカのウィッティア支店長らの地元有力者からの依頼を受け、1946年に地元のカリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党候補として立候補した。このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、民主党選出で、労働組合をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴーァリスを破り下院議員に選出されたが、真実はシンジケートの一員であるロサンゼルスのドン、ジョニー・ロゼリ、白人主義者で資本主義の権化と呼ばれたハワード・ヒューズからの莫大な献金をうけていたことが大きい。

同じ年の選挙では、ニクソンの将来のライバルとなるマサチューセッツ州のジョン・F・ケネディも上院に初当選し、同じ南太平洋地域で従軍した海軍の退役軍人出身と言う点でも共通していたこともあり、当初は友好的な関係を築いた。

その後ニクソンは、東西冷戦の激化を受けて設けられた下院の非米活動調査委員会のメンバーになり、ジョン・フォスター・ダレス国務省顧問やウィリアム・P・ロジャースなどの協力を受けて、反共主義で高名な共和党選出の上院議員のジョセフ・マッカーシーとともに、前政府高官アルジャー・ヒスの偽証罪の裁判に協力したことで、「反共の闘士」、「アカ狩り」の先兵として、その名が全米に知れ渡った。

1950年には上院への鞍替えを試み、女優であり民主党選出議員のヘレン・ギャーギャン・ダグラスと争った。地元の油田開発に反対するなどのダグラスのリベラルな言動が有権者に嫌われたうえに、選挙の活動期間中に朝鮮戦争が勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出されたが、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引く。ニクソンは、夫が左翼シンパとして有名であったものの、自らは「単なるリベラル派」との評価をそれまで受けていたダグラスに対して「国家社会主義者」のレッテルを貼ったが、そのことが多くのリベラル派を自認するジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領選挙の際に執拗な攻撃を受けるきっかけとなる。

副大統領時代

しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年に行われた大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に選ばれた。大統領選での顕著な出来事の1つは、当時普及が進んでいたテレビの革新的な使用だった。

「チェッカーズ・スピーチ」

副大統領候補選定前よりニクソンは、ニクソンが金銭的に余裕がないことを知った地元の支持者たちが作った支援基金団体から、政治活動資金のための資金援助を受けていた。民主党の大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、リベラル派であったイエローペーパーのニューヨーク・ポスト紙は、副大統領候補選定後の9月にニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し、さらに「物品の提供も受けた」とも批判した。その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた。

これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否した上で、その後有名になるスピーチ「チェッカーズ・スピーチ」を行い、自らに対する攻撃に対して反論した。その中でニクソンは、個人資産の詳細を事細かく説明したほか、民主党のハリー・トルーマン政権の閣僚の妻達の中に、「院外活動をする人々から高価な毛皮のコートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」といいトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。

併せて、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちが犬を飼いたいと言っていることを耳にしたテキサス州の支援者からコッカースパニエルをもらった。しかし、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた。

この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払しょくし、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補としてとどめることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補としてとどまることになった。しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった。

副大統領就任

このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは、大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

その後ニクソンは初の外国への公式訪問として、キューバやベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際の、暴徒化し地元国の警察でさえコントロールできなくなった反米デモ隊に対する、沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。

またその後も、この頃旧宗主国からの独立が相次いでいたアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った他、同年の10月から11月にかけて、日本や中華民国、韓国などの北東アジアからフィリピンやラオス、カンボジアなどの東南アジア、インドやパキスタン、イランなどの西アジア、オーストラリアやニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。

「キッチン討論」

この様な外遊の一環として、1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都のモスクワを初めて公式訪問した。

その際に、博覧会会場で、ソ連の指導者であるニキータ・フルシチョフと、展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星「スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。

この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は、冷戦下のアメリカ国民のみならず自由諸国の国民に強い印象を残し、後に「キッチン討論」として有名になった。

アイゼンハワーとの確執

アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にアドレー・スティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役を押し付けられるなど、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。

しかしながら、1955年9月24日のアイゼンハワーの心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の発作の際の3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督したが、通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。その上、1956年の再選時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知ったレン・ホール共和党全国委員長らによって、この指示が取り消されたということもあった。

さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった。

また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている。アイゼンハワーの真意はニクソンとシンジケートとの繋がり、CIAとのジョイント・オペレーションなど許可もしていない極秘作戦を進行させていたりと、軍産との繋がりを懸念していたこともある。それは彼の最後の演説「軍産複合体の危険性」(映画JFK冒頭に登場)にも見て取れる。

1960年の大統領選挙 予備選挙

1951年のアメリカ合衆国憲法修正第22条の批准完了によって、アイゼンハワー大統領は再度大統領職を求めて出馬することができなかった。1952年と1956年の2度選出されていた。アイゼンハワーは1960年時点でもその人気は高かったものの、健康問題とそれの影響を受けた引退の願望があり、もし可能だったとしても再出馬はありそうに無かった。この様な状況を受けて副大統領であったニクソンは共和党予備選挙に出馬することとなった。

1959年に行われた共和党予備選挙においてニクソンは、共和党中道左派の指導者で、ニューヨーク州知事で大富豪のネルソン・ロックフェラーから、あたかも共和党の指名争いで重大な挑戦を受けたような形になった。しかし、ロックフェラーは全国遊説を行った後で共和党の大半がニクソンを支持していることが分かったので、大統領候補にはならないと表明した。ロックフェラーの撤退後、ニクソンは共和党の指名については意味のある反対に直面しなかった。

シカゴで開催された1960年共和党全国大会では、アリゾナ州選出の上院議員のバリー・ゴールドウォーターが10票の代議員票を獲得しただけで、ニクソンは圧倒的な支持を得て共和党の大統領候補に指名された。

テレビ討論

大統領選挙の本選において、ケネディ陣営による大規模な選挙キャンペーンが行われ、現在でも多くの人々によって「ニクソンの敗北の最も重大な要因は最初のテレビ討論だった」と喧伝されている。夕刻でひげが伸びた状態の上、スタジオへ行く途中で膝を怪我して顔色が悪かったにもかかわらず、ニクソンは「議論の内容が重要である」としてテレビ用のメイクアップを拒絶した。テレビ討論前には完全に優勢であったニクソンは、その勢いを保ったまま、外交政策への専門知識を持った思慮深い投票者を勝ち取るつもりでいた。

しかし当時のアメリカでは白黒のテレビしか普及しておらず、多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用した、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。なお、前述のようにこの時ニクソンは膝を怪我しており、そのことがニクソンの表情をひときわ気難しく見せる結果になった上、テレビ用のメイクアップを拒否したことも外観を貧弱に見せることになった。一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが選んだスーツを身に着け、テレビ用のメイクアップをこなしていたこともあり、若く健康的に見えた。

討論をラジオで聞いた人々は討論の内容はニクソンがケネディに黙らせられる場面が多々あり、テレビ的な見栄えに勝るケネディに引き込まれたテレビ視聴者の票がニクソンからケネディに動き、「選挙のアマチュア」と甘く見ていたニクソン陣営にとって、手痛いダメージとなり、最終的にケネディに僅差での勝利を与えたと言われる。これ以降、アメリカの各種選挙においては、本格的に服飾やメイクアップなどの外観のコンサルタントが導入されることになる。

ケネディの選挙への対応

この時の選挙において、ケネディが予備選挙中に友人のフランク・シナトラから紹介してもらったシナトラの元恋人のジュディス・キャンベル・エグズナーを経由して、イリノイ州シカゴのドンサム・ジアンカーナを紹介してもらい、ウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した他、FBIの盗聴により、シナトラが同州の組織からケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている。なお、フランク・シナトラはサム・ジアンカーナ配下の人形シンガーに過ぎないが、ジョン・F・ケネディへ証人喚問の免訴の契約を帯び、アプローチしたが、かえって反発され、失敗した後は、リチャード・ニクソンに鞍替えしている。

何のことはない。ケネディ家自体、カトリック・アイリッシュ・シンジケートの一員にであり、禁酒法時代に密造酒、密輸入で莫大な財を成した組織であることに変わりはない。ケネディは誰にも頭を下げる必要が無かった。

これらのケネディ陣営に対する組織による選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの激戦でニクソン陣営は9000票差で敗北。ニクソンはこの現実を受け止めることが出来ず、暫くの間精神科に通っていたほどである。後に彼が大統領職に就いた際、最初に行ったことはイリノイ州の選挙結果のやり直しを繰り返したほどだ。当時ワシントンではニクソンは誇大妄想狂?なる特集が組まれたりしたほどである。

大統領選挙落選後

大統領選挙落選後は、ニューヨーク州に移りペプシコ社などの大企業の弁護士として活動していた。なお、この不遇期には副大統領時代からの友人であった岸信介が度々世話をしており、顧問先を紹介したり、日本に招いて弟の佐藤栄作を交えてもてなしたりしている。このことは、ニクソン復権後、佐藤政権における沖縄返還などの日米関係に少なからず貢献することになった。

大統領選挙落選の2年後の1962年11月には、政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬するが、その思いも空しくケネディの擁立した対立候補のエドムンド・“パット”・ブラウンに大差で敗れ落選した。

選挙後にビバリーヒルズのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見でニクソンは焦りのあまり、詰め掛けたマスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「もう二度と記者会見をしない」と口走る始末であった。そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることが無いであろう」と評した。

しかしその後も、ペプシコ社の弁護士として世界各国を訪れる傍ら、日本を訪問した際には駐日大使で学者のエドウィン・O・ライシャワーに対して、アメリカによる中国共産党政府の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた。もう一つの真実ケネデイ暗殺時のニクソンのアリバイである。1963年11月22日、ニクソンは暗殺の数時間前まで、実はダラスにいた。それは、シンジケートのコミッションのドン、メイヤー・ランスキーの番頭であるユージン・へイル・ブレイディングと、そのホテルに後にリー・ハーヴェイ・オズワルドを射殺するジャック・ルービーが宿泊していた。そこには相互の友人であるエドワード・メイヤーズと言う陸軍情報部員が宿泊していた。そして何を隠そうエドワード・メイヤーズはペプシコーラ社を通じてニクソン個人に仕えている事実があったことが判明しているからである。当時、ダラスでは清涼飲料水業者の大会が催されており、表向き、彼もそれに出席するためダラスにいたのである。FBIの調書によれば10月20日にダラスを立ち去っていると証言している。アメリカン航空の記録には11月22日にダラスに”向かって”いたのだ。そしてエドワード、ブレイディング、ルービーと会合し、トンボがえりでダラスを去ったという訳である。彼のアリバイは崩れた。

1968年の大統領選挙

その後、ケネディの死により、ニクソン最後のチャンスがめぐって来る。しかし、また、立ち塞がる男が現れた。名前はJからRに変わったが、同じケネディ、弟のロバート・ケネデイであった。この時の世論調査では圧倒的にロバートが有利であり、ニクソンは最早、大統領になるチャンスは二度とないとさえ評された。ところがロバート・ケネディの予備選の勝利パーティが行われた1968年6月4日、アンバサダーホテルにおいてロバートはサーハン・サーハンというパレスチナ人の男に撃たれて死んでしまう。彼曰く「私はボビー・ケネディが大好きだった。今でも彼を殺したとは信じてはいない。しかし、周囲がそういうのだから多分私がやったのだろう。」彼は裁判中から異常なほど催眠術に懸りやすい事は話題になっていた。事実パーティー会場でサーハンの隣に白人の女性がトム・コリンズをのみながらサーハンに話しかけていたという。CIA当たりなら、簡単なマインド・コントロールである。結局サーハンは終身刑を言い渡されて、サン・クウェンティン刑務所に収監されている。これで誰が一番得をしたのかについてIQ200は必要あるまい。ニクソンは念願の大統領に就任した。

ベトナム・エスカレーション

ニクソンが大統領になったことでアメリカは55万人もの兵を投入し、最も長く、金がかかった戦争へ突入していく。この戦争で倒産寸前だった企業が再生された例は多い。ヘリコプター業界、通常爆弾製造業界、輸送業界(フライング・タイガー社など)。メコンデルタにはGE所有地、リットン所有地、ダウ・ケミカル所有地、ペプシコーラ所有地、グッドイヤー所有地などに工場が立ち始めた。しかし、ペプシコーラ社の工場内部では一本のコーラも生産もしなかった。その代りヘロインが精製されていたのである。そして、軍人は左官は准将、小将へ、中将は大将へ、文字通りベトナムはボーナスだった。戦線は拡大を続け、カンボジア、ラオスに広がり、「勝てたはずの戦争」はいつか泥沼へと向かっていった。ニクソンはそのような状況でも「核を落として血まみれにしろ。」とキッシンジャーに対しあくまでも戦争を継続する意思は曲げなかった。

ジョージ・ウォラス暗殺未遂事件

1972年5月、ウォラスは当時大統領選挙に出馬しており、意外な人気を集めつつあった。予備選挙で無党派層、民主党、共和党問わず、逃亡票をキャッチし次第にクローズアップされていった。その彼が遊説中に狙撃され重傷を負ったのだ。狙撃した男はアーサー・ブレマー。エベレット・ハワード・ハントはニクソンの側近チャールズ・コルソンからミルウォーキーにあるブレマーのアパートに侵入するよう命令を受けた。この侵入はハントの反対により取りやめになったが、ニクソンはすぐFBIのフーバーに依頼し、アパートそのものを密閉状態にしてしまった。リチャード・ニクソンが関係した選挙のうち2つの暗殺事件と1つの暗殺未遂事件が起きていたわけだ。これらの事件により一体誰が得をしたか?他でもないリチャード・ニクソンである。


ウォーター・ゲート事件

  1. 事件の沿革はCIA要員のエベレット・ハワード・ハントを中心とする5人のメンバーが民主党本部ビルに侵入し、ニクソンに不利になるファイルがあればそれを持ち出すこと、もう一つは盗聴器を仕掛けることだった。とにかく捕まった連中が興味深い

    1.エベレット・ハワード・ハント--CIA,ピッグス湾上陸作戦時に関わる
    2.バーナード・バーカー------------CIA,ピッグス湾上陸作戦時に関わる
    3.フランク・スタージェス---------CIA,ピッグス湾上陸作戦時に関わる、キューバ革命時、ギャンブル監督官、後アメリカに亡命しカリブ海反共連                 盟を組織。
    4.チャールズ・コルソン------------CIA
    5.ジョン・コールフィールド------CIA
    6.アンソニー・ウラセウィッツ----CIA

特に興味深いのはエベレット・ハワード・ハントが事件後、ニクソンに対して100万ドルもの恐喝を始めたことである。その根拠となるとウォーター事件だけの口止め料としては高すぎるのだ。さらに、その後、ハント夫人の乗った飛行機が墜落した。墜落現場には待っていたかのようにFBIが集結し取り囲んでしまった。おそらくハント夫人が持っていた何らかの書類を押さえるためであったと推測される。恐喝者の片割れを殺し、証拠を消そうとする行為、とても民主主義国家の政治家とは思えぬ想像を絶する人物である。

もうここまできて、答えは一つしかない。ケネディ暗殺の証拠をハントは握っていたのである。そしてウォーターゲート事件の真の意味は民主党がケネディ暗殺とニクソンとを結びつける何らかの証拠か資料を持っていないかどうかを確認するために行われたのである。当時民主党のボスはオブライエンでケネディとは無二の親友であったことがニクソン独特の疑心暗鬼と誇大意妄想、権力万能主義がミックスされたバケモノとしかいいようがない。終焉ウォーターゲート事件が発覚した時点でまだニクソンは余裕を失っていなかった。しかし、いつも兄貴分として守ってくれたFBI長官フーバーが死ぬと状況は一変する。それまで仲間だと思っていたシンジケートの連中や軍、CIAまで見放すようになってくる。もう狂った暴走機関車扱いするようになる。その先兵として補佐官に就任したのがアレクサンダー・ヘイグ将軍である。ニクソンは金本位制を解除したり、突然中国と国交正常化したりと外交で評価を得ようとしたが、逆に「トリッキー・ディック」と言うありがたくないアダ名で呼ばれたり、完全に浮いた存在となった。結局、辞任し、後をジェラルド・フォードに託して大衆の前から姿を消した。

ホワイトハウス・テープ

ニクソンが大統領職に在職中に自分の言動をチェックするために録音させておいたオープンデッキ・テープの発言資料集であるが、基本的に2029年まで公開禁止。側近のハルデマンらとの会話が録音されているがほとんど放送禁止用語の連続であり、シンジケートのドン顔負けの会話が出てくる。ニクソンの恥部そのままであるが、ところどころ削除された形跡があり、ニクソンの秘密にせまるには役不足ではないかと推測される。独裁者

ニクソンの政権の特徴は、就任直後から以前の大統領よりさらにホワイトハウスに権力を集中させ、閣僚の権力を奪ったところにある(帝王制大統領 Imperial Presidency)。特にロジャース国務長官、レアード国防長官、ヒッケル内務長官などは重要政策でも蚊帳の外であった(郵政長官などは以前から問題外とされていた)。たとえば商務次官補(上院承認の必要な高官)に首を言い渡したのは国家安全保障会議のヒラのスタッフ(バーグステン)であった。補佐官は大統領行政特権があるため、行動や任免について議会に対する説明責任がないとされ、議会の規制を受けずに政策を実行できる。特にハルデマン、エーリックマン、キッシンジャーの3人に権力が集中していた(ジャーマン・シェパードと呼ばれていた)。

  • 首席補佐官 H・R・ハルデマン

副補佐官 スチーブン・V・ブル日程担当特別補佐官 ドワイト・L・チェーピン

  • 内政補佐官 ジョン・D・エーリックマン
  • 国家安全保障補佐官 ヘンリー・A・キッシンジャー

副補佐官 アレキサンダーM・ヘイグJr.(後に陸軍大将)副補佐官 W・ブレント・スカウクロフト(後に空軍中将)上級スタッフ C・フレッド・バーグステンJr.上級スタッフ モートン・H・R・ハルペリン(沖縄返還交渉で若泉敬に関与)上級スタッフ デービッド・R・ヤング(元NSA、エーリックマンの部下)

  • 法律顧問 ジョン・W・ディーンⅢ

副顧問 フレッド・F・フィールディング

  • 大統領報道官 ロナルド・Z・ジーグラー(名目上の上司はハーバート・G・クライン広報連絡局長、ケネス・W・クローソン広報連絡局次長)
  • 大統領個人秘書 ローズ・マリー・ウッズ
  • 大統領個人法律顧問 ハーバート・W・カームバック
  • 特別補佐官(政治担当)チャールズ・W・コルソン、マレー・チョティナー
  • 大統領顧問 レナード・ガーメント
  • 行政管理予算局(OMB)
  • 1972年2月に、アメリカの大統領としては初めて中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国を訪問、事実上承認した(これに伴い同国と対立している中華民国との国交断絶を伴った為批判も多い)。
  • 1973年1月23日のパリ協定調印とベトナムからのアメリカ軍撤退によるベトナム戦争終結。
  • 1973年の麻薬取締局 (DEA) の設置。
  • 1974年2月に、第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響から、ガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名した。

ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉

大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日に南ベトナムへ予定外の訪問をし、グエン・バン・チュー大統領およびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始した。しかしその後の1970年4月にアメリカ軍は、中華人民共和国から北ベトナムへの軍事支援の経由地として機能していたカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、結果的にベトナム戦争はさらに拡大してしまう。

しかしその後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を継続させた。ニクソンはキッシンジャーを使い南ベトナム政府内の強硬派と、戦線の拡大と縮小を巧みにコントロールした上に、1972年には北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問し北ベトナム政府に揺さぶりをかけるなど、様々な手段を使いながら、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日に北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、結果的に「ニクソン・ドクトリン」の発表後も4年以上に亘って戦争を継続する結果となったことは批判を受けた。

アメリカ軍の完全撤退

そして4日後の1月27日に、ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官とチャン・バン・ラム南ベトナム外相、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。なおこの功績に対して、キッシンジャー大統領補佐官とト特別顧問にノーベル平和賞が授与された(ト特別顧問は受賞を拒否した)。

中華人民共和国の承認 [編集]北京でエアフォース・ワンから降りるニクソン夫妻(1972年)ニクソンと毛沢東ニクソンと握手をするエルヴィス・プレスリー。プレスリーはこの際ニクソンより麻薬捜査官の資格を与えられた(1973年)
 
電撃訪問

1949年の国家成立後、長年の間対立関係にあった中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国と和解し、国家として承認することで、冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、1971年7月にキッシンジャー大統領特別補佐官を、秘密裡にパキスタンのイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。

また、ベトナム戦争に早期に決着をつけるとともに、アメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンは、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムもけん制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあったと言われている。

この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国の周恩来首相と会談。その後の記者会見で、「近日中にニクソン大統領が中華人民共和国の北京を訪問する」と発表し、世界を驚愕させた。

国交樹立へ

その後、1972年2月21日にエアフォース・ワンで北京を訪問、毛沢東主席と釣魚台で会談し、中華人民共和国との国交樹立への道筋を作った。しかし、このことにより長年友好関係にあった中華民国と断交した為、多くの自由主義者と反共産主義者から非難を浴びた。

なお、中華民国との断交など解決しなければいけない懸案が多かったことから、アメリカと中華人民共和国の間の国交回復は、ジミー・カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。

また経済界では、自らが顧問弁護士を務めていたペプシコやカリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、さらに連邦議員時代から副大統領時代にかけては、地元のヨーバリンダの近隣のアナハイムで大規模遊園地の「ディズニーランド」を経営していた他、映画界でも高い影響力を持っていた保守派の実業家のウォルト・ディズニーなどと特に密接な関係を保っていた。

大統領辞任後

ウォーターゲート事件の後遺症 [編集]歴代大統領とともに(左から2番目がニクソン)レーガン大統領とともに

ニクソンの首席補佐官であったH・R・ハルデマンや、内政担当補佐官であったジョン・アーリックマンがウォーターゲート事件への関与により有罪宣告を受け、1976年から1977年の間に懲役刑を受けたことや、その後のウォーターゲート事件関連のさらなるテープの公開。さらにニクソンの死後の2003年7月に、1972年の大統領選挙の際の再選運動本部長だったジェブ・マグルーダーが、「ニクソンが電話で個人的に民主党本部侵入と盗聴を命じてきた」と主張したことは、事件の隠蔽および不法な資金融資、民主党本部への侵入と盗聴に対するニクソンの関与に関する疑惑をさらに明らかなものにした。

イメージの修復

しかしながらニクソンは、ソ連や東欧諸国との冷戦が続く中で「外交問題に詳しい長老政治家」として、ソ連や中華人民共和国へ足繁く訪問しこれらの国々との関係構築に貢献した。さらに1968年の大統領選挙で対立候補として戦い、1980年に大統領に就任したロナルド・レーガンに多くのアドバイスを授けた。

これらの活動を通じてアメリカや西側諸国のみならず、東側諸国の政治家や国民からの高い尊敬を獲得したことや、任期中に行った数多くの政策がその後高い評価を得たこと、さらに回顧録を含む多数の書籍を執筆し、そのいくつかは全米でベストセラーとなったことで、晩年までにニクソンはある程度公のイメージを修復することに成功した。

死去

ニクソンは、1993年に死去した妻パットの後を追うように、1994年4月22日にニューヨークで脳卒中とその関連症で81歳で死去した。しかし、アメリカの歴史上初となる任期中の辞任を行ったことなどから、通常大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われず、一市民として生まれ故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにある「ニクソン記念図書館」の敷地内にある妻の墓のそばに埋葬された。

プライベート

弁護士時代の1940年6月に、ネバダ州出身の高等学校教師であるセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。なお、娘のジュリーは、ニクソンが大統領に就任した1968年にアイゼンハワーの孫のデーヴィッド・アイゼンハワーと結婚した。