フーリガン通信 -21ページ目

「自分達のサッカー」の行方

328日の2010W杯アジア最終予選、日本-バーレーン戦は因縁のゲームであった。この1年間で5回目の対戦で過去4回の対戦成績が22敗、しかもそのすべてが1点差のゲームであったという事実がその因縁と言われる所以である。

日本側には明らかにバーレーンに対する苦手意識がある。長身で屈強なDF陣で固められたゴール前、反則まがいの激しいチェック、長いキックと走力を生かした素早いカウンター攻撃…。思い起こせばアテネ五輪予選、中国アジア杯、ドイツW杯予選と、何故かバーレーン戦にはこの1年の対戦以上に嫌な思い出がつきまとう。その中身はいつも同じようなイライラ、ハラハラのゲーム展開にある。

では、バーレーンのサッカーとはどんなサッカーなのだろう。岡田監督も選手たちもバーレーンについて「相手の嫌なことをしてくる」と評していた。これを言い換えると「相手の良さを消すサッカー」ということになるだろう。バーレーンのマチャラ監督も「日本のことは何でも知り尽くしている」と不敵な笑みを浮かべながら語っているから、バーレーンのサッカーが相手のサッカーに対応したものであることは間違いないだろう。


一方の日本は、監督から選手に至るまで「やることは変わらない」、「自分達のサッカーをするだけ」と同じような言葉が出てきた。「やっていること、やろうとしていることは間違っていない」と言い切る自信があるのは良いことなのだが、それで果たしてこの先に望む結果は出るのであろうか。W杯出場ではない。「W杯で4位以内」という「世界を驚かす」結果である。

前置きが長くなったが、私はそんなことを考えながらバーレーン戦を観ていた。批判的な目ではない。Jリーグが始まり、コンディションは前回のアジア杯予選より良い。はより高い次元で「自分たちのサッカー」を表現できる。バーレーンが日本を熟知しているように、日本もバーレーンを熟知している。ならば今度こそ「自分達のサッカー」でバーレーンに完勝できるのではないか。そんな光景を期待していたのだ。しかし、目の前に展開されたゲームは、皆さんも観たとおり、これまでのバーレーン戦のビデオを見るような、これまでと同じ「自分達のサッカー」と、これまでと同じ「バーレーンの相手の良さを消すサッカー」だった。


日本が圧倒的なポゼッションを得ることは予想通り。問題はそのポゼッションから引いた相手をどう崩すかであり、そこがこのゲームの焦点だったはずである。日本は長身揃いのバーレーンDFに対し、玉田、田中、大久保の小兵を並べた。この時点で狙いは明確。スピードとアジリティ(機動性)のある3人により、バーレーンのゴール前に混沌を発生させること、そして精度が悪いクロスに対して中央に飛び込む人数を増やすことで、ゴールの確率を高めることがその狙いである。


しかし、残念ながら似たようなタイプを増やしたことは、自らの混乱も生むことになった。相手が引いているからサイドバックの位置が高めになったこともあり、3人のFWは結局中央の狭いスペースにひしめいた。狭いスペースで交わされるパスは短く忙しいだけで、なかなか中央をしっかり固めた赤い壁を突破できない。自慢の中盤がスルーパスを通すスペースがないから、玉田や大久保は、大柄なDFに加え進路に重なった同朋の間を縫ってドリブル突破を図る。しかし、残念ながら彼らはメッシでは無かった。密集を抜ききることも出来ず、途中でフィニッシュを託すアンリもエトーも居ないため、最後は判を押したように身体を寄せられて潰された。出来ることは座ったまま両手を広げて審判にアピールすることだけ。これもまた見飽きた光景である。


たまにボールがサイドに渡っても7~8人の赤い選手がいる中に小さな青い選手は見つからず、はなかなかクロスを出すことはできない。飛び込む選手も同じような動きをするため選択肢は広がらず、そこにきて出されるクロスの精度が悪いため、結局赤い壁に跳ね返されるだけ。「精度が悪い分、量を増やす」という岡田監督渾身(?)の戦術も、全くの機能不全。その証拠に3人のFWは俊輔からの気の利いたパス以外ではまったくと言っていいほどシュートを打てなかった。選手の動きの量や飛び込む数を増やすという以前意に、選手のアイデアの量を増やすべきだろう。


結局シュートらしきシュートを打ったのは中央の雑踏を外れていた内田のみ。しかし、3度手にした“どフリー”のチャンスも、彼がDFたる理由を暴露するようなセンスの無い結果に終わった。バーに当てた「強烈なシュート」も、普通の選手なら低く抑えて逆サイドを狙ったことだろう。解説者の堀池氏の「逆サイドに打っておけばGKに弾かれてもチャンスが生まれる」といったコメントは、まともにサッカーをしたことのある人なら誰でも語れる常識である。GKと完全1対1の場面でのお粗末なトラップは、彼がその位置に走りこむ資格が無いことを意味している。もはや偶然のチャンスを恨んだ方が良いのかも知れない。(鹿島の先輩・柳沢がドイツW杯で見せたとんでもないシュートミスが一瞬蘇ったのは私だけ?)


業を煮やした解説者諸氏が前半語ったように、ミドルシュートが少ないのも気になった。ゲームが終わる度に課題として指摘され、特にベタ引きの中東相手には必ず直前に練習したであろう武器を、なぜ実践できないのだろう。まるで細かいパスを繋いで中央を突破しなければならないという縛りがあったかのように、選手は打てるタイミングでもパスかドリブルを選択した。もちろん選手も馬鹿ではないから、打てれば打てたのだろう。欧州のトップ選手達はよく相手を前にしながら一瞬の隙を突いての狙い済ましたミドルュートを見せる。それが出来ないということは、日本の選手には打つ自信も技術も不足しているということである。


結局、ゲームはご存知の通り、俊輔のラッキーなFKでの唯一の得点を守りきり、日本が貴重な勝ち点3を積み上げた。守りには殆ど不安はなかったから、危なげない勝利ではあった。それなりの強いチームが残るW杯最終予選としては決して悪い結果ではない。終盤の徹底的な時間稼ぎにも、“ドーハの悲劇”の時にはなかったマリーシアが十分に感じられ、日本のサッカーの成長の跡も見られた。


そこで改めて全体を振り返るが、このバーレーン戦で、監督・選手が口を揃えた「自分達のサッカー」はより高い次元への進化は見られただろうか?言い換えると、これまで以上の自信を得るに足る内容であったのだろうか?これを測るポイントは、披露された「自分達のサッカー」が、これまで悩まされてきた「バーレーンの相手の良さを消すサッカー」を凌駕したかどうかという点である。


ポゼッションの数値では圧倒したが、中東相手のホームゲームではそれはまったく評価の対象とはならないことはお分かりいただけるだろう。相手の戦術そのものが、日本にボールを持たせて攻めさせて、疲れた時に前がかりとなった裏のスペースを突くカウンターだからである。大事なのはポゼッションではなく、その中でどれだけシュートを打てるか。しかし、結局のところ、シュートは少なく、フリーで打てても精度は悪い。ゴールの可能性(自ら枠を外したシュートは問題外)があったのは、セットプレーからの中澤・闘莉王の頭、そして俊輔のFKのみであった。ということは、この2点こそが日本を知り尽くしたバーレーンが消そうとしても消せない「日本のサッカーの良さ」すなわち「闘いで役に立つ武器」ということになる。そう、結局今の日本サッカーは、そこにしか活路は見出せないのだ。違うだろうか。


数少ない武器で狙い通り1点を取り、その1点を守り通したのだから、イタリアなら「美しい勝利」と言われるだろう。しかし、この僅かなストロングポイント(しかも中澤・闘莉王はアジアでしか通用しない)のみでで「結果オーライ」のまま進んでも、その先の結果は見えている。


「やろうとしていることは間違っていない」・・・方針にブレがないことは良いことだ。しかし、いくら完成図が美しくても、完成しなければ意味はない。やろうとしていることが間違っていなくても、結局「それが出来なかった」で終わってしまっては話にならないのだ。彼らがやろうとしている「自分達のサッカー」に少しずつでも近づいているのであれば、そう感じさせてくれるプレーが見られれば、まだ期待もできるが、残念ながらこのバーレーン戦、私には「自分達のサッカー」の進化よりも、その「限界」が見えただけだった。


日本は間違いなく南アフリカに行くだろう。しかし、アジアレベルですら表現できない「自分達のサッカー」が、世界をどのように驚かすことが出来るのだろうか。日本人自身が、ドイツ以上の悲惨な結果に驚くことのないように、これからの準備は重要である。そろそろシフトしなければならないだろう。「実現できない自分達のサッカー」から、「自分達でしか実現できないサッカー」に。


客観的に見た「日本の強み」を活かしたサッカー。私は世界を知った上で、日本人を客観的に見ることの出来る“外国人監督”の方が、やはり適しているような気がする。「日本のサッカー」の姿が見えるまでは。


魂のフーリガン










日本に足りないものは・・・

たった今、南アW杯最終予選のオーストラリア戦を見終えた。


このゲームはW杯最終予選の天王山であったはずだ。3連勝・勝ち点9でグループ1位のオーストラリア、2勝1分・勝ち点7でグループ2位の日本。日本が勝てば日本は首位に立ち、W杯出場が見えてくる。負ければ一転、苦手バーレーンの影が実像となって迫ってくる。だから、マスコミや評論家はこの一戦の行方に、日本サッカーの未来を重ね、危機感を煽った。


しかし、結果は0-0の引き分け。ホームでの引き分けは「負けと同じ」であるはずであるが、2位でも予選を通過できる環境では歓喜も失望もなく、楽観も悲観もない。むしろ、ついこの前バーレーンに判を押したような負け方をした後だけに、「格上」のオーストラリア相手に勝ち点を1つ積み上げたことで、多くのサポーターはホッとしたというのが本音だろう。そして、戦前に存在した危機感はその行き場を失い、横浜の夜空に紛れてしまった。


この安堵感の裏には「オーストラリア=世界の強豪」というイメージがある。2006年W杯での敗北以来、日本人は我々はいつの間にか「格上」に位置づけている。確かに、ドイツW杯で日本に勝利した後にオーストラリアはブラジルと共にグループを通過し、決勝トーナメント1回戦で同大会の優勝国となったイタリアを追い詰めた。でも、だから、何なの?と私は言いたいのだ。


思い返してみよう。ドイツで敗れたあの日まで、日本はオーストラリアを「グループリーグで唯一まともに戦って勝てる相手」と見ていた。つまり見下していたはずだ。それはそれまでの両国の対戦経験から「強くない」と判断していたからである。では、実際のオーストラリアは強かったか?私はまったく強いとは思わなかった。日本がゲームのほとんどの時間を支配していた。日本が敗れたのは日本が決めるべき時に決めることができずに、最後の10分間までオーストラリアを「生かして」しまったから・・・そして、「勝てたゲーム」を落とした。違うだろうか?


その後も、日本はオシム監督の下、PK戦ではあったがアジア杯でオーストラリアを破った。あの時もオーストラリアを強いとは思わなかった。アジアではトップグループではあっても、決して世界の「強豪」ではないのである。


W杯で日本を破ったことから、日本ではオーストラリアは「強豪国」になった。ケーヒル、ブレシアーノ、ケネディは「スタープレイヤー」となった。断言しよう。それらはすべて日本だけの解釈であり、誤解である。その誤解が生まれる理由は、日本が「本当の世界」を知らないからに他ならない。オーストラリアとの戦いで「世界との距離」が判る・・・。私はオーストラリアは怖くないが、日本人のそんな主観的で愚かな思考が怖い。オーストラリアには悪いが、こんな相手にてこずっているようでは「世界を驚かす」ことにはできないのだから。


オーストラリア戦で終了のホイッスルが鳴った後に、黄い男たちのガッツポーズを見ながら、私の魂は教えてくれた。俺たち日本人に必要なのはプライドなのだ・・・と。


魂のフーリガン


熊本の夜空に消えた花火

1月20日、2009年最初の代表戦、2011アジア杯予選の対イエメン戦が熊本で行われた。熊本での代表戦は初めてとのことで、最近すっかり集客力が落ちていた日本代表ではあるが、この晩は前売り完売で久しぶりの満員御礼である。


結果はご存知の通り2-1での勝利。代表とはいえ、海外組や天皇杯組抜きの、いわばBチーム仕様ではあったが、岡崎の代表初ゴール、乾、金崎の初登場等、いつになくフレッシュな日本代表を見させてもらった・・・。


フーリガン通信の読者ならもうお分かりと思うが、ここでの「・・・」の意味は、「で、それでいいの?」という意味である。公式戦で勝ち点3を獲得し、結果以上にゲームを支配していたから、岡田監督のように結果には「満足」すべきであり、選手達には「感謝」すべきなのかも知れない。しかし、本当にそれでいいのだろうか?それではお茶を濁して、茶碗のそこに溜まった何かを見えなくしているだけではないだろうか?


私はサッカーで飯を食っている訳ではないから、システムや戦術をとやかく言うつもりはない。プレイヤーとしても全くイケてなかったから、私から見ればめちゃくちゃ上手い選手達の技術について語る資格もない。そんな私が言いたいのはただ一点、「今回の代表は期待に応えただろうか?」ということである。


いうまでもなく満足の尺度の±ゼロは「期待」である。期待を上回れば満足であり、期待を下回れば不満ということである。評価者によって期待のレベルは違うし、パフォーマンスを構成する要素も一つではないから、その要素ごとに満足・不満はある。だからこそ様々な評価・評論が存在する。そういう事情を考えた上で、イエメン戦は少なくとも私の満足のいく内容でもなかったし、結果でもなかった。


そういうからには、ここで私の「期待」を述べておかなければなるまい。私のイエメン戦への「期待」、それはいつもの代表との「違い」であった。言い換えれば、それは将来に向けての「希望」である。 せっかくいつもの公式戦では見ることのできない新しいメンバー(現在のトップチームでも先発するメンバーは内田と田中位であろう。)なのだから、私はこの代表の中にいつもと違う“何か”を見つけたかったのである。


同じ監督に選ばれ、合宿では同じ哲学を叩き込まれ、同じコンセプトのサッカーを表現するように求められたはずであるから、そんなことを「期待」すること自体が理不尽であるのかも知れない。 いや、恐らく理不尽だったのであろう。その証拠に若くいつもと違う顔ぶれの代表チームは、序盤の素晴らしい先制点で「期待」をさせながら、結局は中央をカチガチに固められた中東チーム相手を攻めあぐねた。いつもの岡田ジャパンと同じように。


ゴール前を人で埋められたため、イエメン陣内で行き所のないパスは足元から足元につながる。必然的に支配率が上がる“偽りのポゼッション・ショー”。「追加点もいずれは入るであろう」という楽観の下に、安心しきったサポーターからは締まりなく繰り返されるワンパターン・チャント。そして空間全体から緊張感が失われた矢先にカウンターを食い、不用意なファール。与えたFKに対し、一瞬の駆け引きに負け、イエメンにとっては狙い通り、日本にとっては予想外の失点・・・。


アウェーで格下のイエメンはこのたった1本のシュートによる1点を得ると、定石通り露骨な引きこもりに入ったため、ボールを“渡された”日本はそこから圧倒的なポゼッション攻撃を再開する。しかし、相手を揺さぶることも、引き出すこともできないまま、焦りの中から放たれたシュートは赤い人壁に弾かれ、空砲としてゴール裏の闇に消えていった。


ゲームはこの後、岡崎のヘディングシュートのミスが、この晩唯一「期待通り」の働きを見せた田中達也に渡り、背の低い彼が身をかがめて当てたヘッドによってイエメンのゴール内に運ばれた。神様の粋な計らいは一度だけ。この1点で、日本は勝ち点3を手にすることができた。


田中と共に輝きを放ったかのように見えたFW岡崎であるが、バーやポストを叩くシュートはこういうゲームでは得点以上に印象に残るもの。結局は彼も歓喜と絶望の分水嶺を越えたのは一度のみである。香川は技術は高くても展開力不足を露呈し、満を持しての交代出場であった乾や金崎という「期待」も、その「若さ」(ここでは未熟を意味する)以外は何の「違い」も見せることはできず、その個性も存在感も、もう一人の交代出場選手“巻”の足元にも及ばなかった。


「世界を驚かそう。」そう言って指導を始めた監督が、自ら選んだ若手メンバー。当然のことながら、彼らこそこれまでの代表に「違い」をもたらすための、新たな素材だったはずだ。なのにどうしてだろう。青いユニフォームの首から出る顔は違うのに、彼らがピッチに描いたFootballは、恐ろしいほどにこれまで見てきた「代表」のままだった。組織を追及してきた日本のサッカーをさらに進歩させるのは、個の力、すなわち個性であるはずなのに・・・


正直に言わせてもらうと俊輔や松井のデビューの時の方が、その個性にもっと明るい“希望”が見えた。私の気のせいであれば良いのだが・・・


都会よりも空気が澄んでいるためであろうか、熊本の夜空はいつも私が眺める夜よりも黒く見えた。


魂のフーリガン