フーリガン通信 -22ページ目

ガンバに見る世界との距離

元日の天皇杯決勝。ガンバは佐々木、二川を欠いたまま、遠藤、橋本、明神は怪我で、西野監督いわく「ロッカールームは野戦病院」という最悪のコンディション、一方の柏レイソルも負傷上がりのフランサ、李の二枚看板を先発で使えない(戦術としてサブで使い続けたという事情もあるが)という、いわば両者手負いの状態での闘いとなった。マンUのゲームを見た直後だっただけに、ゲームのスピードやクオリティには不満は残るものの、両クラブの選手達はそれぞれが現在の疲労やコンディションを上回る“魂”を見せてくれた。少なくとも私には意外な“お年玉”であった。

シーズンの最後に行われる天皇杯は、元々トーナメントの開催時期に起因する様々な問題がある。


まずは前述のコンディション。1シーズン戦い続けた選手の身体は既に疲弊し、個人としてチームとして、本来のパフォーマンスを出すことが出来ない。強いチームであればあるほど、良い選手であればあるほど年間の試合数が多くなるから、疲労の度合いも大きい。


また、リーグのシーズンも終わりに近づくと、J1のクラブでも、天皇杯よりもリーグ残留を優先せざるを得ない事情も出てくる。今回も犬飼日本サッカー協会会長が、いくつかのクラブに対して、天皇杯での“手抜き”選手起用に噛み付いた。しかし、幾ら会長が怒ったとしても、J2に落ちてしまってはクラブ・選手・サポーター全てに取っての不幸である。「ゲームに出た選手こそがその日のベスト・メンバー」というクラブ側の論理を否定すること自体が大人気ないというものである。


またシーズン終盤になると、クラブはシーズンの反省を基に、来期の構想に着手しなけらばならない。クビが寒くなる監督もいれば、選手によっては来期の契約のことが頭にちらついているだろう。全員のモチベーションにバラツキがあれば、チームとしてのモチベーションを高めるのは難しい。


もっとも、そんな様々な事情があるからこそ、いわゆるジャイアント・キリングというカップ戦ならではの醍醐味も出てくるのだが、低調なパフォーマンスの上での結果であれば、勝ったクラブのサポーター以外は素直に喜べない。観客は金を払い、寒さを我慢して観戦しに行くのであるから、当然それに見合ったゲームを期待するし、それを見せるのがプロである。


全てのJ1クラブが上記のような悪条件を抱える中、元日の決勝に勝ち残るためには、やはりその実力以上に「勝ち残りたい」という強い気持ちが必要である。天皇杯にかける「モチベーション」、いわゆる「火事場のばか力」である。そのモチベーションの源はそれぞれであるが、高いモチベーションを生むには、それなりの“理由”が必要である。かつて、1999年元日に優勝を果たした横浜フリューゲルスの場合は、親会社の事情により既に「クラブの合併消滅」が決まっていた中での選手達の「プライド」であり、昨年の準優勝のサンフレッチェ広島の場合は、J2降格が決まったクラブとしての「意地」であった。


今回、延長後半まで互いに譲らなかった両クラブのモチベーションの源は何であったか。柏レイソルの場合は就任1年目でクラブをJ2からJ1に引き上げ、3年間監督を務めた後の退任が決まっていた石崎監督への感謝であった。選手達は皆「石崎監督を最後に胴上げするために」、高いモチベーションを維持してきたのである。一方のガンバ大阪は前回の通信で述べたとおり「世界」への憧れである。ACLを制し、クラブW杯で3位となったガンバの選手達は、その素晴らしい経験をもう一度味わいたくなったのである。ACLは制したもののJ1では8位と低迷したガンバが、来シーズンACLに参戦するためには、もう「天皇杯優勝」しか残されていなかった。


そしてご存知の通り、それぞれの事情を背負った闘いはガンバが制し、聖地・国立の空に天皇杯を掲げた。両クラブのコンディションが共に悪い中、早めにゲームを決めようとした柏と、耐え抜いてチャンスを待ったガンバの闘いは、正規+延長の120分での1-0という結果が示すとおり、どちらが勝ってもおかしくない非常に均衡した見ごたえのあるものだった。それでもガンバが最後の最後で、延長後半から出場した播戸による意地のゴールで勝つことができたのは、ガンバのモチベーションの方が、レイソルのモチベーションよりも高かったからであろう。「監督の胴上げ」というそこで終わってしまう目的と、「もう一度世界と闘いたい」という更に先を見据えた目的。レイソルと石崎監督には悪いが、その「モチベーション」のレベルの差が、勝敗を分けたのだと思う。


レイソルの選手達は素晴らしかったが、やはり、世界“3位”という成果に満足することなく満身創痍の中を闘い抜いたガンバに、彼らの“魂”に、やはり天皇杯は与えられるべきだった。私はガンバの選手・監督・スタッフに心から敬意を表したい。そして、前年に同じ“世界3位”という成果が“慢心”に繋がり、内部から崩壊していったどこかのクラブには、改めて猛省を促したい。


そう、「足先」よりも「口先」が達者になった、君達のことだ。


魂のフーリガン



追伸:


前回の通信「マンUに見る世界との距離」は、実は2008年大晦日の深夜、年越しのギリギリに発信しようとしたものである。しかしながら、その時間帯の通信事情が悪かったのか、アメブロの調子が悪かったのかは不明だが、何故か発信ができなかった。結局、年を越してからのトライでも送信は出来ず、その晩は諦めて寝た。


仕方なくコピーしておいた原稿に若干の校正を行った上で発信したのは、ちょうど元日の天皇杯決勝が行われている最中だった。結果として、ガンバが勝ってくれたので、前回の通信の内容が生き、私も少々ホッとしている。もしレイソルが勝っていたらって?その時はその時。石崎監督と柏の選手達の「熱き絆」に焦点を当てて通信を書いていたかもしれない。


おまけに、1月1日、ガンバの闘いに魂を揺さぶられて書き始めた当通信も、結局発信は正月休み明けとなってしまった。我ながらずいぶんといい加減なものである。(発信の日付は、最初の下書き保存の日付である・・・汗)


マンUに見る世界との距離

2008年が終わった。クローズドのメルマガからオープンなブログに形を変えたフーリガン通信であったが、従来どおりダラダラと毎回長文を書き綴ってしまい、ブログのような軽やかさはとうとう表現できずに終わってしまった。2009年はクリスチアーノ・ロナウドのような素早いステップを目指したいが、個人的にはリケルメのようなまったりとしたボール・キープも捨てがたい。いずれにしてもよろしくお付き合い願いたい。


過ぎてしまった2008年に1つだけ語り残したことがある。クラブW杯のマンUについてである。


ガンバとの12月18日、ガンバとの準決勝。5-3という結果について、大方のメディアはマンUから3点を取ったガンバの健闘を称えた。最後まで萎えることなく攻撃したガンバは評価できるが、あの戦いがガンバの善戦だったろうか?ガンバの強さをアピールできたのだろうか?私は逆の評価である。マンUの強さしか頭に残らない、そんな試合であった。


W杯の直前に、参加国同士が準備のための親善試合を組む。マンUにとってガンバ戦は南米代表との決勝戦のための準備試合であり、開催国日本のクラブとの親善試合でしかなかった。“勝つ”という条件さえ満たせば、あとは時差を解消し、コンディションを整え、怪我をせずに観客を楽しませれば良かったのである。


確かにガンバは攻めた。それは認めるが、ガンバの目的は勝つことではなかった。マンU相手にどこまでできるかを試すことだった。はじめからマンUに勝てるとは思っていなかったからこそ、思い切って攻めたのだ。しかし、現実は厳しい。攻めても点は取れず、一方のマンUはCKから簡単に2点を奪い、前半で勝利を決めた。後は後半途中から選手を交代させるだけ。先発選手を疲れさせないように、そして若手に経験を積ませるために。それが後半23分スコールズ→フレッチャー、25分ビディッチ→エバンズ、29分テベス→ルーニーといった、戦術的に全く意味を持たない同じ役割の選手交代に表れている。


30分の山崎の得点は、ゲームを流していたマンUの隙をついたものだった。しかし、ここでマンUのスイッチが入った。スイッチとは要するにゲームを早く終わらせるということである。30分ルーニー、33分フレッチャー、34分ルーニー・・・マンUはガンバクラスが相手なら、いつでもゲームを終わらせることができるということをいとも簡単に証明して見せた。40分の遠藤のPKはセンタリングが完全にコースを消したネビルの手に当たっただけであり、45分の橋本の点はマンUにとってゲームがとっくに終わった後の出来事で、このゴールで悔しい思いをしたのは失点でゲームを終えることになったファンデルサールひとりだけだったはずである。


マンUのガンバ戦への意図はスターティング・メンバーにも見て取れた。ネビル、スコールズ、ギグスといった30代半ばのベテランの先発である。長い間マンUの顔であり、トヨタカップで“世界一”を経験している彼らにとって、クラブW杯の決勝は果たすべき目標ではない。ターンオーバー制が敷かれているため、彼らの後継者は既にクラブ内に揃っている。決勝は彼らに任せ、ガンバ戦は既に名声が確立した選手の顔を並べておけば興行的に問題はないのだ。ロナウドが先発しただろって?誰もが見たがる現在のマンUの顔、ロナウドはマンUのマーケティング上メンバーから外すことはできないだけである。


そして12月21日、リガ・デ・キトとの決勝のスタメンには、ラファエル、キャリック、パク・チソン、ルーニーといった、これからのマンUを支えてゆく選手たちが新たに並んだ。著名な選手はいなくてもフットボールが何かを熟知した南米の代表を相手にして、マンUは初めて本気モードに入ったのである。前半から攻めまくった姿、あれがマンUの姿なのである。いや、本気は最初だけだっただろう。プレミアでもあんなに一方的なゲームはない。マンUは曲者のカウンターだけに注意して安心して攻めていたように見えた。失点を1つに抑えたのは南米王者の意地である。彼らは間違いなく本気で闘っていたからである。


そんなマンUは現在プレミアリーグ3位。彼らが普段どういうレベルで闘っているかが判る。決勝の後選手たちのコメントには、12月26日のリーグ戦を見据えての発言も見られた。決勝のゴール後の喜びですら、リーグ戦でのゴールに見せる鬼気迫る歓喜にはるかに及ばななかったと感じたのは私だけだっただろうか。残念ながらマンUのクラブW杯で優勝は、世界と日本との長く遠い距離を感じさせるだけのものだった。勝つことは判っていたのだから・・・


繰り返すが、ガンバ大阪の健闘は評価する。彼らは彼らができることを実行した。マンUとのゲーム後に、嬉々としてマンUの選手とユニフォームを交換し世界との距離を自ら認める光景を見せた彼らであったが、彼らはマンUとのゲームで自分たちの到達すべき点はもっと前にあることを感じてくれたようだ。3位決定戦で忍耐強く現実的なサッカーで内容よりも結果を出し、次回のクラブW杯につながるACLへの参加権を求めて、満身創痍の中で天皇杯決勝にたどり着いた。そう思うとFIFAが無理やり作ったクラブW杯の意義もある。そんな大会が日本を離れるのは残念でならない。


まあ良い。それでもfootballは続く。どこまでも着いて行こう。


魂のフーリガン




水色の夕焼けへの想い

ジュビロ磐田がJ2ベガルタ仙台と入れ替え戦を戦っている。仙台での第1戦は仙台に先取点を許すも松浦のゴールにより、1-1で引き分けた。アウェイでの貴重な勝ち点1と、ホームでの第2戦がもし0-0の引き分けであったとしても磐田をJ1残留に導くことになる得点で、磐田が有利になったという・・・


事実はその通り。その報道に誤りはない。しかし、“史実”から見れば、こうして磐田がJ2との入れ替え戦を戦っていること自体が何かの間違いである。しかし、勝負の世界で“史実”、すなわち過去の実績は、何に役にも立たない。そんな当たり前の道理を分かってはいても、やはり頬をつねりたくなる。当事者が、他ならぬあの“強豪”の名を欲しいままにした“ジュビロ磐田”だからである。


磐田の前身は“ヤマハ発動機サッカー部”、1972年の設立である。プロ化前からJFL1部の強豪であったヤマハは、当然Jリーグへの参加に向けての準備をしていたが、静岡県西部の小都市のクラブは“スタジアム”のプロ化基準を満たすことが出来ず、1993年のJリーグ開幕時には準会員としてJFLのクラブのままであった。1993年10月の“ドーハの悲劇”を経験した時、活躍した中山雅史と吉田光範はまだJリーガーではなかったのである。


しかし、1994年に一足遅れてJリーグに参加した磐田は、その実力どおりの健闘を見せた。当初は監督にオフト、スコラーリ、選手にファネンブルク、スキラッチ、ドゥンガといった外国人に頼ったが、その中で若手の日本人選手が育ち、クラブは次第に監督も選手も日本人化を推進していった。そして桑原監督の下、日本人中心でコンスタントな力を発揮できるようになり、パス主体の攻撃型チームは、1997年にはセカンドステージを制し、チャンピオンシップで鹿島を破り年間王者となる。ジュビロの黄金時代の幕開けである。


以降、Jリーグ、ナビスコ杯、アジアクラブ選手権と、次々とビック・タイトルを獲得し、アジア有数のクラブとなったジュビロ磐田であるが、そのピークは日韓W杯で沸いた2002年であった。その年、磐田はJリーグ史上初となるリーグ戦前後期完全優勝を成し遂げたのである。将軍・名波、智将・藤田を中心とした中盤はその華麗なパス回しで対戦相手を圧倒し、高原、中山のツートップはその爆発的な破壊力で次々と相手ゴールを餌食にした。年間30試合での通算成績は2631分。その結果として同年のJリーグベストイレブンには26得点を挙げJリーグ得点王&MVPの個人2冠を達成した高原を始めとして、名波、藤田、中山、福西、田中誠、鈴木秀人の7人ものメンバーが選出された。同一チームから7人という記録はJリーグ94年のベルディとのタイ記録であるが、ベルディの場合は7人にビスマルク、ペレイラ、ラモス瑠偉という3人の個性豊かなブラジル人(ラモスは日本に帰化したが)が含まれていたことを考えると、選ばれた7人全員が日本人であった当時の磐田が、如何に完成されたチームであったかがうかがえる。


しかし、その後王者・磐田も、主力選手の離脱や衰えと共に徐々に弱体化して行く。2003年に高原はハンブルガーSV、藤田はユトレヒトに旅立って行った。レンタルの藤田は移籍金がネックになり一旦は戻ったが、2005年に再び名古屋に移籍。2006年に服部はベルディ東京、名波はセレッソ大阪(翌年にはベルディ)、そして最後の大物となった福西も2007年にベルディへと移籍して行った。最後までクラブに残った“ジュビロの太陽”中山は、相手DFの他にも自らの年齢と怪我との闘いを余儀なくされ、その輝きを失っていった。


もちろんJ屈指の強豪には、前田、菊地、成岡、カレンといった新しい才能も加わり、他のクラブからも川口、村井、茶野、駒野といった実績のある選手も加わった。メンバーを見れば、王国の継承は問題ないかに見えた。しかし、崩れだした王国の牙城は脆く、クラブは2003年2位、04~06年は5~6位、07年9位とリーグの順位を下げ、そして今期2008年、16位とついにJリーグ参加後初めてのJ2との入れ替え戦を経験することになった。そして、クラブ人事の最新のニュースは、今期クラブに戻った名波浩の引退と、クラブ生え抜きで戦い続けた田中誠への戦力外通告、共に黄金時代を支えた選手に関する悲しい知らせ・・・


確かに磐田は強かった。強さの理由は中盤から前線の速く多彩なパスワーク、その華麗なパス回しとポゼッションを支えたのは、パスが出る前の周囲の動きである。それもパスが出た時には次のパスを受ける3人目の選手が既に動き出しているといった緻密な連動であった。では何故、個性豊かな選手達があのように見事な呼吸で、連動するサッカーができたのだろうか。私は、その理由は長期のレギュラーメンバーの固定化によるものであったと考える。黄金時代のチームが完成されすぎていたのだ。彼らに依存しすぎたがゆえに、新たな戦力が同化し切れず、成長し切れなかったのである。


黄金時代を築いた選手達は、皆若手の頃から同じピッチに立ち、互いに上手くなり、互いに成長してきた。この相互理解は日本人中心のチーム作りを志向したクラブだから出来たことだろう。完成されすぎたチームであったがゆえの悲劇。私にはそう思えてならないのだ。


しかし、世界中の強豪クラブは、いずれもこの「谷間のサイクル」を経験して来ている。マンUだって、チェルシーだって、“2部落ち”を経験してきているのだ。苦しさを乗り越えた時に真の喜びがある。だから私は磐田の明日に期待したい。ここで言う“明日”は「入れ替え戦第2戦」のことではない。もっと先の、10年、20年先に再びJリーグで優勝を争うであろう、“その日”のことである。


“その日”はきっと来る。間違いない。ジュビロの語源は“歓喜”なのだから。


魂のフーリガン


追伸:

入れ替え戦を直前にして、ジュビロ・サポの方には不吉な内容であるかもしれない。しかし、今だからこそ書いておきたかった。磐田のあの“キングダム・サッカー”が大好きだったから・・・ご容赦下さい。