フーリガン通信 -23ページ目

クラブW杯2008開催記念【赤い悪魔の伝説】

以下の通信は2004年2月6日に発信したものである。当時はブログは一般的ではなく、この「フーリガン通信」も私の知り合いから広がった“サッカー好きの輪”に向けて発信していたメルマガであった。



この物語は1958年2月6日に始まる。この日は私が宿命として愛し続けるマンUにとっての忘れえぬ日であり、この日のことは、おそらく今回のクラブW杯でもマンUにちなんで語られることになるだろう。しかし、この話はサッカーを知らない日テレの女子アナや、サッカー好きというだけでブラウン管に登場するお笑い芸人達に、軽く語ってもらっては困るのだ。


魂の伝説は、魂を込めて語るべきである。だから私は今回バックナンバーとして紹介する。2004年2月6日に発信した原文には一切手を加えていない。初めて読む方は、是非とも魂を込めて読んで欲しい。マンUがなぜ世界中で愛されるクラブになったのか、判ってもらえるだろう。


★フーリガン通信 200426★★★★★★★★


Munich



195826日のミュンヘンの天気は?」そんな、生まれる前の天気の質問に対し、私は即答できる。その日は「雪」だった。この質問に答えられる人間は意外に多いかも知れない。それは世界で最も人気のあるフットボールクラブ・Manchester United F.C.(以下マンU)にとって忘れ得ぬ日だからである。


1950年代のマンUは黄金時代であった。第2次世界大戦後の1945年にマット・バスビーが監督に就任したころは、クラブは低迷し倒産しかけていたが、バスビーは若手の発掘・育成にその手腕を発揮し、クラブはみるみる立ち直って行く。その成果はまず48年のFAカップ優勝に現れ、51-52年にはリーグ優勝を達成した。あまり知られていないがイングランドのFAユース・カップで53年から57年にかけて5連覇を達成し、強豪チームへの基盤も着実に出来上がっていた。そして彼が育てた“バスビー・ベイブス(バスビーの息子たち)”が巣立ちの時期を迎えた頃、55-56年、56-57年と国内リーグ2連覇を達成する。55年から始まった欧州チャンピオンズ・カップ(チャンピオンズリーグの前身)でも、サッカーの母国としてのプライドから参加に消極的であったFA(英国サッカー協会)の反対を押し切り出場し、56年には準決勝に進出していた。イングランドのクラブとしていち早く大陸に目を向けたクラブにとって、まさに欧州制覇の機は熟しつつあったのだ。


その運命の日、欧州チャンピオンズ・カップ準々決勝の対レッドスター(旧ユーゴ)戦を終え準決勝進出を決めたマンUのメンバー、関係者、報道陣を乗せた英国欧州航空のチャーター機エリザベス号は、給油のため立ち寄ったミュンヘン空港で折からの雪のため足止めを食っていた。一旦はキャンセルが決定した同機であったが、機長は再び離陸を試みた。1度、2度。そして午後3:033度目のトライで、飛行機は離陸することなく直進し、滑走路を外れ、着陸誘導灯を過ぎて250ヤード先の家屋に激突した。途中で翼と機体後部は失われ、機体は惨たらしくそのはらわたを晒して横たわった。選手7名、その他にクラブ関係者、報道陣、サポーター、旅行社添乗員、乗務員・・・機内にいた39人のうち21人の命が瞬時に奪われ、18人が生き残った。生き残ったうちの4人は重症。その中にはクラブの主将でイングランド代表のCBダンカン・エドワーズ、監督のマット・バスビーが含まれていた。


All flights cancelled. Flying tomorrow. Duncan"
 一度キャンセルが決定した時にダンカン・エドワーズがミュンヘンから出した電報が、マンチェスターの自宅に配達されたのは26日の午後5時。その時、送り主のダンカン・エドワーズは生死の境を彷徨っていた。瀕死の重傷にも関わらずベッドの上で、「週末のウォルバーハンプトン戦に行かなければ」とうわ言を繰り返し、恐ろしいまでの生命力を発揮した“Big Duncanも、事故から15日後に遂に「ベッド」と言う名の、彼には似つかわしくない狭いピッチの上でこの世を去った。同じく重症を負っていた副パイロットと併せて、これで合計23名の命が失われたことになった。


Matt 50:50"
 27日朝、英国の新聞の見出し。“バスビーの生存の可能性は55分”という意味である。選手達から“父親”と慕われたバスビーは、ダンカンの命と引き換えに、からくもその一命を食い止めた。しかし、イングランドのトップ・クラブはそのレギュラー選手8人を失い、完全に“ゼロ・リセット”されてしまったのだ。まさにクラブが死に、イングランドが死んだ日だった。


 復興に向けての唯一の希望はクラブの若手Bobby Charlton(当時20歳)が生き残ったことだった。若手の彼は機内の真中より前方で後ろ向きに座っていた。事故の瞬間に彼は気を失い、目を覚ました時は裂けた機体の中に無傷でシートベルトにおさまっていたという。バスビーや死んでしまった仲間達は、皆機体後部で前向きに着席していたというから、運が良かったとしかいいようがない。バスビーは事故から6ヵ月後にクラブに復帰し、新しいベイブスと共に復活の道を歩き始める。そして60年代に入りバスビーの類稀なる若手育成手腕に、“金髪の悪魔”デニス・ロー、“もう一人のビートルズ”ジョージ・ベストを加えたクラブは程なくその力を見せ始める。64-65年、66-67年にリーグ優勝。そして忌まわしい事故から10年目となる1968年、サッカーの聖地ウェンブリーで行われた欧州チャンピオンズ・カップの決勝で、主将ボビー・チャールトン率いるマンUは、ベンフィカ・リスボン(ポルトガル)を下して悲願の欧州初制覇を果たす。一足先の66年に母国でのW杯を制したイングランドであるが、クラブとしては初めて欧州の王者に輝いた瞬間だった。1958年の26日、クラブが死に、イングランドが死んだ日から始まったストーリーはその第1章を終え伝説となった。


 欧州制覇の翌年、バスビーは監督を引退し、ジェネラル・マネージャーとなる。リーグ優勝5回、FAカップ優勝2回、欧州チャンピオンズ・カップ1回優勝。監督としてのその輝かしい実績は、彼に英国王室より“サー”の称号をもたらすのに充分すぎるものだった。以降もクラブとともに人生を歩んだ“バスビー卿”は1994120日、彼の悲願であった三冠(リーグ、FAカップ、欧州CL)の達成を見ることなく、85歳でその生涯を終える。


 そして、その5年後のことである。マンU1999516日プレミア・リーグ優勝、522FAカップ優勝。そして526日欧州チャンピオンズ・リーグ決勝対バイエルンミュンヘン。バスビーの遺志を継ぎ特別顧問としてクラブに残っていたボビー・チャールトンの見守る中、0-1のビハインドで迎えた3分間のロスタイムに、シェリンガム、スールシャールの連続得点で奇跡の逆転優勝を果たす。その悲願達成の日、もしバスビーが生きていれば、彼は90回目の誕生日を迎えていた。


 クラブか存在する以上、歴史は作られる。しかし、マンチェスター・ユナイテッドF.C.にとって、26日が特別な日であることは永遠に変わらない。今日もOld Traffordの外壁に掲げられた「ミュンヘンの悲劇」のメモリアル・プレート(その下にはバスビーの銅像が立っている)の前には数多くの花束が捧げられるであろう。そしてOld Trafford程ではないにせよ、ミュンヘン空港の事故現場に建てられた慰霊碑の前にも花が供えられるに違いない。


 ミュンヘンの悲劇からちょうど1年後の同日に極東の地に生を受けた私も、今日遂に45歳の誕生日を迎えた。“命日”に生まれた私は幸せである。


魂のフーリガン


★★★★★★★


魂の追伸:

今年マンUは3度目の欧州王者の座に着いた。初めてビッグイヤーを掲げた1968年からちょうど40年のことである。

40年前の5月29日、聖地ウェンブレーでの欧州チャンピオンズカップ決勝。決勝の舞台がイングランドであったこと、決勝の相手ベンフィカ・リスボンもホーム・カラーが赤系(エンジ)であったことからと思われるが、その日の赤い悪魔たちは珍しく青一色のユニフォームで闘った。現在マンUはファーストが赤、セカンドが白のユニフォームで、青いシャツはサード・ユニフォームとして使用されている。今年もCLで着られるその青いユニフォームの胸のエンブレムの周りにはMAY 29TH 1968 40TH ANNIVERSARYの文字が刺繍されている。

Jリーグのクラブのユニフォームの胸にそんな刺繍が誇らしげに踊る日が来る時、日本のサッカーは文化になっていることだろう。それぞれのクラブが数々の伝説を刻みながら・・・


魂のフーリガン











【浦和の裏は…終戦】

今回の通信は独立した記事ではあるのだが、実はこの春に出した2通の通信の続編、結末という位置付けでもある。既にその頃から呼んでくれている読者の皆様は題名を見ただけで思い出してくれると思うが、最近の読者の皆様は、もしお時間があれば読んでもらいたい。いずれも結構長いから、お時間があればで結構である・・・


【浦和の裏は】2008年3月20日発刊

http://ameblo.jp/becks7whites/entry-10081391743.html


【浦和の裏は・・・追伸】2008年3月21日発刊

http://ameblo.jp/becks7whites/entry-10081622977.html


11月29日大阪は万博記念競技場、2008年J1リーグ第33節、昨年のアジアチャンピオンでクラブW杯“3位”の浦和レッズは今年のアジアチャンピオン・ガンバ大阪に1-0の“惨敗”を喫した。これにより、浦和は次週の最終節を待たずに、リーグ優勝と来期のACL出場の座を同時に失った。事実上の終戦、たとえ1-0であっても、“惨敗”と呼ぶべきであろう。


今期の浦和については、その開幕直後の監督交代劇から、私はこの日が来るのを予想していた。ゴタゴタがあったからではにない。オジェックの抱えた問題が監督と選手の間の亀裂であったから、そのゴタゴタを解決するには、ブッフバルト、オジェックの下でコーチを務め、選手を良く知っているエンゲルスは適任であっただろう。しかし、信頼やコミュニケーションだけで勝てるほどプロは甘くない。やはり戦いに勝つための哲学、理論が求められ、その哲学・理論を実践するためのカリスマ性やリーダーシップが必要なのである。


当然のことながら、過去にも監督経験のあるエンゲルスにも哲学や理論はあったと思う。しかし、浦和のサッカーに哲学や理論が見えたであろうか。浦和がやりたいサッカーが、我々に見えたであろうか。少なくとも私には見えなかった。西野のガンバ、ピクシーの名古屋、シャムスカの大分に見られた各々の監督のメッセージが。メッセージが伝わらなかったのは、エンゲルスのカリスマ性やリーダーシップの欠如にある。外国人にしては珍しい“調整型”のエンゲルスの弱みは、まさに彼自身のそのマネージメントスタイルにあったと思うのだ。


では何故エンゲルスのマネージメントスタイルが、浦和で結果が得られなかったのか?それは浦和レッズというクラブが持つ特異な環境にある。


熱烈なサポーターに支えられる浦和の観客動員はJリーグ随一。今期リーグこれまでのホーム平均入場者数47,236人は2位の新潟35,502人を大きく上回り、最下位の大宮10,714人の4.4倍にもなる(ローカルダービーの相手がこの数字というのも痛々しい・・・)。常にこのような多くのサポーターを従えて戦うことが出来る選手達は幸せであるが、その恵まれた環境が選手達にもたらしたのは勇気と元気だけだったであろうか。私はもう一つあったと思う。それは驕り(おごり)、いわゆる慢心である。オジェック更迭の理由には選手達との確執があったが、その際に彼らから噴出したオジェックに対する批判は、驕り以外のないものでもなかった。実際にピッチで敗れたのは彼ら自身であったのに・・・


選手だけではない。他クラブを圧倒するその入場料収入、ユニフォームを始めとした物品販売は、浦和というクラブにビジネスとして成功をもたらした。そして生まれた金を選手集めにつぎ込んだ。実際にこれまでに闘莉王、阿部、高原、梅崎、アレックス(復帰)といった代表クラスの選手を集め、国内では珍しい代表選手目白押しの“銀河系”のチーム作りをしてきた。確かにその投資により成績も上げ、更なる集客を生み、広告収入も増えるという好循環が生まれた。日本での成功はアジアに広がり、世界有数のクラブに成長しているかに見えた。しかし、優れた経営者が、開幕僅か2試合で更迭するような事業責任者(監督)を配置するだろうか。まだ優勝の可能性が残されている時点で、指揮官の退任を発表するようなことをするだろうか。稚拙な人事と危機管理能力の欠如。明らかに経営における最大のミスである。


圧倒的な人気は安定した収益を生み、経営を安定させてきた。しかし、その恵まれた経営環境が、浦和の持つ“負の部分”を隠していたのだ。その負の部分は経営陣、選手たちの未熟さなのである。しかし、何故こんな単純な事実に気が付かなかったのだろう。昨年のACL優勝以降の浦和の成績は驚くほど悲惨であったのに・・・


2007年のJ1、前年のJリーグ王者は順調に勝ち進み、一時はリーグ2位に勝ち点10もの差をつけた一人勝ち状態だった。そして、ACLで日本からアジアに覇権を拡大した王者はその後突如勝てなくなったが、それでもリーグ最終節を迎えた時点で2位鹿島に勝ち点1リードする首位の座にいた。その最終節の相手はこの年一早くJ2への降格を決めたダントツの最下位クラブ・横浜FC。その日横浜のホームに集まった同クラブの年間最多観客数のほとんどは、優勝を祝うために集まった浦和のサポーターであったが、彼らが見たものはまさかまさかの0-1の敗北であった。そしてリーグ王者の座には、最終節にしっかり勝ちを拾った試合巧者・鹿島が座ることになったのである。


本来ならこの時点で浦和のサポーターは黙っていなかったはずである。しかし、幸か不幸か、浦和はアジア王者として参加した12月のクラブW杯で、欧州王者ACミランに“見掛けの上”での善戦を見せ、最後は3・4位決定戦に勝利して“世界3位”を手にした。すでにJリーグタイトル、天皇杯も早々に失い、他にすがるものがない赤いサポーターたちは、この“虚飾の肩書き”に大いにその溜飲を下げたに違いない。そしてすでにバブルが弾けていた状況から目を背けるために、必要以上に「世界3位」というタイトルにすがったのだ。そう、アジア王者、世界3位というタイトルもまた、皮肉にも浦和の現状認識を見誤らせることになったのである。それはまた、応援スタイルだけ見れば世界基準に最も近いと思われた浦和のサポーターも、実は「世界の物差し」を知らなかったということを証明するものだった。


2008年11月26日の午前中、今期まだリーグ戦2試合を残し、逆転優勝の可能性も残した時点で、浦和レッズの藤口光紀社長はクラブハウスでゲルト・エンゲルス監督に対し今期限りの解任を通告した。選手とのコミュニケーションは改善したが、チームの成績は改善できなかった指揮官に対するクラブ経営者のその仕打ちは冷たいものだった。来期の後任監督の発表はなかったが、巷ではブンデスリーガ2部フライブルクの元監督、フォルカー・フィンケ氏の名前があたかも既定事実のように伝えられていた。既に来日し、フロントと共に浦和のゲームを観戦し、クラブ施設、サテライトの見学もするというあからさま行動をしていたから、発表こそなくても全て決まってのことと誰もが思った。


現任監督に何も告げないまま、後任監督を紹介するような行動。終盤で優勝を争っている最中で監督解任発表。どう考えても世界の常識から外れている。そして、さらに信じがたいことに、クラブからフィンケ氏への正式オファーが出されたのは第33節の後、つまり"終戦"後の30日であった。つまり、後任監督が決まる前に、現体制を投げ出したのだ。もちろん話は詰めているとは思うが、この通信発信時点で、まだ、同氏からの正式受諾の返事はない。それどころか、欧州ではスイスの名門クラブFCバーゼルの次期監督候補にフィンケ氏の名前が挙がっているという・・・


やはり、浦和の迷走の最大の理由は、経営者の迷走であったと断言しよう。ここまで脇の甘い経営者も珍しい。もっともその藤口社長も、浦和で過ごす日々はもう長くないだろう。だから来期の浦和は復活するか?それは期待できない。次の経営者もまた、三菱から出てくるアマチュアだろうから。


闘莉王が言う「ゼロからの出発」がどういうものになるのか。戦後の復興にどこまで期待ができるのか。まだまだ予断は許さない。


魂のフーリガン

ドーハで失った大切なもの

またまた話題に遅れているが、気にしないことにする。


ご存知の通り、日本はアウェイでカタールに3-0で快勝した。確かに岡田監督になってから初めてと言える位のすっきりした勝利で、前日まで「負ければ解任」、「後任監督探しもすでに始まっている」などと、ネガティブなコメントを流していたマスコミも、翌日は一転、岡田監督に対する賞賛の言葉でそれぞれのメディアを埋めた。冷静に考えれば前日までの自分たちの見方が間違っていたことに他ならないのだが、毎度のことながら、彼らにそんな後ろめたさはどこにも見当たらない。仕方がない。ほとんどの記者は素人なのだから。


ゲームに関して今更書く必要はないだろう。すでに前述の記者さんのアホウ道(報道)や評論家の皆様の詳しい解説をお聞きになっているだろう。そんな中で私はひとつのことが気になった。カタール戦の裏にある話である。


香川真司。彼は2週間前にサウジアラビアにいた。AFC U-19選手権サウジアラビア2008を闘っていたのだ。日本はグループリーグ2勝1分、参加国最多の10得点をあげ波に乗っていた。その中心に既にA代表デビューも果たした19歳の香川がいたのは当然のことである。しかし、準々決勝進出を決めた後、香川は日本に帰国する。A代表の11月13日キリンチャレンジカップ、シリアとの“親善試合”に参加するためだ。このシリア戦はもちろんW杯予選のカタール戦の準備試合として位置づけられ、岡田の青ブチの眼鏡にかなった香川も召集されたのである。


サウジアラビアでは11月8日にU-19選手権の準々決勝が行われた。来年行われるU-20W杯への進出が掛かった大事な一戦の相手は宿敵・韓国。中盤に香川のいない日本はまったく良い所なく、0-3の惨敗を喫した。ただの1敗ではない。過去7回連続で出場してきたU-20のW杯への出場権を失ったのである。北京でのU-23の惨敗は記憶に新しいが、このU-19は次回のロンドン五輪代表となる世代である。そんな彼らが“世界との距離”を肌で感じる機会を失ったのだ。香川がいたとして、ナビスコ杯を優先して参加しなかった金崎(大分)がいたとしても、韓国との3点という大差を返せる保障はないが・・・。


そして香川はシリア戦、2-0と既に試合の決まった後半開始から田中(達)に代わって登場する。しかし、決定的なチャンスのシュートはバーを超え、ヘディングはヒットせず、最後はイエローカードをもらい、そのファールによるPKで相手に1点を献上した。溌剌さがなく、その自信のなさげなプレーは見ていて痛々しいほどであった。


しかし、誰がこの19歳の若者を責められよう。香川は帰国後にサウジアラビアに残してきたU-19の仲間たちの敗戦を聞いた。ずっと一緒に闘ってきた、同世代の仲間である。自分は1つ上のW杯のため(現実にはその準備の親善試合)に帰国しなければならなかったが、彼らは“自分たちのW杯”のために戦った。出場が決まれば当然香川はエースとしてその大会に参加する。その場にいられない悔しさ、後ろめたさは、敗戦の報によって香川の心の中で数倍に増幅されたはずである。そんな傷ついた心理状況でまともなプレーができるだろうか。しかも、彼はまだ19歳なのである。


そして、香川はいよいよ彼の“本番”、W杯アジア最終予選のカタール戦を迎える。彼はこの戦いのために、U-19で最も重要なゲームを離脱したのである。“本番”といわず、何と表現できよう。香川はA代表の大人たちとともに、ほんの10日前に離れたサウジアラビアの隣国、カタールに向かった。しかし、彼の本番に用意された舞台はピッチではなく、ベンチでもなく、スタンドのシートだった・・・


ゲームは序盤こそホームのカタールが個人技で攻勢にでるが、その後は前述の通り、まったく危なげない展開で3-0の完勝。中沢と楢崎を欠いた日本はその守りの不安を露呈することもなく、アウェイで貴重な勝ち点3を手にする。代表としては考えられる最高の結果であるが、ピッチに降りることすらできなかった香川は、一体どんな気持ちでこの勝利を見守ったのであろうか・・・大事なゲームを犠牲にして、プレーは親善試合の後半のみ、後はこの勝利のための練習に費やされたのである。素直に喜ぶことができれば余程のお人好しかバカである。少なくともプロのサッカープレイヤーではないだろう。


誰からの疑問もあがっていないようだが、改めて重要なポイントに着目してみよう。そもそも香川は日本代表に必要だったのだろうか。ただ必要というだけではない。U-20W杯出場がかかった重要な戦いのさ中にあるサウジアラビアから呼び戻さなければならないほど、A代表にとって重要な戦力だったのか。言い換えれば、香川の召集にこだわらなければならないほど、A代表は弱いのか。そんなことはないだろう。彼はマラドーナでも、メッシでもない。俊輔でも長谷部でもない。J2クラブからA代表に呼ばれ、数試合プレーしただけの有望な若手選手でしかない。もし香川こそが「救世主」であるならば、私は岡田監督に対し、これまでどういうチーム作りをしてきたのかを問いたい。


ドーハには25人のメンバーを連れて行って18人しかベンチに入れないのだから、7人はスタンドで見ることになる。最年少でA代表のある香川がその中の一人になる可能性は高かった。それなのに香川を召集し、放置した岡田監督、そして日本サッカー協会の判断を、私は理解できない。プロだから仕方がない?プロではあるが、選手は人間なのだ。事情はあったのかもしれないが、私は手放しでカタール戦の勝利を喜ぶことができない。勝ち点3と賞賛を得た裏で、日本は大事なものを失ったと思うからである。そして、もし岡田監督が“選手の心”、“魂”をないがしろにしているのであれば、私はそんな男を指揮官とは認めない。言いがかり?いや、彼にはフランスW杯の直前にカズを外した前科がある。


私は祈りたい。この短期間にサウジ、日本、カタールを慌しく移動し、その結果大きなものを失い、自分は何も残せなかったという辛い現実が、この19歳の若者のトラウマにならないことを・・・


魂のフーリガン