フーリガン通信 -20ページ目

理想と現実-CL決勝を終えて-

夢の欧州CL決勝が終わった。


誰が何と言おうとマンUを応援する私にとって、完敗という現実と向き合うことは悲しいことであったが、相手が大好きなバルサ、しかもこの夜のような「粋なサッカー」を見せられては仕方がない。せめてもの救いは、マンUサポーターとしても納得せざるを得ない敗北であったということであろう。私に言わせればローマの夜に登場したマンUは明らかに調子を落としていたが、そんな言い訳は許されないほど、バルサは強く、美しかった。


この通信の読者は恐らくLIVEまたは録画でゲームをご覧になっているだろうから、バルサのどこが素晴らしかったかはここで語る必要はあるまい。言いたいことは解説者の風間八宏さんが全て語ってくれた。見ていなかった方は、是非先月の通信「妖精たちの変異(進化)」http://ameblo.jp/becks7whites/entry-10241449395.html をご覧いただきたい。私はそこでバルサのサッカーの素晴らしさについて、風間さんとほぼ同様のことを語っている。もちろんかつてブンデスリーガで活躍し、現在も優秀な指導者である風間さんとは理解の深さが異なるが・・・


では、私は今回何を叫びたいか。多くの評論家やブロガーは今回の決勝について、バルサの素晴らしさ、美しさ、強さについて語っているが、私はあえてマンUについて語りたい。


グアルディオラ監督を始め、多くの人はマンUの序盤の怒涛の猛攻について、想定外だったと語っている。結果論として、マンUがバルサにリズムを掴む間を与えずに一方的に攻め続けた開始後9分間(この間にロナウドは何と3発のシュートを放っている)に得点できずに、イニエスタのセンターサークルからの何気ないドリブルで始まったバルサのこの夜初めての攻撃でエトーに得点を許したことで、このゲームの大勢が決まってしまった訳であるから、マンUのゲームへの入り方については多くの意見があるだろう。


しかし、私自身はファーガソン監督の意図は理解できるし、スターティングメンバーを見ただけで、マンUの攻める姿勢も感じ取れた。それはギグスのスタメン起用である。本来なら出場停止で欠場のフレッチャーが入る位置であるが、ここに冷徹な潰し役もできるスコールズではなく、守備では全く期待できないギグスを入れたということはまずは“攻める”というメッセージであった。とはいってもFWにテベスやベルバトフではなく、守備でも貢献できるパク・チソンを並べたところにファーガソンのリスク管理の意図がある。


今期のバルサは準決勝のチェルシー戦で苦戦した。ホームのカンプ・ノウで、老練なヒディンク監督の作戦によによりスコアレス・ドローに持ち込まれ、敵地スタンフォード・ブリッジでは先制点を奪われ、後半ロスタイムにこの日唯一相手ゴール枠内に飛んだイニエスタの起死回生の同点シュートで、同勝点ながらアウェーゴール・ルールにより、かろうじてこのローマの決勝に駒を進めることが出来たのである。バルサを殺しかけたヒディンクの作戦はバルサが忌み嫌う通称“アンチ・フットボール”。チェルシーは徹底的に守備を固め、攻めは身体能力の高いドログバやアネルカの単騎カウンターのみに委ねた。バルサは攻めているようで“ボールを持たされている”状態、そしてチェルシーは肝心の場面では激しく守り、ゲームを完全に殺したのである。


ファーディナンドやビディッチを擁するマンUも、やろうと思えば“ゲームを殺す”ことはできる。しかも、完璧に。そして、その現実的で冷徹な作戦が、美しさに拘るバルサを苦しめる最も有効な手段であることも知っていた。しかし、ファーガソンは自ら“攻めた”のである。何故か。答えは一つ、それが前回チャンピオンのプライドなのである。


ゲームを殺して、バルサに勝つのではなく、王者として堂々とバルサの挑戦を受ける。マンUで23年間も指揮を執る67歳の大監督は、シーズン終盤に期限付きでチェルシーに来て、しかもロシア代表との掛け持ちの暫定監督と違い、38歳のルーキー監督を堂々と正面から叩く道を選ぶことに、まず迷いはなかったはずである。それを可能にする素晴らしい才能を集め最強のチームを創り作り上げてきたという自信、そしてそういう素晴らしい決勝戦を求める周囲の期待、そして何よりも、ビッグイヤーを含め既にあらゆる栄冠を勝ち取ってきたファーガソン自身にとって、チェルシーが見せた“アンチ・フットボール”での自身3度目のCL制覇を実現したとしても、それはもっとも“面白くない”ことに違いない。


しかし、そんな「老人の楽しみ」も、勝ってはじめて自分のものになる。かつては「瞬間湯沸かし器」と呼ばれ、敗戦への怒りから控え室に置いてあったスパイクを蹴り上げ、ベッカムの美しい顔に傷をつけた男が勝利に拘らない訳がない。そこで執った戦法がゲーム開始直後の猛攻なのである。攻撃は最大の防御。イニエスタとアンリが復帰し、攻撃陣は駒が揃ったバルサであるが、センターのマルケスを怪我で、サイドのアウベスとアビダルを出場停止で失った守備陣は不安が残る。そこをついて、立ち上がりからルーニー、ロナウド、パク、ギグスで前線を掻き回し、中盤からもキャリックの対空砲火、アンデルソン、エブラのオーバーラップでバルサ陣内に混沌をもたらす。そして力技で強引に先制点をもぎ取り、後はチェルシーのスタンフォード・ブリッジで取った準決勝第2戦の戦法に移行する。


冷静に厳しく守りながらバルサの焦りを招き、バルサが前掛かりになったところで、ルーニー、ロナウドがカウンターの槍を刺す。時間の経過と共に、疲れが出るはずのギグスに代わって守備も攻撃も出来るスコールズが中盤で嫌らしい仕事をして、既に十分走っているはずのパクの代わりに前線ではより決定力を備えるテベスが槍のサポートに顔をだし、槍が逸れてもボールを追い続けてバルサの攻撃の根元を断つ。そして最後は追加点・・・。攻撃で明らかにチェルシー以上の選択肢と可能性を持つマンUである。序盤のマンUの猛攻を見て、私の脳裏にはそんな展開と「2-0」でマンUの勝利という結果がすぐに思い浮かんだ。魂が叫んだ。「来たね、ファーガソン!」


しかし、ファーガソンのイメージとピッチの上での出来事はズレが生じていた。その1つは文字通りのズレ、マンUのパス精度の低さである。ファーディナンドがとんでもないバックパスで自陣エンドラインを割ったが、それ以外のパスも序盤から精度を欠いていた。相手に繋がっても、受け手が欲しい場所からズレていたために、チャンスを逸し、展開にスピードを欠いた。あのルーニーまでもがである。理由は不明であるが、私は2節前にプレミアで優勝を決め、直前のゲームには若手に任せて、ほとんどの選手が休養を取ったことにあるかも知れない。大一番に向けて十分な休養は必要であろうが、英国での最後のタイトルとなるFA杯に敗れているため、CL決勝戦が今シーズンの最終試合となる。多少の疲労はあってもむしろ、実戦感覚と緊張感を維持したままこの夜に望んでいたら、このようなイージーなミスを序盤で連発するようなことがあっただろうか?すでにシーズン終盤で身体には疲労が蓄積されており、「調整」と「休養」のバランスを取るのは難しいものである。もちろんこの仮説には全く確証はないが。


そしてもう一つのズレは序盤の猛攻撃の中心人物、C.ロナウドの“気負い”である。「気合」は良いが、「気負い」はNG。今季はポルト戦の一発やアーセナル戦のFKなど、長距離のシュートの精度と威力に磨きが掛かったロナウドであるが、自分の一発で決めてやろうという意識が序盤から強すぎた。全てのシュートは「来るぞ!」と準備が出来るほど力みもので、優秀なGKであれば対処もし易い。おまけに力みが激しいため、ここでも微妙な精度にズレが生じていた。世界最高の選手に何があったのか。何もない。コンディションは良さそうだった。問題はその若さと、さらに高いものを望む個人の欲望であった・・・私はそう思うのだ。


ロナウドは昨シーズンに驚異的な得点力を発揮し、ダントツの評価でバロンドールとFIFA年間最優秀選手を獲得した。しかし、彼自身獲得できなかったものがある。いや、置き忘れてきたといった方が良いだろう。それはCL決勝戦での彼自身の満足感である。チェルシーとの雨中の決勝戦PK戦で彼は失敗した。最後は勝利を収め、クラブはビッグイヤーを手にしたが、彼自身は完璧であるべきシーズンの最後に苦々しい思い出で終えたのだ。だからこそ、今季の決勝への思いは並々ではなかったと思われる。実際にゲーム前のコメントからも、その強い渇望は十分に見て取れた。そして相手にはCL得点王を手中にし、今季の個人賞の本命であるメッシがいる。シーズンオフのひざの手術で序盤出遅れたロナウドであるが、後半には重要な場面で得点を続け、この夜の活躍しだいでは2年連続のバロンドール獲得も夢ではない。彼が気負うには十分すぎるほどの理由があった。若いと言ってしまえばそれまでだが、そういう人一倍強い気持ちがあるからこそ、若くしてトップの座に上り詰めることが出来たのである。そう思うと、これもまた仕方のないことなのであろう。


これらの微妙なズレが、マンUのゲーム・プランの遂行を阻害した。そして、そのような問題を抱えながらも力づくで攻め続け、目標の完遂も時間の問題と思わせた中、前述のエトーの得点が生まれた。しかも実に簡単に。イニエスタがドリブルを開始したときにはマンUのDFがしっかりと迎撃体制を構えていた。しかし、プレミアなら絶対に相手を倒していたであろうアンデルソンは、ほとんど無抵抗でスルスルと上がるイニエスタの侵入を許した。DFを前にしたイニエスタからのパスを右サイドで受けたエトーは、これまた実に容易にヴィディッチの横をすり抜けた。そして次の瞬間にはボールはファン・デル・サールの腕を弾いてネットを揺らしていた。


マンUの落胆は大きかったに違いない。自分たちがあれほど攻めても奪えないゴールを、たった二人でいとも簡単に盗まれたのである。一方のバルサは、この予想外の(失礼)ゴールで、一気に息を吹き返した。マンUとバルサのモチベーションカーブはこの時に一気に交差し、バルサが得点の上でも、精神の上でも優位に立ったのである。後の展開は多くを語る必要はあるまい。技術のある選手が余裕を持った時、どういうことが出来るのか。マンUはゲームの残りの時間、それを嫌というほど味わったはずである。シャビがノーマークで前を向けば、ファーディナンドとオシェイという大型DFの間に侵入した小さなメッシの頭にピンポイントでドライブ・カーブのかかったクロスを入れることができるのである。序盤に先取点を上げたチームが、焦りの中で前がかりになったチームの裏をついてカウンターで追加点を上げ「2-0」・・・皮肉にも、ファーガソンが描いたストーリーがそっくりそのままバルサのものになったのである。


多分に私の思い込みが入っていることは否定しないが、この夜の決勝戦はそんなものだったのではないだろうか。結果としてバルサのパスワークが冴え、王者マンUを手玉に取ったことで、バルサの強さと美しさが印象に残ったゲームではあったが、もし序盤の猛攻でマンUが先取点を挙げていれば、結果まったく逆のものになっていたかもしれないのだ。実際に私はこれまでにそんな「2-0」のゲームを数多く見てきている。勝利と敗北は実は紙一重。フットボールはだからこそ面白い。


前述の過去の通信で、「美しいフットボールは必ず敗れる」というフットボールの真理に言及した。そしてその時の相手は大概「より美しいフットボール」ではなく、「現実的なフットボール」である。バルサより美しくはなく、かといって現実的にも徹し切れなかったマンUが敗れたのは、その意味では必然であったのだろう。今はただ、「絶対に観ておくべき」と推奨したバルサが欧州のクラブの頂点に立ったこと、「美しいフットボール」が敗れなかったことを素直に喜びたい。相手がマンUであったことは残念ではあったが、バルサの最後の相手がマンUであったこともまた事実。他のクラブではなかったことは、私のせめてもの喜びである。


EUROでのスペインの優勝で幕を開けた2008-09のシーズン、その舞台のトリを華麗に舞ったのもまたスペインの攻撃的なパスサッカーであった。このシーズン、フットボールの神様はすこぶる機嫌が良かったようだ。大いに感謝したい。来シーズンもよろしく!


魂のフーリガン


p.s. ローマでの欧州CL決勝戦。この最高の舞台で、マンUのスタメンに朴智星が並んだ。ゲームとは別の次元で嬉しく、そして誇らしく感じた。私だけだろうか。









魂の賛歌-欧州CLファイナルに寄せて

ご無沙汰している。お恥ずかしいことに、最近はもうすっかり「月刊フーリガン通信」化しており、時々はチェックしてくれているであろう数少ない読者の皆様には誠に面目ない。しかし、今月は恐らく最低2通は発信するだろう。それは5月27日に欧州CL2008-2009の決勝が行われるからである。


ローマのスタジオ・オリンピコで行われる決勝戦は誰もが注目するカードであろう。それは今回の両クラブこそが決勝を戦うに相応しいクラブだからである。


「我が宿命」、愛しのマンU(私は個人的な嗜好は隠さない)は、昨年の欧州CL覇者で、12月には横浜でクラブ世界王者の称号も手にした。そして、今シーズンも世界で最も高いレベルといわれるプレミア・リーグで、現在2節を残して2位リバプールに勝ち点6の差をつけて首位を走っている。2試合で引き分け一つ、勝ち点1を取れば優勝が決まる訳で、恐らく彼らは運命の27日をプレミア・リーグの覇者としてを迎えるこになるであろう。残念なことに価値あるFA杯(日本で言う天皇杯)こそ準決勝のPK戦でエバートンに敗れたが、既にカーリング杯(日本で言うところのナビスコ杯)を勝ち取っており、クラブW杯を含てのシーズン“4冠”に手が届いている。


一方の「我がコラソン」、麗しのバルサ(ここでも嗜好は隠さない)も、今シーズンはバルサのカンテラ出身としては初の監督、伝説の“ドリームチーム”の主役であったジュゼップ・グアルディオラの下、圧倒的な攻撃サッカーでリーガ・エスパニョーラを独走。終盤に選手の怪我と疲労で若干ペースを落としたが、現時点で偶然にもマンUと同じく優勝まで勝ち点1。2位レアルを敵地サンチャゴ・ベルナベウでのクラシコで粉砕し、優勝を遮るものは見当たらない。CL準決勝でチェルシーとの消耗戦の後も、13日にはスペイン国王杯を制し、こちらも再び“ビッグ・イヤー”を獲得し、「夢の3冠」によりこのチームをクライフ監督時代の“ドリーム・チーム”を超える伝説にしようとしている。


要するに、昨シーズンの各国王者および競合国の上位クラブで争われる欧州CLにあって、今回の決勝戦はまさに今シーズン、現段階で最も強いクラブ同士の正真正銘の闘いとなるのである。はっきり言おう。この歴史的な決勝戦を見ない奴はバカである。普通のバカではない。「大バカ」と呼ぼう。


・・・と勝手に盛り上がっているが、フットボールで“本当に楽しい”のは今なのだ。27日は楽しんで観ていられない。共に愛する「宿命のクラブ」と「魂のクラブ」の対決なのである。全ての展開にハラハラ・ドキドキするのは間違いない。そして闘いが終わっても、複雑な思いが交錯するだろう。


ついに1988-89の“3冠”を超えるマンUの栄誉を喜ぶ一方で、今シーズンのバルサが将来語り継がれる伝説とならなかったことを嘆くか、それとも、バルサの攻撃サッカーの戴冠に感動でうち震えながら、ファーガソンの下で若手からベテランまでがバランスよく揃い、魂・技術・パワー・スピードの“四位一体”を実現したレッド・デビルズが明日の希望を見失うほどの嘆きの瞬間に立ち会わなければならない。


私が好むと好まざるとに関わらず、ローマで決勝戦終了のホイッスルが鳴った瞬間に、私はこのいずれかの現実と向き合うことになる。それもまた、宿命。だからこそ、私は今、私の頭の中で、私の心の中で、マンUとバルサの決勝を思い切り楽しんでいる。この闘いが楽しめるのは、この2つのクラブのどちらもが、敗者となっていない今だけなのだから・・・


日本でJリーグが発足して15年。浦和のような、欧州のクラブに比肩するような「サポーター愛」が感じられるクラブが日本にも生まれてきた。「我が街のクラブ一筋」という文化の到来は、フットボールを愛する者として大いに歓迎する。しかし、日本サッカー不遇の時代から欧州のサッカーに魅せられて来た私には、あるチームの全てを肯定し、その相手の全てを否定するような観戦姿勢は身についていない。対戦する両チームが憧れだったのである。彼らの対戦そのものが、私には魅力的だったのである。


フットボールを愛するようになってから約40年間、私のそんなフットボール観は変わっていない。応援する喜びや、勝利に対する喜びよりも、遥かに勝るもの。それは「素晴らしいフットボール」に出逢うことなのである。だからこそ、時代や選手が変わっても、私はフットボールを愛し続けてくることが出来たのである。


今、5月27日の欧州CL決勝戦は、そんな私の「魂」を根元から揺さぶり続けている。何度も、そして激しく。メッシ、エトー、アンリ、シャビ、イニエスタ・・・、そしてルーニー、テベス、ロナウド、ギグス、パク・・・彼らは決勝戦の前に、どれだけ点を取るのだろうか・・・私の頭の中の、緑色のピッチの上で。


・・・もしかしたら、こんな私の方が「大バカ」なのかも知れない。


魂のフーリガン




妖精たちの変異(進化)

少し前の話であるが、名古屋の監督“ピクシー”ドラガン・ストイコビッチが雑誌Numberの表紙を飾った。その号の特集は「世界から見たJリーグ」、ピクシーのほかにも大御所オシム、フィンケ、シャムスカ、トルシエ等、外国人監督によるコメントは非常に興味深いものだった。


彼らの言葉の中で、私の魂に最も響いたのは、ピクシーの「私はグランパスの選手たちに、『最後の20mのエリアでは好きなようにプレーしろ』といつも言っている。」という発言であった。ピクシーは、アタッキングサードと呼ばれる敵のゴール前の20mは本来「完璧な自由」が与えられるべきで、選手はシュートでも、ドリブルでも、キープでも、ターンでも、自分の創造力をいかして自由にプレーできるスペースなのだと言う。自陣ゴール前でボールを奪われるのは失点に直結するが、最後の20mならボールを奪われても構わないとまで。そして、その後に「でも日本人は、自由にプレーするために必要な自信というものを、十分に持っていないと思う」と言葉を続けた。


彼が言うことですぐに思い浮かんだのは、他ならぬ彼自身の現役時代のプレーである。“妖精”と呼ばれたピクシーのプレーはまさに自由そのものだった。彼はボールを受けるとまずキープに入る。もちろんダイレクトで素晴らしい閃きのパスを送ることもあるが、不思議と私の脳裏に焼きついているピクシーは、密集の中でも確実にボールを止め、前を向き、DFに相対しながらも冷静にキープをする姿である。まるでショーが始まる前のように、一瞬の静寂が生まれる。そして、観客が固唾を呑んで見守る中、彼は我々の想像を超えた魔法の選択肢を披露するのだ。場面場面で繰り出される様々なアイデアに、我々は驚き、そして楽しませてもらった。だからこそ、彼は長い間、世界中で愛されたのである。


しかし、彼が世界のトップシーンで活躍した時代はすでに一昔前のことである。来日して名古屋でプレーするようになってからもユーゴスラビア代表の中心選手であり続けたが、35歳で迎えた代表最後のビッグゲームEURO2000の準々決勝で開催国オランダに6-1と大敗を喫し、多くのファンはこの「妖精=ピクシー」が華麗にピッチを舞う時代が終わったことを知らされた。ピクシーだけではなかった。スピードや走力が試合の勝敗を決する重要な要素となってから、前線で落ち着いてボールをキープして、一瞬の閃きで勝負するような“ファンタジスタ”という種族は絶滅に瀕していった。ジダンやリケルメといった、ほんの数名の“突然変異”を除いて。


そう思うと、走力とスピードがより必要となった現代に、前述のピクシーのコメントには若干の違和感がある。では現代のピッチにピクシーのような妖精たちは舞えないのだろうか。いや、妖精たちは存在する。少なくとも私は見た。それもピクシーの舞った時代とは形を変えて。


それは4月8日の欧州CL準々決勝1stレグ、カンプノウで行われたバルセロナ対バイエルン・ミュンヘンでの、メッシー、エトー、アンリ、イニエスタ達である。特にこの南ドイツ・ババリア地方の巨人バイエルン相手に4発を叩き込んだ前半に(後半は死人相手のポゼッション・ショー)の彼らは、そのそれぞれがゴール前20mを自由に舞った。ドリブル、パス、シュート、ピクシーの言う「完全な自由」を謳歌するかのように。雨に濡れたピッチの上を、星がプリントされたボールは、変幻自在に動く選手と選手を繋いで複雑な多角形を描き、その軌跡は途切れることなく続いた。そして、さらに恐るべきことに、フィニッシュを含めボールはピッチから殆ど離れることは無かった!


しかし、一人ひとりが「完全な自由」を手にしていたように見えて、彼らは実際には「群れ」として機能していた。ここが偉大なるファンタジスタの時代との違いである。妖精そのものが華麗で優雅なのではなく、小さくよく動く妖精たちが描く“Footballそのもの”が華麗で優雅なのである。私は本当にその美しい“群舞”に見とれてしまった。


選手の運動量が増え、素早いプレッシングにより、昔に比べてピッチの上にはもはや妖精が優雅に舞えるような舞台(時間とスペース)は削られてきた。にも関わらず、なぜバルサはかくも美しく優雅なFootballができるのか?なぜ彼らだけが「自由を楽しむ」ことが出来るのか?その質問の答えは、もう一つの問いの答えとなる。その問いとは、「人もボールも動いて素早くパスを繋いで、相手のバランスを崩して綻びを生みそこから攻め込む」という“ポゼッション・サッカー”を標榜する、どこかの国の代表チームの攻撃が、なぜバルサほど機能しないのか、なぜ美しくはないのか?というものである。


実は答えは簡単である。それはバルサの選手達の「高い技術」にある。ピクシーは「自信」だというが、私はその前に、「その自信を持てるだけの技術」に言及したい。更に特定するならば「トラップ」の技術であろう。相手に囲まれた狭いスペースでボールを繋ぐには、パスのスピードが必要である。受ける側にそれだけ時間と空間が出来るからだ。そこで問題になるのが、受け手のボールコントロールの能力である。ボールを上手く止めることではない、ワンタッチで自分が次のプレーに移ることが出来るように、ボールを完全に支配することである。


トラップ一つで次のプレーの準備までができれば、近くに居る相手が寄せる前に「見る」余裕と「考える」余裕が生まれる。余裕が生まれることで「選択肢(アイデア)」が生まれる。余裕があれば「正確なプレー」もできる。ほんの僅かの余裕であるが、彼らほどのレベルであれば一瞬の余裕で十分。バルサの選手達が相手のプレッシャーを受けながらでも、ボールを失うことなく、前を向いて次のプレーに移ってゆけるのは、彼らが一瞬の余裕の中で、常に能動的に仕掛けているからである。どこかで見かける苦し紛れのパスではないのだ。そしてそんなプレーを支えるのがボールを的確にコントロールする「技術」なのである。


ピクシーが言った『最後の20mのエリアでは好きなようにプレーしろ』という言葉は攻撃サッカーにおける“福音”である。しかし、その言葉の裏にはFootballにおける重大な真実が隠されている。ボールを手で自由に扱えないがゆえに生じる不確実性と混沌を支配するものは、不確実を確実にし混沌を秩序に変える「技術」、すなわち自由に扱えないはずの「ボールをいかに上手く扱うか」という至極単純なことなのである。“個人のテクニック”がなければ、与えられた「自由」を「喜び」に変えることは出来ない。そしてそれ以前に、ピッチ上で「自由」を与えられる権利すら得られないのである。


「個」か、「組織」か・・・、バルサの妖精たちは、もはやそんな問答をしている時代ではないことを教えてくれる。いかに優れた「個の力」が存在しても、いかに「組織力」を鍛えても、バルサのような「優れた個が融合した組織」がひとたび成立すればもう歯は立たないのだから・・・


しかし、不幸にも歴史上現在のバルサのような「成功事例」は稀である。常日頃一緒に練習するクラブでも稀なのであるから、共に練習する時間が限られる代表チームにあっては、さらにそんな美しいサッカーの実現は難しい。私が見た限りでは1970年と1982年のブラジル、1974年のオランダ・・・そしてずっと最近に来てEURO2008のスペイン(現在進行形!)位である。そして、そんな成功事例は長くは続かない。プレーする選手達は生身の人間であり、常に最高のコンディションでプレーできるわけではないから、「美しいサッカー」も必ず敗れる。(だからこそFootballは面白い!)


「美しいもの」とは永続しないからこそ美しい。だからこそ美しいものはその時の空気と共に、リアルタイムで自分の眼に焼き付けておくべきである。そうすれば、その「美しさ」は自分の中で永遠に生き続ける。環境が変わった中で、見事に変異(進化)し、現代のピッチで美しく舞う妖精たち。今年のバルサは観ておく価値がある。いや、観ておかなければならない。


魂のフーリガン